ピース
神戸の街に珍しく積雪が観測された身を裂くような冬もようやく終わり、すこしずつ春めいたきた三月半ばの午後。窓から覗く外の穏やかな陽気に包まれた景色にときおり目を遣っては、下を向くたびにずり落ちてくる眼鏡を手の甲で持ち上げつつ、わたしは久しぶりにカレーを作っていた。
母が仕事で家を空けることが多くなり、中学生のころだったか炊事の一切をほぼ任されることになってからもう七年が経つが、未だに母の味を再現するには至らない。レシピ通りに作ったとしても、口に含んだ瞬間に別のものだと感じてしまう。さすがに料理自体は上達していると思うが、腕云々では語りきれない感覚があって、難しい。父や弟たちは美味しいと無難に褒めてくれるものの、わたしは素直には喜べなかった。
母に教わった、隠し味の温めた牛乳で溶いたビターチョコレートも入れ終わり、あとはしばらく煮こむだけだ。大きな鍋のなかでぐつぐつと煮えている今回のカレーの出来は、個人的には八十点くらいだろうか。よくよく考えてみると今年に入ってから作ったのはこれが初めてで、具材を煮こむ時間や細かい味付けをする感覚にも、作っている最中からやや勘の鈍った感じがして、初めて作ったときのような手探り感があった。最後に自分で味見はしているが、家族に不満は言われるほどひどくはない、と思う。
濃い目に淹れたインスタントコーヒーを片手に、居間で再放送の刑事ドラマを見ていると、弟の秀が筆箱とテキストを抱えて転がりこんできた。
「姉ちゃん、宿題教えて」
わたしの隣にすとんと腰を下ろすと、いまはもう食卓としては使われていない卓袱台の上に、秀は淡い橙色のテキストを広げた。
「どれどれ」
国語があまり得意ではない秀は、宿題や学校の授業でわからなかった部分があると、よくわたしに助けを求めてくる。犯人と刑事が銃撃戦を始めたテレビ画面から、一文字一文字の大きい紙面にわたしは視線を落とした。
小学生の国語の内容など、すでに成人した人間にとってはあまりに幼稚な問題ばかりだろうと当初のわたしは思っていた。しかし自信をもって教えた部分がことごとく間違っていたと聞かされて、家族の前で未だかつてない大恥をかいてからは、センター試験に臨む受験生くらい真剣な姿勢で取り組むことにしている。
「物語かぁ。こればっかりは自分で考えてなんぼのもんやしなぁ」
てっきり漢字の読み書きが来るものだろうと勝手な想定をしていたわたしは、狼狽を隠すために思わずコーヒーに口をつけた。口のなかに広がったコーヒーはカップを持った感触以上に熱く、吐き出しそうになるのを必死で堪えて飲みこんだ。
「この子はどんなことを思ったでしょう、なんて言われても本人ちゃうんやからさ、わかるわけないやん。この子が思ったことは、この子にしかわからへんよ。姉ちゃんもそう思わん?」
「でもなー、秀。それが国語やねんで。そうやって考えることで、こう想像力を豊かにするっていうか」
無駄に身振り手振りを使って表現しようとしてみるものの、秀は綺麗な眉間に皺を寄せて唸るばかりで、どうも納得できない様子だった。
「そんな、背中のかゆいとこなんて、本人にしかわからへんやんか」
「国語は算数とちゃうんやから、答えはひとつやないんやで。答える人数ぶんの答えがあると思えって、わたしも昔学校で習ったわ。せやから、秀がそうやと思ったことを書けばそれでええんちゃうかな。間違っとったらごめんな」
そのあともしばらく頭を悩ませていた秀だが、自分なりに解釈できたのか、わかった、と一言けじめをつけるようにはきはきした口調で言って立ち上がった。つとドラマのほうを窺えば、まだ青さの残る新米刑事が傷を負いながらも犯人を取り押さえ、スタッフロールが始まったところだった。
「きょうカレー?」筆箱とテキストを抱え上げながら、秀はくんくんと鼻を鳴らした。
「せやで。夕方までもうちょっと煮たら、食べごろやな」
「久しぶりやなぁ、姉ちゃんのカレー」
「そういえば三学期の最後のほうで、給食でカレー出とったよな」
大して珍しいことではないが、家の炊事担当として最も目につく冷蔵庫の扉には、秀の学校の献立表が張ってある。その日の給食と夕飯が被らないようにするためにいつも一役買っている献立表も、毎月ざっと目を通すたびに時代の流れを実感する。ムニエルだとかビーフストロガノフだとか、一見するとどこか有名レストランの『きょうのおすすめ』を読んでいるのではないかと思うほど、昨今の給食は小洒落た食事が当たり前のように並んでいる。揚げパンや冷凍みかんで逐一騒いでいた当時は、もう遥か昔のことのようだ。
「……そうやったっけ。でも給食のカレーなぁ、まずくはないんやけど、おれには甘すぎてあかんわ。しかも学校はおかわり一回しかできひんから、体育のあととかお腹空いとうときは全然物足りひんし」
そうは言うものの、体系も顔立ちも、声変わりさえまだの秀はどこからどうみても男子小学生であり、毎度のことながらわたしにはどこか強がっているようにしか見えなかった。あまりの微笑ましさについ頬を緩めていると、物言いたげな秀の視線を感じた。
「それなら、もっと辛くしとけばよかったなぁ。いまからでもまだ間に合うし、唐辛子入れとく?」
「――いい! 姉ちゃんのカレーもともと辛いし」怒っているのか焦っているのかよくわからない声を上げつつ、秀は地団駄を踏んだ。「絶対入れたらあかんで。入れたら姉ちゃんが全部食べてよ。おれ食べんからな」
「入れん入れん」
わたしが笑いながら宿題を片づけてくるよう促すと、恨めしそうな目つきを残して秀は居間を出て行った。
いまでこそ可愛らしい弟の言動も、数年後、第二反抗期が来たらと思うと無性に切なくなる。生意気な弟は、一家にひとりでじゅうぶんなのだ。
「なんや恵、おったん。なんか食い物ないん」
「なんもない。夕飯まで待っとき」
秀とほぼ入れ違いで居間に入ってきた隆一は、わたしを一瞥すると冷蔵庫を開けて中身を漁りだした。タイトな白いTシャツに包んだ中途半端に肉づきのいい背中に、わたしは小走りで近寄って平手を入れた。
「はよ閉め」
「痛いでーす。暴力反対でーす」
中腰から真っ直ぐ立ち上がった隆一の身長は、いまではわたしよりも頭ひとつぶんくらい高い。中学校に入ったばかりのころはまだわたしよりも小さかったくせに、放置している夏の雑草のように年々身長を伸ばしていき、気がついたときには追い抜かれていた。面と向かって立つと、弟とはいえ正直なかなかの威圧感がある。
本当は染めているくせに、学校には地毛だと言い張っている淡い茶髪の下では、切れ長の目がわたしを捉えている。
「なに」
「カレーか」わたしの背後にある鍋を覗きこみながら、隆一はぽつりと漏らした。
「嫌なら食わんでええよ」
「誰も嫌とか言うてへんやろ。あほか」
だらっと気だるそうな足取りで居間まで歩いて行くと、隆一は畳の上に仰向けになって携帯電話をいじり始めた。
鍋の蓋を取ると、溢れ返った煙で視界が一瞬白く曇った。たちまち台所に広がったカレーの匂いを感じながら、中身を一通り混ぜたあと、火を止める。あとは余熱に任せておけばいいだろう。
食事の支度を終え、エプロンを外してスリッパを鳴らしながら居間まで歩くこの瞬間、母親やっとうなぁ、とわたしは毎回しみじみと実感する。尤も、他の家事は分担してやっているため、炊事しかこなさない母親もどうかとは思う。家事全般をこなすのが母親、というのは単なる偏見だろうが。
「恵ー、この暇なんとかしてくれ」
いじっていた携帯電話を放り出して大の字に寝転がっている隆一は、呆けたようにつぶやいた。
「友達と遊んでくればええやん」隆一とは卓袱台を挟んだ反対側に、わたしは腰を下ろした。
「知り合いみんな旅行でどっか行っとって、遊ぶ相手おらん」
「じゃあ宿題でもやっとき」
「今度友達に写させてもらう」
「遊びにも行かず宿題もせず。空しい青春やな」
「恵が言うか、それ」
「失礼やな。遊ぶときは遊んどったし、勉強もあんたよりはやっとったわ」
「大学行っとったら、もうすこし色気もついたかもしれんのになぁ」
「そもそも高校行けるかどうかも怪しい奴に、そんなこと言われとうない」
たわいもない口論は普段通りどちらともなく収束していき、最終的にはテレビの音だけが居間に響いていた。いつものことだ。数年前まではちょっとした口論から互いに手も出したものだが、いまとなってはもうだいぶ落ち着いている。わたしも隆一も、それが無駄なことだと理解できる程度には年を重ねたのだろう。
夕方のニュースが始まったころ、父が帰宅した。くたびれた紺のポロシャツ姿の父は、ここのところ雰囲気までしおれていてまったく覇気がない。
おかえり、と口にしたわたしと隆一の声の発端は、面白いくらいぴったり揃っていた。ただ、隆一のだらしなく伸びた語尾が、室内にやけに響いた。
家族でくつろぐときにいつも座っているテレビの正面に、父は重そうに腰を下ろして胡坐をかいた。なんか飲みもんくれ、と言う父に、わたしは快く引き受けた。隆一が率先して動くはずもないので、必然的にわたしが動かなければいけない。
「やっぱり難しいな。求人自体が減っとうから、どんだけ条件甘くしても手ごたえがほとんどあらへん。たまに引っ掛かったと思っても、資格は要るわ免許は要るわ、ほんま参った。こんなんなら、学生のうちにぎょうさん資格取っとくべきやったわ」
コップいっぱいの冷えたお茶を出すと、父は一気に飲み干した。コップから口を離したあとの吐息にまで、哀愁が漂っている。
「不景気やもん、仕方ないって。お父さんは頑張っとうで」
「でもな、恵。四十も過ぎたおっさんが無職って、最悪やで。妻子ある一家の大黒柱として、情けないわ」
去年の年末に派遣切りで職を失った父は、近頃、溜息を吐いてはうな垂れるばかりだ。ハローワークで日雇いの仕事を見つけてはちょくちょく働きに出ているものの、再就職先は未だに見つかっていないらしい。わりとふくよかだったはずの体つきもこの冬の間に相当絞られて、腹回りはもちろん、頬のラインなどまるで別人のような細さになっている。職を失う以前の姿を思い出そうとしても、いまでははっきりとは思い出せないほどの変わりっぷりだった。
「世間的には恥ずかしいことかもしれんけど、焦っていい方向に転がるんとちゃうんやしさ、お父さんはじっくり落ち着いてやってけばええよ。借金せなあかんほどでもないし、ご飯もみんな満足に食べられとうし。お母さんの収入も、たぶんそんな頼りないもんちゃうやろ? わたしのバイト代もあるんやし、そんな心配することないで。な」
お酒は晩酌程度で、たばこやギャンブルを一切しない父は、もうすこし遊んでもええのに、と思うほど実直すぎる人間だ。休日には家族サービスも欠かさず、年に一度は旅行にも連れて行ってくれる。去年は母の仕事の都合もあり、近場の有馬温泉だったが、なにより父の気遣いがひしひしと感じられたいい旅行だった。
学生時代、自分の父親をなにかにつけて毛嫌いしていた周りの女の子たちの気持ちが、わたしにはまったく理解できなかった。
「面目ない」かすれた声で言って、父は頭を垂れた。
「そんなんええのに――」
そのとき、いままで沈黙を守っていた隆一が勢いよく上半身を起こした。
「ああもう気持ち悪いな。一家の大黒柱なら、もっとどっしり構えとれよ。派遣切りだかなんだか知らんけどな、いまの親父、ほんま女々しいで。鳥肌たつわ」
わたしの制止をも振り切って、隆一は声を荒げた。
「これでもオレ、親父のこと尊敬しとるんやで。オレの理想の親父は、そんな弱音なんか吐かん」
家ではもちろん、校内でもなかなかの悪だという噂の隆一が、吐き捨てるように口にした言葉にわたしは一瞬戸惑った。ちらりと盗み見れば、父もわたしと同じようななんとも言えない表情を浮かべている。
「――ちょっとちょっと、ほんまか? いまそれ言うたのあんた? テレビちゃうよな。あんたがお父さん尊敬しとうとか、初めて聞いたで」
「恵は黙っとけよ」
「いやいや、お姉さんは黙ってなんていられませんよ」わたしはこみ上げる笑いを堪えるので精いっぱいだった。「たしか、オレの尊敬する男はブラッド・ピットや、とか言っとったよな」
「はあ? んなこと言うた覚えないわ」
「言うた言うた。ぜったい言うた。昨日、映画見ながらぶつぶつ言っとったやん。ブラピかっこええなぁ、とかなんとか」
「たしかに映画は見とったけどな、そんなことは一言も言っとらん」
「いやいやいや、お姉さんは横でしかと聞き届けましたよ」
「……ほんま鬱陶しい女やな。そもそも、それとこれとは話がべつやろうが。暗い部屋でひとりで本でも読んどけ」
「ちょっと、痣できたらどうしてくれるん」
足で蹴りつけてくる隆一にガンジーの教えを説きつつ、横目で父の表情を窺うと、そこには弱々しくも確固たる笑顔があった。その顔が見られたことで、わたしは肩の力が抜けていくのを感じた。一家の大黒柱ともある人間には、やはり浮かない顔は相応しくない。
下らない茶番に巻きこんだことの見返りには、隆一に気がすむまで蹴らせてやることで帳消しにしてあげようと思う。
「いい加減、仕事見つけんとなぁ」
夕食のあと、父はビールの入ったコップを手に眉尻を下げた。
「なんでそんな焦れるん」
「隆一も春から受験生やろ。高校入ったらまた金かかるようなるんやから、これ以上恵や母さんにばっかり負担かけさすのは、やっぱり父さんのプライドが許さへんねん」
ぐい、とコップの中身を一気に空けると、父は赤く染まった頬を歪めた。鶏のから揚げを口に放りこむと、おかわり、と言うようにコップをわたしの前に差し出してきた。
新しく開けた缶からビールを注ぎながら、わたしは小さく息を吐いた。
「再来年には秀も中学生やもんなぁ。……まあ、見つからんかったら見つからんかったで、わたしがバイト増やすよ。それに高校生なら奨学金もあるし、なんだかんだ言うてもどうにかなるって」
「そうはいかんで。母さんも、いまでこそ元気で働いとうけど、いつ体調崩すかわからんのやで? 最近みたいなオーバーワーク続けとったら、絶対そのうち倒れるわ。母さんも、もともとそこまで体強い人間ちゃうし。もしそうなった場合、いくら恵が頑張ってアルバイトしても、家族五人を養うのはとても無理やろ」
「う――」
たとえ酔っていても変わらない、父の間延びした低い声に諭されると、わたしは簡単に黙らされてしまう。昔からそうだった。どんなに悪いことをしても、父はまったくと言っていいほど怒らない。悪事を働いた本人が理解するまで、いつもと変わらぬ口調でひたすら地道に語りかけるのだ。隆一にも、秀にも、もちろんわたしにも。
中学生のころ、クラスメイトにいつも痣だらけの男の子がいた。のちのちその子は両親から虐待を受けていることが判り、担任やカウンセラー、弁護士までもが動員された大騒動に発展し、一時は学校中その話題で持ちきりになった。だが時代の流行に敏感な中学生の間では、その話がされることは時が経つうちに自然となくなっていき、男の子に最も近かったわたしたちクラスメイトも、そんな騒ぎがあったこと自体忘れたふりをしていた。
その一件があって以来、自分が恵まれた家庭で育っているとは自覚していた。格別に裕福なわけではないが、ひと並みに贅沢ができて、ひと並みに幸せなこの家庭が、どれだけ他人に誇れるものかということも。
卒業して五年が経ったいまでも、ふとしたときに彼を思い出すことがある。さすがに五年も経つと顔の表情までは思い出せないが、飄々とした物腰や柔らかい雰囲気は記憶の片隅にしっかり染みついている。
「……頑張らんとなぁ」
自分自身に言い聞かせるように父はつぶやき、から揚げを頬張った。無言のまま手を伸ばしてビールの缶を取ったので、わたしは自分のコップを手にして応じた。
「そういえば、きょうのカレーどうやった?」
とくとくと注がれていく黄金色を見つめながら、わたしは尋ねた。
「どうって、いつも通り、うまかったで」
丸く目を見開いただけで、ほとんど無表情に近い表情で父は言った。
ふたりの弟は何事もないように二回ずつおかわりして、いまはテレビを見ながらアイスを食べている。その姿が父の背後に見えた。
「そういうことやなくて、……ああいや美味しかったんならいいんやけど、味がちょっと甘かったーとか、具がよく煮えてへんかったーとか、そういう具体的な感想は」
「辛さもちょうどいいし、具もちゃんと煮えとったで。ジャガイモなんか崩れる直前くらいの、ええ感じの柔らかさやったし。父さんあれくらいの固さ好きやわー」
父は一度もおかわりしてくれなかったため、口に合わなかったのだろうかと終始不安だった。だがその言葉を聞けて、すこしは救われた気がした。たしかに一杯を多く盛りすぎた気はしないでもなかったが、食べ盛りの弟たちとは違うのだと思えばそれはそれで納得できた。
「久しぶりに作ったから、出来がちょっと不安やった。でもお父さんがそう言うてくれるんなら、失敗じゃなかったんやろなぁ」
「まあ、恵もうまく作るようなったけど、母さんのカレーにはまだまだ及ばんな」そう言うと、父ははっはと高らかに声を上げて笑った。
「母と同じ味を再現できるように娘が頑張っとうのに、そんなあっけらかんと言わんでもええんちゃうの」
父は違いがわかるのだという事実に、わたしは胸を打たれた。隆一も秀も、なにも言ってこないが、わたしが思っている以上に母の味には程遠いのだろうか。
「なにが違うんやろ。教わった作りかた通りに作っとうけど、自分でも同じ味にはまだまだやなって思うし」
「そりゃあ、母さんが自分なりにうまいって思えるまで試行錯誤して、ようやく考え出したカレーやからな。娘といえど、そう簡単には出せん味になっとるんやろ」
「お父さんも、わたしたちが産まれる前はよう食べとったん」
口の渇きを潤すために、泡のないビールをわたしは喉に流しこんだ。ついつい父のから揚げに箸を伸ばすものの、自制心が働いて躊躇していると、ええよええよ、と父は皿をわたしのほうに寄せてくれた。
「そうやな、月に一回は作ってくれとった。母さんも、いまみたいに働きづめやなかったし。あのころはまだ父さんのほうが忙しかったなぁ」
昔を懐かしんでいる様子の父は、コップを片手に目を細める。
笑うと目の端にいっそう深く現れる皺や、岩のような質感のごつごつした肌、最近ばっさりと切ってしまってからは余計に薄さが目立つようになってしまった髪。父が重ねてきた年月の象徴ともいえる容姿を間近に見て、わたしは自分の青さを改めて思い知る。
脇を通ったときにふわっと臭ってくる加齢臭や、仕事帰りなどで脂ぎっているときの顔はたしかに目を背けたくなることもあるが、それも日頃わたしたちのためにと頑張っている父の苦労の結晶だと思えば、なにも汚いものなどではないような気がする。
「まだ飲む?」
「いや、ビールはもうええわ」
わかった、と答えてわたしは席を立った。つきあいで何杯か飲んだだけなのに、足元がふわふわとして定まらなかった。自分でもわりと飲めるほうだという自信はあったが、どうもきょうは相当早く酔いが回ってしまったようだった。
冷凍庫のなかで冷やしておいたグラスを手に取ると、ひんやりとした心地よさが手のひらから火照った全身に浸透していくように感じられて、わたしは両手でグラスを包んだ。あまりの心地よさにこのまま持っていたいと思いつつも、見れば父はすでに日本酒の瓶を脇に用意していたので、急いでグラスのなかに氷を詰めて戻った。
「きょうはよう飲むんやな」
「そうか?」
グラスに瓶を傾けながら、父はどこか楽しげに笑った。照明のせいか、やけに顔全体が赤らんでいるように見える。
「恵がつきおうてくれるときは、酒がうまいからな」
「なに言うとん」
「母さんも、昔は毎晩つきおうてくれたんやんけどなぁ」ひと口飲んだあと、寂しそうに父は吐息した。
「それはまあ、しゃあないやん。忙しいんやから」
「母さんも物好きやからなぁ。雑誌編集とか、ようやるわ」
「でもそれが、お母さんの夢やったんやろ?」
日本酒の瓶に張られたラベルの文字を目で追いながら尋ねると、まあな、と父は苦笑した。
「叶ったっていうのもあながち間違いちゃうんやろけど、父さんは、ほんとはあんまり妥協せんといてほしかったな。そこはまあ、やっぱり母さんの決めることやし、余計な口出しはしたらあかん思ってなんも言わへんかったけど」
わたしが幼かったころ、母はよく絵本を読み聞かせてくれた。そのときわたしが楽しむ以上に、母の輝いていた目や、楽しげに弾んでいた口調は、断片的ながらいまでもはっきり覚えている。父からも、本人からも聞かされたことはないが、きっと母は絵本作家になることを夢見ていたんだと思う。それがどういう経緯を経て雑誌編集という仕事に就いたのかは、娘のわたしはなにも知らない。
ひとり感傷に浸り始めた父からそっと離れ、台所で夕食の片付けをしていると、ジーンズの尻ポケットのなかで携帯電話が鳴った。着信は母からだった。
「もしもし、お母さん?」
さきほどまで話題に上っていたこともあり、わたしは興奮しながら問いかけた。
「恵、ごめん。きょうも帰るの遅くなりそうやわ。部下の子がちょっとやらかしてもうて。明日の朝までには仕上げんとあかんから、帰れても朝方やろうな」
疲れだろうか嫌気だろうか、沈んだ声で自嘲気味に語る母が「きょうも」と自然な流れで口にしたことに、わたしは物言えぬ寂しさを感じた。
「せやから、ご飯は用意しとかんでええからな」
「わかった。あんな、きょう久しぶりにカレー作ってん」
なるべく陽気な声を装ってわたしがそう言うと、ほんまに? と母は声を弾ませた。小さなその変化に、わたしは大きな幸せを感じる。
「恵のカレーうまいからなぁ。はよ終わらせて帰れるように頑張るわ」
「お母さんのカレーのほうがおいしいやん」
お父さんもそう言っとったで、とぶっきらぼうに付け足すと、電話の向こうで母は高笑いした。
「そんなわけないやろ。そもそもそんなこと、比べること自体おかしいんちゃうの。どこそこの誰が作ったカレーのほうがおいしいとか、言い始めたらきりないで。ひとの感覚にもよるやろけど、おいしいもんはおいしいんやから」
「でも――」
「忙しいと大抵コンビニ弁当とかおにぎりやから、このごろずっとひとの手がかかったもん口にしてへんかったんよ。家帰っても、ほとんどシャワー浴びて寝るだけやしな」
細く長い溜息を吐いたあと、母はふっと黙りこんで、そして静かに口を開いた。
「いまやっとう仕事終わったら一段落するから、また今度おいしいもんでも食べに行こか。出版社の近くに可愛いケーキ屋があんねん。いつも私の代わりやってくれとうお礼や」
そんなんええのに、と反射的に言いそうになり、口をつぐむ。日頃、取材で県内外問わずあちこち飛び回っていたり、家に帰ってきても休むどころか原稿の執筆に追われていたりと、はたから見ていても尋常ではない仕事量をこなしている母が、数少ない安らぎの時間を割いてまで見せてくれる好意を蔑ろにすることは、とてもじゃないができなかった。
「ありがとう」喉から搾り出すように、わたしは言った。
「いえいえ」
疲れているだろうに、明るく気丈に振舞う母の声が、わたしの胸に強く響いた。
もう一言二言、たわいないことでいいから話したい気持ちはあったが、不意に電話の向こうで母を呼ぶ声が上がり、通話口を抑えてなにやら会話を交わすと、ごめん、と母は短く言って通話を切ってしまった。
通話が切れてようやく、忙しい間を縫って電話かけてきてくれたんやな、と呆然とした頭でわたしは思った。つーつー、と無常に鳴り響く電子音からゆっくりと耳を離し、携帯電話をポケットに押しこむと、徐々に自分の置かれている現実が戻ってきた。
流しには洗っている途中の食器があり、その向こうにはしんみりと日本酒をあおる父がおり、そのさらに向こうにはテレビを見ながらげらげらと笑う隆一と、黙々とテキストに向かう秀がいる。
もし母が、いまわたしがいるこの場所にいたとしたら、わたしという人間はどこでどんな表情をしているのだろう。弟たちに混ざって、テレビを見て笑ったり宿題を教えたりしているのか。それとも、父とふたりで静かに杯を上げているのか。はたまた、片付けをする母の手伝いをしながら、家族間の下らない話に華を咲かせているのか。
ひとりで部屋にこもっている自分は、想像こそすれどまったく現実味がなかった。
当然みんなそれぞれ長所と短所があり、ときには一緒にいるのも鬱陶しくなることもあるが、なんだかんだ言ってもわたしは家族のことが好きだ。ひとりで部屋に篭ってテレビを見たり音楽を聴いたりするよりも、誰かとだらだらとした時間を過ごすほうが遥かに居心地がいいし、心が安らぐ。
いまに限ったことではないが、この先もし家族を失うようなことがあったら、わたしは独りきりでも生きていけるのだろうか。
茜色の空の下、だだっ広い広場にわたしはひとり、ぽつんと立ち尽くしていた。
いくらあたりを見渡せども、ある程度離れたところから景色は陽炎のように揺らいでいて、ここがどこなのかもわからない。地面の砂粒が空の茜色を映して、視界のあちこちできらきらと輝いている。
適当に歩き回ってみるものの、景色は一向に変わる気配がない。また、どの方向を向いても、わたしの影は常に正面に伸びていた。
ぼうっとした視界のなか、唯一妙に研ぎ澄まされた聴覚に、小さな子どもたちが歌っているらしい花いちもんめのフレーズが流れこんでくる。子どもたちの可愛らしい声は、最初のうちこそ遠くで歌っているようなおぼろげなものだったが、すこしずつすこしずつ、声量を増しながら鮮明なものになっていく。
その場に立ったまま、どこからか近寄ってくる声にわたしは身を委ねている。
ぞくりと背筋が震え、声の主を捜して首を振るものの、その姿は一向に見当たらない。
両手で耳を塞ぎ、目をつむり、すべてを遮断してわたしはその場にしゃがみこんだ。それなのに、声はわたしの手をものともせず、耳の奥にまでただ響き続ける。
聞こえるのではなく、わたしが音を発しているのではないかとさえ思い始めたとき、突如なんの前触れもなく声が止んだ。
静寂に包まれたあたりには、風のうねる音だけが静かに聞こえる。
両手を耳から剥がし、腿に押し付けていた顔を、わたしはゆっくりと上げた。
視界に入ってきたのは、目の前に落ちた自分自身の影。
わたしと同じように、しゃがみこんだ影。
黒く、実体のないもの。
その影の輪郭が、一瞬、波打つようにざわめいた。
「――――」
声にならない声を上げて、わたしはその場から駆け出した。
背後からは、花いちもんめが再び聞こえ始める。
どこまで行っても変わらない景色のなか、わたしは無我夢中で走り続ける。
肌寒さを覚えて目が覚めたのは、深夜三時を回ったころだった。
息は乱れ、服も寝汗で湿っている。普段かぶって寝ている毛布は、見ればベッドの下に無造作に放り出されていた。
日中こそ眠気を誘うような心地よい暖かさだが、夜中にもなると長袖だけでは物足りず、もう一枚なにか羽織っていないと寒くて仕方がない。わたし自身が冷え性であることも大いに関係するのだろうが、日によっては、毛布の上に掛け布団もかぶるくらいだ。
カーディガンを肩にかけたあと、寝起きでぼうっとした頭を抱えて、わたしは居間に下りた。明かりを点け、台所で水を飲んでいると、玄関のほうから小さな物音が聞こえてきた。反射的に身構えるが、ゆっくりとドアを開けて居間に入ってきた母の姿を見て、わたしは肩にこもった力を抜いた。
「おかえり」
わたしが声をかけると、母は驚いたように目を丸くしてこちらを見るなり、びっくりした、と言葉を漏らした。
「まだ起きとったん」
「さっき変な夢見てな。なんか目、覚めてもて」
「ふうん」
とくに関心もなさそうにうなずいたあと、ふらふらと歩いてきたかと思うと、母は食卓に崩れ落ちるようにして席についた。気に入っていると言っていた黒のジャケットに皺が寄るのも構わずに、母はひたすら全身から疲労の色を放っている。
「こんなとこで寝たら風邪引くで」
「わかっとうけどさ」卓の上に突っ伏しながら、母は手をぱたぱたと動かした。「ほんま疲れた。あかん、もうあかん」
いろいろと知りたい気持ちはやまやまだったが、ようやく終わらせてきた仕事について、いまさら根掘り葉掘り聞くのも気が引けた。聞かれる側にしてみれば、それは鬱陶しい限りだろう。母も、いまは仕事のことは忘れたいはずだ。
「明日は休めるん」水の入ったコップを持って母の向かいに座り、わたしは尋ねた。
しかしすぐに返事は返ってこず、三呼吸ほどの間をおいてから母は上半身を起こし、卓の上に両手で頬杖を突いてようやく口を開いた。
「いちおうな、休みはもらってん。ここんとこ毎日つめっぱなしやったしな。さすがに休まんと倒れるわー思って」
半目で語る母に相槌を打ち、わたしはコップの水に口をつける。
「でも昨日のきょうやし、午後に一回様子見に行かんとなぁ」
なんでそこまで、と口にしたところで、わたしは焦って視線を逸らした。すると母はくすっと笑い、後ろでひとまとめに結っていた髪を下ろしながら言った。
「ごめんな。ろくに家族の面倒見いひん母親で。でも私、いまの仕事に誇り持ってんねん。家のことすっぽかしてまでやっとう仕事やしさ、中途半端にはしたくないんよ。それだけは恵にもわかってほしいな。……それちょっとくれる?」
わずかに首を傾けると、わたしの手のなかにあるコップを母は目で示した。コーヒーでも淹れようか、と差し出しながら尋ねるものの、そんなんええよ、と母は笑ってコップを受け取った。
「また増えたん」
コップを口元まで持っていくと、口をつける直前で母は視線をわたしの手元に向けた。
「なにが?」
「いや、それよ。前からふたつやったっけ」
指で差された手首を見て、わたしは首を横に振った。「うん。なんも増えてへんよ」
あらそうとでも言いたげな表情で母は水を飲むと、コップを置きながら背もたれによりかかって伸びをして、ひとつ大きな欠伸をした。
「寝るときもそんなんつけとったら邪魔ちゃうん」
「べつに、これくらい邪魔んならんよ」
そう言いながら手首を返すと、ブレスレット同士がこすれ合って小さな音を立てた。
いま、わたしの左手には、ふたつのブレスレットがついている。ひとつは鎖状のシンプルなもので、鎖のひとつひとつがハート型になっている。元町の出店で購入したもので、銀製かと思いきや、しばらくもしないうちに鍍金だとわかって、たしかに安かったよなぁと落ちこんだ記憶がある。
もうひとつはティファニーのブレスレットで、こちらは正真正銘の銀製だ。全体的にシックで落ち着いた雰囲気が気に入っており、手にしてからもう数年が経つが、定期的に手入れをしているおかげもあってか未だに輝きは褪せていない。
「ええなあ、ティファニー。私もほしいわ。誰か買うてくれへんかなあ、お父さんとか」
「お父さんはいまちょっと厳しいんちゃうかな」
わたしが苦笑すると、せやな、と母も口端を歪めた。
「昔は事あるごとにようプレゼントくれたんやけどなあ。千枝子、これやるわー、なんて言うて。まあ素直に嬉しかったけど、普段から勢いと都合ばっかよくて、ほんま困ったもんやったわ」
「いまのお父さんは、どっちも見る影もないな」
「ほんまそれ!」
母がいきなり声を張り上げたので、瞬間わたしは心臓をなにかに鷲掴みされたような衝撃を受けた。大袈裟かもしれないが、母の声は地声の時点でもかなり甲高いため、近くで急に大声を出されると本当に耳がきんきんする。
「いつまでもへこんどらんと、いっそ農業でも始めたらええんちゃうのって思うけどな。最近、農業流行っとうし。最先端やで、最先端。うちでも先月号でちょっとした特集組んだくらいやし」
ついさきほどまで倒れそうなほどに弱っていたのに、いまでは八時間ばっちり睡眠をとって、さあ溜まってる家事でもこなすかと言わんばかりの威勢のよさだ。
相変わらず母の変わり身の早さは目に余るものがあるが、とりあえずわたしとしてはいきなり大声を出すのはやめてほしい。どういうわけか、わたしの体は昔から突然の大きな音に敏感で、ひどいときには長距離を走ったあとのように呼吸が乱れて汗が噴き出ることもある。病気ではないかと疑った時期もあったが、そこまで急を要するものでもなさそうなのでずっと放置している。
「でも神戸やと、まず農業なんてする土地がないんちゃうん」
指先に動悸を感じながら、それを鎮めるようにわたしが声のトーンを落として言うと、母は頬杖をつきながら薄く笑った。
「どうせ大半は面倒臭くなって、半年も持たんとやめてくんやで。飽き飽きしとう現実から逃避しよ思て手出すけど、やっぱ多少辛くても現実が一番やねん、現代人は。趣味で体力使うくらいなら、その時間を余暇にあてたが手っ取り早いわーって」
「まあお母さんもそのひとり、と」
「ようわかっとうやん」
綺麗な歯並びを誇示するようににんまりと笑みを浮かべたあと、横に投げ出してあったバッグを拾い上げてなかをごそごそと漁りながら、まあなんや、と母は言った。
「家庭菜園程度なら、私でも世話できそうやし、ええんちゃうかな」
バッグからピンク地に黒いドット柄のシガレットケースを取り出し、バージニアスリムを一本くわえて火を点けると、母は顔を横に背けて細く煙を吐き出した。
鼻につく臭いにわたしが思わず眉をしかめていると、母は意外そうな視線を寄越してきた。
「禁煙なんかしとったっけ」
どう言おうかとほんの数秒考えたものの、けっきょくなにも浮かばなかったのでわたしはありのままを口にした。
「自分で吸っとったら気にならんけど、ひとのたばこはどうも苦手で」
「そうなん。知らんかったわ」
卓の隅にある灰皿を引き寄せようとする母の手を遮って、べつにええよ、とわたしが目で訴えると、母は黙って引き寄せた灰皿に灰だけを落とした。
「まあ、そういうことやから」たばこを片手に、うんと一度母はうなずいた。「お父さんにするなら家でやりって、言うとって」
「そんなん自分で言えばええやん」
「なんか恥ずかしいやんか」
まだ半分も吸っていないたばこを灰皿に押しつける、その年季の入った動作とは裏腹に、思春期の女の子みたいなあどけない笑顔を浮かべたまま、母はそっと目を伏せた。
もう寝るわ、と言って寝室へと戻る母の横顔には、長時間の仕事による疲労はもちろんのこと、それ以上になにやら楽しげな色が浮かんでいた。
職場での姿は見たことがないが、家で原稿に追われているときの姿を見る限りでは、母の仕事の壮絶さには毎回圧倒されっぱなしで、見ているこちらが不安にさえなってくるほどだ。ぱっと見では資料を傍らにひたすらパソコンに向かっているようにしか見えないが、鬼気迫るその横顔には、家族という身分とはいえ話しかけることすらはばかられる。
自分の仕事に全力を注いでいるのに他ならないのだろうが、もうすこし肩の力を抜いてもいいんじゃなかろうかとぼんやりと思いながら、闇に沈んだ街並みをわたしは開け放った窓から眺めていた。
窓枠にもたれながら白く煙る息を吐き出せば、すぐに緩やかに巻く風がさらい、そして夜の黒に溶かしてしまう。
深夜、すっかり寝静まった街並みを眺めていると、ひとや車の喧騒も、変に浮ついた心も、止まることのない時間の流れでさえも、夜が闇という名の海になにもかも沈めてくれるおかげで、わたしは無駄な物事を一切考えずにいられるのだ。
外を見るときは、冬でも窓は必ず開ける。身を裂くような冷気でさえも、体が空気に馴染もうとしているのだと思えば大した苦行ではない。
いつごろからこうするようになったのか、それは遥か昔のことのようでもあり、つい最近のことのようでもある。憶えていないだけなのか、忘れるほど昔のことなのか。それを考えることも、こうして外を眺めているとなんだかどうでもいいことのように思えてくるのだから笑うしかない。
白い陶器の灰皿に落としたたばこの灰は、一瞬だけ赤くきらめいて、すぐに光を失った。
煙を吸いこんでいない状態で息を吐くと、もう白く煙ることはなかった。
今年も春が来たなあと思うと、自然と頬が緩くなる。
春はいい季節だ。暑くも寒くもない過ごしやすい気温はもちろん、躑躅や椿などの綺麗な花は色鮮やかで見た目にも楽しい。買い物に行くときなど、普段からよく通るソメイヨシノの並木道は近所でも有名で、満開になると桜の花が空を覆い隠してしまう。薄く桃色がかった視界に花びらがひらひらと散っていく光景は幻想的で美しく、歩道の脇で花見をしているひとたちを毎年一度は見かけるほどだ。開花予想は三月末ということなので、今年も半月後には目にすることができるだろう。
おいしい食べ物もたくさんある季節だけに、作る側としても楽しいのがいい。いまの時点であってもあれやこれやと思考を巡らせているだけで、何時間でも暇が潰せる。
「とにかく――」
たばこをもみ消して窓を閉め、自分自身に言い聞かせるようにつぶやく。
明日は久しぶりに家族全員揃っての朝食だ。
寝坊ができないプレッシャーとともに、わたしはベッドに潜りこんだ。