風と泡沫
隆一に告白された、と水穂が明かした。普段の軽くおどけたような調子ではなく、両親が危篤だと知らされた直後のような、予想外の深刻な事態に陥ったといわんばかりの様子で。ひとことで表すと、まさに「心ここにあらず」だった。
わたしとしては、隆一もよう言うたな、と思わずにはいられなかった。
「いつ言われたん」
水穂とはたまたま上がる時間が同じだったきょうのアルバイト後、店ですこし休んでいこうと誘われて、大してなにも思うことなくつき従っていったのだが、まさかこんな話を切り出されるとは思いもしなかった。たしかに働いていたときからどことなく笑顔に張りがないような気はしていたが、その理由を知ってもなお納得はできなかった。
はっと気がついてティーバッグを取り出した紅茶は、苦いほど濃くなっていた。
「昨日の夜、電話かかってきて」
「昨日――」
「いまから家行くから、って」
夏休みが迫ってきた学校では受験に向けた補習授業が始まったらしく、隆一はここのところ帰りが遅い。真面目に取り組んでいるのかどうか真偽は定かでないものの、とりわけ遅かった昨日はなるほどそういうことがあったからか、とわたしはカップに手をかけたまま思った。
「用事もなんも言わんまま切られたから、なんなんやーって思っとったんやけど。息切らせて家来たかと思ったら、いきなり、な」
そう言う水穂の表情には、ただただ困ったという苦笑いが浮かんでいた。
どうしようもない不良気取りの隆一だが、わたしの知る限り、いままで異性とつきあったことはないはずだった。もちろん家に連れてきたことはただの一度もないし、相手らしき相手と電話やメールのやりとりをしているところを見聞きしたこともない。そもそもそういう雰囲気すら感じたことがないし、隆一も見せたことがない。
最近の女子中学生のことはよくわからないが、わたしが中学生だったころは、不良の男子はもれなくつきあっている女子がいた。不良であることは、そのまま女子に人気があることに繋がっていた。当時クラスメートだった女子のなかにも、上級生のいかにもな男子とつきあっている子は何人かいて、不思議だったのが、それまでまったくその片鱗さえも見せたことがなかった普通の子たちだったにもかかわらず、相手に感化されたのか妙に態度が大きくなったり言葉遣いが荒くなったり、制服もやたら着崩すようになったりと、正直見るに耐えない変貌を遂げていったことだ。
たしかにその年ごろの女の子というと、同級生よりは上級生、年上に憧れるもので、わたしも美術の若い先生が密かに気になっていた。生徒と教師の禁断の恋などという下世話な話があるが、無論そんなところまで発展はしなかった。あるとき妻子持ちだということを知って、夢から覚めるようになぜか不意に我に返ったのだった。
「勘づいてなかったん。水穂ならそんなわけないやろ」
「好意もってくれとうことはなんとなく感じとったけどさ。なんていうか、ほんまいきなりやったから、あたしもどう答えたらいいんか、そのときは見当もつかんくて」
「返事はしてへんってこと?」
「そんなところ」
んーと座ったまま背伸びをしながら、どうしたもんですかねぇ、と急にしおらしくなる水穂に対し、わたしはどういった言葉をかけるのが最良なのか、すぐには思いつかなかった。
「……ありがちやけど、水穂は、どう思ってるん。隆一のこと」
「ほんまにありがちやな」一瞬だけいつもの調子で笑った水穂だったが、風船の空気が抜けていくように、その表情から笑顔はすぐに消えた。「やたら強がっとうところはあるけど、根っから悪いやつじゃないってことは、これでも一応わかっとうつもりやで? 三年くらいのもんやけど、準家族みたいなつきあいしてきとうし」
コーラの入ったグラスを掴む水穂の手指を見つめながら、わたしはその場しのぎの相槌を打った。店舗規則で禁止されており、実際に何度も注意を受けたことがあるというのに、その両手の五指にはきょうもばっちりと黒いマニキュアが塗られていて、思わず小さく笑ってしまった。どんなときでも自分を変えないあたりはさすがだ。
「つきあう相手として見たとき、水穂的には『あり』なん? 隆一は」
ぽっと出たように言ってしまってから、自分でも直球すぎたかと焦った。上目遣いで表情を盗み見ると、案の定、水穂は戸惑った様子で笑顔をぎこちなくしていた。
「しみちゃんの期待にそむくようで悪いけど、あながち『なし』でもないんやな、これが。じゃあ『あり』なんかって言われても、素直にはうなずけんところが多いけどさ。悪い相手じゃないなーって思うくらい。いまのところは。隆一もまだ中学生やしな」
嘘を吐かれていないのであれば、水穂はいまつきあっている相手はおらず、本人曰く絶賛募集中のはずだった。
悪くない。水穂がそこまで思っているのであれば、一度つきあってみるのも悪い選択ではないようにわたしには思えた。隆一はもちろんのこと、水穂も『なし』でないのならそこから思いがけない方向に発展するかもしれない。
「いまは五歳や十歳の年の差なんて壁じゃない世のなかやで」
「それはお宅の隆一くんとの交際を勧めているのかな? 恵さん」
「いやいや。前向きに考えてあげたら? くらいに思ってくれれば」
「そうやなあ。家来たときのこと思えば、いろいろ尽くしてくれそうやしな。隆一は」
「あれ、そういうのが好みやったっけ」
わたしが咄嗟に聞き返すと、水穂はさっと口元を隠して大きく吹き出した。
「言ってみただけやで。もう、冗談が通じひんなあ、しみちゃん」
やんな、とつられて吹きそうになりながらシートに押しつけるようにして軽く身を伸ばすと、こつんと爪先に水穂の足が当たった。当たったのではなく、乗せられたのだと気づくまでには、いくらか時間がかかった。
「あたしは、危なっかしくて放って置けへん……、そうやな、ちょうどしみちゃんみたいな相手がええわ。ちゃんと見とかんとすぐどっか危ない橋渡ろうとする、これまた手のかかる面倒な相手」
「ばっ――」
なにを言い出すのかと思えば。頬杖を突いた状態で舐めるようにこちらを見てくる水穂の視線に、わたしはコンマ一秒と耐え切れず顔をそむけた。
「あほか!」
「誰がしみちゃんに求愛しとんねん。たとえやたとえ。思いこみ激しいでーほんま」
手を叩きながら高笑いする水穂に、面と向かってすぐさま対抗する言葉が出てこない時点で、わたしもまだまだだなあと思う。
「しみちゃんも、そろそろ相手見つけて恋愛せんと。枯れるで」
「なにがよー。まだぴちぴちやで、ぴちぴち」
はいはいとわたしをいなす水穂の笑顔を見て、すこしは普段のものに戻ってきたかなあという印象を受けた。なにも笑顔を強制するわけではないが、大事なひとが辛そうにしていたり寂しそうにしていたり、苦しそうにしている姿はなるべく見たくないし、なにかしら力になってあげられるのであれば、わたしは喜んで自ら名乗り出るだろう。
そのときテーブルの上に置いていたわたしの携帯電話が震えた。なんだなんだと興味深げに覗きこんでくる水穂の視線からかばうように手にとってみると、松本くんからの着信だった。
「ごめん、ちょっと」
言ってわたしが席を立つと、どうぞごゆっくりと言わんばかりの含み笑いで水穂は軽く手を上げた。
「松本くん? どうしたん」
「悪い、忙しかった?」
電話越しに聞こえる声も、すっかり耳に馴染んだものになっている。
「大丈夫。いまさっきバイト終わったところ」
「そうか」
梅雨のころに食事に行って以来、松本くんとは微妙な距離感のつきあいが続いていた。微妙というのも、割と頻繁に食事に行ったり、一般にデートスポットと呼ばれる場所へ出かけたりと、恋人とまではいかないものの友達にしてはやや親密な間柄で、どっちつかずな実に不明瞭な関係が続いているからだ。
松本くんのことはまだ水穂には話していなかった。隠そうとしているわけではないのだが、水穂に伝えるのはまだ早い気がしていた。一度口を割ってしまうと、水穂のことだから嫌でも干渉してくるに違いないのだ。そうなると、自分の意思に関係ない行動をとってしまいそうで怖かった。
松本くんとのつきあいは、初めからなるべく慎重に、冷静に進めていくつもりだった。
「今度の海の日さ、姉貴が会社のひとたちと花火するらしいんだけど、あんたも来ない? 俺は強制参加させられるんだけど、いくら姉貴の同僚っていってもみんな初対面だし、十歳近く年上の人間ばっかりっていうのも、なんか居心地悪そうだしさ」
「そんなんわたしが一番気まずいやん。誰? って絶対みんな思うで。部外者もいいところやで。悪いけど、花火ひとつのためにわざわざ恥かきに行きたくはないわ」
しかし正直、花火という言葉には惹かれるものがあった。
すこし前まで、夏になれば家族でよく花火をしたものだが、ここ数年はどうも家族全員が揃う機会がすくなく、おまけに隆一が反抗期なことも加わって、つくづく縁が遠くなっている。その隆一はもちろん、秀ですら友達同士でするからと出かけていくことがあり、じゃあ残ったわたしと両親の三人でするかといえば「いいえ」なわけで、結局ここ数年まともに花火に触ってすらいない。友達に誘われたこともあったが、ことごとく都合が合わない日に重なって駄目だった。
「そう言わずにさ、困ってるひとを助けると思って」
「そんなこと言われてもなあ……」
肩越しにちらりと背後を見やると、水穂はなにやら携帯電話をいじっていた。わたしの視線に気づいてか、不意に顔を上げて見つめ返してきたものの、わたしはなんでもないと手を振った。
「姉貴たちはどっかで飲んでから来るみたいだからさ、心配するほど暗い雰囲気にはならないと思う。むしろ迷惑なくらい賑やかじゃないか。それでまあ、俺が準備任されてるんだけど、たくさん買ってあるから、すこしくらい先にやってても怒られはしないだろ」
「なにそれ」
「俺だってどうせ花火するなら、逐一周りに気を遣ってするより、ちょっとでも楽しみたいし。それに、始まってある程度経ったら、後始末は任せて帰るつもりだったから」
なにも悪い話じゃないだろ? と念を押されたところで、わたしの意志はぐらりと大きく揺らいだ。
「……時間は?」
「まだ決まってないらしいけど、飲みに行ったあとならだいたい八時とか九時じゃないか。慌てなくても、最終のバスにはじゅうぶん間に合うと思う」
暗くなってから出歩くのはすくなからず不安だったが、ともあれ晩御飯のあとに家を出るぶんには、家族からもなにも咎められることはないだろう。海の日のアルバイトはファミレスの早番だけなので、八時ごろならゆっくり後片づけまでできる。
松本くんと花火がしたい。
なんだかんだ言っても、それが本音なのだった。
「隆一」
帰宅後、さっそく隆一の部屋を直撃した。戸を開けると、ベッドに寝そべって漫画雑誌を読んでいた隆一は、緩慢な動作で顔だけをこちらに向けた。
「なんか用?」
わかってるくせにとは思ったが、無駄に煽るのもどうかと思い、努めて冷静にわたしは話を切り出した。
「勉強せんでええの。受験生」
「休憩中」すでに意識は漫画のなからしく、生返事もいいところだった。
勉強机に視線を移せば、そこに勉強をしていた形跡は一切存在していなかった。教科書を開いた様子すらない。教科書やノート、学校でもらってきたプリントなどが無造作に山積みにされており、まともに勉強できる環境でないことは一目見ただけでわかった。
カーテンは閉め切られていたが、窓は開いているのか、ときおり吹きこむ風でカーテンがふわりふわりと揺れていた。
「あんたも思い切ったことするんやな。正直ちょっと見直したわ」
「……女の連絡網はほんま早いな。嫌んなる」
「女なんて生まれてこのかたそういう生き物やから。しゃあない」
わたしがそう言ったところで、急に隆一は体を起こすと、眉を吊り上げた怒りの形相でベッドの表面に拳を叩きつけた。ぼふっという布を打つ音と同時に、かすかに舞った埃が部屋の明かりのなかに浮かんで見えた。
「さっきからぶつくさぶつくさ、なんなん。ひとをからかって楽しいか?」
「誰もからかってないやん。むしろ褒めとうから」
小さく舌打ちすると、隆一は勢いよくベッドの上に体を倒した。脇に放り出していた漫画雑誌を荒々しい手つきで拾い上げ、顔を隠すように広げながら、出てけ、と言った。
素直に従っておいたほうが無駄な怒りを買わずにすむのはわかっていたが、戸に手をかけたまま数秒じっくり考えてから、色あせたフローリングの床に言葉を置くように放った。
「告白、なんでする気になったん」
返事はすぐには返ってこなかった。十秒いや二十秒、はたまた一分以上か。ときたま窓の外から聞こえてくる車のエンジン音や、下の居間から漏れて聞こえてくるテレビの音だけが、小さくわたしの耳に響いていた。
そもそも返事をする気がないのかもしれない。ようやっとそう思い始めたとき、ばーか、と吐き捨てる隆一の声が聞こえた。
「好きやからに決まっとうやろ。好きでもないやつに告るか、普通」
「相手が自分のこと、受け入れてくれるかどうかもわからんのに?」
掲げる漫画雑誌の裏で、隆一が鼻で笑ったのがわかった。
「好きなんはこっちで、告りたいのもこっち。相手の気持ちなんか知らんわ。告る前から返事のこと気にしてどうすんねん」
「でも――」
「言っとくけど、迷惑がられるんちゃうかとか、振られんのが怖いとか、オレは恵と違ってそんなこと考えたことないからな。誰かに先越されるくらいなら、最初から振られんの覚悟して言うで、オレは。知られずに終わるくらいなら、知られて終わったほうが変に未練も残らんし」
不思議なことに、いつもならいくらでも浮かんでくる言葉がまったく浮かんでこない。
気がついたときから、わたしは自分から告白する人間だった。しかしいままで、相手の気持ちが白か黒かわかるまで告白したことはなかった。好きな相手ができたら、どうにかして相手の気持ちを知ろうと駆けずり回り、どうにかして自分に気を向けさせ、それがうまくいってようやく告白に至っていたのだ。もちろんどう頑張ってもこちらを向いてくれない相手もいて、そんな相手への思いは伝えることなく胸の奥に押しこんで、最初からなかったものにしていた。
臆病者だった。隆一が言うように、好き、だから告白する、という一直線な道はどうしても選べなかった。思いを伝えることを差し置いてほかのことにばかり気が先走ってしまい、尻ごみしているうちに先を越されたことなど、それこそ一度や二度ではない。
これはもしかすると、いや間違いなく、わたしは初めて隆一に言い負かされたのだった。
最後の食器を水切りかごに入れ、ふうっと息を吐く。食卓では、先ほど帰ってきたばかりの父が晩酌を始めたところだった。
「食べ終わったら水に浸けといて。帰ってきたら洗うから」
「出かけるんか」
わたしの服装をちらりと見て、父は訝しげに目を細めた。
「友達と花火すんねん。心配せんでも、すぐ帰ってくるから」
軽く化粧を直そうと居間を出ようとしたところ、食卓の父に呼び止められた。
「最近おまえ、なんかあったか」
「べつになんもないけど?」
「なんもないことないやろ。夜遅くに帰ってきたり、そうやって夜に出歩いたり。変な連中と会っとんちゃうやろな」
こちらに振り返ることなく、食卓に向かったまま静かに語る父の背中には、なにか沸々と煮えたぎるものが見えた。心配させている。口に出して言われずとも、それだけはひしひしと感じた。
「まさか。友達と遊んどうだけやから。……たしかに時間遅かったりするけど、なんも法に引っかかるようなことはしてへんし、そこまで心配せんでも大丈――」
テーブルに強く打ちつけられたグラスが立てた硬質な音に、全身が内側からぎゅうっと絞られるような感覚をわたしは覚えた。
「……そういうことやなくてな、父さんが言いたいのは」
父は小さく震えていた。グラスを握る手も、幅の広い肩も、幾度となくわたしを諭してきたその声も。
「友達と遊ぶのは恵の好きにしたらええし、父さんもそれをあかんとは言わん。おまえももう立派な大人やから、ものの分別はつくやろうしな。いまさら父親権限振り回して、ああだこうだ言うつもりはない。自由にしとったらええ。ただ、恵は父さんの娘や。それこそ、十年二十年と経っていまの父さんの年になっても、ばあさんになっても、それは変わらへん。いつになっても。一生、父さんの娘や。
自分の子どもにはな、それまで自分が犯した間違いとか、感じた辛い思いは感じてほしくないねん。なにしとうときも、父さんはそう思っとう。心配や、って言うと鬱陶しく感じるかもしれんけど、やっぱり子どものことって気になってしゃあないんやなあ。ついひとこと言いすぎたりかかわりすぎたりするから、隆一なんかには完璧に煙たがられとうけど。情けないわ。
いつか恵も誰かと結婚して、子どもを産んで、守らなあかん家族のできる日が来ると思う。いまは全然そんな気ないかもしれんけども、いつかそういう日が来んねん。な。そんときなったら、あんとき父さんが言いたかったことってそういうことやったんやな、って自然とわかると思う」
待たせてんねやろ、と言って、グラスを傾けながら父は手を振った。
話しかけられてから一度も顔を見ることはなかったが、聞こえてくる声音からそのときの父の表情が目に浮かんでくるようで、直接向き合って話すよりも言葉の重みがずっしりと心に響いた。
それから、支度しているあいだも、閑散としたバスに乗っているあいだも、頭のなかでは父の言葉が消え入らないやまびこのように繰り返し鳴り響いていた。
松本くんと待ち合わせることになっているのは、ハーバーランドの端のほうにある、海に程近い小さな広場だった。幾色かのレンガが不規則に敷きつめられた地面は月明かりの下でも色取り豊かに見え、ところどころに立っている街灯のぼんやりとした明かりは見るひとをどこかへ誘っているようで、古びた無骨な外観とは裏腹になぜか引きつけられる魅力を感じた。目立った人影はなく、いよいよ夏本番という時期にもかかわらずひんやりとした風は、ほのかに潮の香りがした。
ここから道路を挟んだ向こうには屋外にフットサルのコートがあり、練習試合でもしているのか、午後八時にもなろうとしているのに多くのひとで賑わっていた。広場とコートは五十メートルも離れていないので、そんな彼らの声がよく聞こえる。パスを回せ、そっちをマークしろ、シュートだ、がんばれ、がんばれ。聞こえてくるのは叫び声だったり、黄色い歓声だったりと、道路をひとつ挟んだ向こうはまるで別世界だった。
いままさに待ち合わた時間になろうとしているが、広場をざっと見渡しても松本くんの姿はどこにも見当たらなかった。
正確な量を聞いていないので、どれだけの花火を持ってくるのかはあくまで予想にすぎないが、よもや運ぶのに手こずるほどの量なのだろうか。そうなると単なる遊びどころか、ちょっとした花火大会と称してもいい気がする。
ひと抱えもあるようなビニール袋入りの花火を、息を切らせながらいくつも運んでくる松本くんの姿を想像しながら広場に下りる階段を下っていくと、一番下の段に座っている見慣れた後姿があった。
もう来てたんか。わかってしまうと気持ち残念だった。
しかし松本くんの脇には、ひと抱えほどもありそうな大きなビニール袋があった。予想が当たったと一度は拳を握ったものの、どう見てもそこには花火の袋と水が入っているであろうバケツがひとつずつあるだけで、これは引き分けだとすぐに思い直した。
「思ったよりすくなかった」
花火を挟んだ位置にわたしがすとんと腰を下ろすと、松本くんはさも呆れた様子で細長い息を吐いた。
「贅沢言うな。姉貴がくれた金で買えたのはこれが限界。つか半分以上俺が出してるんだぞ。二、三人でやるっていうならまだわかるけど、十人近くでやるのに二千円で買える花火じゃ、すぐ使い終わるってこともわかってないからな、あの女は」
「お姉さんにあの女とか言ったら怒られるんちゃうの」
「まだ来てないからいいんだよ。口にできるとき口にして、すこしでも鬱憤晴らさないとあとあと気が滅入って仕方ない」
「その様子やといつまで経っても頭上がらんな。あ、もう諦めとるんやったっけ」
うるさい、と笑い飛ばしながら袋を足の間に置くと、松本くんは無造作に手を突っこみ、なにやらひとつの束を取り出した。
「打ち上げ系は姉貴たちがやるだろうから、こんなのくらいしかできないけど」
それはひと握りほどの手持ち花火と線香花火だった。先により分けておいたらしく、輪ゴムで簡単にまとめられていた。
「ええよ。じゅうぶんじゅうぶん」
「近くにコンビニあるし、なんなら買いに行ってもいいんだぞ」
「ええって。せっかく用意しといてくれたんやし」
わたしにそんな気がないとわかってか、松本くんは脱力した微笑を浮かべた。
場の流れからさっそく始めようということになったが、蝋燭まで取り出したところで松本くんの手が止まった。ライターを忘れたと言う松本くんに自前のジッポーを渡すと、さも意外そうに目を見開かれた。
「たばこ吸うんだ」
「あれ? 知らんかったっけ」
うなずく松本くんは、品定めでもするかのようにその手のなかでジッポーを転がしたあと、ふうん、と再びうなずいた。いまさら驚かれるとは思ってもいなかったので、わたしはわたしで想定外の反応に戸惑った。
「ずいぶん年季の入ったライターだな」
蝋燭に火を灯す松本くんの手元をぼんやりと見つめながら、そのジッポーを買ったときのことをわたしは思い出していた。
一年前、たばこを吸い始めて間もなかったころ。それまでは使い捨ての百円ライターを使っていたのだが、水穂と買い物に来ていた百貨店で、そういった喫煙具を扱っている店を偶然見つけたのだ。怖いもの見たさの好奇心で足を運んだところ、色や装飾など、ほんとうに様々な種類のジッポーがショーケースに所狭しと並んでおり、当時は水穂とふたりで思わず目を見張ったものだった。
その数日後、わたしはひとりで店に訪れた。前回は水穂が一緒だったこともあり、満足に見ることもできなかったからだ。
改めていざ目に余る数のジッポーを前にすると、感情が昂るのを抑えきれなかった。そこにあるすべてがわたしの目には輝いて見え、ひとつひとつがわたしに語りかけてくるような気がした。
いったいどれくらいの時間そうしていたのか、買うん? と店員らしき三十歳くらいの男性が困ったように声をかけてきたとき、ようやくわたしは一度我に返った。女の客が珍しいのか、それとも延々と眺めていたことが滑稽だったのか。頭に赤いバンダナを巻いた髭面の男性は、終始半笑いの表情でお勧めのものを教えてくれたり、店の自慢話を聞かせてくれたりした。
これは素材にどこそこの国で採れた希少な金属が使われているものだとか、これは世界じゅう探しても百個とない限定品なんだとか、せっかく熱心に語ってくれたにもかかわらず、わたしの意識は未だに目の前の光景に囚われたままで、ほとんど耳に残らなかった。数え切れないほどの数を目の前にしている。ただそのことが、わたしにとって幸福以外のなにものでもなかったのだ。
結果的に自分で選ぶことはできず、かといって長いあいだ居座っておいて手ぶらで帰るのも申し訳なく、手ごろな値段で買える男性のお勧めを買うことにした。
それがいま松本くんの手に収まっているもので、デザインこそシンプルだが、わたしの手によく馴染む使いやすい代物だ。
「二十年くらい前の物らしいんやけどな。買ったときからほとんどそんな感じやで。もともとそういうデザインらしいけど」
「二十年って、すごいな」
「でもジッポー自体のな、歴史は百年もないねんで。たしか一九三〇年くらいから作られるようになったって話やし」
「詳しいんだな、意外と」
「調べたもん。触りだけやけど」
受け取ったジッポーを片づけているうちに、松本くんはひと足先に花火を始めていた。
火薬が燃える音、におい、噴き出す火花の色鮮やかさ。夏の風物詩といえば真っ先に思い浮かぶそれを五感で感じて、数年ぶりに暑さ以外で夏をわたしは体感した。
負けじと線香花火をひとつ手に取り、そっと蝋燭の上にかざす。じわりじわりと燃えていった線香花火は、まもなくか細い火花を散らし始めた。
「もう?」
問われた意味がわからず、すぐさま聞き返したところ、まだこんなにあるのに、と松本くんはぽかんとした表情でつぶやいた。
「線香花火って、ふつう締めにやるもんじゃないのか」
「わたしはいつも先にやっとったけど。なんか寂しない? 最後にやると。燃え尽きる前に落ちたらショックやん。それに、ちゃんと燃え尽きてもそれはそれで虚しくなるっていうか。見た目は小さくて可愛いけど、線香花火ってやっぱり、はかないし。最後の締めにはもっとこう、派手なもんをぱーっと使ったほうが、気分もすっきりするやろ」
知らず知らずのうちに口調が熱を帯びていたことに気づき、ひと通り言い終わってから無性に顔が熱くなった。それは自分のはしたなさを恥じたというより、松本くんの反応が思いのほか冷めていたことに対する焦りだった。心の動揺が伝わったのか、まだ勢いよく火花を散らしていた火種がぽとりと地面に落ちた。
隣を見れば、すっかり燃え尽きた花火を手にしたまま、ぼんやりと正面を見つめている松本くんがいた。
「どうしたん」
「……いや、なんつーか。あんたの価値観っていうか感性っていうか、ひとことで言えば考えかたはさ、いつも俺がそれまで全然考えもしなかった方向を向いてるなって思って。初めて会ったときも、時計は時計としか思ってなかった俺に、あんたいきなり殴りかかってきたろ」
「あれは、その……。反省してます」
ここで持ち出されるとは一分も予想しておらず、やはり根に持たれていたのかと思うとわたしはいますぐこの場から消え去りたくなった。忘れていたわけでこそないが、当事者たるわたしがその事実を終わったこととしてしまいこんでいたことが申し訳なかった。
「いまさら責める気ないから。とにかく、あのときは正直なんだこいつって思ったけど、こうやって会ってくうちに、なんとなくだけどあんたの人柄がわかってきてさ。俺が見てる世界とあんたが見てる世界は、同じ世界でも見てる角度がまったく違うんだって、最近になってわかった。まあ、考えてみれば当然のことなんだけどな。身長も性格も性別も、生まれた場所も時間も両親も、なにもかも違うんだから同じなわけないし。
俺はあんたに感謝してるんだ。それまでの俺の生きかたは独りよがりだったって、あんたは気づかせてくれた」
ふたりして黙ってしまうと、後ろのほうからわずかに聞こえてくる歓声だけがあたりに満ち、悟られぬようひっそりとわたしは生唾を飲んだ。
「せやからな、大袈裟やで。感謝とか、改まって言われると調子狂うわ」
「大袈裟でもなんでも、俺はきょう、それが言いたかったから」
片側しか見えない松本くんの表情は極めて落ち着いているように見えたが、いつになく強い語気で放たれた言葉は、その場で聞こえていたほかのどんな音よりもはっきりとわたしの耳に届いた。人々の歓声も車の喧騒も、松本くんの言葉に道を譲るように、いっときたしかに聞こえなくなったのだった。
足元で蝋燭の小さな火が揺らめくたび、わたしは時間の流れを思い出した。背後から聞こえていた歓声がいつの間にか聞こえなくなっているこの空間で、すこしずつ短くなっていく蝋燭だけが静かに時の経過を映していた。
「続き、せえへんの。まだだいぶ残っとうで」未だわたしの手首ほどはある花火の束を手に、尋ねた。
初め十センチはあった蝋燭も、いつの間にか残り二センチほどに縮んでいた。自身が半分以下の長さになっても、頭上の火は変わりなく燃えている。
「するに決まってるだろ。花火に誘ったのに、花火しなくてどうする」
「はいはい。ごもっとも」
そうしてわたしたちはささやかな花火大会を再開した。相変わらず松本くんは手持ち花火を、わたしは線香花火ばかり手に取った。そのことについてもう松本くんから糾弾はされなかったし、わたしもしなかった。自分の好きな花火をする、という暗黙の了解がそこにはあって、気づけばわたしはひたすら夢中になって花火を楽しんでいた。童心にかえる、とはよく言ったものだが、いまのわたしはまさにそれだろう。
不意に、むかし家族と騒ぎながらした花火のことを思い出した。家の前や近所の公園など、場所は毎回異なっていたものの、両親の笑い顔や、はしゃぐ弟たちの声はいつになっても褪せることなくわたしの記憶に焼きついている。
こみあげてくるいくつもの感情を抑えこみながら、そしてわたしはあることを決意したのだった。
花火をあらかたやり終えてしまうと、同時に会話の勢いも衰えていった。
いくら話を持ちかけても松本くんが気乗りしないようだったので、火薬の残り香が漂うなかでわたしはひとりぼうっと黒い海を眺めていた。無言の時間がいくらか続いていたものの、場に気まずさはなく、むしろやり終えたことに対する満足感のようなものが、わたしたちの上に柔らかく横たわっていた。
そのときふと携帯電話を開いた松本くんが、あ、と声を漏らした。
「いまから来るってさ。いまのうちに帰るか?」
「ええよええよ。まだ時間あるし、挨拶してからでもじゅうぶん間に合うから」
「挨拶とか……」鼻で笑い、松本くんは携帯電話を畳んでズボンのポケットに押しこんだ。「わざわざする必要ないと思うけどな」
「松本くんはそう思うかもしれんけど、わたしは逃げとうみたいで気持ち悪いから」
そうですか、と吐息に乗せてつぶやいたあと、松本くんは妙にそわそわしながら居住まいを正し始めた。
「お姉さん相手にそんなに緊張してどうするん」
「姉貴はどうでもいいんだよ、姉貴は。言ったろ、同僚のひとたちが一緒だって。上司もいるかもしれないんだから、いくら酒が入ってるっていっても弟があんまりみっともない格好見せたらだめだろ」
言われてみれば、きょうの松本くんの服装はいつになく綺麗めにまとまっていた。周りが薄暗かったこともあってそれまであまり気にも留めなかったが、普段着にしてはいくらか気合が入っているのがわかる。シャツと似たような色だったのでわからなかったが、よく見ればネクタイまで締めている。
日ごろ悪く言っとっても、本当は姉思いのいい弟やんか。
しかしそこは松本くんのことだ。実際に口に出すと怒りを買うのは明白なので、ここはむげにつつかずにおとなしく黙っておくことにする。
ただそうなってくると、今度は自分の服装はどうなのだろうという気がしてくる。松本くんとは家族でも身内でもない関係だが、ともにその場に居合わせる以上、下手をすると松本くんたちに迷惑をかけてしまうのではないか。下手をするもなにも、いまからでは着替えることもできないのだが。
いまのわたしの格好は、色こそ白黒だが大きなプリントが施されたTシャツに、スキニーのジーンズ、足元はサンダルというまさかの組み合わせである。松本くんのように、フォーマルな要素はなにひとつない。カジュアルもいいところだ。
「……怖なってきた」
「なんか言った?」
「なんでもないです」
とはいえ気分は盛り下がる一方で、いまなら帰りたいと言えば松本くんも許してくれるだろうか。あれだけ強がっておきながら無責任な話だが。
高飛びこみを急かされているような気持ちで、言うで言うで、と喉に力をこめて機会を窺っていたところ、わたしの葛藤も虚しく松本くんがすっと立ち上がり、手を上げて声を張った。
「こっちこっち!」
はっとして顔を上げると、遠くからがやがやと賑やかな集団がやってくるのが見えた。十人ほどの集団の先頭を歩いていた女性が、松本くんの上げた手に応じるように手を掲げたので、あのひとが以前店で会ったお姉さんなのだとわかった。
「やっぱりまずくないかな」
「いまさら帰れないだろ。向こうにもこっちのことは見えてるんだし」
「そういうことやなくてさあ」
まるで子どもだ、と思った。買ってほしいおもちゃを前に駄々をこねる子どもと、いまのわたしはなんら変わりないのだと。頭ではそう思えても、言動まではおとなになりきれなかった。
案の定、松本くんは呆れたように肩を落とした。こちらを振り返ってからしゃがみこむと、わたしの鼻先に突きつけるようにぴしっと人差し指を立てて、いいか、と言った。
「ここまできたら、もうじたばたしても仕方ないんだって。あんただって、わかってたことだろ? ついさっきまで、挨拶してくって強気だったじゃん。逃げてるみたいで嫌だって言ったのは誰だっけか」
「そんなこと言ったような気もするけどー。ほら、その場その場で気持ちって変化するやんか。この服ほしいけどいまちょっとお金ないわ、って諦めたけど、家に帰ってくるとやっぱり買えばよかった、って後悔するのと一緒やって」
「帰りたかったらいいよ、帰れば。俺はべつに引き止めないから」ぷいっと顔を背けて立ち上がる松本くん。
「なんなん、その言いかた。……わかった。誰が逃げるか」
そこまで言われておめおめと逃げ帰るほど、わたしのプライドも落ちぶれていはいない。負けじと肩を並べ、ここまできたのだから胸を張ってお姉さんたちを迎えて差し上げようではないか。
わたしのことを目に留めたお姉さんたちは、最初こそ一様に訝しげだったものの、なにかを理解したようにすぐに気にされなくなった。お酒の力は偉大だと思う。素面でこの状況に臨まれたところを想像すると、確実に気まずい雰囲気が漂っていたことだろう。
あの子が弟さんか、真面目そうやな、頭ええんちゃうの。そんな言葉がちらほらと聞こえてきた。
お姉さんはやはりわたしのことを覚えていないようで、そのことだけがどうしても残念だった。数ヶ月前にたまたま訪れた店の店員など、覚えていろというほうが難しいだろうが。
「花火は? ちゃんと持ってきてくれたん」
「当たり前だろ。ほら」
袋を持ち上げてみせる松本くんの脇で所在なく立っていたところ、連れの男性が声を上げた。
「おれも彼女ほしいわ」
おまえは一生独身だろ、と即座に周りのひとたちが茶々を入れてはどっと笑いが起きていたが、話題に追いつけていないわたしはどういうことかと首をかしげた。
立ち話も早々に切り上げられ、まもなく花火が始められた。
コンビニどこかで買ってきたのだろう、大きな袋いっぱいに入ったお酒やおつまみをおのおの好きなように広げて花火に興じるおとなたちを、階段の上からわたしはひとり遠巻きに眺めていた。
スーツ姿で笑いあったりふざけあったりしている男女を見ていると、おとなという生き物がわからなくなってくる。わたしと大して変わらない年ごろの、大学生の男女に見えないこともなかったが、たしかに年相応の落ち着きのようなものは見られた。みな自分の酒量はわきまえているらしく、無理に流しこむようなことはしていなかったからだ。
わたしも彼らのようなおとなになっていた未来もあったのかもしれないと思うと、心なしか気持ちがざわざわとなびいた。日々会社に勤め、たまの休日には羽を伸ばして余暇を満喫し、また仕事の毎日へと帰っていく。わたしにも、そんな生活を送っていた可能性はあったのだ。
数年後、彼らと同じくらいの年になったとき、わたしはいったいどういう生活を送っているのだろうか。まったく想像もつかなかいが、現時点ではただ、明るく生きていてほしいと願う。
「まだ帰らなくていいのか」
どことなく疲れた様子で階段を上ってきた松本くんは、よいしょ、と声を当てたくなるような動作で隣に腰を下ろし、膝の上で頬杖を突いた。
「なんか、あのひとたち見とったら、いまの自分がようわからん」
「は?」
「あそこにわたしが加わるような未来もあったんかなあって、思って」
これはまた笑われるなと身構えていたのだが、意外にも松本くんは笑うことなく、静かに長く息を吐いた。
「でも昔のあんたは、いまのあんたになることを選んだんだろ。姉貴たちみたいなOLじゃなくて、そうだな、パート勤めの主婦とでもいうか。……でも独身、だよな?」
松本くんが軽く慌てた様子で尋ねてきたので、わたしは苦笑しながらうなずいた。
「夫がおってこんなことしとったら、まんま浮気やん」
だよな、とわたしと同じように苦笑した松本くんは、でも、と言葉を挟むと、遠くを眺めるように目を細めた。視線の先、おそらく視界に入っているであろうポートアイランドの明かりを、わたしも真似して眺めた。緩やかな潮風を全身に感じながら、眺めた。
「ひとってさ、一生のうちに間違いとか過ちを犯すことはあっても、人生に失敗はしないんじゃないかな。ほんと辛くて投げ出したくなるような生活が続いて、駄目な人生だとか人生の負け組みだとか思うときって、たぶん誰だってあると思うんだけど、それを笑って話のネタにできるときが、誰にでもいつか絶対来ると思うんだ。
小学校のときとかさ、夏休みの宿題ってなんでこんな多いんだって毎年毎年嘆いてたけど、いまになってから思うと全然そんなことなかったなって思ったことない? 高校入ったら休み明けの課題テストのほうが嫌で嫌で仕方なくて、宿題なんて最初からほとんど頭になかったし。あれ、俺だけ?」
「普通科やったけど、うちは課題テストよりも宿題のほうが重視されとったな。課題テストの出来が微妙でも、宿題ちゃんと出しとったら大目に見てくれてん。宿題も出してテストもできて、っていうのが一番なんやろけどな、……わたしあんまり頭のいい子やなかったから、宿題だけは毎年提出日にびしっと耳揃えて出しとったなあ。懐かしいわ」
その情熱を普段の勉強に向けたらどうだ、と当時は宿題を出すたびに各教科の担任から口を酸っぱくして言われていたものだ。課題の提出率をあまり考慮してくれない学校だったら、おそらくわたしは三年では卒業できなかっただろう。特にすべての定期テストで赤点を取らなかったことがない数学など、課題を提出することで三年間どうにか生き延びた。これはもう、在学中ずっと受け持ってくれた松井先生の温情の賜物にほかならなかった。生徒たちのあいだでまかり通っていた「仏の松井」というふたつ名も、伊達ではなかったというわけだ。この先もずっと頭が上がらないことだろう。
「そういうことだからさ。気休めにもならなかったかもしれないけど、あんたの選択も、失敗なんかじゃないんだよ。きっと」
「もちろん。わたしはいまのわたしに誇り持っとうから――」
自信をもって答えたはずが、なぜかそのとき、ちくりと胸を刺す痛みが走った。
それまで堂々と掲げて生きてきた「誇り」という言葉。わたしに味方し、わたしをわたしと認め、わたしを正当化させてくれた言葉が、いまこの瞬間、一本のロープとなってわたしの首をぎりぎりと絞め上げてきた。
なにが「誇り」だ――。
家族や親友、職場の先輩後輩に古い友人、そして最近よくしている彼。たくさんの顔が脳裏に浮かんだ。
わたしにとってはみな大切なひとで、いまを生きる上でかかせないひとたちばかりだ。
そのひとたちの顔が、浮かんだそばから粉々に砕けて散っていく。
なにが「誇り」だ――。
いまのわたしは大層な言葉の力を借りて、ただ偉そうにのさばっているだけではないか。それに見合うだけのことをしているのか。それにあやかって楽をしているのではないか。
わたしを覆う「誇り」は、外から正体不明の衝撃を受けるたびに音を立てて軋み、たわみ、そしてひしゃいだ。
なにが「誇り」だ――。
こんなことをしたところでどうにかなるとは思っていなかった。しかし、あの場に居座ることだけはどうしてもできなかった。だから走った。どこへ行くでもなしに、体が動き続ける限りこの衝動に任せようと、そう思っていた。
わたしは逃げているのだろうか。目の前に困難という長い坂が迫ってくると、必死になってわき道を探して、最初から見なかったふりをして通りすぎるように。
きょうだって、自分で信じていたものが信じられなくなった。もう一度信じようともせずに、ただその場から逃げ出して事なきを得ようとしている。大事にしていたもののはずなのに。
ハーバーランドを離れ、神戸駅の近くまでやってきたところで足が止まった。息は切れていたし、全身から噴き出す汗もひどい。アキレス腱のあたりに、走っている途中からずっと痛みがあった。見れば両足とも靴擦れを起こして赤くなっていた。
ろくに言葉もかけないまま、こんなところまで来てしまった。松本くんはどうしているだろう。お姉さんたちはどう思ったのだろう。想像はしても、たしかめにいく勇気は毛頭なかった。
ひどく喉が渇いていることに気づき、すぐに近くの自動販売機で水を買って飲んだ。喉が潤うのとともに、冷やされて冷静になっていく頭のなかで、もうこれっきりにしたほうがいいのかもしれないという感情が生まれた。
せっかく誘ってくれた花火も、やるだけやって逃げ帰ってきてしまった。それも、松本くんがあれだけ気にしていたお姉さんたちの手前で。一部始終を見ていたひとはおそらくいなかったように思えるが、最後までまったく気づかれなかったとは到底思えない。松本くんには、きっととんでもない恥をかかせてしまった。
しゃがみこんでうなだれたところで浮かぶ気持ちは、申し訳なさと不甲斐なさ。
至らない自分に追い打ちをかけるように、静かに、ただ静かに涙が溢れて止まらない。
こんなどうしようもない人間、さっさと消えていなくなってしまえばいいのに。
「なにしとん、しみちゃん」
どうして。なぜ。どんな疑問よりもなによりも、まずここでその声が聞けたことが、ただただわたしにとっては救いだった。
「そうか、家出か。隆一にまた文句でも言われたんか」
「……ちがう」
上からでなく、正面から聞こえてくる声は、こんなところを見られてしまったという羞恥心をかき消してくれるような、むしろそれごと包みこんでくれるような、柔軟で優しい響きだった。
恐る恐る顔を上げてみれば、空耳ではないとわかる証拠がそこにあって。
「いま帰り?」
「うん。ほんま疲れたわ。なんであんな忙しいんかわからへん。……海の日ってこんな混む日やったっけなあ」
「朝はそんなことなかったけど」
どうやら午後は相当忙しかったのだろう。午前中で帰ったわたしはその忙しさを体験しなかったが、水穂の顔色を窺うだけでその状況が思い浮かぶようだった。
「で、しみちゃんはこんなとこでなにしとん。ほんまに家出なわけないやんな」
「……言いたくない」
「そんな駄々こねたってなあ。子どもやないんやから、もっとしゃんとしいよ」
「無理ー」
溜息を吐かれたが、そんなことを気にしている余裕はいまのわたしにはなかった。
「――あたしもう帰るで。おとん待たせとうし」すっくと立ち上がると、水穂は鞄を担ぎなおしてなんのためらいもなく歩き始めた。「いつまでもそうやって駄々っ子しとき」
いつになく冷たい水穂の態度に、わたしは逆に言葉もでなかった。去っていく水穂の後姿を、わけもわからぬまま見送ることしかできなかった。すこし先の路肩に止まっていた車に乗りこもうとしたとき、水穂が一瞬こちらを振り返ったような気がしたが、暗くてはっきりとは見えなかった。
「あのひと、あんたの友達?」
いきなりそばで発せられた声に、ぎゃあ、とも、ひゃあ、ともつかぬ実に情けない悲鳴を上げてしまった。
「そんな大袈裟に驚かなくても」
「い、いつからそこにおったん」
いまさっき、と面倒くさそうに答える松本くんを改めて視界に収めると、小さく肩で呼吸しているのがわかった。どうやらここまで走ってきたようだった。それでもわたしとは違ってほとんど息が乱れていないあたり、さすがは現役のスポーツマンというべきか。
「あのさ、帰るなら帰るってひとこと言えばいいだろ。変な心配かけさせんなって」
「……ごめんなさい」
居たたまれなさから必然的に肩身が狭くなり、ミジンコにでもなったくらい小さくなっていたところに無言で手が差し出された。
いまにも破裂しそうな胸を押さえながら、いったいなんだろうと思案を巡らせた。立て、ということだろうか。戻って心配をかけさせたお姉さんたちに謝れ、ということだろうか。もしそうならこんな回りくどいことはせずに、松本くんなら直接口で言いそうなものだが。ややあってから隣にあるのが自動販売機だということを思い出して、ぱっとひらめいた。
「はい」
「誰が金よこせなんて言った」
一蹴された。
「それでいいから」
てっきり喉が渇いたから飲み物を奢れ、ということかと思ったのだが。小銭をまごつかせながら、わたしは自分の足元を見下ろした。「これ?」
水の入ったペットボトルを差し出すと、短く礼を言われた。そして遠慮なく蓋を開けると、松本くんは半分ほど残っていた中身を一気に飲み干してしまった。
「あ」
「水くらいけちけちすんな。年上だろ」
「そういうことやなくて、いやそこもちょっと気になるけど――」
間接キス、なんて言うとまた呆れられそうな気がして、言えなかった。サッカー部では日常茶飯事なのか、まったく気にならないことのようだったが、わたしにとっては天地がひっくり返ったかというほどの由々しき事態だった。
空をゴミ箱に捨てようとするのを本気で止めそうになった自分がいて、咄嗟に小学生かとたしなめた。
「ともかく、すぐ見つかってよかった」
わたしの隣に腰を下ろし、松本くんは長い息を吐いた。
「なんやと思ったん」
「それもわからなかったから心配して追いかけてきたんだろ。一瞬マジで驚いたからな。風でも吹いたかと思ったら、いつの間にかいなくなってたし」
「昔から短距離だけは自信あってん。クラスの女子のなかでも一、二を争うくらいやったんやで。帰宅部のわたしが」
「だから誰もそんなこと聞いてないっつの」
歯を剥いた表情で言われ、冗談だとわかっていてもごめんなさいと反射的に萎縮する。
すぐ近くにある高架の上を電車が通るたび、鈍い地響きがここまで届いた。思えば以前、あの高架下でも松本くんは追いかけてきてくれた。当時はまだただの顔見知り程度の関係だったか。そのころから考えると、わたしたちの関係もすこしは進展したのだろうか。当時といってもまだ二ヶ月ほどしか経っていないが、不思議とずいぶん昔のことのように思える。
「さっきのひとさ、俺が来たの見たらすぐ帰ってったけど。向こうは俺のこと知ってたりするのか」
「え? 知らんはずやけど。こうやって会っとうことも話してへんし。……あ、でも前に店で――、店ってファミレスのほうな。見かけとったかもしれんけど、たぶん覚えてへんで。それっきりやから」
「ふうん」
そこまで大事として捉えていないのか、松本くんの反応は終始薄かった。しかしわたしにとっては水穂があれだけすんなりと帰ってしまった理由がわかり、物語の最終局面で事件の真相が明らかになったときぐらいの衝撃だった。
だがそうなってくると、水穂は松本くんの顔を覚えていたということなのだろうか。覚えていなかったとしても聡い水穂のことなので、わたしと松本くんの関係をなんとなくでも見抜いて空気を読んだということも考えられた。どちらにしても、いまその答えを知ることはできないのだから焦って考えることもないように思う。
「お姉さんたち、なんか言っとった?」
「べつになにも。きょうが初対面の相手の動向なんて、そこまで興味もないんじゃないの。酒もけっこう入ってたことだし」
「そっか」
「俺としては面倒に巻きこまれないうちに退散できたし、ちょうどよかったけどな」
「なんやそれ。皮肉?」
「どうだろう」
ついさっきまで泣いていたせいか、笑おうにもうまく笑えず、泣き笑いのようになってしまう。目の端に残る涙の残滓が、こぼれそうでこぼれない絶妙な位置を保っていた。
これっきりにしようと思ったばかりだというのに、並んで座っているだけで、もっとこうしていたい、ずっとこんな時間が続けばいいのにと思ってしまう。
いま、松本くんはどんなことを思っているのだろう。いちいち面倒をかけさせる女だとか、はやく家に帰りたいとか思われていないだろうか。後者はともかく、前者だったらと考えるだけでまた泣きたくなる。
無理に話そうとしてくれなくてもいい。ただそこにいてくれればそれでいい。そう願っているのはわたしだけではないと、そう思いたい。
「松本くん」
わたしの呼びかけに無言で応じる松本くんに、親密な間柄の者同士にしか通じないであろう特別ななにかを感じて、ふっと柔らかいぬくもりがわたしの胸を包んだ。
「きょうはもう帰るだけなん」
「そうだけど」
「そっか」
「なんだよ」
「聞いてみただけ」
「……なんだそれ」
「わたしも酒飲みたなってきたなあ」
「もうそろそろバス出る時間だろ」
いつだって松本くんの言葉は冷静で、的確で。冗談が通じないほどではないとはいえ、そんな落ち着き払った態度がときとしてわたしを弱らせる。それ以上言葉を重ねないほうがいいのか、気にせず振舞えばいいのか、そんなことすらわからなくなる。
「もし、もしな――」
ふわりと前髪を浮かせる風に乗って、うん、とうなずく松本くんの声が聞こえた。
「帰りたくない、って言ったら」
遠くの国道を走る車の喧騒がかすかに聞こえるだけの時間が、異様に長く続いた。近くには人影ひとつ目に入ってこず、目の前の道路を行き交う車もないに等しく、月の綺麗な夜空の下、わたしたちはたしかにふたりきりだった。
「俺ん家来るか、とでも言えば、あんたは喜ぶのか」
あと一筆で描き上がるかという絵が、目の前で無残にも破り捨てられた。
さらに二度三度と細かく千切られ、絵はもはや絵ではなくなっていたが、覆いかぶさるようにして地面に散らばる残骸をわたしはかき集めようとした。しかし、できなかった。させてくれなかった。
「正直、どう言ったらいいのかわからない。けどな」
「わたしは――」
「俺は、あんたの言うことには答えられない」
押し潰さんばかりに張り上げられた松本くんの声に、わたしの声などあっさりとかき消されてしまった。初めから聞くつもりはないとでもいうような声音は、立ち上がろうとするわたしを真上から強くねじ伏せた。
「悪いけど、いまはそういう気になれないんだ。誰かとつきあうとか、そんな気には」
「それなら、いつか気が変わるときまで」
「こういうのって、いまを大事にするもんだろ。いつかとかそんな曖昧な期限作っても、俺の気があんたに向くかどうかなんていったい誰がわかる。あんただって、死ぬまでひとりの相手を思い続けられるほど強いのか。それこそ、いつ自分に振り向いてくれるかどうかもわからない相手を」
「強い」
「強くない」
「強い!」
は、と短く息を吐いたあと、鋭い眼差しをわたしに真正面から突きつけて松本くんは言った。
「じゃあ前につきあった男のことも、まだ思ってるよな」
「終わったもんはべつやろ」
「自分が原因で終わったんじゃなかったとしても、胸張ってそう言えるのか? 終わったものはしょうがない、でなんでも片づけるようなやつが、よくもまあそんな自信ありげなこと言えたもんだな」
「別れるのにどっちかだけのせいなんてないやろ。ふたりともなにかしら理由があるから、じゃあもう別れようってことになるんちゃうん。普通そうやろ」
「相手が浮気して、けっきょく浮気相手をとるようなことがあってもか?」
「それは浮気に走らせるような原因が、なにかしら自分にもあったからやろ」
甘いな、と不意に声のトーンを落として松本くんは言った。
「そういう甘さが、あんたの弱さだと思うな」
「屁理屈や、そんなん。だいたいな――」
いまのいままで感じていた温かな親近感はどこへ行ったのか、わたしたちのあいだにはいつの間にかひんやりとした空気が漂っていた。
手を伸ばせば触れられるところに姿はあっても、その心はみるみるうちに遠ざかっていくのが嫌でもわかった。
届かないとわかってもなお言い続ける自分の言葉は支離滅裂で、そんなことしか言えない自分が不甲斐なくて、悔しくて、惨めで。ただ勢いに任せてまくし立てているのが目に見えて明らかで、言っているうちから、自分でもただ虚しかった。
「……俺はさ、なにもあんたのことが嫌いだとは言ってないよ。好きか嫌いかっていったら、もちろん好きのほうに入る。嫌いなひとをわざわざ自分から誘ったりしないだろ」
「じゃあ」
「好き、だからつきあいたいってなるかどうかは、またべつの話。あんたにとっては違うかもしれないけど、すくなくとも俺にとってはそうなんだよ。好きのもうひとつ上の、このひととなら、って感情になって初めてそういう気持ちになる。俺は」
ちらりと腕時計に目をやると、送るよ、と言って松本くんは立ち上がった。
頭の片隅でもうそんな時間かとは思ったが、立ち上がる気力もなかった。わたしを形作るなにか大事な部分がごっそりと抜け落ちてしまったような、そんな虚無感だけがわたしのなかに溢れていた。
なにも、考えられなかった。