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風と泡沫  作者: さかもと
5/8

ブレイク

 春から一気に夏へと向かうかと思われた気候は、やはり寄り道を忘れなかった。

 わたしにとってはいまも続いている生活が始まった時期でもあり、毎年この時期になるたび心なしか感傷的になってしまう。目に見える世界も、肌で感じられる空気も、どれも自分が生まれた当時を思い返させるようで。

「ねえ恵ちゃん。このあと時間あったりする?」

 午後七時半。客足も遠のき始め、そろそろ閉店作業を始めようかとレジを出たところで、売り場を歩き回っていた多香子さんに声をかけられた。

「なくはないですけど。どうしたんですか」

 たしか買い置きのカップ麺まだあったよなあ、と慌てて思い出しながら、店の前に出してあるワゴンをわたしは店の敷地内に引っ張りこんだ。

「このあとちょっと飲みに行かない? 吉岡ちゃんにもさっき誘いのメール送ったところなんだけど」

「どうしたんですか、急に。雨でも降るんちゃいます?」

 これは言ってやったと思ってほくそ笑んだ矢先、多香子さんはくしゃっと顔を歪めて苦笑した。

「朝から降ってるでしょ」

「……あ、そっか」

 六月も終盤に突入してなお毎日晴れ続きだったのだが、けさ改めて予報を見てみれば画面から見事に晴れマークが消えていた。あまり類を見ない遅さです、と梅雨入したことを告げるキャスターのお兄さんの表情も、半ば戸惑い気味だった。

 それまで我慢していたものを一気に吐き出すかのように、きょうは朝から強い雨が降り続いている。店を訪れたひとや店の前を歩いていたひとの誰もが、雨で濡れた傘を手に提げていた。咄嗟に思いつく冗談というものは、それまでの記憶や体験をまるで無視して浮かんでくる。芸人には向いてなさそうだなあ、とわたしは内心で自嘲した。

「わたしは構わないですよ。でも吉岡さんは……、来れますかね」

「ああ、そっか。吉岡ちゃん家遠いもんね。西神からやと時間もかかるし。来れるかな」

「地下鉄の駅までもけっこう距離あるそうですからね。外見てみないとわからないですけど、雨足強かったら家出るのも大変やないですかねえ」

 やっぱり? と棚に寄りかかりながら多香子さんは小鼻を掻いた。

「これは望み薄かなあ」

「まあ、三宮とかにおったらいいんですけどね」

 わたしが言うと、多香子さんは口を真一文字に結んでゆっくり首を縦に振った。

「大学生って、この時間だともう家に帰ってる?」

「だいたいはそうやと思いますけど。あの子、サークルとか部活も特に入ってなかったはずなんで――」

 互いに連絡先こそ知っているものの、正直なところ吉岡さんとは日ごろあまり連絡を取り合う仲ではなかった。気に入らないと一言で切って捨てるのはどうかとも思うが、あまり気が合わないのは事実だった。

 基本的には多香子さんともうひとり、アルバイトであるわたしか吉岡さんのどちらかふたりで店を回すため、普段はあまり吉岡さんと店で顔を合わせることがない。多香子さんが休みの日や、大型連休などで多忙が予想される日は彼女と一緒に働くこともあるが、それは月に何日もあるわけでなく、至極わずかな日数だ。彼女がこの店で働き始めてからもう数ヶ月が経つが、そのためか一緒に働いていても業務的な会話意外ほとんど交わしたことがない。

 やはり同じ店で働く者同士、仲良くしたいという気持ちも最初はあった。しかしわたしの前でだけ変わる吉岡さんの口調や態度に、初めの一ヶ月でその気持ちも萎えてしまった。多香子さんが店にいるときは、きびきびと仕事も真面目にこなすし、愛想もいい。同性から見てもそれはそれは可愛らしい笑顔を絶やさない。ただ、多香子さんが店を離れたときや休みの日になるとあっさり一転して、仕事はしないわ接客態度は悪いわで、怒る以前に呆れてしまった。

 もしそのことを多香子さんが知ったら、いったいどんな反応をするのだろうと思い、何度も告げ口を試みたことはあった。しかしそんな邪なわたしをいつも直前で「そんなことをしてなんになる」と正す生真面目なわたしがいて、そしてわたし同士がぶつかりあったあと、決まってわたしは小さく落ちこむのだった。

「――てことでいいかな」

 多香子さんに爽やかな微笑で問いかけられてから、また愚かな想像に走っていたとわたしは自分自身に嫌気がした。

「すいません、なんですか。ちょっと考えごとしとって」

 話をろくに聞いていなかったわたしに対してすこしは気分を損ねてもいいだろうに、短い吐息をひとつ挟んだだけで、親切にも多香子さんはもう一度話をしてくれた。多香子さんほど寛大になると、もはや寛大という言葉では足りないような気がしてくる。

 まず、いまメールが返ってきて吉岡さんはやはり来れないということ。次に、飲みに行く前にお金を下ろしたいということ。最後に、店はいつもの居酒屋でいいかということ。

 遊びに出かける前に玄関で母親から行き先と帰る時間を聞かれる子どものように、うずうずしながらわたしは首を三回縦に振った。

「じゃあ閉店したら、急いで後片づけしないとね」

「はい」

 八時になると、わたしはいつも以上に手早く自分の仕事を片づけた。久しぶりに多香子さんと飲みに行くことが楽しみだったこともあるが、大部分は話を聞いていなかった自分への戒めでもあった。

 多香子さんが店のシャッターを下ろして鍵をかけるのを傍らで見守り、ふたりで近くのコンビニへと足を運んだ。お金を下ろしている多香子さんを待つ間、わたしは自宅に電話をかけた。電話に出たのは父で、最近就いた新しい仕事できょうも疲れて帰ってきたのだなということが、ここのところよく耳にする抑揚のない声を聞いてわかった。帰りが遅くなるという旨を伝えるとき、ひどく罪悪感に襲われた。切り際、帰り道には気をつけろと気遣ってくれた父の唐突な優しさに、無意識のうちに涙腺が緩みかけて慌てて目をぎゅっとつむった。

「こりゃひどいね」

 どうにか居酒屋のあるビルの下までやってくると、雨水のしたたる傘を畳みながら多香子さんは言った。

「濡れなかった?」

 平気です、と告げたのは社交辞令のようなもので、足元はもちろんスカートの裾やら肩やら、至るところが濡れそぼっていた。あたりの暗さもあってか、多香子さんはそのことに気づいていないようだった。

 雨のなかを歩いたのは百メートルにも満たない距離だったにもかかわらず、大人ひとり入るので精いっぱいの小さいビニール傘はほとんど役に立たなかった。かろうじて頭は濡れずにすんだが、今度から雨の日は多香子さんのような大きな傘を用意しておこうとわたしに決意させるには、じゅうぶんすぎる結果だった。

 エレベーターで店がある最上階まで上り、案内された窓際の席に腰を落ち着けたところで、疲れたあ、とわたしたちはほぼ同じタイミングで口にした。わたしも多香子さんも、おそらく店を閉めてからこの居酒屋にたどり着くまでがその「疲れた」の大部分を占めている気がする。

「なんできょう飲みに誘ったかわかる?」

 おしぼりで手を拭きながら、なにかを隠している笑みで多香子さんは言った。

「なんで……。いや、そんな褒められるようなことしましたっけ、わたし。いつもとなんも変わらなかったと思うんですけど」

「それじゃあねえ、きょうはなんの日でしょう」

 店内が薄暗いせいもあってか、多香子さんの浮かべる微笑はいつになくしっとりとしていて、大人の女を感じさせる妖艶さで満ち満ちていた。

「なんの日って、木曜ちゃうんですか。あれ、祝日でしたっけ、きょう」

「そんな」丸く大きく見開いた目でわたしを捉えながら、多香子さんは大仰に声を上げた。「恵ちゃんって、彼氏との記念日とか無駄にたくさん作るタイプじゃないの? あれ、私の思いこみだっけ?」

 注文した飲み物を運んできてくれた店員の女性に会釈しながら、思いこみです、とわたしは思わず苦笑いした。

「そうなんだ」

 目を丸くしたまま生中のジョッキを受け取ると、いったん目で女性に礼を述べてから、そうなんだ、と二度三度繰り返しつぶやきながら多香子さんはジョッキの表面を撫でた。

「初めてデートした日とか、初めて手つないだ日とか。初めてキスした日とか、初めてセックスした日とかさ。あとは……、つきあい始めて一ヶ月、三ヶ月、半年、一年記念日とか。あ、初めてプリクラ撮った日とかは? 作ってないの?」

「誕生日とクリスマスだけでじゅうぶんですよ」

 指折り挙げていく多香子さんの真剣な表情を見て、このひとは作っていたんだろうなあと、わたしは自信をもって確信した。すくなくともいまの多香子さんにはそういう几帳面さはこれっぽっちも感じられないので、もっと若いころ、十代や二十代のころの多香子さんの手帳は、おそらく毎月そこかしこに印があったのだろう。もしとってあるなら見せてもらえないだろうかと、いつか聞いてみよう。間違いなく断られるだろうが。

「……意外」

「期待に沿えなくてすいません」

「まあそれは置いておいて」快活にそこでいったん言葉を切ると、多香子さんは大きくジョッキを傾けた。男性にも引けをとらないその豪快な飲みっぷりは、こちらまでごくりごくりと喉のなる音が聞こえてくるようだ。「――ほんとに覚えてないの?」

 改めて問いかけられ、じっくりと間を取って考え直してみたものの、わざわざ祝ってもらえるような理由はなにひとつ思い浮かばなかった。

「そうなんだ。ちょっと残念」

「なんですか、もう。もったいぶらないで教えてくださいよ」

「……ほんとに覚えてないみたいね」

 窓の外、眼下に横たわる神戸駅を穏やかな視線で眺めながら、多香子さんは独り言のような静かな口調で言った。

「きょうはね、恵ちゃんがうちで働き始めた日。言うなれば、三歳の誕生日」

 お通しで出されたきゅうりの和え物を口に運び、ふっと柔らかい息を吐くその横顔にわたしは突如ひどく心を打たれた。

「あ――」

「思い出した? 実を言うと、あの店開いてから三年も働いてくれた子は、恵ちゃんが初めてなの。あなたにとっては大して喜ばしいことじゃないかもしれないけど、私にとってはそれはもう娘が結婚したっていうくらい一大事。……まあ、子どもいないんだけどね。

 うちで働きたいっていう子はこれまで何人もいて、わたしも喜んで採用してたんだけど、予想以上にすぐ辞めちゃう子が多かったわけ。たいてい一ヶ月とか二ヶ月とか。半年も続けばいいほうよ。一週間もしないうちに連絡つかなくなる子もいたっけ。それでなにが気に入らなかったんだろう、って夜な夜な考えてみるんだけど、理由、全然思いつかないの。従業員の気持ちもわかってやれないなんて、ほんと駄目な店長だよね。

 恵ちゃんがお客さんとして店に来てくれるようになってから、いつかうちで働いてくれないかなって、実はずっと考えてたの。これだけうちの店を好いてくれる子ならきっと熱心に働いてくれるし、恵ちゃんみたいな子だったら、もし私が店に立てなくなるようなことがあっても任せられるなあって。

 もちろん長続きすればいいってもんじゃないんだけど、……なんていうのかな。とにかく、私はこれからも恵ちゃんにはうちで働いてほしいの。それが私の勝手なのはわかってる。だからもし辞めたくなったら、いつでも遠慮せずに言ってね。引き止めたりはしないから。笑顔で見送らせてもらうわ、あなたの行く末に幸あらんことを祈りながら」

 なんてね、と向けられた視線の笑みに、こみ上げてくるいろいろなものを堪えながらわたしは力いっぱい首を横に振った。

「そういうことだから、きょうは私のおごり。好きなだけ飲んで、好きなだけ食べなさい。ただし、明日も仕事入ってるんだから働ける程度に」


 食事を終えたあと、多香子さんとはビルの前で別れた。

 相変わらずお酒に強い多香子さんは顔がほんのり赤くなった程度だったが、わたしは自分でもわかるほど呂律が回らなくなっていた。

 別れ際にかけてくれた、帰れる? という冗談と本音を半分ずつこめたような多香子さんの気遣いを断ったのは、ひょっとしたら間違いだったかもしれないなあと揺れる意識の下で思いつつ、依然として雨の降るなかをわたしは歩いた。

 最後のバスに余裕を持って間に合うように店を出たつもりが、歩いていたわたしの目の前を、肝心のそのバスは悠然と走り抜けていった。ところどころ水滴がはねて見づらくなった眼鏡越しでも、バスの背中にはっきりと見えた「四系統」の文字が勘違いではないことを如実に証明していた。無駄だとはわかっていながらも、近くの時計に目をやって発車時刻を過ぎていることを改めて知ると、自分の歩みの遅さに対する呆れも定刻通りに発車させるバスの運転手への憤りも、不思議なもので酔いの回った頭はすべて差し置いてなぜか笑いを最優先させるのだった。

 最後のバスを逃してしまった以上、わたしに残された家に帰る手段はひとつしか残されていなかった。家までは徒歩だと素面でも二、三時間はかたい距離の上、現状を慮ればその倍はかかるだろうと酔った頭で分析すると、なぜだか妙に切なくなった。

 駅前のロータリーで点々と停車しているタクシーに乗りこみ、退屈そうにしていた運転手のおじさんに行き先を告げると、大丈夫か姉ちゃん、と笑われた。

 寝たり起きたりを繰り返しながらしばしタクシーに揺られたあと、多香子さんの奢りでなかったら払っていたであろう額を支払い、ようやっとわたしは家に帰り着いた。

 居間では父がひとりテレビを見ていた。風呂上がりらしく、髪は湿り、肩には白いタオルがかかっている。

 ほんのりと上気した顔の父は、わたしを見るなりぽかんと口を開けた。開けたというよりも、閉まらなくなったというほうがしっくりと来そうな具合だった。

「またそんなぎょうさん飲んできて」

「ご飯、みんな食べたん」

「そんな心配せんでええから。それより大丈夫か。よう帰ってこれたな」

 バッグを放り出しながら畳の上に腰を下ろすと、父は自分が飲んでいたお茶を差し出してくれた。「飲むか?」

 胃に落ちていくお茶の冷たさを感じながら、わたしは受け取ったコップの中身をゆっくりと飲み干した。お茶はコップの半分以上あったものの、喉の渇きはまったくと言っていいほど潤わなかった。

「どこで飲んできたん」

「神戸駅の、近くにある居酒屋ぁ」

「バイトのひとと一緒か」

「うん」

「帰りは? バス間に合わんかったんちゃうん」

「せやから、タクシー乗って帰ってきたんやろ」

 父から立て続けに質問されることに、次第にわたしは答えることが億劫になっていった。しかしわたしの意に反して父は尋ねることをやめず、根掘り葉掘り質問を重ねてきた。

 酔っていたせいも大いにあったのだろう。むしろそうでなかったときの理由は、まったく想像もつかない。

 わたしはバッグを引き寄せ、父に向かって思いきり投げつけていた。なにも考えずに、ただ目先の衝動に任せて投げつけていた。なかに入っていた携帯電話や化粧ポーチ、文庫本が父の周りに散らばり落ちた。

「もうなんなん。なんでそんなしょうもないこと、わざわざ教えなあかんの。お父さんはわたしのなに? なにが知りたいん。わたしはなにを教えたらいいん。なにを知ったら満足? 飲んどった相手? 心配せんでも男ちゃうから。女のひとやから。帰りもひとりで帰ってきたから。それだけでじゅうぶんやろ」

 勢いに任せて言いきってから、再び父の顔を見た。言いたいことがあるなら、なんなりと言えばいい。そんなふうにさえ思いながら。

 どうしてそこまで強気になれたのか、冷静になってから考えると、目に見えない恐怖に頭からすっぽりと覆われるようで、ほんのすこし思い返すだけでろくに寒くもないのに背筋が震えた。

 いくら思い起こそうとしても、そのときの父の表情ははっきりと像を結ばなかった。思い出すということ自体を頭が忘れているかのごとく、手を伸ばしても伸ばしても目標に手が届くことはなく、むしろすこしずつわたしから遠ざかっていった。

 ふらつく足取りに苛立ちながら居間を出て、自室に転がりこんでからいったいどれだけの時間が経ったのだろう。カーテンは閉めきり、明かりもつけていない部屋は当然ながら真っ暗で、ベッドに横たわって見えるのはなにもかもが黒一色で塗り潰された世界だった。それが、いまのわたし自身を映した鏡のようにさえ思えた。

 隆一か秀が通ったのか、ふと廊下で小さな物音がした。普段はそんなこと気にしないのだが、今回ばかりはどうも気になって入り口のほうにおもむろに顔を傾けると、かすかに開いた戸の隙間から漏れる廊下の明かりが目に入った。

 きちんと閉めたはずだったのだが、勢いあまって開いてしまったのか。気だるい体に鞭を打ってわたしは立ち上がった。

「なんやねん、もう……」

 戸に手をかけぐっと力をこめたとき、床の上になにかが置いてあるのが垣間見えた。閉めたばかりの戸を慌てて開けると、そこにはさきほど父に投げつけたバッグがあった。そこでようやく、自分が投げっぱなしでここまで来てしまったことをわたしは思い出した。

 そっと手にとってみると、散らばった携帯電話や化粧ポーチがちゃんと収められていた。まだ買ったばかりで開き癖すらついていなかった文庫本は、表紙の角が小指の先ほど折れ曲がっていた。何気なくめくってみると、中盤あたりに挟んでいたはずの栞が最初のページに挟んであった。落ちたときに飛び出してしまったのだろう。

 意識は一歩を踏み出そうとしたが、体はどうしてもそれを拒み続けた。


「もうお客さんほとんど来なさそうだし、恵ちゃん、きょうは帰っていいよ」

 有無を言わせぬニュアンスがこもった笑顔で言われ、わたしは素直に帰り支度をすませた。時刻はまだ午後六時を回ったばかりだった。

 多香子さんがときおり見せるそんな雰囲気が、わたしは無性に怖かった。私はまだあなたを完全に受け入れたわけではない、と婉曲に言われている気がして。

 自分自身の最も奥底にある、他人には見られたくない部分は人間ならばきっと誰しもが持っているものであって、どれだけつきあいが長い相手でもそう簡単にはさらけ出せない気持ちもわかる。自らさらけ出そうとしても、なかなかさらけ出せないことも。

 もしそうなのだとしたら、わたしはわたしで納得すれば無駄な衝突を避けることはできる。ただ、あくまでわたしと多香子さんは他人同士であって、多香子さんの本音は多香子さんから聞かされない限り、すべてはわたしの想像にすぎないのだ。

 得体の知れない不安を背負ったまま、きょうも一日の勤務が終わった。

 そのままおとなしく帰ろうとしたものの、やはりまだ引っかかりを感じて、わたしは店先で足を止めた。

「ほんまにいいんですか」

 カウンターでなにか紙面にペンを走らせている様子の多香子さんは、うん、とそのままの姿勢で顔も上げずに言った。

「ちょっと倉庫の整理するだけよ。私もいちおう店長だし? これくらいはひとりでできるから」つと向けられた多香子さんのはにかんだ笑顔を見て、わたしは自分の不躾な行動を反省した。「きょうも夕飯作らないといけないんでしょ。だったらたまには早く帰ってあげたら? 弟さんたちもそのほうが喜ぶんじゃないかな」

「そう、ですね」

 口調に不本意だというのが現れていなかっただろうか。唯一それだけが心残りのまま、わたしは店をあとにした。


 雨はきょうも降っていた。

 けさ家を出たころはまだ曇り空だったのだが、午後、休憩のときに外に出てみたら、すっかり梅雨の天気を取り戻していた。酔って父に八つ当たりしてしまった昨日ほどではないが、当分やみそうにもないと素人目に見てもわかるほど、分厚い雲が浮かんだ空からは断続的に弱い雨が降っていた。

 止んどったらいいんやけどなあ、と半ば諦め気味に思いながら地下街を歩いていると、正面から見覚えのある男性が歩いてくるのが見えた。きょうの彼は眼鏡をかけていたが、吸い寄せられるように視線が合い、わたしは息を呑んだ。

「……どうも」

「どうも」

 グレーのカーディガンを羽織った彼は、まったく軽快な調子で朗らかに言った。わたしが緊張していることなど露知らずといった様子で、その表情は至って柔らかい。ざっくりと襟元の開いたシャツからは、綺麗な鎖骨が姿を覗かせている。

「きょうは眼鏡なんですね」

 わたしがおどおどしながら言うと、彼はくすっと鼻を鳴らして小さく笑ってみせた。

「これ、度入ってないから。だて眼鏡ってやつ」

 そうなんや、と言いかけたところで彼の言葉が飛んできた。

「ひょっとして、いまもう帰るところだったりする?」

「まあ、そうですけど」

「もし時間あったら、ちょっとそのへんの店入らないか。いつも立ち話ばっかりだったから、たまには座ってゆっくり話したい」

 夕飯の支度があるからだめだと素直に言うこともできたろうに、大して迷うこともなく「わかりました」とわたしは口にしていた。

 安心したようにほっと息を吐いた彼のなんとも嬉しそうな表情を見てしまうと、後悔や家族への申し訳なさといった負の感情は、芽生えた直後に何者かがわたしの頭から摘み取っていった。

 同じ地下街にある喫茶店に行こうということになり、向かっている間の居心地がいいのか悪いのかよくわからない無言のなかで、ごく自然な動作で隆一にすこし帰りが遅くなるというメールを打っていることに気づいたとき、自分という人間をわたしは一瞬だけとはいえ見失った。

 隆一からは即座に返事が返ってきたが、手のひら全体に接着剤でも塗られているかのごとく、目的の喫茶店に着くまでわたしの手は震える携帯電話を延々と握り締めるばかりだった。

「俺、小三からいままでずっとサッカーやってるんだけどさ」運ばれてきたホットコーヒーに角砂糖をひとつふたつ放りこみながら、彼は不意に話し始めた。「サッカーで大事なことってなにかわかる? 漠然とした質問で悪いけど」

「……相手よりも、一点でも多く点入れることちゃうんですか」

 いい香りがする紅茶の入ったカップを両手で包みながら、明らかに足りていないサッカーに対する知識を足りないなりに総動員して、どうにか思いついた答えをわたしは口にした。

「それもあながち間違いじゃない。試合に勝つにはそれが一番大事だし。でもいま俺が言いたかったのはそういう相手に勝つための条件じゃなくて、なんていうか、精神論とでもいうのかな。いち競技者としての心構え、っていうか。

 サッカーってさ、基本はボールの奪い合いだろ。どっちがどれだけボールをキープして、相手のゴールを攻められるかどうか。あんまりうまく攻めてなくても、長い時間ボールを持ってるチームのほうが、見てる側も有利に見えない?」

「いくらボール持っとっても、ぜんぜん相手の陣地に攻め入れてなかったら、それって有利って言えるんですか」

 正面の彼を見ていても視界のあちこちにひとの動きが目に入ってくるほど、店内はとてもよく賑わっていた。こうしてすんなり席を確保できたことも、たまたま運がよかっただけなのかもしれない。

「……そういう見方もあるんだな。たしかに防戦一方じゃ見てるほうもつまらないし、試合が動かなかったら焦れてくるか。でもさ、ちょっとでもサッカーをかじったことがあるひとなら、たぶんみんなこう思うんだ。ボールを持ってるチームのほうがうまいな、って。そのときの点差にもよるかもしれないけど、同点もしくは一点でもリードしてたら、すくなくとも不利には見られないと思う」

 サッカーに詳しくないことをあっさり見抜かれて、わたしはただただ肩身が狭かった。動揺を悟られまいとカップに口をつけると、未だ立派な湯気が立っていた紅茶は想像以上に熱く、火傷こそしなかっただろうが、いの一番に触れた唇はしばらくひりひりした。

「そういうもんなんですか」

「うん。ボールをずっと持っていられるってことは、それだけ実力があるってことだから。いくら体が大きくてシュートが強烈でも、単純なパスとかボールをキープする力がなかったら、試合には勝てない」

 こうして話題に上ったことで思い出したが、中学生のとき、期末試験が終わってあとは夏休みを待つだけとなったある日の体育の授業で、一時間だけサッカーをしたことがあった。なにをしたいかと教師に問われ、どういう経緯があったのかは忘れてしまったが――おそらく一部の女子が変に調子づいて提案しただけだろうが――、結果的にその時間はサッカーをすることになったのだった。

 しかし所詮はサッカーなど興味もない女子が集まって、きゃあきゃあと不必要に騒いではボールを蹴っているだけで、とてもこれがサッカーですとは胸を張って言えない幼稚なものだった覚えがある。事実その輪のなかにわたしもいたのだから、おいそれと他人のことは言えないのだが。

 たまに日本代表の試合がテレビで放送されていると、国民性なのか特に興味がなくてもついつい見てしまう。グラウンドから遠く引いた視点の画面からは、毎度毎度そこまで新しさは感じないものの、選手が画面中に散らばって冷静な試合をしているのを見ると、わたしたちがやったサッカーなど全員が全員ボールに集中していて、まるで幼稚園児のお遊戯会のようだった。

「自分たちがボールを持っていないことには、相手を攻めようにも攻められないだろ。だからなるべく常に自分たちが持っていられるように、もし取られたら必死で取り返して、ゆっくりでも攻められる機会を窺うわけ」

 一度小さく間を置くと、それで、と照れたように微笑みながら彼は言った。

「だいぶ話が逸れたけど、要は諦めないことなんだよ。どんなことにもいえることかもしれないけどさ」

 背もたれに体を預けてコーヒーを飲む彼の表情は、言いたいことが言えたのか、ほどよく脱力しているように見える。その一方で紅茶はようやく冷めてきたにもかかわらず、わたしの体は未だに緊張で強張っており、鳩尾あたりは小さな熱のようなものを帯び始めていた。

 ひょっとして、わざわざ会いに来てくれたのだろうか――。

 考えた瞬間に無粋な妄想だと斬り捨てたが、欠片を拾い上げながらもしそうなのだとしたらと思うと、わたしの脈はすこしずつ早くなっていった。

「サッカーで大事なことは、よくわかりましたけど」

「そういえばさ、まだお互い名前も知らないよな」

 語尾にかぶせられて一瞬むっとはしたものの、そうだった、と一拍遅れてわたしははっとした。

 そんなわたしの反応を楽しむかのように、顔を伏せてくっくっと笑っていた彼はその姿勢からゆっくりと居住まいを正してから、松本、とわたしの目をまっすぐ見据えながら低い声で言った。だて眼鏡の奥には、とても落ち着いた奥行きのある黒い瞳があった。

「松本章吾。さっき言った通り大学生で、今年で二回」

 いまさら改まって自己紹介するのはひどく恥ずかしかったが、もういい大人なのだからと我慢して、わたしはおずおずと名乗った。自己紹介としては、中学校に入って最初にしたとき以来の恥ずかしさだった。

「……二回ってことは、あれ、もしかして年下ですか」敬語を使うべきなのかそうでないのか、言い終える直前まで迷った挙句、けっきょくそれまで通りになった。

「俺まだあんたの年聞いてないから、なんとも言えないけど」

「いまの大学は現役で合格?」

「まあ、そうだけど」

 まさに衝撃だった。

 もしかすれば同い年、それでも十中八九は年上だろうと思っていたのはわたしの勝手な先入観であり、彼にはなにも責められるようなことはないのだが、目の前にいる自分よりも大人びた男性がよもや年下であるとは、いまのいままで一秒たりとも考えたことがなかったのだった。

「わたし今年で二十一やからひとつ下、……ってことは、もしかして平成生まれ?」

 正面で当たり前のようにうなずく彼を見て、わたしは崖から突き飛ばされたような、谷底に放り投げられたような、テーブルの上にわざわざ定規を使ってあなたとは生まれた時代が違うのだという境界線が引かれたような、ただただ突き放された感覚を覚えた。

「若いなあ」

「俺の周りにいる年上のひと、最初はみんなそう言う。たかが一年くらい、そんなに騒ぐほど変わらないと思うけど」

「じゃあ、その、……松本くんは、最初からわたしのこと年上やと思っとったん」

「決めつけてたわけじゃないけど、もしかしたら同い年、でもきっと年上、って感じ」

「年下の線はなかったんやな」

「残念ながら」

 それは、とてもじゃないが年下には見えなかったということだろうか。それとも、年相応な外見をしているのだと思えばいいのだろうか。どちらにしても、行き場のない悔しさと虚しさで胸の内側がいっぱいになった。

 思わず眼鏡の脇から目頭を押さえていると、その眼鏡似合ってるな、と松本くんが独り言のように言うのが聞こえた。

「そう?」

 なにをいまさらとは思いつつも、心のどこかでは小躍りしているわたしがいた。

 いまかけているのは高校を卒業してから買い換えたもので、わたしにとってはまだ比較的新しいのだが、それまでにかけていた眼鏡のなかでも最も思い入れのある眼鏡なのだ。それまでは父か母、あるいはふたりに連れられて新しいものを買いに行くと、常に隣で「これのほうが似合いそう」だとか「それはちょっとイメージと違う」だとか、わたしが選んだものに対して、毎回そんな否定的な意見を耳にたこができるほど言われるものだから、純粋に好きなものを選べた試しがなかった。

 たしかに当時は眼鏡の代金を両親が払ってくれていたため、彼らの意見を取り入れないというのはわたしにはとても親不孝な行為に思えて仕方がなく、とてもじゃないが自分の趣味に走ることはできなかった。しかし自分でお金を稼ぐようになり、ある程度の自由を得たことで、四代目の眼鏡にして晴れて初めてわたしはひとりで眼鏡を買うことができたのだった。

 また、買ってからもう二年と半年ほどが経つが、未だに毎日の手入れを怠ったことはなく、レンズに肉眼で見えるような目立った傷はただひとつとしてない。自己満足にすぎないことは百も承知であるが、それはわたしとっての数すくない自慢であり、誇りだった。

 そういうこともあり、眼鏡のことを褒められて悪い気はしない。むしろほかのなにを褒められるよりも嬉しいかもしれない。

「うん。雰囲気とあってるっていうか。明るい色の眼鏡って、似合うひとそうそう多くないよ。そういや服も暖色系が多くない? まだ三回しか会ったことないけどさ」

「好きやねん。こういう色」

「そんな気がする」

「褒めてもなんも出てこんで」

 そのときふと、松本くんが眉尻を下げた表情でこちらを見ていることに気づいた。初めて見るかもしれない彼の優しい表情に、わたしは思いがけず言葉に詰まった。

「なによ」

「いや。初めてまともに笑ったなあって、思って」

 感情の表現にはたくさんの種類がある。幼い子どもでもわかるような簡単なものから、日ごろから小難しい論文や小説を読んでいるようなひとでないとわからないような難解なものまで、感情だけにこだわった話ではなく、ひとつの事象に対して、それこそ無数といっていいほど。その点、ひとつの語に日本語ほどいくつも意味があるわけではない英語は、単純明快で苦労はしなさそうだと学生時代、成績が悪いなりに感じた覚えがある。

「……うるさいな」

 不覚。

 いまのわたしには、それ以外の言葉は思いつかなかった。

 なんだかんだで二時間ほど居座った喫茶店を出たあと、松本くんが贔屓にしているという同じ地下街にあるお洒落なドリア専門店で、ふたりでやや遅めの夕食を摂った。

 会話も弾んだ。最初は無難に天気の話題から入り、家族や学校といった身の回りのことから、小さいときはどんな子どもだったかなど、自分の口から湧き水のようにさらさらと言葉が溢れてきたことには正直戸惑ったが、その戸惑いさえも心地よく感じられた。

 初めて会ったのときの出来事はすべて幻だったのかと錯覚するほど、場の雰囲気は穏やかで優しく、食事を終えるころには錯覚していたことさえ忘れていた。彼と話すことがただただ楽しくて仕方がなかった。一秒に一分、一分に一時間が凝縮されているような密度の濃い時間は、しかしまばたきをしているうちに過ぎ去ってしまう。

 こんな気持ちを抱くのはいつ以来だろうか。久しく感じていなかった気がする。

 スプーンを持つ長くしなやかな手指、改めて見れば想像以上にしっかりした胸板、ときおり送ってくる柔らかい視線。そこにあるだけですべてが満たされた気持ちになる。


 ふと時計を見て、そろそろ帰らんと、とわたしが言うと、送るよ、と松本くんは言った。

「JR? 地下鉄?」

「ううん、バス。次で最終やから、ごめんな、ちょっと急ぐ」

 身支度を整えていると、先に立ち上がった松本くんはさりげなくわたしのバッグを手にとり、わたしの準備が整うのを待っていてくれた。

「お代は俺が払うから」

「なに言っとん。これでも年上やで。自分のぶんくらい、自分で払う」

「いいから。誘ったの俺だし、きょうは俺が払う」

 ずいっと差し出されたバッグを受け取りながら、これ以上いたちごっこするのも野暮だと思い、素直に松本くんの要求をのむことにした。

「じゃあ、次はわたしが奢るわ」

 次という言葉がごく当たり前のように出てきたとき、自分がすっかり舞い上がっていることにわたしは気づいた。

 人が減り始めたバスターミナルまでの道を歩きながら、今後もこういうふうに食事をしたり、どこかに遊びに出かけたりするのだろうかと、わたしは頭の片隅で思い描いてみた。このあいだ読んだ雑誌に載っていた雰囲気のいい居酒屋、今度はあそこに行ってみようだとか、普通に三宮や元町あたりを散歩するのも悪くないなあだとか。単純に想像するだけで心が躍った。

「なにひとりでにやにやしてんの」

「秘密」

「あっそ」

 口調こそぶっきらぼうだったものの、たまに正面から柄の悪い集団が歩いてくると、松本くんはかばうように袖を掴んで引き寄せてくれた。意外と紳士なんやなあと感心していると、遠くに店前の後片づけをしている多香子さんの姿が目に入った。

 反射的に松本くんの体に身を隠してしまい、案の定なんだなんだと不審がられた。

「店の店長さんがおってん。たまには早く帰りって言うて帰してくれたんやけど、まだこんなところで歩いとるの見られたら、次会ったときにたぶん怒られる」

「そうなんだ。悪いことしたな」

「そんなことないで――」口がすべりそうになり、慌てて急ブレーキを踏んだものの、どうしようもなく後味が悪かった。

 ならよかったけど、と前を向いて平坦な声でつぶやく松本くんの背を見ていると、ふっと笑みがこぼれた。もしいま抱きついたりしたら、彼はどんな反応をするのだろうか。

 こうして普通に並んで歩いているぶんには、松本くんのほうがだいたい頭ひとつぶん背が高い。エスカレーターなどでわたしが一段上に乗ってようやく、対等になれるだろうか。

「松本くんは、家、近いん」

 そのエスカレーターに乗りこんで一段上から振り返ってみると、ほぼ同じ高さに松本くんの顔があり、わたしは心のなかでおおと唸った。

「大倉山だから、近いといえば近いかな。ここまで歩いてこれる距離だし」

「いいなあ、羨ましいわ。寝坊しても頑張れば遅刻せんとすみそう」

「あんたはここで働いてるからだろ。俺は大学、大阪にあるから朝そんなに余裕ない」

「大学、大阪なんや。じゃあなんで神戸に住んでるん」

「俺、姉貴がいるって言ったろ。進学のとき実家から引っ越すことになったんだけど、あの姉貴が仕事で神戸に住んでてさ、いい不動産屋知ってるから紹介するって言って聞かなくて。ほとんど勝手に人の部屋決めやがった。しかも自分の住んでるところの近所だからな。なにかあると夜中でも押しかけてくるし、もう鬱陶しくて仕方ない。昨日も、ゴキブリが出たくらいで電話してくんなっつーの」

「仲いいんやな」

「俺にとっては拷問に近い」

 松本くんにとってのお姉さんは、わたしにとっての水穂と同じようなものだろうか。血が繋がっているわけではないので形はまた異なっているものの、見放せずに振り回されているところはどうも似ている気がする。

 外が近づくにつれ、天井を叩く雨音が聞こえ始めた。

 やっぱり止んでいなかったか、と思うかたわらで、荷物は小さな肩掛けバッグだけで手にはなにも持っていない松本くんを見て、傘は? と、わたしは尋ねた。

「――あ」

「忘れてきたん」

 あたふたと身の回りを見回してから、たぶん、と松本くんは言った。

「どこで忘れたか覚えとう?」

 外に出られる扉の前で立ち止まると、しかし曖昧に言葉を濁しながら外に促された。そういえば最初に喫茶店に誘われた時点で、すでに松本くんの手は空だったような気もする。そのまえからどこかで買い物をしたり、食事をしたりしていたのかもしれない。

「このへんのお店やったら、まだ開いとうとこ多いんちゃう」

「気にすんなって。遅れるとまずいんだろ」

「でも、けっこう降っとうで」

「いいから、ほら」

 幼い子どものように駄々をこねているうちに、あっさりバスに押しこまれてしまった。乱暴な動作なのに、どこか優しさの感じられる手つきだった。

「走って帰ればそんなに濡れないから」

「そういうもんちゃうやろ」ステップを一段降り、持っていた傘をわたしは松本くんの手に押しつけた。「もうひとつあるから」

 バッグを腹太鼓よろしく叩き、にっと力強く笑いかけると、松本くんは困ったように笑い返してくれた。

 離れていく松本くんの姿を眺めつつ、これでまた会う口実ができたと思うと、席に腰を落ち着けたあともしばらく笑みが止まらなかった。


 やむを得ない用事があったわけでもないのに、二日連続で食事の支度をしなかったのは今回が初めてだった。そのことを思うと、ひびの入ったグラスから徐々に漏れ出す水のように、わたしを襲う罪悪感はあとからあとから溢れ続けた。

 みな早々に部屋へと引き上げてしまったらしく、居間には誰もいなかった。畳の上でだらりと足を崩して遅くまでテレビを見ていることが多い父の姿も、きょうはなかった。

 食卓には父が作ったのか不恰好なチャーハンが、ラップがかかった状態でぽつんと置かれていた。

 せっかく作っておいてくれたのだから、もちろんちゃんと食べたいと思う気持ちはあった。しかしまだまだドリアの満腹感が残るいま、いざ手をつけたところで完食できるとはとても思えなかった。そのため中途半端に残してしまうのも申し訳なく、また明日の朝に食べるつもりで冷蔵庫へと移し、居間を出た。

 いまの自分の役割は、はたしてわたし自ら選んだものではなかったのか。なにかしらもっともな理由があってその任を解かれない限り、責任を持って取り組むつもりではなかったのか。単なる家事だとしても、これも家族を支える立派な仕事だと思って誠心誠意、生き甲斐を感じながら続けてきたことではなかったのか。先になにが待っているかもわからない、ぽっと湧き出たばかりの私情を挟んでないがしろにしていいものだったのか。

 こんなこと、しばらくなかっただけで、実際いままでに何度もあったではないか。なにも本当に雇われているわけでもないのに、人生のすべてを捧げる必要などないではないか。ちょうどほかにできるひとがいないから、仕方なくわたしがやってあげているのではないか。それなのにたまに休んだだけで轟々に非難されるなんて、道理にかなっていない。

 仕方なく? いつからわたしは家族の誰よりも偉い立場になった? 食事という、生きていく上で欠かせないことの支度を担っているから? 蛇口を捻れば出てくる水も、スイッチひとつで燃え上がるコンロの炎も、さばく魚も断つ肉も、現にこうしてわたしが住んでいる家も、すべてわたしひとりでまかなっているものではない。両親の働きによる部分のほうが圧倒的に多く、わたしはそのおこぼれをいただいて、どうにか生きているだけにすぎないではないか。それ以上でもそれ以下でもない分際で、よくもまあ立派な口が叩けたものだ。

 階段を一段一段踏みしめ上るたび、四方八方からわたしを非難するわたし自身の声が聞こえてきては、同時にわたしを擁護するわたし自身の声もまた、響いた。

 禅問答のように繰り返される自問自答は、いつまで経っても終わりが見えない。


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