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序章1

初めてお読みになる方は、修正版を逐次更新しておりますので、そちらでお読みください。http://ncode.syosetu.com/n5921df/

「辺境」=中央から遠く離れた地域。国境


※※※※※※※


「係長、最近常紋トンネル、良く出るらしいですね……」

先に昼飯を食べ終わった吉村が唐突にボソッと言う。

「ジョーモン? トンネル? なんだそりゃ、どっかのトンネルの名前か?」

西田はチャーハンをかきこみながら、気のない返事をした。

「ええっ? マジっすか? 常紋トンネルの話知らないんですか!?」

昼飯時で混んでいる定食屋であることに、彼なりに周りに気を使いながらも最大限の驚きを口にした吉村だったが、すぐさま理解したかのように静かに話を継いだ。

「ああ、係長は札幌出身ですからねぇ。知らなくても別におかしくはないか……。ただ結構有名な心霊スポットですよ、北海道の中じゃ、いや全国的にも結構有名みたいですが」

 子供の頃から、特別心霊やら超常現象に興味のない西田としてみれば、そう言われたところで何処吹く風であったが、部下が折角しはじめた話の腰を折るわけにもいかず、多少興味のある体を装う。

「心霊スポット? ってことは出るのはあれか?」

「ええ、まさにその幽霊ですよ幽霊」

「で、それはどこにあるんだ?」

「となりの生田原ですよ。と言ってもほとんど留辺蘂でもありますけど」

「あそこら辺はたまに車で通るが、トンネルなんかあったか?」

「いや、道路じゃなくて鉄道、JRですよJR」

西田の質問が終わる前に、吉村が話を遮った。言われてみれば、JRに乗ったときに生田原と留辺蘂の間で長いトンネルを通ることがあったのを思い出す西田。

「ああ、あそこか……。確かにちょっと長いトンネルがあったな。そこに出るのか」


※※※※※※※


 常紋トンネルは、北見から名寄に抜ける鉄道路線敷設(オホーツク環状線構想)に伴い、大正元年から3年間かけて建設された、長さ500m超のトンネルである。鉄路敷設構想の初期時点で、網走方面からオホーツク海側を、湧別方面に抜ける海岸回りルートと、一度内陸に向け、留辺蘂、遠軽を通り湧別に抜ける、山の手回りルートの2通りが考えられた。

 当然のことながら、路線がくれば地元の利益になる、両予定沿線の住民、政治家による誘致合戦が激化。そのため鉄道院・後藤総裁(国鉄時代の国鉄総裁にあたる)は比較調査をする必要性にせまられることになる。


 結果、1909年(明治42年)に調査のため技師を派遣するも、常紋郡境(常呂ところ郡と紋別郡の間のこと)の過酷な自然環境に彼らは驚き、形勢は海岸回りが優勢になったように見えた。しかし、もはや政治問題としての性格を帯び、山回りルート周辺住民による、政治家への圧力が功を奏したためか、中央政府も山回りルートを採用せざるをえなくなった。そしてその決定が、後に大きな悲劇を生むことになる。


 こうして始まった山回りルートの敷設工事の中でも、その困難さで群を抜いていたのが、常紋トンネル付近の工事であった。資材を運ぶのにも苦労する密林、ヒグマの出没(現在でもヒグマの生息地域である)。そしてトンネル内は雪が積もらないので、過酷な冬場も作業を続けた(当時冬場に作業することなど、トンネル工事でなければ到底無理であったろう。ましてかなり積雪の多い地域だ)。当然のことながら、まともな人間ならば、逃げ出すような環境下においての工事である。つまり作業には、多数の「騙されて」連れてこられた「タコ部屋労働者」が当てられることになった。


 食事は栄養の他ないもので、朝は夜明け、夜は日没までの作業。担いだモッコにより肩口は擦り切れ、その傷口にウジが湧くというような症例も普通に見られたようだ。また作業効率が悪かったり、言う事を聞かないと、ムチやスコップで殴られ蹴られの虐待を受けた。当然、栄養不足から脚気や病気になる者も続出。衰弱して働けないと見なされるや、生き埋めにされる者(当時脚気は伝染病だという説が有力であったことも遠因となっている)、逃げ出して運悪く捕まり、リンチにより死ぬ者、捕まらなくても熊に食われる者などが多く出た。そのため犠牲者は100人を超えるのはほぼ確実、中には『400人近くでたのではないか』という証言をする当時の工事関係者もいる。また、留辺蘂側(北見方面の出口)よりも生田原側(遠軽方面の出口)で死者が多く出たとの証言もある。そしてそういう凄惨な過程を経て、常紋トンネルは、大正3年にやっと完成し、大正5年には「湧別線」全線開通に至るのだ。


 しかし常紋トンネルを世間一般に認知させることになるのは、むしろその「事実」以上にその後の「幽霊話」である。当時の常紋駅(現在は廃止)勤務になると、家族や職員に病人が出るということで、常紋駅(周辺)勤務は、非常に国鉄職員からは嫌がられたものらしい。


 もっとも、具体的に「火の玉を見た」「信号が消えた」「うめき声が聞こえる」という話や、「列車がトンネルを通過しようとすると、目の前に血だらけの男が立ちふさがったため、急停車して調べても誰もいない。そして出発しようとすると、また現れるの繰り返しで、いつまで経っても出発できなかった」、「駅の官舎に幽霊が出た」などの話が、常紋トンネルに関わる国鉄職員の間で広まっていたところを見ると、単に「気味が悪い」を通り越して、嫌がられるのも当然だろう。まして常紋トンネルはまさに山の中にあって人里離れた場所だ。気持ちは十分過ぎるほどわかる。


 結局、昭和34年に当時の留辺蘂町や地元有志、中湧別保線区(国鉄)の協力により「歓和地蔵尊」が建立され、犠牲者の霊を慰めることになる。これは周辺住民、国鉄職員の不安を和らげることとともに「ダイヤの乱れ」をなくしたいという国鉄の想いがあったようだ(公には、建立に国鉄の関与があったことにはされていないようだが、単に職員の嫌気を和らげるだけでなく、事故や列車の停止などの「現実の」影響もでていたため、国鉄としても慰霊せざるをえなかったと思われる)。


 そして実際に常紋トンネル周辺では、大正時代から現在までに犠牲者と見られる人骨が多数発見、または掘り起こされている。また、この地蔵尊とは別に、タコ部屋労働犠牲者の慰霊碑が、金華駅からちょっと離れた旧金華小学校跡地に昭和55年に建立された。


 ところで常紋トンネルに、タコ部屋労働者の「人柱」が立っているという話は、工事終了直後から既に地元では噂されていたようだ。あたかもそれを裏付けるような発見も昭和45年にされている。崩れかけたトンネルの壁から頭蓋骨が、保線区の職員によって発見されているのである。だが、それ以上の人柱らしきものの発見の証言は、得られていないので、人柱として埋められたものかどうかについては、議論の余地があるだろう。いずれにしても、昔からの多数の人骨の発見が、如何に犠牲者を多く出したかを物語っていることには、疑問を挟む余地はない。


 北海道の鉄道や道路建設には、多数の囚人やタコ部屋労働者が関わっていることは紛れもない事実で、犠牲者も数多く出た。常紋トンネルのほかにも、旧根北線の越川橋梁など「人柱伝説」がささやかれている場所は多い。そして、行政、特に警察も、そういう非人道的、あるいは触法行為を事実上「見逃してきた」という(賄賂等で、より積極的に業者側につくような警官もいたらしい)「現実」に対して目を背けることはできないだろう。


 北海道の開拓史には多くの「裏」の側面があることは否定できない。しかし残念ながら多数の犠牲を払ってできた鉄路が廃止され、「地域」が過疎化、高齢化するに至り、そういう事実は闇に葬られつつある。そして今現在、我々は、それを指を咥えて見ていることしかできないのが、実際のところであろう。



※※※※※※※

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