氷点下の晴天下
閉じた目に光を感じて、意識がゆっくりと覚醒していく。
まどろみのなか、まだ目覚めたくないと淡い抵抗をするわたしに、外から聞こえてくる小鳥のさえずりは容赦なく朝を運んでくる。
ベッドに横たわったのがついさっきだと思えたのは、それだけ深い眠りにつけていたからだろう。夢を見るのは浅い眠り、レム睡眠のときだと、テレビかなにかで聞いた覚えがある。
枕元の目覚まし時計を手探りで探し当て、目の前まで引き寄せてからわたしは重いまぶたを持ち上げた。
「――――」
まずい、と日頃の感覚から飛び起きようとしたが、一瞬の後にきょうが土曜日であることを思い出し、わずかに浮き上がらせていた背をわたしはベッドに下ろした。
仮に弟ふたりが部活動やクラブに所属していたとしたら、弁当や朝食の用意をしなければいけないので話もまた変わってくるのだろうが、あいにく隆一は帰宅部で、秀も特にスポーツなどはしていない。父は父で、朝は食べたいときに自分で簡単にすませてしまうことが多く、父自身もそれでじゅうぶんだと言い張っているので、わたしもお言葉に甘えてあまり気にとめていない。
よってきょうは、午後からのアルバイトまではゆっくりしていられるというわけだ。なにも用意がされていないのであれば、各々自分の空腹は自分で満たせる程度に無知ではないだろう。なによりきょうに至っては昨夜のカレーがある。ご飯も残っているはずなので、あとはただカレーを温めるだけですむのだから文句は言わせない。
そこまで頭のなかで整理をつけてから、柔らかなまどろみにわたしは再び身を委ねた。
ベッドと毛布の心地よい温もりに包まれながら、二度寝という幸せの海へいざ飛びこまんとしたそのとき、部屋の遣戸が外から勢いよく開け放たれた。
「恵、いつまで寝とん。もう八時やで」
「……お母さん?」
あやふやな意識をどうにか奮い立たせ、開いた遣戸の向こうに立っている母にわたしは毛布のなかから目を向けた。ぼやけた輪郭の内側で、母が口角を上げて笑っているのが見える。
「みんなもう起きとうで」
「朝からそんな声張らんでもええやん」
しおしおと萎れていく語尾が、自分で言いながら情けない。
「いくら休みやからってな、いつまでも寝とったらあかん。朝なったら起きて、夜なったら寝る。人間の体内時計はちゃんとうまいことできてんねん。それに逆らったらあかん」
「お母さんがそれ言う?」
「ええから。ほら、起きた起きた」
どすどすとわざとらしく足音をたてて部屋に踏みこんできた母は、毛布の裾を掴むと一気に捲り上げた。抵抗する間もなく剥き身にされたわたしの体は、ややひんやりとした部屋の空気にさらされた瞬間ぶるりと震えた。
はよ下りてきいよ、といつになく上機嫌に言って去っていく母の背中を視界に捉えつつ、ああ、とわたしは思った。
「……お母さん、おったんやな」
ぽつりと口にしてしまってから、苦笑が浮かんだ。いまわたし、けっこうひどいこと言うたな、と。
なにしろ週末とはいえ、この時間に家にいる母が起きているいう状況は久しぶりだった。金曜の夜遅くに疲れ果てて帰ってきたかと思うと、着替えもせずにベッドで眠りこけている母の姿を目にして翌朝アルバイトに行く、ここのところそんな週末ばかり送っていた。
寂しくないと言えば嘘になるが、無理せんといてな、と顔を合わせたときに気遣うことで精いっぱいだった。それ以上のわがままを口にする資格は、わたしには毛頭ないのだと思っていたから。
「私もいい加減、たまにはまともに料理せんと、腕なまってしゃあないな」
隣でわたしが洗い終えた食器を布巾で拭いていた母が、吐息を漏らすような自然な口調でそう言った。
スプーンと箸をまとめてすすぎながら横目でちらりと窺えば、母は秀の青いカレー皿を拭く手を止めて、虚空に視線を漂わせている。
「なに、どうしたん」
蛇口から流れ落ちる水音と、背後から聞こえてくる父と弟たちの談笑を聞きながら、ちゃんと歯磨いとかんとなぁ、と母の返答を待つ片手間にこのあとの予定をわたしは呑気に立てていた。
「恵のカレー食べてびっくりしたわ。いつの間にこんなおいしいカレー作れるようなっとったん」
「お世辞はええって」
「あら。おいしいもんはおいしい。これは真理やで」
返事に困って黙りこくっていると、うん、とひとり力強くうなずく母の姿が視界の隅に映った。自分で言っておきながら気に入ったのか、真理や真理、と母はぶつぶつ繰り返している。
「きょうの晩は私が作るわ。カレーもあとちょっとみたいやし、残りは隆一らに食べてもらおか。恵は、このあとバイトやったよな?」
「そうやけど、お母さんも仕事行く言うてなかったっけ」
水を止めながら尋ねたわたしに、母は眉尻を下げて口元だけで笑った。そういった表情はもちろん、拭き終わった皿を種類ごとに重ねていくちょっとした手つきの柔らかさにも、母の母としての余裕、寛容さが見受けられる。
「ちょっと行って、ちょっと見てくるだけやから」
布巾を畳み置いて、ふ、と短く息を吐き、不意に満面の笑みを浮かべたかと思うと母は左手の親指を立てた。アメリカのホームドラマで見たことがあるような動きだった。
「まあ楽しみにしといて。恵に負けんよう、頑張っておいしいもん作るわ」
日も高くなり、家のなかは穏やかな暖かさに包まれていた。
朝食からカレーをおかわりしたためか、隆一も秀も昼食はいらないと首を振った。ただ小腹が空いたという父に冷凍のピザをトースターで焼いていると、いつの間にやら着替えた母が慌しく居間に飛びこんできた。
ついさっきまで居間で眠たそうにテレビを眺めていたような気がするのだが、まあいいかとわたしはチーズの焼け具合に目を戻した。煮えるように泡立ち始めたので、もうすこしでいい具合に焦げ目がつく。
「なんや、そうぞうしいな」
食卓で新聞を開いていた父は、顔を上げるとその怪訝な表情とは裏腹にひどくのんびりとした口調で言った。
対する母は返事をする代わりというように、ぴゅうと短く口笛を吹いた。
「いまさっき呼び出しくらってん。午前中くらいゆっくりさせてほしいわ、ほんま」
言ってシャツの襟を正しながら早足で台所までやってきて、冷蔵庫から常備してある缶コーヒーを取り出すと、母はわたしのほうを見て相好を崩した。笑い返そうと笑みを浮かべたときにはもう母は踵を返していて、結果としてわたしは壁に笑いかける寂しいひとになっていた。
「隆一らは?」食器棚のガラスに自身を映し、髪の乱れを直しながら母は言った。
「自分の部屋におるんちゃう。勉強やっとうかは知らんけど」
父の言葉は広げた新聞に遮られて、いつも以上に滑舌が悪く聞こえた。母は母で、納得したのかあまり関心がないのかよくわからないうなずきを返しただけで、会話らしい会話が続くこともなくふたりの話は終結した。
そこはやはり夫婦の間というものがあるのだろう。馴れ初めまで聞いたことはないが、それなりの交際期間を経てふたりも夫婦になったのだろうし、夫婦となってからも二十年以上経つのだから互いの呼吸や間の取りかたくらいは解っているはずだ。それは単純に、羨ましい、と思える。
はたから見れば言葉少なで冷めかけた夫婦関係に見えなくもないが、父も母も内心では互いに思い遣っていることは知っている。おそらく改めて口に出すのは恥ずかしいのだろう。わたしだって、つきあいがわりと長く続いた相手には、いつの間にか当初のような気遣いはできなくなっていた。そのひととは結果的に気まずくなって別れたものの、それが一年弱くらいだったのだから、両親に至ってはその何十倍の期間ともに過ごしていることか。
「それじゃ、ちょっと行ってくるわ」
居間の隅に放り出してあったバッグを手に取ると、母は返事を待つことなく疾風のような勢いで飛び出していった。行ってらっしゃい、と完全に遅れたタイミングで父が言った。
はっとしてトースターに目を遣ると、設定したタイマーはまだ止まっていなかったものの、焼け具合がピザにしてはウェルダンの域に達していたので、わたしは慌ててタイマーを切った。
熱さを堪えながら構えた皿に滑りこませると、香ばしいというよりも焦げくさい臭いが台所に広がった。
「焦がしたなー」臭いを嗅ぎ取ったのか、父が半笑いの声を上げた。
「いや、賞味期限近かったから、よう焼いといたほうがええかなーって」
我ながら苦しい言い訳をしつつ焼き上がったピザを差し出すと、父はよく焼けすぎた表面にちらりと目を落としてすぐに上げ、うんと一度うなずいてみせた。なにに対しての「うん」なのか。わたしが半目を向けると、父はそれはそれは見事な無視をした。
最も無事そうなところにかじりついた父は、うまいうまい、と口をもごもごさせながら言ったあと、先ほど新聞を読みながら飲んでいたコーヒーをすすった。
「まずくはないんやけどな」
「うん。ごめん」
「大丈夫。食べれんことないから」
作った人間としてはそれ言われるんが一番きついんやけどな、とは言えず、わたしは父に合わせて苦笑いした。明らかに炭化している部分も含め、すべて平らげてくれた父には内心で平伏する。
受け取った空の皿を洗って時計を見やると、そろそろ支度を始めなければいけない時刻だった。
空腹も満たされたようで、再び新聞を読み始めた父を置いて部屋に戻り、着替えと簡単に化粧をすませる。鏡と睨み合いながら眉を書いていると、隣の部屋からばたばたと騒ぐ物音が聞こえた。隆一たちがまた喧嘩でもしているのだろう。
部屋数の関係上、隆一と秀はふたりで一部屋だ。元は十畳ある部屋も、勉強机を用いて半分で仕切っているので実質ひとり四畳半程度の広さしかない。育ち盛りの彼らとしてみれば、ひとつの部屋に押しこめられているのは窮屈なことだろう。
わたしは長女の特権も生かしてひとり部屋を得ているが、広さは六畳と、ひとりぶんで比較すると彼らの部屋と大して遜色がない。しかも学習机が未だにちゃっかり鎮座しているおかげで一畳ぶんマイナス、そして彼らよりもなにかと家具が多いことを踏まえれば、わたしの部屋が最も狭いのだということは先日ようやく気づいたばかりだった。嘆くべきは収納の少なさか。
兄弟に無用な対抗意識を燃やしてしまうのは、おそらくそういう性分なのだ。
「――姉ちゃん!」
そのとき突然、秀が声とともに荒々しく部屋の戸を開けた。ただでさえ苦手な左の眉尻を書いていたわたしの手は驚きで震え、線が見事に大きく乱れた。これまでで五本の指に入るほど巧く描けていただけに心底泣きたくなったが、乱れてしまったものはもう直すほかどうしようもない。
「もー、ノックくらいしてー」
「ごめん。でもさー」
泣く泣く修正に入りつつ横目で秀を見ると、壁で指先が見切れているがおそらく自分の部屋のほうを指差して、秀は怒りの滲んだ声で言った。
「隆一の馬鹿が宿題の邪魔すんねん。変な声出したり、小さく千切った消しゴム投げてきたり。全然集中できひん」
「そんなん無視して下でやっとったらええやろ。いちいち相手しとったら、それこそ隆一の思う壺やで? 無視しとったらあいつもそのうち飽きるから」
「せやからさっきそれで二階上がってきたんやもん。そしたら馬鹿もついてくるし、なに言うても聞かんし。ほんま鬱陶しいわ」
「そんな無理に宿題することないんちゃうの。わざわざうるさいの我慢してまでやる意味なんかある? 隆一も一日中つきまとう根気は持ってへんやろうし。宿題くらい空いた時間にやっとけばじゅうぶん終わるやろ、秀なら。自分から机向かう習慣ついとうし」
「でも、なんか勉強してへんと落ち着かんっていうか」
「……秀も変わっとうな。わたし勉強とか大っ嫌いやったけど。まあ、たまには運動せんとあかんで、運動。休み入ってから体育の授業もないんやから」
ふっと息を吐いて鏡を見れば、ようやくまともな形に戻った気がする。思った以上に苦戦したのは秀と話しながらだったからだと自分に言い訳しつつ、手早く片づけをすませて立ち上がる。
「じゃあ、そろそろバイト行ってくる。きょうはお父さん家におるみたいやから、一緒に公園でサッカーでもしてきたら?」
ふざけてそんなことを勧めてみると、そんなん嫌やし、と秀は真顔で口を尖らせた。
発車寸前のバスに、慌てて乗りこんだところまでの記憶はあった。
次発のバスは十分ほど待てばやってくるし、時間には余裕をもって出てきたので無理に急ぐ必要もなかったのだが、停車しているバスを前にして反射的に駆け足になってしまうのは人間の本能ではないだろうか。
ともあれ約五十メートルの全力疾走で簡単に疲弊したわたしは、ひとのこと言えんなあ、とシートに身を沈めながら思った。そしてバスに身を揺られているうちに、あっさりと落ちてしまったらしい。
バスの運転手さんが、気持ち不機嫌そうな口調で告げた「終点ですよ」という言葉を遠くに聞いて飛び起きたわたしは、恥と焦りで顔も上げられないままバスを駆け下りた。
見慣れた神戸駅のシックな外観も、今回ばかりはわたしを嘲笑っているような気がしてならない。それが明らかな被害妄想であるとは自覚しながらも、勝手に駅に転嫁することでわたしは気を紛らわせた。エスカレーターに乗って地下へと降りたころには、顔の火照りも幾分かましになっていた。
神戸駅の地下街の一角、壮年の女性向け洋服店に挟まれている雑貨屋「bubbles」がわたしの勤め先だ。店舗と店舗の隙間に無理やり押しこんだような小さな店だが、どこか東南アジアあたりを彷彿させるエキゾチックな内装は見た目以上に落ち着く空間で、高校二年とき初めて訪れた際に一目惚れして、いつかこの店で働きたいと常々思っていた。
アルバイトの募集要項に高校生不可とあったため、働けないならと地道に通い詰めて雰囲気を満喫し、卒業後すぐに応募した。電話をかけたときのわたしはがちがちに緊張していたが、応対してくれた店長の多香子さんがわたしのことを憶えてくれており、「いいよ、おいで」とふたつ返事で採用してくれたのだった。
奥のカウンターでなにやら作業をしていた多香子さんは、こんにちは、とわたしが声をかけるとおもむろに顔を上げて、にかっと口角を上げた笑みを浮かべた。左の目元にある泣きぼくろが、相変わらず大人の色気を放っている。
「外、雨降ってなかった?」
笑顔で問われた内容に理解が追いつかず、わたしが言葉に詰まっていると、雨よ雨、と多香子さんは言葉を重ねた。
「降ってないですよ。むしろ快晴なぐらいで」
「そう。ならいいの。傘持ってきてなかったから、降ってたらどうしようかと思って」
ふんふんと鼻歌交じりに帳簿を繰るきょうの多香子さんは、いつになく上機嫌だった。つま先で拍子まで取っている。
「雨の予報なんて出てましたっけ、きょう」
カウンター裏にバッグを下ろしながら尋ねると、いやぁ? と多香子さんはやんわりと言った。
「そんな気がしただけよ。ほら私、雨女だから。まあスーパー晴れ女の恵ちゃんがいるし、きょうはその心配はいらないかなー」
「わたし、いつの間にスーパーになったんですか」
一週間ほど前はたしか「超晴れ女」だったか。
朝からしとしとと雨が降り続いていたその日、店を閉めて多香子さんとふたりで地上に上がると、依然として降っていた雨がわたしたちの目の前ですうっと上がっていった。家が徒歩で通える近所にあるという多香子さんは大きな傘を構えていたのだが、開こうとしていたそばから雨の止んだ空を見上げ、やるなぁとばかりに唸りながら顎に手を当てた。晴れ女の自覚はなかったのだが、そのときばかりは自分にその能があるのではないかと本気で考えたほどだ。
「成果を上げればその都度格上げ、みたいな」そう言ってから、ぽんと手を合わせて多香子さんはつぶやいた。「最高位は、晴れ女神がいいかな」
戸惑いはあるものの苦ではない会話の流れに自然と笑みになりながら、制服とは名ばかりの薄いエプロンを手に取る。なんの装飾もない若草色のエプロンだが、身に着けるといつもすっと背筋が伸びる。店員としての自覚が沸くというか、身が引き締まるというか。エスニックな雑貨屋でエプロンというのも、それはそれで趣があって悪くないとわたしは思うが、もうひとりいるアルバイトの女の子はあまり気乗りしていないらしい。
「じゃあ、最低位は雨女神ですね」
わたしがからかい口調で言うと、うーんと多香子さんは首を傾げてみせた。
「なんか語呂悪くない? 雨女神。何回も言ってると噛みそう」
「たしかに……」
「まあそこまでじゃないと信じたいわ」
明るく高笑いしながら帳簿をまとめると、さて、と多香子さんは息を吐いた。
「私ちょっと裏で整理してるから、なにかあったら呼んでね」
「はい」
じゃあねーと手をひらひら振りながら、多香子さんは店の奥に消えていった。
ひとり店番を任されたわたしは、いつものように陳列された商品の様子を一通り見て回る。埃を被っている物があればはたきで払い、位置の乱れた物があればきちんと並べ直して軽く悦に入る。
雰囲気同様に、この店の商品はエキゾチックな物が多い。かといって不気味な像や置物ばかりというわけではなく、小人を模した可愛らしいガラス細工や、色鮮やかなタペストリーなどもある。丁寧に編みこまれたミサンガだとか、ピアスやイヤリングなどの装飾品の品揃えも小さい店なりに豊富だ。
外からでも店内の様子が確認できるほどには開放的な造りになっているし、男性でも気軽に入れるだろうとは思うものの、やはり客の大半は女性であり、根強い支持者も多い。無論、わたしもそのひとりだ。
基本的に客の出入りが激しい店ではないので、やるべきことをあらかた終わらせたあと、暇な時間は大体カウンターで本を読んで過ごしている。フランクな多香子さん曰く、ゲームや携帯電話いじりなどの「遊び」でなければ特になにをしていてもいいらしい。仕事をしっかりとこなしてさえいれば、多香子さんとしてはそれでじゅうぶんなのだろう。
初めはレジの扱いかたすらわからず、自分を産まれたばかりの赤子のようだと思った。
働き始めてから一年が経ったころ、おすすめや新作商品のコーナーを作らせてもらえるようになった。ポップを作ったり商品の配置を工夫したりして、初めてそのコーナーの商品が売れたときはあまりの達成感に目の端に涙が滲んだものだ。
二年が経ち、部分的にではあるものの店のレイアウトを任せてもらえるようになった。それが多香子さんや客のひとたちに評価されたときは、自分の感性を信じることができたし、そのまま自信へと繋がった。さらに期待に応えようとすることで、身を削ることも厭わずに自分を高める努力を続けられた。
そして三年目。気がつけばアルバイトのなかでは最古参となり、多香子さんの右腕として雑用から店の運営まで、本当に多くのことに携われるようになった。わたしは店の人員として、すこしは役に立つ存在になれているだろうか。
「そんなの――」
自分では、よくわからない。
所詮はアルバイトの身分なので、多香子さんのようにほぼ毎日店に立っているひとがいるのに申し訳ないことだとは思うが、三年目に入り、わたしにとってここで働いていることは、呼吸と同じくらい自然なことになっているのはたしかなことだった。
それはきっとわたしが店に馴染めているということであって、邪魔になってはいないのだろうと、そう思う。邪魔になっていたら、こんなに居心地がいいとも思えないはずだ。
しかし深く考え始めるときりがなく、頭を切り替えるためにも改めて手の上の文庫本に集中する。ミステリー小説を読んでいると、個人的にあまり他のことを考えずにすむからいい。誰が犯人なのか、どこにトリックが隠されているのか、些細なことでも疑いながら読んでいくうちに、いつしか登場人物のひとりになったような気がしてきて。
「――すいませーん」
かけられた声にはっとして顔を上げると、店の入り口には声の主らしき女性と、その傍らに男性が立っていた。女性はわたしよりもいくらか年上に見え、遠目でも目につくスカイブルーのワンピースが色白の彼女によく似合っていた。男性はわたしと同い年くらいだろうか、シンプルな紺のパーカーに身を包んでいる。
文庫本を置いて立ち上がったわたしを手招きして、女性は言った。
「お姉ちゃん。このピアス、五百円やんな」
「はい。そこにあるのは全部」
わたしが言い終わるのを待たずに、ほらあ、と女性は男性に向かって高い声を上げた。対する男性はふうんと淡い同意を示しただけで、特に関心もなさそうだ。そんなそっけない相手に飽きれたように肩を下げた女性は、しかしすぐに開き直って店内を物色し始めた。
「手ごろな値段が売りの店なんで、よかったらなかも見ていってください」
押しつけがましくならないようなるべく自然に話しかけたところ、ぼうっと商品を眺めていた男性は、ああそう、と果たして興味のなさそうな口調で応えた。
「俺こういう店、あんまり来たことないからさ。物の相場とかも全然わかんねぇし」
なにより男性の口から放たれた言葉が耳慣れた関西弁でなかったことに、わたしは小さく仰け反った。連れ添っていた女性は根っからの関西人のようだが、この男性はべつの地域出身なのだろうか。神戸で暮らしているとあまり耳にしない標準語に、わたしは思わず身構えてしまう。
業務的に笑って取り繕いながらちらりと店の奥を窺うと、いつの間にか裏から出てきた多香子さんがカウンターに立っており、会計をしつつ女性となにやら会話を交わしている。仕事を中断させてしまったことに、申し訳なさで肩が重くなる。
あまりに当然のことになってしまっていたが、そういえば、多香子さんも関西出身のわりに普段から綺麗な標準語を話す。関西弁が嫌いなのかと訊けばそうでもないらしく、そこは彼女曰く「なんとなく」だったか。
多香子さんとは高校時代から数えると五年近い関係だが、未だによくわからない部分が多い。年齢も三十路は超えたということしか知らされていないほどだ。
「綺麗なひとですね」
女性の後姿から男性に目を戻すと、彼は目を伏せ、口元だけで苦笑した。
「まあ、同じ女から言われるんだから、そうなんだろうな」
同意や肯定が返ってくるものと思っていたため、すぐさま男性の曖昧な言に返す言葉が見つからず、自分で話しかけておきながらわたしは黙りこんでしまった。彼は特に気にした素振りも見せず、目の前に並ぶピアスの列に目を細めていた。
「お揃いのアクセサリーとかもありますよ。どうですか、この際。プレゼントしたら彼女も喜んでくれるんちゃいますか」
言いながらわたしが手近にあったペアリングを示すと、わたしとペアリングを交互に見比べるように視線を動かしたあと、男性は口調にあからさまな嫌悪感を滲ませて言った。
「押し売りはやめたほうがいいんじゃないか」
「押し売りって……。こっちはただ勧めとうだけで」
わたしの視点からすぐそばにいる男性の顔を見ようとすると、はっきりと見上げる形になる。百八十センチ近くあるだろうか。体つきはそこまで屈強ではなく、どちらかといえばむしろ細いほうだった。
「こっちが望んでもいない商品を買わせようとすることの、どこが押し売りじゃないっていうんだ。そりゃ店員の身になって考えてみれば、利益を出すことに余念がないってのもわからないでもない。店の売り上げに貢献したら、上からの評価も上がるだろうしな。でも、いま俺は客だ。そうだろ? 客には買うものを好きに選ぶ権利がある。店側にいちいち決められる筋合いはない」
一瞬、顔の左の筋肉が痙攣したように震えて、しかしそれを悟られぬよう咄嗟に顔を逸らしながら、わたしは言い返したい言葉の数々を片っ端から胸の奥に沈めていった。いまここでわたしが反論しても、周囲には悪影響しか及ぼさない。
「すいません」軽く頭を下げて謝るが、男性が聞いていないのは雰囲気でわかった。
一日にいろいろなひとが店を訪れるが、もちろん必ずしも全員がいいひとというわけではない。無駄に口の悪いひとや、こちらの気分が悪くなるほど愛想の悪いひと、店員の目を盗んで万引きしようとするひともまれにいる。
それがどんなひとであれ、ひとりひとりがお客様であることに変わりはなく、店員のわたしは懇切丁寧に接客するべき立場であることはわかっているが、塩を撒きたくなったことも一度や二度ではない。
もう何度も経験していることだが、気にせず受け流すことがわたしは未だにできない。さすがに反抗したことはないが、いまのように顔の端に出てしまったり、多香子さん曰く態度に現れたりしてしまうらしい。反省してもしても直らないのが悔しい。
一旦男性の元を離れてカウンターに行くと、間接照明がどうとかいう話で多香子さんと女性の会話は異様な盛り上がりを見せていた。しばらく近くで聞いてみるも、わたしが介入できる隙は寸分もなかったので、諦めて店のなかをのろのろと歩いた。どんな商品でも並びに僅かでもずれがあると直したくなるわたしは、きっとA型の典型だと思われる。
色別にわけて入れてあるペン立てに異なる色が混ざっていたのを、愚痴をこぼしながらひとつひとつ正していたとき、腕を組んだ男性が店の前で暇を持て余したように立ち尽くしているのが目に入った。
声をかけようかどうか迷った末、店の奥から話し声がまだ聞こえてくることをたしめてから、わたしはそうっと男性に近づいた。気づいた男性が露骨に嫌な顔をしたが、わたしは努めて気づかぬ振りをして声をかけた。
「話長いなーとか、思ってません?」
「思ってる」
予想が合っていたことに、ああやっぱりと苦笑が浮かんだ。わかってしまうと、不機嫌な声のトーンも心なしか微笑ましい。
「もう買い物はすんだろうにさ。いつまで話してんだか」
「間接照明の話で盛り上がっとうみたいです」
「そういや、ほしいほしいって言ってたな……。つーか、そもそもそんなもん置く前に部屋を片づけろっての」
「一緒に住んではるんですか」
「いや。俺もあいつもひとり暮らし」
ふうんと相槌を打ちながらそっと男性の横顔を見上げると、待ち構えられていた視線とばっちり重なった。
「なに」
なんでもないです、と慌てて目を逸らす。一呼吸したあと、ふたり並んで店内を眺めるような格好になっていると気づいて一歩距離を取った。
「話長いと思うんなら呼べばいいやないですか」
「やだよ。逆ギレされるの目に見えてるし」
「……つきあってるん、ですよね?」
デートを満喫するように女性はよく笑顔を見せているし、服装も化粧も気合が入っている。その一方で男性はそこまで着飾っているわけでもなく、やや髪型に気を配っただけのように見えなくもなく、デートというよりは姉の買い物につきあわされている弟といった感じだ。さすがにそれだけはなさそうだが。
「さあ、どうだろ」
男性はわたしを一瞥すると、ゆっくりと店のなかに足を踏み入れながら、なにか一言二言ぼそりと漏らした。慌てて追いかけて聞き返すと、なんでもないとばかりに彼は首を横に振った。いま口にした言葉が、ひょっとしたら彼の本心だったのではないか、とわたしは考えずにはいられなかった。
ふと男性は足を止めた。店を半ばあたりまで入ったところにある、アンティーク時計が並んでいる場所だ。壁沿いに置かれたテーブルの上には大きさからデザインまで、様々な種類の置時計が揃い、壁には壁掛け時計がそれぞれ時を刻んでいる。
その壁の一角には昔懐かしい振り子時計もあったのだが、数日ばかり前、わたしがちょうど非番だった日に売れてしまったらしく、いまそのスペースはぽっかりと開いたままになっている。古いなりに値が張っていたその時計は、店に訪れたひとの誰しもが一度は思わず目を遣るほど、言うなればこの店におけるアイドルのような存在だった。
売れてなんぼの商売ではあるものの、仕入れたときから我が子のように温かく扱ってきた商品が誰かの手に渡っていくときは、嬉しい半面、正直なところ不安も大きい。大事にしてくれるだろうか、粗末に扱われないだろうか、考えだすと本当にきりがない。
「時計、いいですよね。そこにあるだけでちゃんと存在感を放っとうっていうか、なんでかついつい見てまうっていうか。どんなに小さくて簡素なものでも、やっとうことは大きくて立派なものと同じって、改めて考えるとすごいなぁって思いません?」
「そうかな。時計は時計だろ。大きかろうが小さかろうが、現在時刻を確認するためのツール、としか俺は思えないけど。それに、いまの時代、携帯があればこと足りるし」
「……現代人」
「あんたもだろ。俺と大して年も変わらないだろうし」
鋭い流し目を送られ、わたしはすばやく視線を床に落とした。
「でもそれじゃ、急に時間が知りたくなっても、手の届くところになかったら」
「常に手元に置いておけばいいだろ」
並んでいるなかから置時計をひとつ手に取った男性は、これも時計? とその外観を回し見ながら言った。細部まで作りこまれたその時計は一本の木の形をしており、縦に開くことで幹の内側にある時計と彫りこまれた小さな木こりが現れる仕組みになっている。わたしも初めて見たときは普通の置物だと思ったが、多香子さんに教えられて内側を見たときには心底関心したことを憶えている。
「お、よくできてる」
わたしが教えるよりも早くギミックに気づいた男性は、意味もなく何度か開閉を繰り返したあと、遊んでいたおもちゃに飽きた子どものような無骨な手つきで時計を元の場所に戻した。ごとんと鈍い音が響いた。
「ちょっと――」
彼がとった言動に、わたしの内側にあるなにかが、ぷつんと音を立てて簡単に切れた。
初対面の相手にもかかわらず掴みかかろうとしていたわたしを、すんでのことで食い止めたのは、カウンターから飛んできた多香子さんの柔らかい声だった。
「恵ちゃん。ちょっといい?」
「……はーい」踏み出しかけていた足を強引に引き戻し、男性に背を向けてカウンターへとわたしは急いだ。
「これの色違い、持ってきてもらっていい?」
多香子さんと話していた女性に会釈し、差し出されたピアスをうなずきながら受け取る。
「奥に青いやつがあったと思うんだけど」
「わかりました」
倉庫に入ろうとしたところで、ねえ、と多香子さんに呼び止められた。
「恵ちゃん」
「なんですか」
「……顔、かたいよ? どうかした?」
なんでもないです。
そう告げたときの口調はいつになく早口で、多香子さんの目なんてもちろん見られるはずもなかった。そう、とただ短く、どことなく寂しげな声が背中に触れた気がした。
目的のピアスはあっさりと見つかったが、すぐに出て行くことはできず、多香子さんの催促があるまでわたしは倉庫の奥でじっと壁にもたれていた。
居間に入ると、焼き魚の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「ただいま」
見れば家族全員が食卓についており、すでに食事に箸をつけていた。おかえり、とみながみな自分のタイミングで口にしているのだろうが、それがほとんど揃っているあたり家族のつながりを感じる。
男衆は週末恒例の早食い競争をしているようで、仕留めた獲物に喰らいつくライオンのごとく鬼気迫る表情でご飯やおかずをかきこんでいる。ちなみに一位の賞品は近所にある洋菓子店の焼きプリンで、母がこのために買ってくる一個五百円もする――あくまでわたしの価値観だが――高級品だ。二位以下に賞品は特にないらしい。わたしとしては、そんなに食べたかったら最初から五百円払えよ、と思えて仕方がない。
あまりの勢いに半ば呆れて傍観していると、ごめんごめん、と母が箸を置いて立ち上がった。
「早かったんやな。遅れとったんかしらんけど、ついさっきメール届いてん。いま魚焼くから、座って先に食べとき。――こら秀、流しこむん反則やで」
台所に立つ母の姿をふたりの弟越しに見ながら食卓につき、コップのお茶に口をつける。
肉体的にも精神的にも、普段から疲労は少ない雑貨屋のアルバイトだが、きょうばかりは一段とひどい。あのひとのせいやろうな、と思い、いやひとのせいにしたらあかん、とも思う。
あのあと店に戻ると、客の女性はわたしが持ってきた青い石のピアスを見るや否や、それ買います、と少女漫画のヒロインのように目を輝かせた。
いつの間にか女性の傍らにいた男性には視線を向けることすらできなかったが、女性に腕を組まれて去っていく後姿は見ることができた。女性はごく幸せそうな後姿だったが、果たして相手の男性はどう思っているのだろうか。後姿からでは感じ取れなかった。
そのあとはいつものようにゆっくりとした時間が過ぎ、午後八時に多香子さんと店を閉めたあと、三十分ほどバスに揺られてどうにか家に帰りついた午後九時前。
きょうは母が夕食を作るというので、わたしが帰るころにはもうとうに食べ終わっているかと思っていたが、どうも母も帰りが遅かったようだ。出かけていったときの格好のままでいるのが、おそらくその証拠だろう。買い物袋を手に慌しく帰ってくると、そのまま慌しく支度に取りかかる様子が簡単に想像できて、自然と笑みが浮かんだ。
「はい、ごちそうさま」
ぽんと手を合わせたのは父だ。優雅に食後のお茶を飲みながら、未だに慌しく箸を動かしているふたりの息子を、父は穏やかな視線で眺めている。勝率でいうと、父が六割、隆一が三割、秀が一割といったところだろうか。やはり立派な大人の男がその気になれば、早食いで子どもに劣るわけがない。隆一や秀が勝つときは、大概父が手を抜いているか酔って気にも留めていないときぐらいのものだ。
「勝ったほうに半分やろうかな」
「またそうやって煽る。そんなこと言うから喉詰まらすんやで」
台所の奥から飛んできた母の声に、父は力なく肩をすくめてみせた。
一年ほど前だったか、その日の競争も父が一着だった。しかし父の「勝ったほうにプリンやるわ」発言で隆一と秀の争いが激化した結果、秀がご飯を喉に詰まらせてあわや救急車、なんて騒動があった。
大事には至らなかったが、母にこっぴどく叱られていた父に普段の威厳はまったく見られず、わたしは隆一とふたりで「なあ、もうやめといたほうがいいんちゃう」「オレも親父がやめろって言うならやめるんやけどさ」などと、当事者の身分でありながらなんとも冷めた会話を交わしていた。
「ごちそうさま!」
先に食べ終わったのは、意外にも秀だった。
いつも父と一着争いをしていて、隆一が最下位になることなどわたしが憶えている限り一度もなかったように思う。兄に勝ったことが嬉しいのだろう、控えめに喜ぶ秀の姿が微笑ましい。
「どうせおやつばっか食っとったんやろ」
すべてお見通しよと言わんばかりの母の言葉に、べつに、とそっけなく言って隆一は頬杖を突いた。
「残すわけちゃうし。ゆっくり食ったってええやん」
「はいはい」
そう言うわりには張り切って食べとったよなぁと不思議に思いつつ、わたしは家族より一足送れて夕食を食べ始めた。
今晩のメインディッシュである焼き魚が運ばれてきたときは、男性陣は各々の目的に向かって解散していた。父は居間でのんびりとドラマ鑑賞。隆一はおそらく漫画を読むか携帯電話をいじっているかのどちらかで、秀は十中八九、机に向かって勉強中だ。
「お味はいかかですか。恵さん」
「美味しゅうございますわ。奥さん」
急に貴婦人口調になった母に合わせて、わたしもわざとらしく声を作って返した。期待通りの返事だったのか、ふふと目を細めた微笑で母はうなずいた。貴婦人とまではいかずとも、セレブな奥様には見えないこともない。
「それはよかった」
「もう戻るんかい」
漫才や新喜劇が好きなひとからすれば、なんとまあ陳腐なツッコミだろうか。わたしも日常的にテレビで漫才や新喜劇を見て育った人間ではあるが、これがいざ自分がとなるとうまくできない。見様見真似で友達にツッコんでみても、下っ手くそやなぁ、といつも逆にツッコまれた。おそらくわたしにツッコミとしての素質はない。だからといってボケ側に回れるかといえば、そっちもそっちであまり自信がない。総括して、わたしはコメディアンには向いていないのだと思う次第だ。
だが母の料理の味が素晴らしいのは、間違いなく事実だった。レタスや玉ねぎ、クレソンなどが盛られた簡単なサラダにしても、レンジで温めるだけの市販のシュウマイにしても、一見すると手間を省いた手軽な食卓に思えるが、よく味わって食べると随所に母のこだわりが感じられる。
基本といえば基本だが、急いでいるときには地味に手間な玉ねぎの辛味抜きはしっかりされているし、ドレッシングも市販のものをそのまま使うのではなく、それをベースにして母独自のアレンジがされている。なにがどれだけ加えられているかなど細かいところまではわからないが、酸味のなかにある舌触りのよさはきっとオリーブオイルの効果だろう。シュウマイのタレも、付属のものにわずかばかりラー油が足されており、ぱっと見たときはどうかと思ったが意外と合うことに驚いた。
そしてメインの焼き魚。いまが旬の、鮎の塩焼きだ。火の通り具合といい塩加減といい、まさに絶妙としか言いようがない。とにかくご飯が進む。酒の肴にももってこいだろう。魚の焼き加減は、わたしも未だにうまくやれないことが度々ある。
「あかん。美味しい」
思わず口をついて出た言葉に、母はただ嬉しそうに鼻歌を響かせた。
「やっぱり恵にそう言ってもらうんが一番嬉しいわ。男どもの美味しいは口先だけで言っとうみたいでな、あんま感情が篭ってへんっていうか。とりあえず言うとこ、みたいな雰囲気がもうぷんぷんと」
「奴らはなんでもかんでも、うまい、やからなあ。そのくせたまに失敗すると、これでもかってくらい馬鹿にするし」
「わかるわー、それ。お父さんも、新婚当時こそ我慢して食べてくれとったけど、一年二年と経って恵を産んだころになるともう、ひどかった。さすがに私も料理うまなっとったけど、ちょっと塩気強くしすぎただけですぐ、こんな塩っ辛いもん食べれへん言うて。ほんなら自分で作れ云々の流れで、いままで何回喧嘩したことか」
わざとなのか、距離にして数メートルの位置にいる父に聞こえるような、むしろ遠巻きに語りかけているような大きさの声で、母は言った。わたしがつと背後を振り返ると、父はバラエティ番組を見ながらげらげらと笑っている。
いまでこそ尻に敷かれている父も、昔は亭主関白やったんやなあと思うと不思議な気持ちになる。いまの話も、聞こえていたら聞こえていたで、母に対してまたしばらく頭が上がらなくなることだろう。
「お母さんも、最初は料理苦手やったん」
「苦手なんてもんちゃうで。卵は綺麗に割られへん、包丁もまともに持ったことない、さしすせそもわからん。ずぶの素人もいいとこやった」
「やっぱりみんな最初はそうなんやな」
「当たり前やろー。私も実家暮らしやったから、料理なんて母親に言われて嫌々手伝うときにちょっと触れるくらいのもんやったし。結婚が決まってから、ようやくまともに練習し始めたわ」
「……でもそれも、いまとなっては一流シェフ並みやもんなあ」
わたしが感慨深く言ったところ、母は手を叩いて高笑いした。
「それはないわー」
「いやいや。わたしにとったら、お母さんはまだまだ雲の上の存在やわ」
「でも実際、上達の早さは恵のほうが断然早かったで。わたしが一週間はかかっとったことを、恵はほとんどその場で自分のもんにしたし」
「そんなことあったっけ」首を傾げつつ当時のことを思い返すが、そんな大層なことはいっさい思い浮かばなかった。
「ほら。さっきも言うた、卵。恵ったら最初っから黄身も割らず殻も入れずで、正直、私が教えるまでもなかったんちゃうかな」
「それは……、まあ。家庭科の調理実習で何回かやったことあったし」
中学校の調理実習ではもちろん、それ以前に小学校でも卵は扱ったことがあった。
わたしが通っていた小学校では、学期に一度か二度、それぞれのクラスで授業二時間ぶんの時間を使ったお楽しみ会なるものが催されていた。そのお楽しみ会で、なぜかわたしのクラスは調理実習の簡易版のようなことを多く行なっていた。きっとそのおかげだろうと思う。母に教わる前に、ある程度の下地はでき上がっていたというわけだ。
そのことを話すと、そういえばそんなこともあったな、とみそ汁に浮かぶ油揚げを箸でいじりながら母は有体に悔しがった。
「私、これでも高校まではけっこうなヤンキーやったから。馴れ合いって言ってまうと失礼やけど、そういうことに対する姿勢はあんまりよろしくなかった。……あー、私もそういうときくらい真面目に参加しとけばよかったなあ」
「後悔先に立たず、ってやつやな」
「過去に戻りたいー」
徐々にぐちぐちした会話になりながらも、箸を淡々と動かしているうちに食事は進んだ。皿の上があらかた空になったところで、食事の終了とともに会話も幕切れを向かえた。
手伝うで、と申し出たが、片づけを始めた母には物腰柔らかく断られた。悪意など微塵も感じられない母のなにげない言葉に、瞬間なぜかとんと突き放されたような疎外感を覚え、わたしはそれ以上食い下がることができなかった。
きょうはどうもだめだ。気持ちも、感情も、なにもかもが自分らしくない。
部屋でたばこをくゆらせながら、窓枠に寄りかかって夜に沈んだ街並みをわたしは眺めていた。こうしているだけで普段は不思議と落ち着くのだが、今日はそうもいかなかった。
風もなく、静かな夜空には月が出ていた。やや欠けてはいるが、ほぼ満月に等しく、低い位置に浮かぶ雲を上から明るく照らしている。
どうして、すぐにあれほど感情的になってしまったのだろう。
あとになればなるほど、なんて浅はかなことを、という思いが強くなる。
客の全員が商品を丁寧に扱ってくれるわけではない。しかし日ごろ店員として店に立っていれば、そういうことも大方は許容できる心ができてくるもので、わたし自身、ちょっとやそっとのことなら「仕方ない」で許せる程度の余裕はあったはずなのだ。にもかかわらず、彼はわたしの余裕を一瞬で打ち砕いていった。なんということか。店員たるもの、客に対しては常に仏のごとく寛容でいるべきではないのか。
明日以降のためにもいま一度身を引き締めておかねばと思い、いつもはたばこを吸い終えたあとすぐに閉める窓を開けたまま、わたしはすこしの間だけ肌寒い夜気に身を浸した。