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風と泡沫  作者: さかもと
3/8

胎動

 その日は朝から雨が降っていた。ちょうど梅雨の時分だった。

 叩きつけるような豪雨でこそなかったが、しとしとと断続的に降っていた雨は、どこそこの川を氾濫させただとか、誰それの家で床下浸水しただとかいうニュースになって、間接的にわたしの耳へとその勢力を轟かせた。幸いにも、わたしの身の周りではまだそこまで被害は出ていないようだった。

 高校三年生だったわたしは、周りでクラスメイトたちが受験勉強に勤しむなかで、ひとりだけ家計簿――一家の収入まで管理していたわけではないので、単に食費に費やした額をまとめた、家計簿の真似事のようなものだったが――をつけていた。いまになってから冷静に思い返すと、よくもまあそんな場違いなことができたものだ、と背筋の震える思いがする。休み時間や放課後、机の上に堂々とスーパーのレシートと家計簿用のノートを広げていたにもかかわらず、誰にも非難されなかったせいか、当時はまったく気づけなかった。みな己の勉強に必死だったのだろう。もしあのときあの場所に戻れるならば、もうすこし周りを見ろと自分に説いてやりたい。

 家計簿もどきをつけ終えたわたしは、例の通り帰宅途中に学校の近所にあるスーパーで買い物をすませた。普段はそのままバスに乗って帰るところだったが、鞄と買い物袋で両手が塞がったせいで傘もまともに差せず、加えて雨足が強まってきたおかげでしばし雨宿りせざるを得なくなった。

 とりあえず視界に入ったファミレスに、深く考えることなくわたしは足を運んだ。数十メートル歩いただけなのに、足元はおろか鞄も買い物袋も、両腕まですっかり濡れてしまっていた。バスに乗りさえすればもう家に着いたようなものなのだが、そこは若さゆえの甘えだったのだろう。風邪は引きたくないなどと生意気なことを思いながら、持っていたタオルで拭えるところは拭った。

 ドリンクバーを頼んでからしばらくすると、わたしと同じような目的だろうか、店内が徐々に混み始めた。

 大したものを注文したわけでもないし、長く居座るのは店側にも迷惑だろうとは思ったものの、雨の勢いは依然として衰えておらず、わたしの腰は重いままだった。そしてそのまま腰を上げるタイミングを見失った。

 見渡せる範囲の席は見事に埋まっており、話し声や笑い声で店内は騒々しかった。なにより気が引けたのは、四人は座れる席をわたしひとりで陣取っていることだった。見たところ、ほかは三人から四人のグループが多い。全体的に若者が多く、同じ高校の制服を着た生徒の姿もちらほらと見受けられた。

 ぼうっと座っているだけというのはさすがにためらわれて、せめてなにか作業をしようと鞄から家計簿用のノートを引っ張り出した。

 しかしあまりの居心地の悪さに、背中に変な汗をかき始めたとき、初老の女性店員が話しかけてきた。小柄でほっそりとしており、ぱっと見でひとのよさそうな印象を受けたが、鮮血のように赤々とした口紅の引かれた唇が笑顔でぐにゃりと歪んだ瞬間、わたしは自分の笑顔が引きつったのを感じた。

「すみません。店内のほうが混み合ってきましたので……」

「わたしこそ、すいません。いま退きます――」慌てて鞄と買い物袋をかき抱いて、席を立とうとしたところでテーブルの上に広げたままのノートに気づいて、反射的に手を伸ばすと抱えていた買い物袋がバランスを崩して、中身がぽろぽろと床にこぼれ落ちて――。

 わたしなにしてんねやろ。テーブルの下に潜りこみながら、つくづくそう思った。できるなら、このままずっとテーブルの下に隠れていたかった。

 無論そんなわけにもいかず、拾い終えたところで急いで頭を出した。巣穴から顔を出すプレーリードッグのように、とまではいかなかったが、我ながらすごい速さだったと思う。

 今度こそ。意気ごんで腰を上げると、いえ、と女性店員に制止された。訳もわからず呆気に取られて彼女のほうを見ると、その背後のほうに別の若い女性が立っているのが見えた。

「相席をお願いしたいのですが。ほかに空いている席もございませんので」

 はあ、と曖昧にうなずき返すのでわたしは精いっぱいだった。再び腰を下ろしながら、わたしは退かなくていい、ということだけは理解した。顔見知りなのか、じゃあね、と女性店員は若い女性に親しげな様子で声をかけて去っていった。体からどっと力が抜けた。

「ごめんなー。迷惑やったかな」

 歯切れ悪く言いながら被っていたキャスケットを脱ぎ、黒のロングヘアを揺すって広げ、ふうっと短く吐息すると、右斜め向かいに座った若い女性は柔らかい微笑を浮かべた。

「そんなことないです。むしろわたしが邪魔になっとうくらいやし……」

 縮こまりながら告げると、それはもう快活な笑い声が聞こえてきた。

「まあそれだけ大荷物やったら、こんな雨んなか歩きたくないよなぁ。あたしなんか荷物こんだけやのに」脇に置いていた、プラスチック製の手提げ鞄をひょいと持ち上げて見せ、女性は気恥ずかしそうに肩をすぼめてみせた。「慌てて飛びこんでみれば満席ですー、やて。これはあかんかなあって思っとったら、こうやってぎりぎり席見つかってん。ほんま助かったわ」

「でも相席とか、なんか気まずないですか。知らんひとと一緒に座るんとか」

「あたしは全然思わんけど? むしろ意外な出会いとかあって楽し――、あ、そっかそっか。やっぱ出るわ。ごめんな」

 しずしずとキャスケットを被りなおそうとする女性に、わたしは慌てて両手を前に伸ばした。

「ごめんなさいごめんなさい! そういうんじゃなくて、ええと、その」

 小首を傾げて見つめ返してくる女性の猫のような目に、一瞬うっとたじろぎつつも、どうにか気を悪くさせないようにと言葉を選んでわたしは弁解した。

「こういうところ来るときって、いつも家族とか友達とかとやったから、わたし相席ってしたことなくて。……話で聞いたり、ドラマで見たりしたことはあったけど、実際に自分がってなるとなんていうかちょっと、偏見っていうか苦手っていうか、その、……怖かったんです。恥ずかしい話ですけど」

 何度もつっかえたり黙りこんだりしているのに、最後までずっと黙って聞いていてくれた女性は、うんと無表情でうなずいたのち、あっけらかんとした口調で言った。

「なんかあんた、面白いな」

「なにがですか」

「いやーさっき遠目に見とったんやけどな、店員のおばちゃんに声かけられただけで慌てて袋ひっくり返したのとか、相席が気まずいって思うのとか。あたしと年ひとつしか変わらへんのに、立派に家計簿つけとうところとか」

 やっぱり見られていたのかと思うと、すぐさま頬に熱が差した。

 しかしそれ以上に、女性がさり気なく言った一言が気がかりだった。わたしは無意識のうちにでも自分の年を打ち明けていただろうか。いつ切り出したものかとタイミングを見計らっていると、頬杖を突きながら楽しそうにつぶやいていた女性は、それそれ、とわたしの胸元を指差した。

「タイの色でわかった。新港の三年やんな」

 平然と言う女性を前にして、エスパーかあんた、と正直にわたしは思った。尋ねる前に答えが返ってきたのだ。自分では「はい」と言ったつもりが、耳には「うん」にも「ええ」にも聞こえた。

「あたしの知り合いの子もそこ行っとうから、制服のことくらいはわかるで。いまは一年が赤で、二年が緑。三年が青、やろ?」

 新港はわたしが通っている高校の名前だ。名前に港がつくにもかかわらず、なぜか山の近くに位置している。タイの色もその通りだった。薄紫色の生地でできているのは共通だが、学年ごとにタイの端に色の異なるワンポイントがある。

「よう知ってますね」

「まあなー」

 にへへとほどよく力の抜けた穏やかな表情と視線を向けられて、わたしは耐え切れずに下を向いた。

 ひとつ上ってことは、とわたしが搾り出すようにようやく発した言葉に、女性は白い歯を覗かせながら、待ってましたと言わんばかりに即答した。

「そ。これでも今年の春――、ついこの間やな、高校卒業したばっかやねん。新港ではないけど」

「大人っぽい……」

 感慨と同時に出た言葉に、せやろー、と女性はどことなく残念そうに、しかしどことなく誇らしげに相槌を打った。

「高校んときから大学生に見られてばっかりでさ。たしかに自分でも老けとうなあとは思っとったけど、初対面のひとのほとんどが年相応に見てくれへんのって、ほんま悲しいで。ショックやで」

「……ごめんなさい」

「ええってええって。なんもあんたを責めとうわけちゃうし」

 女性が朗らかに笑っているのを見て、いくらか気が晴れた。そもそも「老けている」ではなく「大人っぽい」と感じたのだから、なにも最初からわたしに反省するような否はないのだ。きっとそうだ。そう思いたい。

「まあともかく」意地の悪い笑みをちらつかせながら、女性はテーブル脇の呼び鈴に手を伸ばした。黒いマニキュアの施された細い指がボタンを押すと、ぴんぽんと間抜けな音が一瞬だけ店内に響いた。「いまでも怖い?」

 その問いに、わたしは自信を持って首を横に振った。

 そうかそうかと言わんばかりに満足気な笑みを浮かべつつ、女性は座りながら小さく伸びをした。

「お姉さん、大学生ですか」

 ひとつ年上ならそうだろう、ならばこの近くでいうと、などとわたしはいろいろと深く思案を巡らせた。思わず気後れしてしまいそうな美貌に、茶目っ気のあるお嬢様のような雰囲気の彼女なら、きっと名の知れた国公立の大学だろう、と。さぞかし優雅なキャンパスライフを送っているに違いない。

 わたしがそう思っていたのも束の間。さっぱりとした口調で、女性は否定を口にした。

「ほんまはそのはずやってんけどなー。わけあって、いまは浪人生。この通り、いまも予備校帰りやねん」

 言いながら、先ほど見せてくれた手提げ鞄を、女性は再度持ち上げ示してくれた。よく見ると、なかに入っている参考書の背表紙が透けて見えた。

「どこ受験するん」

「え?」

「今年受験生やろ。行きたい大学のひとつやふたつくらい、あるんちゃうん」

「わたしは――」

 当時すでに進学は考えていなかった。諦めていた、といってもいい。大学は諦めたほうがいいと言われるほど成績もひどくはなかったし、いまからでも頑張ればじゅうぶん国公立に手が届くところに自分がいることもわかっていた。それでも、わたしは進学の道を捨てた。

 もちろん大学に行きたいという気持ちがなかったわけではない。友人の多くは大学進学を希望しており、本格的な受験勉強に取りかかっている。三年になるまでは嫌々やっていた勉強も、みな自ら率先して先生を頼ったり仲間内で教え合ったりしている光景が徐々に多く見られるようになってきた。だが、そのなかにわたしはいない。いられないのだ。頭から進学を考えていない人間が、本気で大学合格を目指して血眼になっているひとたちのなかに入ったらどうなるか。表面では一生懸命の姿勢を装っていても、本気の荒波に揉まれているうちに簡単に化けの皮は剥がれてしまうだろう。そうなれば、みんなの士気を叩き落してしまうのは必至であり、さらにもしそれが原因になって受験が失敗したとなれば、当然ながら償う術など持ち合わせていないわたしに、いったいなにができるというのか。

「フリーターでええかなって、思って。父も母も仕事で忙しくて、家ではわたしがいつも食事の支度してるんです。大学進学すると、そのうち自分のことで手いっぱいになりそうな気がして。下に弟がふたりおるんですけど、親代わりにその面倒もみなあかんし……」

「そうなんや」意外そうに目を見開いて、女性はテーブルの上で腕を組んだ。

 行けるなら行きたい、と言ってしまうのは単なる逃避であり、責任の転嫁だろう。

 多忙な両親の代わりに、すこしでも家族の役に立ちたい。ならばどうするべきか。わたしがわたしなりに考えて決めたことなのだ。いまさら揺らぐことはない。

 幼いころは数多あった将来の道を、毎年毎年よりすぐって生きてきた。無限といわれる可能性のなかから選んだ現在に、後悔はない。

「なんかごめんな。あたし、あんたのこと勝手に勉強好きな真面目ちゃんやと思っとった。セルの眼鏡かけとうしさ。……関係ないか」たははと笑って、女性は撫でるように指で自分の髪をすいた。「実際、真面目なことには変わりないんやろけどさ」

 つられて苦笑していると、若い男性店員がやってきた。爽やかな笑顔と愛想のいい応対に、はたから見ていて好感を持てた。

「なになに、タイプなん?」

 男性店員が注文を聞き終えて去って行ったあと、にやにやしながら女性は言った。

「そんなんじゃ」

「そっか」

 わたしのつっけんどんな応答をべつだん気にした様子もなく、女性は淡々と言って立ち上がった。

「ちょっと飲み物いれてくるわ」

 マグカップを手に、スキップするような軽い足取りで戻ってきた女性は、そうやそうや、と腰を下ろすなり異様に高い調子で口を開いた。

「メールアドレス、交換しようよ」

「あ、はい」

 いまにも身を乗り出してきそうな女性の勢いに圧倒されつつ――実際、胸から上はほとんどテーブルの上だった――、わたしはおずおずと鞄から携帯電話を取り出した。

 わたしが先に連絡先を送信することになり、一通り使いこなせるはずが、なぜかおぼつかない指先に四苦八苦しながらもどうにか送信ボタンを押した。すると女性は一旦鳴りを潜め、マグカップに口をつけてしばし考える素振りを見せてから、不意に表情をぱっと華やいだものに変えた。なにか妙案でも思いついたのだろうか。

 はいどうぞ、と送られてきた連絡先の名前の欄には、小西水穂とあった。画面を下にスクロールしていくと、生年月日の欄にはわたしのひとつ年上を示す数字がたしかに並んでいた。西暦の数字がひとつ多いだけなのに、やはりどう見ても小西さん本人には、わたしが一年かけても身につけられないような貫禄と余裕があった。

「どんどんメールしてなー。予備校は周り勉強熱心なひとばっかで、なんも面白ないし。そりゃ勉強は大事やけどさ、息抜きにたまには飲みに行かへんって誘っても、そんな暇あったら勉強するわー言うてさ。まあやる気あらへんやつもおるけど……。あ、敬語なんか使わんでええからな」

「でもそれは」

「なんも一歳くらい大した差やないやん。下手に気遣われるのって気持ち悪いから」

「は……、うん」

 ふにゃりと緩んだ笑顔を見せる小西さんに、わたしが何気なくため口をきける日はくるのだろうか。二、三日じゃ難しいやろなあ、とわたしは内心で苦笑いした。

 実際は数日後に小西さん本人から強制的に矯正されて、自分でも気づかないうちにそれが自然になっていったのだが。


「しみちゃん、きょう何時上がりやったっけ」

「あと一時間半ってとこやなあ。言っとくけど、何回聞いても変わらんで」

「五時上がりとか卑怯やで。サボりやサボり」

 きょう何度目かも忘れたが、店内の時計を見てやんややんやと騒ぎ始めた彼女を、まあまあ、とわたしは宥めに入る。

「これは何回でも言うけど、きょうわたし早番やねん。遅番の水穂と違って、朝の九時から働いとうから」

「嘘や。まだ二時間しか経ってへん。ありえん。あの時計、絶対遅れとう」

「いやいや……」

 高校では校則でアルバイトが禁止されていたものの、隠れてやっている生徒は多く、わたしもどこかで働きたいと常々思っていた。そんなときに出会ったのが彼女、小西水穂だった。

 雨の降るあの日に出会ってから、いろいろな話をしていくうちに、あのときのファミレスで働いているということを聞いた。そして水穂はなんとなく言ったのだろうが、一緒に働かへん? という言葉がわたしの胸の深いところに思いのほかざっくりと突き刺さり、あっさりと働く決意に至った。それまでアルバイトをしたことがなかったため、好奇心と恐怖心が拮抗していたところへの鶴の一声だ。効果はてき面だった。

 同じ三年目だが、雑貨屋よりもこちらのほうが半年ほど長く働いている。友人のなかにはひとつのアルバイトがこれだけ続くことを珍しがるひともいるが、わたし個人としては特に違和感もなかった。もともとわたしは一度熱すると冷めにくい質なのだ。職場環境に恵まれているとは考えてみたこともなかったが、言われてみれば、そうかもなあ、と思い当たる節はいくつかあった。ベージュを基調にしたシンプルな制服も然り、従業員間の和やかな雰囲気も然り。

「遊んどったらまた店長怒るんやから。ほら、あそこのテーブル片づけて」

「いや。面倒くさい」散らかったテーブル上を一瞥して、水穂はぽいと投げ捨てるように言った。

 そう思うなら飲食業はやめたほうがええんちゃうかなあ、と怒りを通り越して呆れていると、ホールを回っていた店長の目がわたしたちに留まった。店長は細身の中年男性で、銀縁眼鏡の奥の双眸はいつもぎらぎらと光っている。トレードマークであるオールバックは整髪料のきつい臭いを放っていて、残念ながら女子店員の間では満場一致で「ない」の評価が下されている。

 店長が咳払いする素振りを見せたので、わたしは慌てて水穂の背を押して片づけに向かわせた。ひとつといえ年上で、職場関係においても先輩にあたるというのに、気づけばそんな壁はわたしたちの間には存在していなかった。それだけ水穂が親しみやすい人柄なのだろう。

 夕方が迫りつつあるこの時間の店内は、一日のなかでも比較的ゆったりとした時間が流れている。遅めの昼食というにはさすがに遅すぎるし、夕食前とあってか主婦仲間がお茶をしていることもない。もう一、二時間も経つと放課後に寄り道をする高校生や大学生が増えてくるので、言わば嵐の前の静けさといった具合だ。

 サラリーマン風の男性の会計をすませ、出て行く背広の背中を見送っていると、片づけを終えた水穂が、ふらふらと危うい足取りでやってきた。

「ああもうしんどい。しみちゃん、遅番代わってー」

「ごめん。でも、なんでそんな疲れてるん」

「断るの早いよーしみちゃん。もうちょっとさ、こう、悩もう?」

 レジを挟んだわたしの向かい側に移動すると、水穂は手に持ったなにかから迷いながらをなにかを取り出すジェスチャーをしてみせた。

「千円で足りるし、千円出しとこうかな。いやでも、一万円も崩しときたいしなあ……。って言いたいん。ひょっとして」

「お。ようわかったな」

 一瞬、水穂の目の端がきらりと輝いたような気がした。水穂はきょう、眼鏡をかけていない。最初に出会ったときにかけていたのは伊達眼鏡だったらしく、かけていたりかけていなかったり、かけていても見るたびに異なるものだったりしたため、これはと思って尋ねてみればまさにその通りだった。わたしが眼鏡をかけてようやく見える域でも、水穂には簡単に見えるという。

「午前中なー、大学でテストあってん。テストあるって知ったのが昨日でさ、徹夜で勉強するしかなくて。もう大変やったわほんま。テスト中、何回落ちそうになったことか」

「それ結果、目に見えとんちゃうん」

「……あ、やっぱり?」後頭部に手をやってほくそ笑んだかと思うと、不意に冷静な表情に戻った水穂はぼそりと言った。「まずいなあ。単位危ないかなあ」

「単位って、テストの点数で取れるかどうか決まるもんなん」

「全部が全部ってわけじゃないで。ちょうどその単位が、テストの点数次第ってだけやねん。講義受けとうときの態度とか加味してくれるんなら、ちょっとは助かるんやけどな」

「じゃあ、普段は意外と真面目なんやな」

「じゃあってなんなん。じゃあって。ひどいなあ、しみちゃん。これでもあたし、大学じゃ優等生なんやで?」

 再び水穂の表情に笑みが戻ってきた。つきあってみてわかったが、本当に些細なことで水穂はころころと感情が変わる。態度の悪い客に機嫌を悪くしたあとでも、愛想のいい客を相手にしただけで「あのひとええひとや」と満面の笑みになったり、一緒に買い物に行ったときなど、気に入ったグロスを見つけて満足顔で購入したあと、べつの店で同じものがほんのすこしでも安く売られていると、大袈裟なまでに肩を落として唖然としたりする。

「優等生は自分のこと優等生って言わんやろ」

「周りが言うてくれへんのやから、自分で言わなしゃあないやん」

 ふたりでくすくす笑いあっていると、いつの間にかそばで店長が仁王立ちしていた。

「おまえらなあ――」

 わああ、と逃げていった水穂にひとり取り残される形になったわたしは、水穂のぶんも含めたお説教を長々といただいた。


「悩みなさそうでいいなあ」

 店内が混み始めたことでようやく店長から解放されたわたしは、注文を取り終えてスキップで戻ってきた水穂に声をかけた。

「ちょっとちょっと。さすがにそれは失礼なんちゃう」

 水穂なりに反感を覚えているのだろうが、まったくそうは見えないおどけた表情にけろっとした口調で言っても、すこしもそうは見えないのだと教えてあげようかと思ったがやめた。屁理屈を言わせたら、きっと水穂の右に出る者はいない。

 初対面のときにわたしが抱いた上品なお嬢様というイメージは、いまではすっかり見る影もなくなっている。あえて言うとすれば、いたずら好きなおてんば娘がいいところだろうか。だからといってつきあいをやめたいとは思わないが、何事も先入観にばかり頼っていると、大きな肩透かしをくらうというちょうどいい例だった。

「悩みなんて数え切れんほどあるで。一個ずつ挙げたろか?」

「いらんいらん」

 指折り数え出そうとする水穂を、慌てて止めに入る。始める前に止めなければ、本当にひとつずつ列挙しそうな雰囲気をむんむんと放っていた。

「なんやそれ。自分から言わせようとしとったくせに」

「そんなつもりじゃなかってん」

 必死になって平謝りすると、不服そうではあったがどうにか納得した様子で唇を突き出して、はいはい、と水穂は言った。

「そういうしみちゃんは、きっと悩みがあると見た」

「……急にどうしたん」

「一瞬言葉に詰まったあたり、怪しいなあ。ええからお姉さんに話してみ。これでも昔っから聞き上手で名が通っとう小西さんやで」

 普段鈍いようでいても、ちょっとした拍子に無駄な鋭さを見せたときの水穂には、一種の貫禄のようなものが現れる。それはまばたきをしただけで見逃してしまうくらい、コンマ何秒以下の瞬間の変化だが、白が黒に変わるくらい歴然とした変化だ。

「悩みっていうか、なんていうか。ちょっと複雑やねん」

 もったいぶる気はなかったのだが、また店長の目に留まったら厄介だとあたりを見渡していると、そんでそんで? と水穂に先を促された。やはり話さないと駄目だろうか。客の誰かベルを鳴らしてわたしを呼び出してくれないものだろうか、と救いを求めたいときに限ってみな食事や談笑で楽しそうにしているのはちょっと理不尽だと思う。

 思えばわたしから話題を振った時点で、盛大に墓穴を掘っていたのかもしれない。けっきょく、あっさりと白状した。

「この間な――」

 先週の雑貨屋で起きた出来事をわたしがかいつまんで話すと、ふむと水穂は顎に手を当てて軽く眉間に皺を寄せた。

「しみちゃんらしいと言えば、しみちゃんらしいな」

 知り合って三年という時間は、長いようでもあり短いようでもあるが、密度で考えると軽く倍の時間は過ごしている自信がある。互いに性格や好物はもちろん、認識や行動の原理も完全にとまではいかないだろうが理解しているつもりだ。わたしらしいと言ってもらえたことでそれが改めて実感でき、心の底がほんのりと温まったような幸福感に包まれた。

「さすがにあたしでも、初対面の男に掴みかかるのは勇気いるわあ」

「そこ注目するとこちゃうから」

 我ながら相変わらず下手なつっこみを挟みつつ、水穂の言葉を待った。知り合って以降、彼女はいつだって、わたしのよき相談相手だった。どんなに些細なことでも、どんなに身も蓋もない身内の話題でも、ときには冗談も挟んで雰囲気を和らげながら、水穂は親身になって聞いてくれた。

「でもたしかに、自分が大事にしとう物を邪険に扱われたらむっとくるよな。あたしも動物に暴力振るったり、養えへんようなったからってペットをその辺に平気で捨てたりする人間は嫌いやわ」

 水穂の家では犬を飼っている。雌の柴犬で、まだ生後一年ほどしか経っていなかったはずだ。産まれて間もない子犬だったころに、道端に無造作に捨てられていたのを水穂が見捨てられずに拾ったのがきっかけだったか。水穂の家族はみな動物好きで、それまでにもいろいろと飼っていたという話は聞いていた。

「やろ? あそこで店長が声かけてくれへんかったら、たぶんわたし殴ってたわ」

「可憐なしみちゃんがねぇ。相手の男、そんなに憎たらしい感じやったん」

 前半は無視することにして、わたしは記憶を辿り、そのときの男性の容姿を頭に思い浮かべた。

「憎たらしいっていうか……。雑貨とか小物にそもそも無関心って感じで、向こうも狙ってやったわけじゃなさそうやったんやけど」

「でも無意識にそういうことするってことは、普段から物の扱いひどいってことちゃうん。家やとテレビのリモコンとか、平気で放り投げたり足で蹴ったりしとうから、絶対。そんで野良猫とか見かけるとすぐ八つ当たりして、怪我させとうで。ろくな男やないな、最低や最低」

「それはさすがに妄想がすぎるやろ」

 暴走し始める水穂に、苦笑を送って制止をかける。まだ言い足りなさそうだったが、観念したように肩を落として短く息を吐く水穂に、

 会話の途中だったが、出入り口のガラス越しに新たにやってきた客数名の姿が見え、ごめん、と一言告げてわたしはその場を離れた。

 離れ際に敬礼の真似事をする水穂が視界に映り、わたしは心のなかで敬礼を返した。

 来客の女の子四人組が母校の制服を着ていることに勝手に親近感を覚えつつ、もうすくなくなってきている空席に通す。ちらりとタイの色を盗み見れば、青がふたりに緑と赤がひとりずつだった。卒業してから三年が経つため、ちょうどわたしが在籍していたときと同じ配色だ。まったくどうでもいいそんなことに、不思議と高校生活の記憶をくすぐられる。といっても個人的に特別輝いていた思い出はなく、極めて地味で普遍的な日々だった。在学中はそれでも構わないとさえ思っていたが、卒業して数年も経つと、当時を思い返すたびにもうすこし満喫しておけばよかったと後悔することも多かった。

「ご注文が決まりましたら、そちらのボタンを押してください。お水はあちら、セルフサービスとなっていますので」

 もう何度も口にしているせいで、すっかり語感も失われてしまった台詞。昔は聞く側にいたが、いまでは話す側にいる。妙な心地だった。

 はあい、と気だるそうに返事する彼女たちを前に、知らぬ間にセンチメンタルになっている自分に気づいた。かつてわたしも、彼女たちのような存在だったのだろうか。将来のことよりも、一日の短さを嘆きながらいまこの一瞬を大切にして生きていたのだろうか。時は流れるにつれて、過去の自分に対する問いばかり残していく。

 先ほど話していた場所に戻ると、そこに水穂の姿は見られなかった。

 ほかの客に呼ばれていったのか、それとも出来上がった料理を運んでいるのか。勤務中なのだからなにかしら仕事に励んでいるのは当然のことなのだが、話を自分から中断してしまっていたため、軽く罪悪感を覚えずにはいられなかった。

 おとなしく厨房から出来上がってくる料理を運んでいると、喫煙席の奥に水穂の姿を見つけた。どうやら注文を取っているようだった。

 水穂の髪の長さは、後姿を見ただけでほかの女性従業員と見分けがつく。ちょっとした身動きをとるたびに、うなじのあたりでひとつに結われた髪がひょこひょこと揺れるのが可愛らしくて、羨ましい。わたしの髪は癖が強く、ロングまで伸ばすといくら押さえつけてもばさばさと広がってしまう。肩口までしかないいまの長さでも、湿度の高い日は油断できない。猫っ毛も可愛くていいやん、と水穂は言ってくれるが、いつもどうしても素直になれずに反発してしまう。自分にないものにはつくづく憧れる。

 ふと視線を隣の席にずらしたとき、ぐい、と吸い寄せられるように、わたしの視界はそこにいた男性にズームした。

 こんな偶然があってええんか、と思う傍ら、世界は狭いな、とも思った。

 雑貨屋で会った彼が、そこにいた。決して見間違いではない。本人だった。

 きょうは彼女とではなく、友人たちといるようで、同席していたのは年の近そうな男性三人だった。

 どうしたん姉ちゃん、と声をかけられてわたしは我に返った。

「すいません、ちょっとぼうっとしてて」

「なんや寝不足か?」

 仲良さげな老夫婦の笑顔に苦笑いで応じ、ハンバーグにかけるソースの説明を手短にすませる。わたしの三倍近くは年を重ねているであろうこの老夫婦には、あっさりと動揺を見破られそうな気がして、伝票を置いたあと、わたしは素早くその場を離れた。

 しかし改めて落ち着いて考えてみれば、なにもそこまで理不尽なことではないのだとわかった。このファミレス自体、雑貨屋からそう遠くないところにあるのだ。直線距離にしても、せいぜい一キロ程度だろう。たしかに三宮や元町には劣るとしても、神戸駅周辺はまだまだ若者の姿は多い。

 注意していなかっただけだとしても、いままで店で彼の姿を見たことはなく、きょう訪れたのもおそらく偶然なのだろうが、タイミングとしては最悪だ。

 わたしが悶々と働いている一方で、見ればときおり笑顔も交えつつ水穂はせっせと仕事に励んでいた。ついさっきまで、すこしでも話す機会があるたびに文句や愚痴をこぼしていたはずなのに、いつの間にやら水を得た魚のように活き活きと動いている。水穂なりにエンジンがかかってきたのだろうが、なぜだか裏切られたような気分だった。

 存分にくつろいでいけばええから、頼むで追加注文とかせんといてや――。

 そう思っていたのがそもそもよくなかったのか。

 はたまたわたしが無意識のうちに意識していたのか。

 ベルが鳴り、それも彼のいるテーブルが呼んでいることがわかり、フロアの人間はみなほかの用事で手が離せず、手が空いているのはわたしだけだと悟った瞬間、すうっと息を吸いこみながら本気で、よし、逃げよう、と思った。しかし現実は非情だ。行かないわけにはいかない。

 動悸は「どきどき」を飛ばして、一瞬で「ばくばく」の域に達した。

 跳ねるというよりも、内側から木槌のようなもので殴打されているような、痛みさえ感じられそうな激しさで打つ鼓動に、両手が震え始める。

 眼鏡だけでもはずして印象を変えたほうがいいだろうかと直前まで悩んだが、それでは手元が見えないので注文もまともに受けられず、本末転倒だということで泣く泣く断念した。

 意味がないだろうとは思いつつも、気持ち声のトーンを下げて臨んだ。

 連れの三人が思い思いに注文をするなか、まだ彼は決めかねているのか、テーブルの上に広げられたメニューに視線を落としたまま、身動きひとつせずじっと腕を組んでいた。

 注文がないならないで構わない。とにかく気づかれる前にこの場を離れたい。早く早くと乾いた口のなかで念じつつも、とりとめもないことでいつまでも戯れている三人に、わたしは焦れていた。

「以上でよろしいですか」

 ひとまず収束したと思えた時点でわたしが声を上げると、三人は了承を示してくれた。注文をしなかった彼に対し、ひとりは不思議そうに首を傾げ、ひとりは注文を勧めるようにメニューを彼の目の前に差し出し、ひとりはどうでもよさげにたばこに火をつけていた。

 自分だけなにも頼まないのも気が引けたのか、じゃあ、とばかりに彼はしぶしぶドリンクバーを指差した。

「単品でよろし――」

 言いながらつと彼に視線を寄せたところ、言い切る前に言葉を挟まれた。

「ああ」

 彼がくれた冷たい一瞥に、わたしは小さく唇を噛んだ。

 離れ際、知り合い? と彼に尋ねる友人の声が小さく背中に聞こえた。思わず歩調を緩めて反応を待ってしまう自分を内心責めた。しかし彼の反応は沈黙という、わたしが望んでいたものでも、その逆でもないどっちつかずな曖昧なものだった。


 早番の一番の特権は、本格的に混み始める前に店から退散できることだとわたしは思う。

 やはり平日の昼間はあくまで平日なだけあって、お昼時でも忙しさはたかが知れているし、格別に嫌になるほどではない。しかし平日でも夕方以降となると、学校や会社から解放されたひとたちが、軽い安らぎや本格的な夕飯を求めて流れこんでくるため、とてもおしゃべりなどに時間を割いている余裕はない。

 着替えをすませ、バックルームで一服していたところに水穂が顔を覗かせた。

「なあ、ほんまに帰るん。もうちょっと待っとってくれてもええんちゃうん」

「もうちょっと言うけど、そのちょっとは何時間やねん」

 室内にある時計をちらりと確認すると、水穂は笑顔で右手の五指を広げた。

「とりあえず五時間っ」

「とりあえずで待てる時間ちゃうやん……。家帰って夕飯作らなあかんねん。飢えた男を三人も五時間放っといたら、帰るころには冷蔵庫は食い荒らされて、台所はめちゃくちゃやで。悲惨やで。惨劇やで」

 実際そんなことをしそうなのはひとりだけだが。ありのままを言わなければ、彼女は引き下がってくれないのが常だった。そもそも何度も家に遊びに来ているのだから、内情は知っているはずなのに。

「納得できるけど納得したくないー」

「駄々こねるのはべつにええけど、店、大丈夫なん」

「知らん知らん」

「ええんかそれ……」

 水穂がこんなにも不真面目で横柄な一面を持っていることなど、おそらく店長は知りもしないことだろう。たまにしゃべっているのを注意されることはあれど、根は真面目で、仕事もできる人間なのだから仕方がないのかもしれない。

 女子店員をひいきするようなわかりやすい女好きではないことは、身をもって理解しているつもりだが、すこし目が行き届いていないところがあるのは事実だ。店長にもっと従業員のことを見るべきだと進言すべきなのか、水穂に猫をかぶるのをやめろと忠告すべきなのか。したところでどちらも実を結ぶ気がしないのが悔しい。

「たばこはやめときー、しみちゃん。肌に悪いで」

「わかっとうけど、バイトのあとはこれが一番やねん」

「あたしも昔吸っとったけど、やめてからはほら、ぴちぴちやで。ぴちぴち」

「わかった、わかったから。そろそろ店長気づいて捜しに来るんちゃう」

 わたしが言うと、頬に指を当てていた水穂ははっとしたように一度背後を振り返ったが、すぐに平気だというように親指を立て、にやりと笑った。あくまで自ら店に戻る気は毛頭ないらしい。

「ほんまにもう……」

 こうして話しているのが見つかったとき、もし話につきあわせたとしてわたしまで罪に問われるようなことがあれば、そのときはこの店で最も高いデザート「よくばりフルーツパフェ税込一二八〇円」を水穂に奢らせるのだとわたしは心に誓った。しかしなんと捻りのないネーミングだろうか。

「しみちゃん、そのスカート」

「え?」

「いくらしたん。あたしが見立てたやつちゃうのに、なかなか似合っとるやんか」

 いきなり近づいてきてしゃがみこむと、水穂はわたしのスカートをつまみ、さわり心地を確かめるように何度か指を滑らせた。めくり上げられるかと思って身構えていた体の緊張を解きながらも、手だけは腿の上に乗せておいた。

 外見からは想像もつかないが、この女はひとが油断していると周りに人目があっても平気でめくってくる。あんたは小学生男子かと当初はほとほと呆れたものの、それでも慣れとは恐ろしいもので、いまではそのおふざけにつきあう余裕がある。今回は丈が膝下まであるし、椅子にも座っているため、そう簡単にはめくられまい。

「セールで安なっとったから、ついつい手出してもたんやけど」

「ほんまほんま。しっかし、花柄が似合うなあしみちゃんは――」

「こら、いまめくろうとしたやろ。バレバレやで。……そういえば、水穂はあんまりスカート穿かんよな」

「そうかな。ちょくちょく穿いとうけど」

 下は高校生から上は還暦間近の方まで、幅広い年齢の女性が働いているためか、このファミレスチェーンの女子制服はキュロットだ。わたしのなかで、水穂の私服はパンツ姿のイメージが強かった。

「あんまり見いひんだけか」

「そうそう」

「せっかく綺麗な脚しとるんやから、もっとスカート穿けばええのに」

「そんな見せられるもんちゃうから」

 笑って謙遜する水穂に、それはわたしに対する嫌味かと視線に乗せて訴えてみるが、見事に受け流された。細くしなやかな水穂の足と比べたら、わたしの足など大根足もいいところだ。原因は運動不足か、食べすぎか。おそらく前者だろう。

 突然すっと立ち上がった水穂は、さて、と吐息とともにつぶやいた。

「これ以上サボっとったらしみちゃんもうるさそうやし、そろそろ戻るかなあ」

「お、珍しい」

「失礼やなあ」

 わたしが堪忍袋の尾を切らすまで居座るつもりかと思っていたが、意外にも水穂は自ら戻る気になったらしい。

「はよ帰ってご飯作ってやり。おかあさん」のろのろした足取りではあったものの、笑い声を残して水穂は部屋を出て行った。

 お母さんちゃうわ、と苦笑しながらわたしは吸殻を片づけた。しかし不意に、隆一や秀にとっては普段わたしがお母さんの役なんやろうか、とも思うと、肩にいくらか重みが増した気がした。

 近くを通った同僚のひとたちに挨拶をしていると、サボっていた分を取り戻すように――店長にお叱りを受けたのかもしれないが――せっせと働いている水穂の姿が見えた。頑張れ、と声には出さずにエールを送った。


 働いている間は気づかなかっただけで、外はついさっきまで雨が降っていたようだった。いまではすっかり上がって、雲間からはところどころ夕焼けに染まった空が覗いている。

 湿ったアスファルトは鼻にむっとくる独特のにおいを放ち、空気にも未だに湿気の重みがあるが、わたしはこの雨上がりの雰囲気が好きだった。一度雨に洗われた空気は晴れていたときのものとは違って乾燥もしておらず、埃っぽくもなく、吸いこむたびに鼻の奥が潤うようで何度でも深呼吸したくなる。思いこみにすぎないのだろうが、普段よりも世界がいくらか澄んで見えるのもまた楽しい。

「買い物は……、いいか」

 冷蔵庫の中身はまだある程度充実していたはずだと自己解決し、きょうはまっすぐバス停へと足を運ぶことにした。決して面倒なのではない。残り物で立派な食卓が作れてこそ、一人前の炊事担当なのだ。

 JRの高架下を歩いていたとき、突然すぐ後ろから声をかけられた。

 脇の道路には車の往来もあったが、周りにはちょうどひとの姿もなく、完全なる不意打ちに全身がすくみ、小さく悲鳴が漏れた。あ、と思ったときにはもう手遅れで、耳のすぐそばで太鼓を叩かれているかのような激しさで動悸が始まった。

「――ああ、悪い。そんなに驚かせるつもりじゃ」

 肩越しに恐々振り返ると、ひとつの人影が視界に映った。雑貨屋で初めて出会った、名前も知らない彼が、軽く息を切らせて立っていた。あれからずっと店内にいて、わたしが店を出たのを見て追いかけてきたのだろうか。

「きょうはもう帰りか」

 そうやけど、と口のなかで言いつつ男性のほうに向き直る。さすがに背を向けたまま話を聞くのは申し訳なかった。

「あそこでも働いてたんだな」

 向き直ったはいいものの、顔が上げられない。

 わたしだけが感じているのかもしれないが、正直なところ、ものすごく気まずい。

 高架下という空間で連続して反響する車の排気音が、四方八方からわたしの体を圧迫する。排気の臭いが目にしみた。動悸も静まるところを知らず、未だ健在だ。

「驚いたよ。また会うなんて思いもしなかったし」

 沈黙を嫌うように、あまり間を開けることなく、何度も言葉を重ねてくる彼。その表情には、必死さや、自分に無理を強いている様子は見られず、ただ彼自身も混乱しているのか戸惑いの色が濃く現れていた。

 なんと言葉を返せばいいのだろうか。何度心の底をさらってみても、網のなかにいい答えは引っかかってこなかった。

「あの、さ……」

 もめる原因を作ったのが彼だと決めつけるのは、わたしの勝手な押しつけであり、逃げだろう。彼にとっては何気なくとっていたであろう行動に、わたしがひとりで腹を立ててつっかかっていったのだから。あの場では彼に非があるとしか考えられなかったものの、時間が経つにつれて冷静になってくると、あれは完全にわたしに非があったとしか思えない。

「――あの」

 彼の言動を許せたわけではないが、あのときはわたしもどうかしていた。せめて謝らなければと顔を上げると、悔しいことに先手を打たれた。

「この間は悪かった」

 口に出かけていた謝罪はするりとかっさらわれ、わたしは自分が言うべき言葉を見失った。そうすると動悸の苦しさだけが残り、今度は両手の指先でもはっきりと感じられるようになった。はちきれるのではないかと思うほど動悸は激しく、拳を握り締めて押さえこもうとしてもなおそれは続いた。

「いや、その……」

「あのあと、なにをもめてたんだって姉貴に問い詰められてさ。おとなしく白状したら、そりゃあんたが悪い、って思っいきり怒鳴られた」

「は?」

「ああ、前に店で一緒だったひと、俺の姉貴だから」

 自分の口がぽかんと開いていることに気がついたのは、ゆっくりと何度か呼吸をしてからだった。ぱたぱたと手を振りながら慌てて口元を引き締め、そんなまさか、と心のなかでわたしは叫んだ。

「彼女やなかったんですか、あのひと」

「彼女にするなら、あんな自分勝手で自由奔放なひとはごめんだな。一緒にいるだけで疲れるタイプの人間って、ほんと苦手なんだよな。まさにちょうど姉貴がその典型でさ」

 自嘲気味に苦笑いしてこめかみを掻く仕草を見る限り、彼が嘘を吐いているとは思えなかった。

「なにもあんたに落ち度はなかったのにな。落ち着いてから思ったんだ。あんなずけずけした言いかたしなくてもよかったろって。たしかにあの日は朝から姉貴にあちこち連れ回されててさ、もう全部投げ出して帰りたくて仕方なかった。だからああいう態度になったんだって言っても、いまさら言い訳にしかならないけどな。

 けどさ、謝るためにまたのこのこ店まで行っても、何様だと思われるだけだと思って。気が晴れないままずっともやもやしてたんだけど、偶然でもきょう、こうやって機会を見つけられてよかった」

 それじゃ、と言って背を向けた彼に、わたしは咄嗟に声をかけた。彼は謝ってくれたのに、わたしはまだ謝っていないではないかという、焦燥感と罪悪感がそうさせた。

 それはほとんど反射のようなものだったため、呼び止めておきながら、わたしはなにひとつ言うべき言葉を用意していなかった。謝罪するのだと頭ではわかっていても、紡ぐ言葉がなかなか浮かんでこない。もごもごと言葉にならない言葉が口から漏れ出るばかりで、伝えたいことが伝えられないことに、わたしはひとりで苛立った。

 不思議そうにこちらを顧みる視線に萎縮しつつ、昔から大事なときに限って機転が利かへんかったよなあ、と焦れる心のなかでわたしはうな垂れた。

「悪い、連れを待たせてるんだ。なにも言わずに出てきたから、たぶん怒ってる。あいつ踏み倒す気かって。ほんとケチばっかりで困るよ。これだから関西人は――、ああいまのなし、忘れて」

 いつもなら考える前に反論しているであろうに、失言を取り消そうとあたふたしている彼をわたしは見ていることしかできなかった。

「じゃあな。いつか機会があれば、またそのときにでも」

 おどけたようにそう言い残すと、あっという間に彼は走り去ってしまった。今度は呼び止める間もなかった。視界のなかの彼はみるみるうちに小さくなっていき、角を曲がったところで完全に見えなくなった。声はもう届かない。

 一瞬ののち、それまであまり気にならなくなっていた車の喧騒が、津波のようにどっと耳奥に押し寄せてきた。いままでほんの数分間の出来事は夢、もしくは幻覚だったのだろうか。そう思えるほどに、全身のあらゆる感覚が鈍っていた。そして気づけば動悸も治まっており、まったく一体なんだったのだろうかとわたしは首をかしげた。

 なにを意固地になっているのだろう。彼を一方的に目の敵にしていたのはほかでもない、わたしではないか。ここ最近読み始めた小説を例にすれば、先に白旗を上げた敵将に、こっちこそ、と謝罪する武将が戦国時代のどこにいたか。

 たどたどしくも歩み始めながら、しかし後ろ髪を引かれる思いは拭えない。いまからでも追いかければ、きっと彼はまだ店にいる。仲間に怒られているかもしれないし、話の輪に加わって和やかに笑っているかもしれない。そんな彼に一言二言声をかけて呼び出して、わたしもごめん、と短く告げるだけでいい。簡単なことだ。

「でも……」

 彼を前にしたら、きっと言えなくなる。また黙りこんでしまう。そうなれば、わたしのみならず彼まで仲間から笑い種にされて、また余計な迷惑をかける。

 彼は納得しているのだから、彼のなかではこの件はもう終わったことになっているだろう。わざわざそれを掘り返してまでわたしが謝ることに、はたして意味はあるのか。いまのわたしにはとても見出せなかった。

 雑貨屋に寄ろうかという考えが、頭のなかを一瞬よぎった。困ったときは多香子さんに相談するくせが、ときとして自分自身を弱らせる。

 素直に頼って気持ちが楽になるときもあれば、逆に深く滅入るときもある。多香子さんは親身になって相談に乗ってくれるが、もちろんもともとの性格まで等しくなるわけではないのだから、やはり根底にある基準は異なってくる。それが生きてくる案件とそうでない案件があるとすれば、今回は十中八九、後者なのだ。多香子さんのアドバイスがいくら正論で、的確なものだとしても、同意はできないだろうと思う。わたしはいま間違いなく天の邪鬼で、御しがたい人間になっている。

「帰ろ――」

 料理をしている間は、余計なことを考えずにすむ。作りながらどうすればおいしくなるかを考えることは、わたしにとって最上の気分転換だ。多香子さんのいる雑貨屋が外での癒しだとすれば、台所が内での癒しだろう。

 はてしなく感じるバス停までの道を、わたしは歩き始めた。思いの迷いを断ち切るように、一歩一歩たしかに地面を蹴り上げながら。


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