鳴動3
北見屯田タイムス社は、道民である西田でさえも、この事件まで社名を一度も聞いたことがない北見地方専門の弱小地元紙である。行く直前に調べた限りでは、朝刊・夕刊などの日刊紙ではなく、週刊によるコミュニティ紙のような形の発行のようだ。故に社屋もおそらくかなり小さいものだと思いこんでいたが、実際に訪ねると、そこそこの敷地面積がある5階建ての自社ビルにあり、1~3階をテナントとして貸し出しているようだった。おそらく、新聞社というより、実態としてはテナント貸しで食べている会社なのだろう。
4人は、訪問する前に電話でアポを取っていたこともあり、スムーズに5階にある新聞社の本部の応接室に女性事務員により通され、懸案の記事の確認のために担当者を待っていた。やがてやって来た初老の担当者が西田達に渡した名刺には、「社長兼編集長 田上 正義」と印字されていた。おそらく、社員も社長含めて数人しかいないのだろう。西田も自己紹介と他の3人を簡単に紹介すると、世間話もそこそこに、すぐに社長が持ってきた記事について確認することにした。
確かに記事内容は吉村の報告通りで、日付は5月18日となっていた。時期的にも丁度幽霊がJRの運転士達に目撃されるようになった直前に該当する。4人はお互いに目配せして頷きあった。社長が言うには、記事を書くための取材は5月12日だったらしい。田上と遺骨採集の有志団体である「常紋トンネル調査会」の会長とが知り合いだったので、会長が取材してくれるように依頼してきたことが、記事のきっかけだという。
「田上社長、いきなり押しかけた挙げ句申し訳ないんですが、実際発行部数はどの程度で、どこに配布しているか教えていただけますか?」
西田の問いに田上社長は、
「そうですねえ、北は上湧別あたりから南は陸別、西は留辺蘂、東は網走辺りまで、全体で1000部程度です。ご覧の通り不動産で食ってるようなもんですわ。こう見えても、祖父の代から長くやってる新聞社で、一昔前までは日刊紙だったんですよ。まあ私の代で週刊にして、親父達が遺してくれたこのビルでなんとか、新聞社の体面を保ってるってところですが・・・。ちょっと待ってくださいね、購読者の名簿持ってきますから」
と頭を掻きながら答えた。
数分した後、社長の持ってきた名簿は、個人よりも圧倒的に会社や飲食店などの名前が並んでいた。おそらく「付き合い」や「客」のために取っているのだろうと推測された。すぐにコピーを頼み、先程の事務員が名簿をコピー機に掛けている間、沈黙を衝いて社長が西田達にさりげなく伺いを立ててきた。
「この記事って例の生田原の事件と関係あるんですか?」
西田はそれについて特に答えることはなかった。あいそ笑いを浮かべると、直接の部下である吉村に目で合図する。やはり捜査情報はそう簡単に漏らすわけにはいかないからだ。まして、昔はおそらく記者を通して警察ともそれなりに付き合いはあったのだろうが、今は週刊の弱小紙相手では尚更である。ただ、当然捜査協力していただいた以上、無碍に断ることもまた無礼であろう。そんな西田の意図を察した吉村が、
「ええ、まあそんなところです」
と濁した形で回答した。社長もそれ以上は聞かなかった。今の形態の北見屯田タイムス紙面では、仮に情報を得たとしてもスクープ性は発揮できないということもあっただろう。
「あ、それから記事内容について知っていたということで、取材先の有志団体の連絡先と、ここの新聞社の記者とか従業員の方のお名前も教えていただけますか?」
その直後、北村がちょっとした間に発した言葉には、田上もさすがに驚いたようだ。
「え?常紋トンネル調査会の連絡先はともかく、うちの社員まで調べるんですか?」
と素っ頓狂な声を出した。
「あくまでチェックであって、参考人事情聴取とかは余程のことがない限りしませんので、ご心配なく」
と西田がすぐにフォローしたが、首を2、3回振って、やや不満げな態度を社長は隠さなかった。
他の情報を仕入れ、更にコピーを受け取ると、取り敢えず必要な情報を得たこともあり、4人はトータル1時間ほどでタイムス紙を後にすることにした。去り際にちょっとした謝礼金である「報奨金」を社長に渡すと、社交辞令として一度は断った田上氏ではあったが、最終的には受け取ってくれた。西田達も色々迷惑かけたこともあり、受け取って貰って反って心理的には助かった。