prologue:お兄さんとこんにちは
あ、これは予想外だわ。
私は“お会計”と案内板が吊るされたレジ台の前に立ち、心の中で密かに動揺した。
乳白色のカウンター越しに立つ、黒いエプロン姿の長身のお兄さんは、思わず息を飲む程の美人さんだった。
うん。「かっこいい」と言うより「美人」、そういう線の細さと中性的な印象を与える透明感のある人。
高校に入学以降、通学路上にあるこちらの本屋を約一年半に渡って利用しているので結構常連のつもりでいたのだけど、店員に関しては確認不足だった。というか目立ちそうな彼の人の存在に今まで気付かなかったのは、本にしか目に行かない私が店員に無関心だったからなのと、今が今なだけに後ろめたい状況で余計にレジ担当を意識しちゃってるからだろう。
因みに、私が後ろめたい理由は本日お買い上げの本にある。
会計に出した一冊の漫画本。
『僕と俺様~愛と欲望の放課後ロマンス~』
露骨なタイトルに加え、これまたカバー絵が露骨に肌を露わにしたセミヌードの少年達が絡み合ったイラストだから、中を見ずとも内容は筒抜けと言ったものだろう。
私はそれを一生に何人間近でお目にかかるか分からない、希少な男の美人さんに会計をして貰う。
なんの罰ゲームだ!
ある意味忘れられない貴重で稀有な体験だけれども、そんな思い出、即刻心のアルバムにしまって鍵してしまいたい一枚だ。
くそぅ。これでドーナツのドリンクセットじゃわりに合わねぇ。
軽く舌打ちをして私は、
「お会計690円です」
これまた胸に震えるイケメンボイスに言われるがままに野口さんを一人差し出すと、釣銭を手に取り早足で本屋向かいのドーナツ屋に駆け込んだ。
* * *
「あっははははは! マジで買ってるよ。ウケる、陽幸サイコー」
「ウケないよ。こっちは一ミリも笑えないよ、ちくしょうめ」
大口開けて笑う友人の口に無理矢理ドーナツを詰め込みたかったが、下手にむせられてとばっちりを食らうのは向かいに座る私だ。取り敢えず冷めたカフェオレを飲んで気持を落ち着かせた。
「一応賭けには勝ったんだから此処の料金はサト持ちだよ。あと、立て替えた漫画代も込みね」
「はいはい。陽幸の食欲には負けたぜ」
白い書店の紙袋ごと渡すと、親友のサトは半分涙目で財布からぴったり漫画とドーナツの料金分を手渡す。
「大体、自分の趣味の本くらい自分で買ってよ。すっごい恥ずかしかったんだから」
「あ、やっぱりレジ担当美人のお兄さんだった?」
「やっぱりって、サト、知ってたな」
「‘萌え’と‘イケメン’が生き甲斐だからね。美人、イケメンにはぬかりはないぜよ」
キラキラと目を輝かせて、サトは夢見る少女のように手を組んでぶりっ子ポーズを取る。ただし土佐弁で。しかし少女的な可愛さより、大人の女性的なスレンダー美人のサトにはあまりハマらずに見た感じはツッコミ要素が多々ある。
ホント、黙ってれば迫力ある姉御な美人なのにこれで噂の腐女子だから世の中不思議だ。
「それで? この時間帯にはあの美人お兄さんがいるから腐女子本を私に頼んだサトさんは、別の時間帯に来店するとかどーでもいい店員のいる他の本屋へ行くとかの選択肢はなかった訳?」
私にまで赤っ恥かかせてよう。
責める目付きでお代わりの入ったカフェオレを飲むと、サトは顔を赤らめて肩を竦める。
「だぁぁって、好きな本を発売日にすぐ読みたいじゃない。でも、あたしのようなシャイなあんちくしょうが美人のお兄さんにボーイズでエロエロな漫画を出せないもの」
「…………」
私の記憶違いでなければ、彼女の部屋のボーイズでエロエロな漫画は結構な数があるのだけれど、それらは自称シャイなあんちくしょうで揃えられる数だと思えない。
「それよりどうだった? 本屋のお兄さん、どんな顔してた?」
「どうって、普通じゃない? 店員でしょ、いちいち客の品に目の色変えないでしょ」
変えたら変えたで私、暫くあの本屋に立ち寄れそうもないけどさ。
フッと花の女子高生らしくもなくニヒルに笑ってしまう私。
「忘れられない出会いをしたのに、なんもなかったわけー? 私なら売込むけどなぁ」
「どう売込むのさ」
サトは微妙な思案顔。何を企んでいたんだか。彼女との仲は高校に入ってからだが、独特で突飛な発想には未だついて行けない。
大体、変わったお買い物で彼に印象を与えてアピールをしたとて、私としてはエロ系BL本を買う女を、ときめき対象として意識するのかどうか甚だ疑問だ。彼女がお兄さんに今後本気でアピールにかかるかは分からないけど、どう出るか面白そうでもあったので忠告は飲み込む。
それでも私は思うのよ。そもそも彼が一日何人の接客をすると思ってるんだ。ちょっと後ろめたい本だって買うお客は何人もいる。だからさ、店員だってさ、制服着た女子高生なんかすぐに忘れちゃうのよ。
むしろ忘れてくれ。
とっとと忘れてくれ。
速やかに忘れてくれ。
ナチュラルブラウンカラーのショートボブ赤メガネ女子高生なんか記憶から抹消してくれ。後生だから。
祈る思いで私は残りのカフェオレを飲み干した。
* * *
嶋崎 陽幸。
ぱっと見読みづらいけど、響きは至って普通のシマザキ ヒトミという名の私は、親友に読む・描く・売るの三拍子揃った純度百%濃厚腐女子にて、その容貌から一部で人気のコスプレイヤーの親友を持つが、至って普通の女子高生だ。活字中毒に少々侵されている部分があり、漫画もそれなりに読むからサトこと古賀智とも気が合う部分が多いけれども、それでも腐女子という称号には及ばないものだと思ってる。
下に弟二匹を抱える長女だからか、しっかり者に見られがちな所もあるけど私に言わせればそれすら逆手に取って教師や周りの好感を得る腹黒さも備えているそこそこちゃっかり者だ。
でもね、特技は? と、聞かれれば何だろうと考えるぐらい平々凡々なのが私な訳で、実は今回のBL本お使いだってかなりの冒険なくらいだ。
そんなちょっとした些細な非日常に、本屋の美人お兄さんとの邂逅は特別なものではあるのだけど、多感な高校二年生の私としては複雑極まりないものでして……
思い出すとついつい溜息が零れてしまうのを、何とか飲み込んでマンションの自動ドアをかいくぐる。
あの後、サトとカラオケにも寄ったので帰宅時間はいつもより遅め。だから私がセキュリティ手前の我が家のポストを見ても何もない訳なのだが、何となく習慣で中を確認していると後から続いて(多分住人だろう)男の人が入って来る。
視界の端に捕えたのは、黒のパーカーにジーンズとラフな格好の眼鏡をかけたお兄さん。
見慣れない人だけど、そもそもどんな住人がいるのか分からないのがマンションだ。そうそう気にするものでもないのに、
「あ」
思わず私は声を上げた。
「あー」
こちらに気付いたお兄さんも間延びした声を上げて私を見る。
地味な黒縁の眼鏡をかけてはいるが、右目にかかった長めの前髪に整った鼻梁。あの胸に震えるテノールボイスの声。
忘れたくても印象に残ってしまった人。
本屋のお兄さん。
そして、覚えていたのはお兄さんの方も同じらしい。
「昼間の腐女子ちゃん」
しっかりとその記憶に刻まれた、私の負の印象。
思いっきりどたまを殴ればうっかり記憶喪失になってくれないかなぁとか考えちゃったのは内緒の話。




