お兄さんかく語る/過去
お兄さん視点の回想
初めは、最近よく見かける子だなって程度の意識だった。
彼女は主に下校途中に顔を出すように制服姿が常だった。
春に入ってから見かけるようになったから多分新入学の一年生だろうか。この辺りで有名な進学校の制服も真新しく、顔付きもあどけない。だがおそらく同年代の子とと比べたらいくらか大人っぽく見えるだろう。物腰はつい最近まで中学生だったとは思えない落ち着きがあり、スクエアフレームの眼鏡が大人っぽさをより際立てている。
特に目を引くような美人ではなく、磨けば光るんだろうなぁくらいには思ってたがそれだけだ。わざわざお近付きになろうとは考えない。第一相手は高校生だ。
だけどどうした事だろう。気付いたら最近の俺は彼女が来店する度にその姿を目で追うようになった。
――あ、また来てる。
見つける度に今日は何を物色するのかとそれとなく観察するようになる。
彼女は毎回本を購入する訳ではない。自動ドアをくぐり、レジ前の新刊コーナーで平積みの本を確認するとそのまま新書コーナーの棚を眺めながらざっと歩き、ノベルズコーナーへ。興味あったものを手に取り中身に暫し目を通してコミックコーナー。こちらは中が読めないから主に新刊をチェックしている風だ。それから雑誌、ムックコーナーでめぼしい物を見て文庫コーナーへ。多分そこが一番時間が長い。気に入ったものを通いで立ち読んでいるようだった。
今日も昨日立ち読みしていた同じ本を手に取る。本屋に通いで立ち読みして読破したのは何冊いっただろうか。
買え。若しくは図書館で借りろ。
そんな店員の思念すら届かない客。
だけど別に日参でもないし、たちが悪い訳でもない。月に一回以上は何か買ってくれるし、学生のお小遣い制度でやり繰りしているだろう中で多くを読みたいという気持は理解出来る。書店員だからこそ同意する部分もあるからか、彼女はスタッフ内でもちょっと覚えられている常連さんの一人だがそれだけでしかなかった。
それでも彼女の存在がやたら特別に目立った。自分の中だけで。
何故こうも目が引かれるのか不思議だったが、観察している内に気付いた。
姿勢だ。ぴんと伸びた背筋。綺麗に揃った爪先。立ち読みの時だって、凛とした姿勢。
率直に綺麗だと思った。雰囲気美人とでも言うのだろうか。
今時あのくらいの年頃であんな風に綺麗な佇まいの子が何人いるだろう。何か特別な事をやっているのか。お嬢様だとか。――でも持ち物はごく一般的っぽい。なら歌劇団志望? それなら此処に通う暇はないだろう。
色々と人の想像をつつく子だ。
実際は普通の家の子かも知れない。だけどその普通さが、スレた所のない感じがやたら気になるのだ。――と、同僚に言ったらそんなに気にかけているのは俺だけだと言われてしまった。
男性スタッフはどちらかといえば、彼女とよく一緒にいる友人の方が気掛かりらしい。成る程、言われてこっそり注視すれば確かに美人だ。が、俺の中ではそれだけだ。いや、目立つ美人だから眼鏡の彼女の目隠しになって有り難いかも。
――あれ。俺はどうして有り難がっているのだろう。何が有り難いのだろう。
おかしいな。変だな。なんでそんな風に感じるんだと疑問が生じた頃だった。俺の新作の発売日を迎えたのは。
何冊目だっけ。出した数は作家年数を見ると少ないくせに、有り難くも打率が良いだけに自分のペースで書く事を許されている。編集担当曰わく、露出を控えて希少価値を出すだとか寝ぼけた戦略らしいけど、それが功を奏して作家業だけでやれているので頭が上がらない。本屋は作家業に納得しない両親の面目を保つ為、建て前上兼業しているに過ぎない。けど、本はが好きだから選んだ職ではある。直に自分の本を買ってくれる読者を見る機会があるのも続けられる魅力だ。
それはともかくとして、この日は俺としては多分一番の長編にあたる本の発売日だった。ハードカバーの装丁、定価1600円が上下巻。自分の読者が主に学生から二〇代くらいの女性層だから、学生には結構痛い出費だろうなぁと新刊コーナーに自分の本を並べながら思った。
平積みで扱って貰える我が子に僅かに頬を緩ませて迎えた夕刻。現れたのは例の眼鏡の彼女。
おやと思ったのは肩で息を弾ませていたから。いつも彼女は自動ドアの手前で一拍置いて入って来る。なのに今日はともすれば衝突するんじゃないかという勢いでご来店すれば、真っ直ぐに新刊コーナーに向かい、俺の本を上下巻迷わず手に取った。そしてすかさずレジに差し出し、手早く会計を済ませる。視線は本に一点集中。対面する俺などには一瞥もくれないで、お釣りを貰うと本を胸に抱え風のように店を出た。五分とない最短記録の滞在時間だった。
これは、つまり、彼女は俺のファンだと言う事だろうか。
あの慌ただしさは帰宅後速攻で読んでくれるという事だろうか。
……そう思うと何でだろう。唐突に彼女が堪らなく愛しく感じた。本屋で働いていると自分の読者は何度も見ているのに、彼女だけやけに鮮明に心に引っ掛かる。
彼女が今までに立ち読みしていた大先生らに勝った気がするからか。
いや、それじゃあ何か言葉が足らない気がする。
もっとはっきり。もっと明確に。この嬉しさを表すとしたらそれは……。
そうだ。それはまるで両想いと発覚した時のような喜びだ。
正確には違うと頭の隅では理解しているが、俺の中ではこれが一番しっくりと来るベストアンサーだった。
気付かない内に俺は会話もした事のない、名前すら分からない彼女に自分でも驚く程惹かれていたのだ。
これが所謂「通学路で見掛けるあの子にホの字現象」だろうか。
――などとのんきに構えていた恋の初期症状。後に思い知る。そこに待ち受ける苦難の道に。
好意を自覚して改めて彼女を見て気づいたのだが、彼女は殆どと言って、本以外目に入っていなかったのだ。
俺は彼女をずっと目で追っているのにぴたりとも一切目が合わない。視線が噛み合わない。かすりともしない。
自慢じゃないが自分はかなり目立つ容姿の部類だ。仕事の邪魔にならないよう多少地味めにしているが、それでも特に女性受けをする見た目なのは二〇年以上の人生ですっかり自覚している。
だから一目見てくれたらきっかけが生まれる。多分!
だがしかし、声をかけてきっかけを掴むにはどうしたらいい?
「何かお探しですか?」と定員らしく近付けばいいだろうか。
シミュレーションは何度となく繰り返した。だけどいつも寸前で怖じ気つく。
それで気付くんだ。そういや俺、自分からモーションかけた事ないなぁって。
そんな事を兄を通じて知り合った年上の友人のあーさんに相談すると「取り敢えずモテたい男子に謝れ」と言われた。だから謝る。申し訳ない。
小説家という仕事をしているからだろうか、どうせなら運命的に彼女と知り合いたい。そう夢を見ているうちにただ彼女を目で追う生産性のない日々が続いた。
悶々とした思いを三ヶ月重ねた頃か、ある日の帰宅時。この日は早番で上がりで、特に締切も迫るものがなかったのでいつもよりのんびりと歩いて帰ろうかと思っていた。
そうだ、確かあーさんから借りたDVDがあったから、それでも観ようかと職場の向かいのドーナツ屋へ。折りしもこの日は百円セールののぼりが上がっている。ドーナツ食べて自宅で映画鑑賞なんてOLかよと内心ツッコミながらいくつか目ぼしい物を購入し、店を出ると目の前を見慣れた姿勢が横切った。
彼女だ。ひとみちゃん。
彼女の名前は友達との会話から漏れたものを聞いて覚えた。そのひとみちゃんがさっと俺の目の前を横切って歩いている。外で見かけたのは初めてだ。
普通に考えればうちの書店の常連なのだから此処は彼女の行動範囲内。通学路の途中にうちの書店があるとしたら、もしかすると自宅もこの付近の可能性も高い。
その予測は的中し、ひとみちゃんは俺と向かう所を同じくして数メートル先を歩く。俺は彼女を見失わないよう一定の感覚を保ったまま歩く。怪しまれないように。見失わないように。途中、あれ、これ何かストーカー臭くね? とか不安が脳裏を過ぎったけど無視した。
ストーカーじゃない。断じて犯罪行為ではない。たまたま向かう所が同じなだけ。そう自分に言い聞かせる。実は途中、俺が住むマンションへの分岐点を通り過ぎたのだけど、帰りが遠回りになるだけで自宅には辿り着けるから何ら問題はないと自身にかかる疑惑はとことん無視。
無害なその証拠に、その日は彼女が自宅らしきマンションに入るのを見届けた後、何もせず予定通りちょっとの遠回りで帰宅した。ただ、翌月が当時住んでいたマンションがたまたま更新月で、たまたま空き部屋があった彼女と同じマンションに引っ越したけれど他意はないよ。他意はない。本気で。丁度引越しでもして環境を変えたい気分だったんだ。
余談とするならば、引越し後はマンションの住人の活動にはなるべく積極的に顔を出すようにしていたら偶然ひとみちゃんのお母様とお近付きになれはしたけど、俺からは至って不自然なアクションは起こしてはいない。
いつかどこかで何らかの偶然で彼女と近付くきっかけになるかもしれない布石を打っただけだ。
断じて法に触れる事は侵していない事を誓います。
* * *
「――お兄さん、あの子に、ひとみにまだ片想いなんでしょ」
存在を認知されないまま不毛な片想いが一年経った頃、声をかけて来たのはあの子に「サト」と呼ばれる、よく一緒にいる友人だった。
そろそろ上がろうかとバックヤードのドアに手をかけた時を狙ったようなタイミングだった。就業時間なら他のスタッフだって注意もしないし、先客が声を掛ければ他の客も遠慮する。図ったのか。多分、そうだろう。確証はないがそんな感じがする。以前から彼女には自分に近い匂いを嗅いでいた。俺ならこのタイミングで声をかける。
さて、どう答えたものだろうか。
「……あの子って?」
一応しらばっくれる体を繕うが、確信を持って問いかけているだろう彼女はおもちゃを見付けて興奮する猫のように目をランランと輝かせる。……狩りをする目だなぁ。ぼんやり思った。
「白を切るのは想定内よ。それとも名前すらまだ知らない?」
「さあ?」
名前は君のおかげで知っているけど、素直に明かしていいか分からないので俺も負けじとどこ吹く風で営業スマイルを持ち出して嘯く。
「残念。あたし、この手の顔は間に合ってんの。腹の探り合いはやめない? あたしだって確信が持てるまで様子見たんだから、本題に入ってもいいと思うのよ」
大抵の人なら男女問わずこの笑顔で話を濁らせる事が出来る。便利な俺の微笑を同類とも思える彼女はあっさりと切り捨てた。初めからこの手は通じない気はしてたんだ。通例とかお約束的なもので使ってみただけだ。
彼女もそれは礼儀と受け取ったのか、俺の通じない手を用いて同僚が色めき立つ美少女の笑顔を満面に自分のカードを切る。
「あたしね、お兄さんとあの子の橋渡ししてあげてもいいと思ってるって言ったら何してくれるかな?」
違った。これは自分の技を相乗させる為に引き出された妖艶な微笑だ。ぞわりと背筋が泡立った。この言葉が本気なのか真偽も分からないのに、自信ありげな美少女の微笑みは言葉に根拠のない説得力の魔力を乗せる。それはこの停滞感をどう打破して次のステップに踏み込もうかと思っていた矢先の申し出だ。様子見していたという彼女の言は恐らく真実で、俺の現状すら見計らっていたようだった。なんたる悪魔的なタイミング。
だとすれば、そんな彼女の進言に乗るのもやぶさかではない。むしろ彼女の親友の助力程頼もしいものはないだろう。
長い停滞期を見ても、飛びつきたくなる誘い。俺よりいくつも年下なのに、彼女は自分の見目の引き出し方をよく知っているなと教えられる。
すがりつきたい言葉って、ちょっと人の判断力を鈍らせるぐらいに自信ある顔を見せられた方が効果を高めるのだと知った。
「ここじゃ話すのもなんだからどっかでお茶しようよ。勿論お兄さんのおごりでだけど、構わないよね?」
潤いのある唇を突き出して弓なりに見せるが、これを小悪魔スマイルと言うのか。俺の琴線にはちっとも触れやしないが、反論はしない。
答えは一つだ。
「裏口で待っといて」
軍師、古閑智嬢は満足そうにグロスで潤った唇で弧を描いた。




