お兄さん、倒れる
『天涯孤独な青年、哲生。彼は独りで生きる事に慣れながらも何処か虚しい日々を送っていた。
そんな中、不遇にも不景気による派遣切りにより寮も追い出され行く宛てもなくなる。
しかし、突如現れた弁護士に自分には祖父がいたのだと知らされ、おまけに家、山を遺産相続し一気に資産持ちに。それも束の間、管理が分からず、どうにか高く売り払う方法を探し出す哲生。するとその晩、会った事もない祖父の霊が枕元に現れて――』
図書室の先生が「二年前の新人賞だけど、オススメよ」と、紹介してくれてその本を知ったのが中一の夏。裏表紙のあらすじを見てファンタジー要素もあったので、読みやすいかなと借りたのが最初。
本を開いたのは帰宅して、寝る前に布団の中で。その夜で読み切ってしまった。
笑って号泣して、その年の夏休みの宿題の読書感想文は指定図書でもないのにも関わらずにこれを選んだ。一夜でこの作品の虜になっていたのだ。
それから暫くして秋の終わり、同じ作者で別の本を書店で見つけた。中学生の小遣いではハードカバーの書籍はやや高いけれど思い切って購入した。今度は短編の連作物で、病気療養の為、トトロの森のような緑深いとある田舎に引っ越して来た少女と、その森の神様と周りのあやかしとの交流と友情、初恋、生涯を描ききっていた。
二作目まで読むと、好きな作家と聞かれたら真っ先に「木之蓮」と答えるくらい、私がこの作家の虜になるのは自然な流れだった。
それから四年、今では新刊が出るのを楽しみに本屋をチェックしている。ついでに図書室常連で図書委員に癒着があるのをいい事に、既存本を全作入荷させたりと、ある種の布教活動までの入れ込み具合だ。
その大好きな作家の正体が同じマンションに住む鈴ノ木さんだと本人が言う。
疑うつもりじゃないけど、家のパソコンで調べるとヒットした当時のある新人賞の授賞式の記事。そこには出版社のお偉いさんと思わしきオジサン達に囲まれて緊張気味の笑みを向けて握手する鈴ノ木さんがいた。
今より少し若い。というか幼い鈴ノ木さん。
記事を読めば若干二十歳の現役大学生の受賞と分かる。おまけに鈴ノ木さんは顔もいいから当時はかなり話題になったみたい。その時の私と言えば小学五年生。知らなくて当たり前か。求める声は高くても木之蓮は受賞後は特に表に出ていなかったようだし。
それでもカバー折り返しにある著書紹介で、木之蓮がまだ若い作家だとは知っていた。
でも知っていた所で、本人が目の前に存在するなんて考えた事はなかった。だって、作家なんて小説と同じくらい別世界の人みたいに感じていたのだから。多分誰だって普通、考えない。同じマンションの住人が自分の好きな作家だとか。しかもそれが行き付けの本屋の店員をしてるなんて一発退場レベルの反則だ。不意打ちもいい所だ。
ぐるぐると、私の心は混乱で掻き乱される。
大好きな作家木之蓮こと、本屋のお兄さんの鈴ノ木さんに告白された私。
嘘みたいな本当の話。
だけれど私の木之蓮への好きは勿論恋愛のそれじゃない。なのに、鈴ノ木さんの私への好意を聞いて更にその正体を知った瞬間かなり高揚したのは事実だ。
私はどっちにときめいたのだろう。
そう思うだけで何だか頭が痛かった。
* * *
「バッカねぇ、あんた。同じ人物なんだからそこに境界線つけて難しく考えるこたないでしょ」
昨晩の私の鬱々とした悩みを一喝したのはサトだった。
登校して開口一番、「昨日はどうなったんだ、聞かせろや」とヤクザ顔負けに管巻いて迫るサトは正直怖かった。
聞かれたからって訳じゃなく、サトにも相談したかったからこうして朝のSHRが始まるまでのこの時間に話したのだけれど、ホントにサトははっきりと言ってくれる。朝にも負けない清々しさだ。
「素敵に美人な男が告って来た。しかもそれが自分の好きな作家だったってのが加わっただけで何が変わるわけ。お兄さんが弁護士や医者だとしても驚くでしょ」
「そうかも知れないけど」
それはざっくりし過ぎじゃないのと私は閉口する。
確かに、本屋で働いている鈴ノ木さんが実は弁護士や医者だと言われてもびっくりだけど、好きな作家の正体を知るというのとは意味が違うのではないだろうか。
「まぁた難しい顔してー」
黙っているとサトが私を小突いて来る。
「頭で考え出した恋なんて打算よー」
にやりと笑う姿はまるで姉御。彼女は目力が強いからか、同級生なのにその迫力に圧倒されてしまう。
「恋愛は脊髄反射なの。ぐずぐずしてたら獲物は盗られるんだから」
背筋を逸らし、胸を張るサト。さすが、自称肉食系女子。私にとって無茶だと思う事を平然と言ってくれる。
「大体、私とサトじゃ恋愛経験値も偏差値も違うのに、のっけから鈴ノ木さん相手は難題だと思うんだよ!」
「あー。誰かがテレビで恋愛には予防接種は大事とか言ってたっけ。小さな恋を重ねて耐性付けて慣れておけって意味なんだけどさ。――てゆか陽幸って初恋もまだだっけ?」
「あ、あるけどね」
告白せずにただ目で追うだけで満足して、相手が転校して終局した単調なものでしたよ。それは中二の出来事だから高校で出会ったサトは知る由もない。彼女は意外そうにへぇと言う。そして何処か明るい顔だ。
「初恋経験があるなら鈴ノ木さんに対しても自分の気持が分かるんじゃない? ドキドキするんでしょ?」
「あの人にあんな事されてドキドキしない人がまずいないよ」
息を飲む程に艶のある瑞々しい眼に、石膏細工のように整って滑らかな鼻梁。作家という家に籠る仕事柄と、案外力仕事のある書店員も勤めているからか、男の人にしては白い肌の割に引き締まった体を合せ持つような狡いと妬みさえ覚える造形の人相手に心臓がぶれない程、私は無神経に作られていない。
「大体、鈴ノ木さんにするドキドキは緊張で、初恋の時とは違うよ」
「たとえば?」
問われて私は言葉に詰まる。だって言葉に出来るほど明確に気持ちをまだ把握はしきれていないのだ。
無理矢理例えるなら、初恋の時は気持がふわふわほわほわみたいな、見ているだけで幸せで、でも同時に何処か切ない気持が溢れて、訳もなく泣けるような瞬間が不意に訪れる。
そんなものが詰まってるのが恋だと私は思ってる。
対して、鈴ノ木さんと言えば会うとドキドキはするけどそれは緊張から来るもので、それ故にまともに目も合わせられない。戦慄に近いと思う。
そんなもの、明らかに恋とは呼べないだろう。
「あれは一種の恐怖だと思うな」
「恐怖かぁ」
噛み締めるみたいにサトがぼやき、ふうと息を吐く。
「お兄さん、報われねぇ」
言ってる事は同情なのに、何故かサトは愉快そうだった。
* * *
報われない。
言われてみればそうなのかも知れない。
朝、サトに言われた言葉を帰りがてらに反芻し、その意見に同意した。
私の何がいいのか理解出来ないけど、鈴ノ木さんの言ってくれた言葉にきっと嘘はないのだろう。
私を好いてくれるのは嬉しいけども、当の私がそんな鈴ノ木さんに怯えてしまうのはあんまりだと分かる。
嫌い。とは違う。
嫌悪ではないのだけど、それでもときめくでもないんだ。
「頭いた……」
普段の学校の勉強では出題されない問題だからか、頭痛までして来た。家まであと僅か。帰ったら痛み止めでも飲もう。
そう決めて家までの距離を足早に進むと、自宅マンションが見えた所でエントランスの生け垣を背に、背中を丸めて蹲る人影が見えた。
(こんな時間に酔っ払い?)
そう思って、警戒しながらその脇を通り抜けようと足を忍ばせてはっとする。
「鈴ノ木さん!?」
そこにぐったりとうなだれてる見知った人に私は声を上げた。
私の声に気付いたか、目を開けた鈴ノ木さんは半ば虚ろに視線を泳がせただけでまた意識を手放す。
「……どうしよう」
こんな狼狽える場面に立ち会い、私は半泣きで鈴ノ木さんの冷たい手に触れた。
 




