つもり、積もり
台所で昼食の後片づけをしていると、来客を告げるチャイムの音が聞こえてきた。
「秀、お願い」
肩越しに声をかけると、はあい、と嫌々でも進んででもない平坦な返事をして、秀は裸足の足音を立てながら居間を出て行った。一緒にテレビを見ているものと思っていた隆一の姿は、どこかへ遊びにでも行ったのか、いつの間にやら見えなくなっていた。
きょうは午後から家に水穂が来る予定だった。メールでそういうやりとりをしていたので、なんとなくわたしは来客が誰であるかの検討はついていた。そのことを知らされていない秀はどんな反応をするだろうかと、食器をすすぎながらにやりとする。
「姉ちゃん、小西さん来た」
案の定、弾んだ声を上げながら居間に転がり戻ってきた秀に続いて、来たでー、と水穂がひょっこりと顔を覗かせた。
「いま飲み物出すから、適当に座っとって」
「おれコーラ!」
「はいはい。水穂はコーヒーでいい?」
「うん。ブラックで、――あ、こらこら」
早くも秀に振り回されかけている水穂を微笑ましく眺めつつ、手早く三人分の飲み物を用意していく。
わたしが水穂に敵わないのに対し、水穂は秀に敵わない。いろいろなところで手加減はしているのだろうが。この三人が揃ったときはいつも、ジャンケンみたいやなあ、とわたしは思う。
ふたりの前にそれぞれ飲み物を差し出し、わたしも腰を下ろした。
「ほんまいつ来ても元気やな、秀くん」マグカップを両手で包みながら、水穂は眉尻を下げて微笑んだ。
照れくさそうに視線をそらしてコーラを飲む秀は、ふふと鼻を鳴らした。
「水穂のことお気に入りやもんな。文句言わんとよう面倒みてくれるし、わたしと違って美人やし」
「なんやそれ」
おどけて相好を崩したあと、マグカップにそっと口をつけると、あつ、と水穂は小さく声を漏らした。でもおいし、と続けざまにもう一言。
「な? 秀」
「だって姉ちゃんより姉ちゃんっぽいで、小西さん」
「当たり前やん。わたしよりも年上なんやから」
それはそうやけど、と一度は口ごもったものの、どこか遠慮がちに秀は言った。
「姉ちゃんはなあ、なんとなく、お母さんって感じすんねん。いつも台所に立っとうし」
「うわそれ、嬉しいようで悲しいな……」
たしかに母が毎日台所に立っていたのは秀がまだ小学校にも入る前までのことだし、記憶に焼きついていなくても無理もないかもしれない。この前のようにたまに料理を作ることがあっても、ああお母さんだ、とわたしは思うのに対し、秀には違和感なのだろうか。
横から聞こえてきた笑い声の元を辿ると、水穂がマグカップの縁を指で拭いながら小さく肩を震わせているのが見えた。
「水穂までなに」
「いや、さ。あたしが思ってた以上に、しみちゃんしっかり母親やっとるんやなあって思って。もうお姉さん感服ですよ」
「そりゃもう、やらせていただいてますよ。これでもか、ってくらい」
褒められたので素直に胸を張ると、水穂はにやにや笑いを浮かべて自分の胸の前で半円を描くような仕草をしてみせた。意味がわからないので無視すると、水穂は背を向けてわざとらしく音を立てながらコーヒーをすすりだした。
「そういえば秀、あんた昼から友達と遊ぶとか言うてなかったっけ」
「あ、うん。家まで呼びに来てくれるから」
「そっか。待たせんように、早めに支度すませとき」
「うん」
「えー。秀くん出かけるん。一緒にゲームしたかったのにな」
ぐるりと勢いよく体を回して振り返った水穂に、ごめんね、と秀は申し訳なさそうに苦笑して立ち上がった。
「また今度やろう」
「仕方ないなあ、もう」
居間を出て行く秀を笑顔で手を振って見送ったあと、水穂はふうと短く息を吐いた。
「あたしもあの子くらいの年に戻りたいわ」
「なんで?」
「だってさ、あのころはいまみたいに勉強とか人間関係で悩まんと、ただ毎日を享受できたんやで? そりゃあ当時は当時で悩みもあったけど、年取ったいまになってみればほんま些細なことやしさ。算数ドリルの宿題面倒やなあとか、好きな子と話したいけどなかなか話せへんなあとか。……これはいまでもそうか」
肩をすぼめ、水穂は両手で包むマグカップのなかに視線を落とした。わたしの位置からは垂れ下がった髪に覆われた水穂の表情は窺い知れなかったが、トーンの下がった声音は昔を懐かしんでか、どことなく寂しそうだった。
「水穂もそんなことで悩んどったんやな」
「そんなことって?」
「恋愛? っていうんかな。好きなひとには、こう、積極的にアピールしてくタイプかと思っとったけど、意外とそうでもなかったんやな」
「意外とって……。これでも昔は純情な乙女やったんやけど」顔を上げて、水穂は頬を膨らませた。
「いまはちゃうんや」
腰をかすかに持ち上げてから言うと、こら、と水穂が予想通り手を伸ばして来たのでわたしは慌てて逃げた。そんなわたしに呆れたように、溜息を吐きながらマグカップを置くと、水穂は目だけで室内を見渡して、隆一は? と言った。
「靴はあったみたいやけど」
「あ、ほんま?」
「うんうん。あのきったないアディダスのスニーカー、たしか隆一のやんな」
「じゃあ二階におるんちゃうかな。寝とうか漫画読んどうか、どっちかちゃう」
人生の先輩である姉としては、いい加減まともに勉強に打ちこんでほしいものだが、あの生意気な弟はこちらの考えなど知ろうともせず、ひたすら我が道を行くばかりだ。あとから痛い目を見るのは自分だということに、そろそろ気づいてほしい。
「ふうん。じゃあちょっと覗いてこようかな」
「行ってらっしゃい」
不敵な笑みを残し、水穂は二階へと上がっていった。
ひとり待っているのも手持ち無沙汰になりそうだったので、台所で水穂たちが飲み終えたカップを洗っていると、短くチャイムが鳴った。
行ってきます、と廊下から忙しない足音つきで秀の声が聞こえたかと思うと、慌しく玄関の戸が開け閉めされる物音がして、そしてあっという間に静かになった。
秀はたったいま遊びに行き、隆一は部屋に引き篭もり、母は午前中から出勤、父は知人と出かけているとあって、日曜の昼間にもかかわらず家のなかは時間が止まったように落ち着いている。いまも、蛇口から流れる水を止めさえすれば、耳が痛くなるほどの静寂が訪れることだろう。
「寝とるんか知らんけど、声かけても返事なかった。頭まで布団なか潜って丸くなっとったわ」
意気消沈して戻ってきた水穂は、至極残念そうに元いた場所に腰を下ろした。
「どうせタヌキやで」
手を拭って戻ると、わたしを待っていたように水穂は口を開いた。
「ええよ。気分でも悪いんやろ。そっとしといしたって」
「……そういうところなんかな。秀がお姉さん扱いするんは」
なになに、と恥らいを見せる水穂と卓袱台を挟んで向かいあって座り、わたしは頬杖を突いた。
「たまに思うんやわ。わたし、男っぽいなあって。怒りっぽいし、言葉遣いも悪いし。男に囲まれて育ったから仕方ないかな、って思うときもあるけど、それで納得しとったらあかんやんか、やっぱり。……でも水穂と一緒におるとさ、光に当てられてできる影みたいに、そういうところが浮き彫りになって見えるっていうか」
「あたしはそうは思わんけど、ええやん、べつに男っぽくても。それも個性やと思うで? この世のなかには男っぽい女子が好きな男子もおるんやからさ、なんも頭抱えることないで。需要あるある」
「でもさ、どう転がっても女なんやから、ここはもっと女らしくなりたいわ」
「んー。それはあたしと縁を切りたい宣言と捉えてええんかな?」
「ちょっと、なんもそこまで言ってへんやん。飛躍しすぎ」
水穂が不意に無表情、加えて真面目な口調になったので、わたしは頬杖を解いて腰を浮かせた。そんなわたしを見てすぐに表情を崩した水穂に安堵しつつ、同時に縁が切られたあとのことを頭の片隅で想像して、打ち消すために慌てて頭を振った。
「冗談冗談。でもさっきのしみちゃんの言いかたやと、あたし邪魔者なんかなーって思えた。これは冗談抜きやで」
「ごめん。ほんまにごめん」
気にせんでええよ、と笑い飛ばしてくれた水穂の寛容さに、うつむく程度に軽く下げた頭は上がらず、ますます下がる一方だった。
「――またそんなざっくり開いたシャツ着て。あかんでもう、しみちゃん」
両手を前にかざすようにしてあたふたとする水穂は、視線をこちらに向けたりそらしたりを繰り返しながら、あかんオヤジ思考が、などとひとり身悶えしている。
とりあえず怒らせてはいないことを再確認できて、ほっと息を吐くと肺から重い空気が抜けていくのがわかった。
無性に室内の無音が寂しく思えて、わたしはテレビを電源を点けた。画面に無造作に映し出されたのは、素人の新婚夫婦をゲストにしたトーク番組だった。夫婦の突拍子もない発言に対して、司会の中年男性が大袈裟なまでのリアクションをとるたび、会場にどっと溢れんばかりの笑い声が生まれて、賑やかで華やかな雰囲気が画面越しにも伝わってくる。
どちらから誘うでもなしに、わたしたちは揃って無言になり、しばし番組に見入った。
「この旦那さんええな。笑顔がポイント高いわ。優しそうやし、爽やかやし」
「でもちょっと歯並び悪ない? ほら、笑ったとき、上下の歯がうまく噛み合ってない感じせえへん?」
「……批評家しみちゃんはなかなか辛口やな。男の歯並びまで気にするとか」
「え、気にならへん? 歯ってぱっと見えたとき、けっこう目行くとこやと思うけど」
「そう言われてみればそう見えんこともないけどさあ、そこまで気になるほど顕著やなくない?」
「それまで気にならんかったことでも、いっぺん目に入るともうそこから目離せんようになるんと一緒やって」
「そういうもんかなあ」
ときおり会場が沸くのと同時にくすっと小さく笑いながらも、どう考えても腑に落ちないといった様子で、水穂は番組に見入っていた。
なんだかんだ言って、水穂とするこういうとりとめもない話がわたしは好きだった。なにも考えずに言いたいことをさらさらと口にするだけで、いいストレス解消になる。
「あたしもこの番組出てみたいなあ。参加賞だけでも相当ええもんもらえるし」
「物目当てかい」
「もちろん。一銭も払わんとブランド品もらえて、運がよかったら海外も行けるとか、至れり尽くせりもええとこやん」
「テレビ的に豪華な品物映しとうだけで、実際はタオルとかノーブランドの食器とかなんちゃうん。どうせしょうもないもんに決まっとう」
「しみちゃんは夢がないなー。普段からもっと想像力働かせて生きなあかんで」
「わかったわかった。夢語する前に、まずは相手を捜し」
わたしがそう言うと、背骨が抜かれたかのように水穂は卓袱台の上にぐにゃりと崩れ落ちた。
「問題はそこ。ほんまそれな。どっかにいい男落ちてへんかなあ」
「石ころみたいに言うなあ」言いながら、そういえば水穂は大学生ではないか、とそのときわたしははっと思い出した。「水穂コンパとか行かへんの。大学生って、暇さえあればコンパしとうイメージあんねんけど」
「どこで聞いたんか知らんけど、それは素晴らしい偏見やで、しみちゃん。たしかにそんなやつもおらんことはないやろけど、確実にごく少数やと思う。六割くらいの連中はバイトとか勉強に熱上げとって、三割強くらいの連中は受験終わって肩の力抜けたんか知らんけど、また高校生の気分に逆戻りしてなまけとう。で、残りの一割未満の連中が、見事そんな感じやな。あくまであたしの周りでは、やけど」
水穂が半笑いで言ったそのことに図らずも感心し、わたしは自分のなかの大学生に対するイメージを改めた。改める前のイメージがどこで植えつけられたのか、自分でもはっきりとは思い出せなかったが、勝手に勘違いしていた大学生の皆様には内心で心から謝罪しておいた。
「じゃあ水穂はどの部類に入るん」
するとそれまで頼もしかった水穂の口調が、あ、あたしはな、と急にぎこちなくなった。
「微妙なところやけど、自分では六割におるつもりやで。……微妙なところやけど」
微妙なところなんか、とわたしが鸚鵡返しで問いかけると、なにかに耐えかねたように体をはね起こし、水穂は乱暴に自身の頭をかき回してぶっきらぼうに言った。
「この話はもうやめなあかん。ひとりの人間の尊厳が失われようとしとう」
「はいはい」
単に聞き慣れていないだけかもしれないが、水穂が尊厳などという硬い言葉を口にするとどうも違和感を感じてしまう。
「しみちゃんこそどうなん。最近男の影が見えへんけど。もしかしてあたしに隠れてつきあっとう相手おるとか」
半目でにらまれたが、わたしは努めて笑顔で応対した。
「ないない。そもそも出会いがないわ」
高校までずっと共学だったため、たしかに学生時代、出会いは多かった。しかし卒業後は一転して、異性との出会いというものはぱったりとなくなった。雑貨屋は女性の店員しかいないし、客も女性がほとんどだ。ファミレスは男性の店員もいることはいるが、同世代の男性が極端にすくない。恋愛に発展しそうな相手、となると申し訳ないが完全にいなくなる。かといって客に視点を移したところで、元からそういう目的で店に来るひとなどいるわけもなく論外だ。
高校で進学の道を選んでいれば、いまでも出会いには困らなかったのかもしれない。だからといって出会いがないことにそこまで焦っているわけでもなく、現状に満足している面もあり、当分は自分から相手を求める気は起きんやろなあ、というのが事実だった。
「……出会いがない、ねえ」
「うん。べつに男おらんくてもじゅうぶん毎日楽しいし。なにその不満そうな顔」
するとなんでもないとばかりに顔をそらし、水穂はぴゅうと短く口笛を吹いた。「そういえば、年明けすぐに年上のサラリーマンひっかけとったよな、しみちゃん」
水穂が虚空に放った声の調子は、これまで幾度となく話していても聞いたことがない淡白なものだった。背筋にひやりとしたなにかが伝うのを、わたしは感じた。
「そんな言いかたないやろ。そもそもあれは、向こうから声かけてきただけで」
たしかに今年の一月上旬、ファミレスでいつものように働いていると声をかけてきた男性がいた。年はおそらく二十代後半で背は低く、痩せたねずみのような顔に銀縁の眼鏡をかけており、笑ったときにより目立つ頬骨が印象的だった。
年末あたりからよく店に訪れてくれるようになり、そして何度か接客しているうちにあるとき突然このいまつけているピアスをプレゼントされた。
このところめっきり姿を見ておらず、こうして話題に上るまでその男性のことなどすっかり失念していた。
「そうですかー」
水穂と向かい合っていると、口のなかがなぜか嫌な感じに乾いていく。無意識のうちに彼女を怒らせるようなことを言っていたのだろうかと、直前の自分の発言を思い返してみるが、特に思い当たる節は見当たらなかった。それゆえに普段見られない水穂の不穏な口調や表情に、わたしは心から恐れおののいた。
「そのピアス、そんときのサラリーマンがくれたんやったよな」自分の耳を触って示しながら、水穂は低い声で言った。
「え? あ、うん」
「前から言おうと思っとったけどな、やっぱ変やで、しみちゃん」
「……なにが」
「そういうどこの馬の骨かもわからん男からもらった物ってさ、普通捨てるか売るかせえへん? 気味悪ないん。それだけやないで、前につきあっとった男からもらった物も、しみちゃんいまでもよう身に着けとうやろ。そういう物やったらさ、捨てられんっていうのはまだわからんでもないけど、普通に自分で買うた物みたいに身に着けとんのはちょっとおかしいんちゃうん」
「それは水穂の価値観やろ。物は物、ひとはひと。そこを関連づけて考えるかどうかはひとの勝手やん。たしかにつきあっとう相手からプレゼントもらうのは嬉しいで。いつも身につけたいって思うで。水穂もそうやろ? でもその相手と別れたからって、物とまでお別れする必要がなんであるん。いま言っとったピアスかって、なんで気持ち悪がらなあかんの。ピアスがなにしたっていうん。ピアスには落ち度もなんもないんやで?」
すっかり乾いた口からわたしが必死で吐き出した言葉に、水穂は顔色ひとつ変えなかった。
緊張とは違う種類の全身の強張りに自分自身戸惑いながらも、視線だけは水穂から外すまいと眉間に力を入れた。しかし面と向かって視線を交わすと十秒と持たず、あっけなくねじ伏せられた。
「そのブレスレットも、そのネックレスも。仮に自分で買うた物やとしても、全部いっぺんに着けとったらどう見ても変やで」
これまでのつきあいのなかで、水穂とこういう話題で会話したことはなかった。わたしからも話すことはなかったし、わざわざ口に出して話し合うようなことでもないと思っていた。
もうひとりの自分のようにさえ思っていた親友が放った言葉の槍は、わたしの心の奥深く、自分でも知らなかったとても柔らかい部分を抉った。麻酔なしで体にメスを入れられたかと思うほど、胸の内側に鋭い痛みが走った。
「……変、かな」
「うん」
即答されたことで一気に限界が来た。
堪えるまでもなく、一瞬で視界に映るすべての輪郭が歪んで滲み、自ずと嗚咽が漏れた。
頬を熱の筋が伝うなんて表現は生易しく、自分でも驚くような勢いで涙が溢れた。ぱたぱたと腿の上に垂れる涙は、デニムの生地に次々と黒い染みを作っていく。
「写真とか、旅行のお土産とかもたくさん残っとったよな。ああいうのもええ加減捨てとき。いつまでも過去の男との思い出に浸っとったら、次が来いひんで次が――」
はっと息を呑む音が聞こえたかと思うと、気がついたときには水穂の腕のなかにいた。
ああもう、と悪態を吐く水穂の声が頭の上で響いた。それはわたしに対して言っているのか、それとも自分に対して言っているのか。気になって仕方がなかったが、いくら考えようとしても、わたしの頭はまったくもって回らなかった。
載せられた顎と押しつけられる胸の感触、背中に回された腕の締めつけ、包みこんでくる水穂の温もりにくらくらした。ひとはこんなにも温かいのだということを、わたしはしばらく忘れていたようだった。
「……ちょっと、何なん」
「しばらく黙っとって。反省タイム」
「反省?」
それからわたしが何度声をかけても、水穂はことごとく無視をした。
暑い。苦しい。恥ずかしい。そんな不平をぶうぶうと並べる余裕が出てきてからも、解放される気配は微塵も感じられなかった。けっきょくすぐに諦めて、ぬいぐるみになったつもりでわたしはされるがままに身を任せた。
ときたまテレビから聞こえてくる笑い声が、妙に異質なものに感じられた。
夕食の片づけをすませ、シャワーを浴びたあと居間で雑誌を読んでいると、隆一が珍しく改まった口調で話しかけてきた。受験生になってさすがに進学のことで思い悩み始めたのかと思いきや、彼の口から何気なく飛び出てきた言葉に、わたしは束の間呼吸することも忘れてただただ唖然とした。
「ごめん、ちょっと待って」
あまりに現実味を帯びていない状況に、わたしは自分の頬をつねった。しかし頬にはたしかな痛みがあり、これはまぎれもない現実なのだと改めて実感した。
「――うん。夢ちゃうわ」
「当たり前やろが。ほんまにそういうことする奴、オレいま初めて見たわ」
「切羽詰まると人間、迷信でもなんでも信じたくなるもんやで」
「こっちは真剣に相談しとんねん」
真剣ねえ、と思わず復唱しつつ、卓袱台を挟んだ向こうで柄にもなく正座する隆一を見る。灰色のパーカーに身を包んだ少年は、普段の威勢もどこへやら、じれったそうにこちらの言葉を待っている様子だ。眉間に皺を寄せ、口を真一文字に結んだ表情には力が入っているようではあるが、それ以外は実に弱々しく頼りない印象を受ける。さながら獲物を獲り逃した雄ライオンが、その旨を雌ライオンに報告しに来ているようだった。
「いちおう聞くけど、あんたさ、自分の年とかわかっとう?」
「十四」
「うん、わかっとうな。偉い偉い。じゃあ相手の年と職業は?」
「恵のひとつ上。今年二十二の大学生。いまさらこんなこと聞いてどうするん」
「まあまあ」ひとまず確認しておきたかったことを聞き終えてから、わたしは卓袱台の上に気持ち身を乗り出して尋ねた。「……なんで水穂なん」
夕方に水穂が帰るまで、隆一はずっと部屋に引き篭もっていた。そのときは変なやつやなとしか思わなかったが、いまこうして話を聞いてから思い返すと、おおかたの経緯は理解できた。
ここのところ水穂が遊びに来ても、会話すらあまり積極的に交わしていなかったのはそういう背景があったからか、とわたしは内心で感慨にふけった。
「なんでって、水穂さん綺麗やし、大人やし」
「年ごろの男子の気持ちはようわからんけどさ、聞いた話やとあんたくらいの年って、どうやっても年上が気になるもんらしいで。学校の先輩とか、友達のお姉さんとか」
「知るかそんなん」
オレは例外だと言わんばかりの隆一の口調に、わたしは重く首を捻った。仮にその話がデマだとしても、実際こうして水穂に思いを寄せていることはまぎれもない事実なのだから、否定したところでどうしようもないと思うのはわたしだけだろうか。
「あんたが水穂のこと好きなんはわかったけど、じゃあなんでわざと距離置くようなことするん。もっと自分のことアピールせんと、振り向いてくれるもんも振り向いてくれんのとちゃうん」
「――せやから、機会作ってほしいねん。恵、仲いいやんか水穂さんと」
合掌して拝み倒してくる隆一に、どうしたものかとわたしは視線をうろうろと宙に漂わせた。
「なんでわたしがそこまでせなあかんの。水穂のこと好きなんはあんたやろ、わたしちゃうし。気になる相手のひとりくらい、自分で振り向かせる努力したらどうなん」
「しようとしとうわ。何回も。でもいつもできひんから、せめてきっかけを作ってくれって頼んどるんやろ」
わたしの言葉を聞いて合掌を解いた隆一は、眉間に皺を寄せて眉を立て、しかし覇気のない口調でそう言った。
「きっかけくらい、いくらでもあるやん」
わたしが水穂と知り合ったあの日、そうやったんや、と思わず溜息が漏れるほど意外な事実がわかった。
降り続いていた雨もおおかた止み、そろそろ帰ろうかと決めたところまでは自然な流れだったのだが、店を出たあとの歩く方向、乗るバスの系統、そして降りる停留所まで、わたしと水穂の行動はまったく同じだった。初めのうちこそ水穂がふざけているだろうとわたしは邪推したが、聞けば水穂も同じことを思っていたらしく、おのおの自分の住んでいる地区を告げあうと「なるほど」と思った。わたしたちは隣の地区同士で、徒歩数分で行き来できる距離に互いの家があったのだ。それがわかったとき、わたしたちはしばらく笑いが止まらなかった。
以降、わたしが水穂の家に遊びに行ったり、逆に水穂がわたしの家に遊びに来たりすることはわりと頻繁に行われた。
ひとりっ子だという水穂は、わたしに兄弟がいることを知ったとき、声を上げてひどく羨ましがった。もともと世話好きだったためか、遊びに来るたびに好んで隆一や秀の相手をしてくれて、いつの間にか自然とわたしたち兄弟に馴染んでいった。
「きょうも来とったやろ。あんたずっと部屋に引き篭もっとったけど」
「あれはまあ、その、宿題が多くて」
「そうかそうか」あきらかな嘘にわたしは辟易した。「せっかく水穂が体調悪いんかーって心配してくれとったのにな。いっぺん声かけに行ったやろ。返事なかったって、残念そうにしとったで」
「んなこと言ったってな、男心ってもんがあんねん。大丈夫かー言われて、大丈夫ですーてのこのこ出て行けるとでも思ってんのか。恵とか秀が相手ならまだしも、水穂さんにそんな頼りないとこ見せられんわ」
「そんなん知らんわ。なにが男心や。ただ女々しいだけやろ。普段のあの態度はどこいったん。ここんところ水穂が来るとおとなしいなあとは思っとったけど、あんたがそんなに小っさい男やとは知らんかったわ」
男ばかりの家で育ったためか、感情が昂るとどうしても口が悪くなってしまう。見境なく手足を振るうことはさすがになくなったが、そこだけはなかなか直らなかった。
「いまのあんたやったら、秀のほうが断然男らしいで。勉強にしてもゲームにしても、なんでも自分から誘うしな。水穂も、そうやって引っ張ってくれる男のほうが好きなんちゃう?」
「黙れや」
口喧嘩にはあまり自信がないわたしでも、隆一には負けた記憶がない。男と女では脳の構造がまったく異なるということはよく知られていることだが、口喧嘩になるとそれが如実に現れる。勢いがついて興奮してくると、隆一の場合はひたすら思いついた暴言ばかり並べるようになる。そして仕舞いには手が出て足が出てという始末だ。相手を言い負かすのではなく、とにかく屈服させようとする。
「秀は小西さんを女として見てへんから、あんな態度がとれんねん。恵に対する態度と一緒や。どうせ姉貴がひとり増えた程度やろ」
「わたしも女なんやけど」
「すっぴんとかダサい格好を毎日見とう相手を、ひとりの女として見れるか、普通」
「家族の前くらい力抜いとってもええやん。なんで家におるときも気使わなあかんの」
「だいたい身内に恋愛感情なんて沸かんやろ。水穂さんと比べるまでもないわ」
「……ああそう」
朝起きたらすぐメイクして、服も適当に見繕って、髪型にも気を使って、欠伸も無理やり押し殺して、化粧を直すために定期的に鏡の前に立って、おやつひとつ食べるときも寝っ転がらずに正しい姿勢で食べて。家にいるときから外出しているときと同じように、常に人目を気にしてすごしている女が、この世界のどこにいるというのか。たしかに何十億人といる女性のなかには、そういう稀有なひともいるかもしれない。だが、比率にしたら彼女たちはあくまで少数派だろう。
あんたひとのこと言えるん、と視線に言葉を含ませてわたしは投げかけた。上半身はそんな毛羽立って袖の緩んだパーカーで、下半身はメーカーもわからんジャージやろう。寝癖で髪は跳ねとうし、目元はむくんだままやんか。
しかし応じる隆一は好戦的かつ挑発的な視線を寄越してきて、わたしはわたしで体の芯が一気に冷めていくのを感じた。
「理想が高いのはべつにええけどな、自分が相手に見合う人間かどうか、自分自身にいっぺん聞いてみたほうがええんちゃう」
「はあ?」
「携帯代も自分で払われへんうちからなにを言い出すんかと思えば、そんなことか。夢見るお子様でおるうちは、きっと幸せやろうな」
もう話すことなどないと言う代わりに立ち上がり、居間を出ようとすると、背中に低い声がぶつけられた。
「気になる相手ができて、悩まん人間なんておるんか。どうやったらあのひとがオレのことを見てくれるんやとか、あのひとはオレのことどう思ってんねやろとか。これでもオレはオレなりに、どうしたらええか悩んでんねん。……恵なんかに相談しようと思ったオレが間違っとったわ」
その瞬間、なぜかひとりの男性の顔が浮かんだ。背を向けたまま、唇を噛んだ。なぜいま彼が出てきたのか、自分でもわからなかった。わたしは彼のことが好きなのだろうか。そうであるのかそうでないのか、それすらもわからない。好き、嫌い、どちらでもないといった区画があるとすれば、わたしの彼に対する気持ちはそれぞれの区画の上を風に弄ばれる風船のように漂っている感じだった。
すくなくとも相手のことを好きと自覚して、どうやったら前に進めるのかを考えている隆一のほうが、わたしよりも一枚上手なのはたしかなのだった。
不仲になるのを恐れていたのはわたしだけだったらしく、翌日にはもう水穂は普段の調子に戻っていた。
ファミレスで顔を合わせれば何事もなかったかのように冗談話を交わしたし、寝る前のちょっとした時間には夕飯のハンバーグが生焼けだっただとか、明日の講義が面倒だとかいう、本当にたわいもないメールが送られてきた。そこに失態を取り戻そうと必死になっている様子は毛頭なく、しかしその自然さがむしろわたしを疑心暗鬼にさせた。
いつも通り。それはわたしを安心させるにはなによりの状態ではあったが、あのとき水穂と話したことはそのまま大きな杭となって、わたしという人間の表面に深々と突き刺さっていた。鼻の頭にできたニキビのように、気にするなというのが不可能な位置に。
水穂に変だと言われたにもかかわらず、入浴するときや寝るときを除いて、以降もわたしはアクセサリーを身に着け続けた。
一般的には、その日の服装に合うようにアクセサリーは選ぶものなのかもしれない。しかしわたしにとってはアクセサリーが最優先であって、服装は二の次なのだった。正確に数えたことはないが、自分で買った物とひとからもらった物を合わせるときっと相当な数になるだろう。毎朝そのなかからひとつひとつ選んで着けていくとき、わたしはいつもとても満たされた気持ちになる。
ベッドに座って自分の部屋を見渡せば、至るところに並んだ写真やお土産、記念品などが目に入る。アクセサリーの飾りかたなどさながらちょっとしたお店のようだと、自分でやっておきながらそう思う。
水穂にとっては、この空間はただただ鬱陶しいだけなのかもしれない。たしかに彼女の部屋はここまで物で溢れていないし――かといって物がまったくないわけではないが――、部屋全体の色調から綺麗にまとめられている。わたしのように昔つきあっていた異性との写真は、当然ながら飾られていない。
水穂が「いまを生きている」のだとすれば、わたしは「過去と生きている」のだろうか。過去の異性に未練が残っているとか、あのころはよかったといつまでも思い出に浸っているとか、けっしてそういうわけではないのだが、反論したところでおそらく水穂は理解を示さない。わたしだっていつまでも別れた相手を思いはしないし、過去に囚われ続けてもいない。わたしはただ、物は物として、そこに置いておきたいだけなのだ。
なにかしら忘れるべき過去を含んだ物を置いている時点で、水穂にとってわたしが自分と異なる考えかたをする人間だとしか思えないのだとしたら、わたしはこの先うまく彼女とつきあっていけるのかどうか、正直不安になる。いくら改めろと強制されても、今回は敬語をやめるように強制されたときとは違い、矯正はされないし、させもしない。こればかりは何者にも譲れぬ、わたしの人格そのものといっても過言ではなかった。