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異形の子ら  作者: Gさん
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第三章

 僕はアキ君を追わなければならない。急遽、特急タンゴエキスプローラの座席を予約した。


 近畿州の州都、京都市。

 独自の計画をもって地下開発を促進させた都市で、地上は文化の都、地下は猥雑な迷宮という二面性を有している。

 二十一世紀初年に施行された大深度法、つまり『大深度地下の公共的使用に関する特別措置法』は、東京での一度の利用を除いて適用される事がなかった。しかし、洪波期が到来し地下の利用価値が高まると、途端に乱用に近い適用がなされる。これは、地下四十メートル以下、且つ高層建築物の基礎部分より十メートル以下の深度であれば、公共事業に限り、土地所有者への保証なく利用できるという法律である。

 法律の施行当初は、費用面や換気の問題で利用の目処が立たなかった。しかし、ゲル状のキチン質材を四方に塗りつける新しい工法が開発され、ごく簡便で強靱な地下空間の構築が可能になった事と、空気を清浄化してくれる大規模空気循環システムの開発に成功し、技術的な懸案は払拭された。


 そんな中、京都市では一風変わった地下開発手法が採用される。

 旧市役所跡地を中心に、格子状に並ぶ九つの立穴を掘り、それぞれをつなぐ大きな横穴を掘ると、あとは民間に開発を任せたのだ。墾田永年私財法の再現である。掘ればそこはアナタのものという訳だ。開発を請け負ったゼネコン各社は、数々のサブコンを使って闇雲に掘り進み、できた端から分譲して行った。そして最後には、もう少し広い部屋が欲しい購入者がシャベルと猫車で掘り進める規模の拡張もなされて、縦横無尽に小径が張り巡らされるに至ったのだ。信じられない程の短期間で巨大な地下都市が建設された理由はそこにある。

 州と市が開発した大坑道を大通りといい、東西を結ぶ大通りを北から二条通・御池通・三条通とし、南北を結ぶ大通りを西から烏丸通・河原町通・川端通としている。昔からある地下街とは比べものにならない規模の巨大なトンネル。でもそれは地下第一層の話である。第二層には名前は同じでも規模をかなり小さくした通りとなり、三層では更に細くなり、それより下は通りと呼ぶにはおこがましいものになる。つまり、下へ行く程こまごまとした世界になる訳だ。


 京都駅の一歩手前にある二条駅で特急列車から降りると、地下鉄に乗換えて河原町御池まで移動した。地下都市中心部の直上である。

 折角京都にきたのだから、神社仏閣や鴨川の向こうにある色街を見て回りたいものだが、彼はそんなところにはいない。やむなく中央昇降施設へと向かう。

 地上に巨大な二十輪もの滑車があり、極太のワイヤーロープで二台の大型昇降機がつながれている。片方が上がればもう片方が下がる単純な仕組みで、重さが均等になる様にバラスト代わりの自動車を待機させている。

 その昇降機は十分間隔で行き来する。体育館程はありそうな広さの箱に入り、ゆっくりと地下へ降りて行く。隣では同じ大きさの箱が上がっている筈だ。かつては土砂と資材を運搬していた施設である。僕は何故か興奮して、歩行者区画の手摺りにつかまって周りをキョロキョロとしていた。

 しばらくして昇降機はスムースに停止し、乗り込んでいた人や自動車が降り始める。スピーカーから流れる案内放送に急かされ、少し慌てながら箱を出た。


地下都市の第一層。

 天井が高い。しかも全天が光を放っている。大木の桜が並木を作っていて、地上世界よりも緑が多いと感じる程だ。

 大通りには自動車が走り、多くの公共施設や商業施設が建ち並んでいる。大勢の人々が行き交い、地上の街と同じ印象だ。高級ホテルもある。ここなら僕でも長居できそうなのだが、彼の居場所はここではないだろう。諦めて更に地下へと進む。

 中央エスカレータで地下二層、更に三層目へ。

 二層目はプラントや企業ブースがあり、人々の働く場所である。三層以下が居住区域であり、彼を捜すべき場所なのだ。

 三層目は高級な住宅街で公園や商店街がある。宿もあるが、やや高級であるし、彼の拠点としては考え辛い。彼の目的に合致しないからだ。


 彼は、自らが開発した新種のケミカル系プログラムをばら撒こうとしている。心情的にクラスAやBの人には被害を及ぼしたくない筈。クラッシィを専門に相手している販売グループに接触している可能性が高い。

 そいつらは往々にしてエリア住人としてのスキルに疎く、クラスAやB相手では逆に遣り込まれてしまう。集金できなかったり、プログラムを解析されたりして商売にならないからだ。よってクラッシィだけを相手にしている。その迂闊さが狙い目で、取引の際にクラックしてしまい、紐を付けて常に行動を監視できる様にするつもりだろう。鵜飼いの鵜状態にするのだ。

 アキ君自身は姿を変え、もしくはデコイを使って取引をするのではないか。子供が相手ではどんなチンピラも取引しない。取引場所は当然エリア内という事になるので、身体はどこに置こうが一緒なのだが、彼は『近くだと攻めているって感じで燃える』質なので、わざわざ京都市内まで出向いているのだろう。ケイコ先生をハッキングしていた時と同じ理由だ。


 この地下都市が第一期完成を見た頃、公共施設群から閉め出される様に、繁華街は二条川端近辺に集まった。地下都市の北東部である。警察署は中央部に設置されたが、実働部隊はその地に置かれる事となった。そして、本当に悪い奴は逆の位置に居城を構え、都市の南西部、三条烏丸辺りに生息している。裏鬼門の最深部に。アキ君もきっと、そこにいる筈だ。


 地下三層目の動く歩道を使って南西へ向かう。

 この辺りまでくると宿泊施設や商店街は見かけない。ここから更に下へ行くには階段を使う事になる。躊躇われるが、小学生らしき女の子が降りて行くのを見て、まだ緊張するには早い事を知る。小心な自分を恥ながら階段を下りた。


 地下四層目ともなると天井が低い。廊下というべき通路が縦横無尽に交錯している。完全に建物内のイメージだ。

 どこからどこまでが公共の場所なのか分かり難い。歩いているうちに誰かの家へ上がり込んでしまいそうだ。今立っている灰色の廊下だけは個人宅の敷地でないだろうと解釈して、辺りを散策する事にした。


 パタパタと足音をさせて子供達が走っている。狭い通路を自転車が行き交う。三層目が高級住宅街なら、この四層目は下町風の庶民の街だ。

 お爺さんがベンチに腰掛けて夕涼みをしている。地下都市は年中気温が変わらない筈なのだが、南端に位置するこの近辺では当たり前の風景なのかも知れない。剥き出しのキチン質壁材にっぽっかりと穴が開けられ、そこから一定の風が吹き出ているのだ。巨大な空気循環システムの送風口である。空気を南端から送り、北端から回収している。それのCO2やNOxを除去してO2を加え、更にはフィルタでダストや菌類を濾過して、また南側から送り出している。ファンの轟音さえ気にならなければ、最も新鮮な空気が味わえる場所なのだ。


 宿泊施設を見付けた。INN『蓮亭』とある。

 ブティックホテルとビジネスホテルの中間みたいな存在だろうか。ドアを開けて中に入ると、ロビーには空き缶や古新聞等のゴミとしか思えない物が積み上げられている。本当にホテルなのかと疑いたくなる程だ。

 ようやくカウンターまで辿り着き、宿泊を希望する旨を述べる。女主は怪訝そうな顔つきで「お支払い方法は?」と聞いてきた。若造が何をしにきた、といわんばかりだ。

 僕はここぞとばかりに黒光りするプラスティックマネーを見せる。高額所得者が持つプレミアムカードだ。祖母に手配して貰った命綱である。女主は露骨に表情を変えて、深々とお辞儀をした。実に良い気分だ。 

 祖母は「人命に関わる場合に金を惜しむな」といってくれた。しかし、中古の戦車が買えてしまう程のカードをよくも私に持たせてくれたものだ。事が終われば色街へ行って、あんな事やこんな事をしてやるつもりだ。

 女主が機嫌を良くしたところで、十二歳ぐらいの少年が泊まっていないか確認する。残念ながらいないそうだ。近所の宿泊施設も調べて欲しいとお願いした。謝礼は弾むと付け加えて。

 それから地下五層目へ行く方法を聞いてみたが「どの入り口も個人宅につながっていて、階段の下には扉があり鍵が掛かっている」といわれてしまった。まあそんなところだろう。


 宿で一番太い電源と通信設備が備わっている部屋を注文する。一番奥にあるツインルーム。客間と寝室に分かれており、広めのユニットバスもある。鞄を置いてワークステーションと外部記録用端末(ストレージデバイス)を取り出す。重たい思いをして持ってきた僕の武器だ。

  ソファーに座って起動確認をしていると、お腹が空いている事に気付く。ルームサービスを頼むと、やっていないと申し訳なさそうに謝られた。やむなく自販機で何か見繕う事にした。


 自販機コーナーへ行くと、食べ物は『エネルギーパテ』しかない。一体いつの時代なのだ?

 ベンチに先客が一人、不味そうにパテを食べている。スキンヘッドの小柄な人物で、何かスポーツをしている様な筋肉質の体つきである。三十歳ぐらいだろうか。

「失礼、ご一緒させて頂いてもよろしいでしょうか」

「かまへんよ」

 彼は『ネジ』と名乗った。こちらも名乗り、食事を共にする。

「ネジさんはどちらから?」

「大阪からですわ。しかし、京都人ってのは喰い物は何でもエエんかいな。大阪やったら、こないなモン喰わしよったゆうて訴えらるで」

「確かに不味いですね。にちゃにちゃして歯に付くのが気持ち悪いです」

「喰い物だけやない。このホテルは最悪やで」

「確かに場末って感じですよね」

「それをいうなら『地の底』やな。陳列されたゴミが物語っとる」

「一体何なのでしょうね。このゴミの山は」

「女主人の癖やな。一種の病気や。年老いた孤独な女性で、収入が安定していない場合に発症するらしい。ケチケチ病や」

「その病気になるとゴミを溜めたがるのですか?」

「本人にとってはゴミじゃないんや。何かに使える可能性のある物なんやな。昨日、鼠の死骸があったんで掃除してくれ言うたら、盗むなよと怒鳴られてしもうた」

「死骸も保存するのですか?」

「そうらしいで。何に使うんやと聞いたら、しっぽの皮を乾かして鉛筆のキャップにするとかいうとったな」

「それは・・・・逆に発想が豊かともいえますね」

「まあ、可哀想な人やね。寂しいんやろうな。人が密接して暮らす街では逆に孤独になったりするモンや。誰も責めらへんで」

 そうなのかも知れない。社会から疎外されてしまえば、人はヒトとして成り立たなくなる。心の形を保全できなくなるのだ。

「しっかしお互い難儀やな。兄ちゃんは何でこんなトコきたんや」

「人捜しですよ」

「一緒かいな。儂も人捜しや」

「そうなのですか。ちなみに誰を?」

「名前は分からん。まだ逢うた事ないからな」

「?」

「実は嫁さん探しや」

「お嫁さんを?」

「そうや。大阪の気の強い化粧のケバい女と違ごうて、京都人の別嬪さんを見付けるんや。それも地上におる女はあかん。今でも地下で暮らしとる様な気骨のある女がええ」

「地下住民に拘るんですね」

「せや。儂も地下生まれの地下育ちや。大阪の天王寺地下都市。地上が暮らし難いから地下行って、やっぱり地下が嫌やから地上に戻る様な連中は好かん。そんなんは故郷を愛しとらん証拠や」

 かなり厳格な基準みたいだが、候補者はたっぷりいるだろう。未だに地下で暮らす人は多い。

「それで、候補は何人できましたか?」

「ゼロや」

「どうして?」

「実はな、兄ちゃん笑わんといてよ、儂、女の人に声を掛けられへんのや」

「それは・・・・厳しい旅ですね」

「そうや、兄ちゃんのいう通りや。地下四層目を北東の繁華街からここまで隈なく歩いた。歩いたいうより走ったんやけど」

「走った?」

「儂、女の人と目を合わすんも怖いからな。走り回ったんや」

 それでどうやって嫁を探すのだ。

「かなり時間が掛かったのでは?」

「回れるだけ回ったさかいな、五日間かかった。でもここで終わり。もう先があらへん」

「そうなりますね」

「金もないし、お先真っ暗や」

 彼はエネルギーパテをどんどん食べ進め、空箱を量産している。

「健啖家でいらっしゃるんですね」

「そんな立派なもんと違うけれど、よう食べる奴やとはいわれるな。それで金もかかる。何かエエ仕事ないかいな」

 どうやら純朴で、物凄い持久力の持ち主らしい。この人に手伝いを頼めないだろうか。

「ネジさんのエリアスキルはどれぐらいですか?」

「馬鹿にしたらあかんで。儂は地下の人間や。大阪でもエリアスキルはピカイチやで。いつか余所者と喧嘩した時は、街ごとプログラムを書き直して、散々怖い目に合わしたったモンや」

 話半分にして聞いておくべきだろう。でも人手は欲しい。

「では、僕の人捜しを手伝って頂けませんか?」

「かまへんで」

 彼は条件を詰める前に快諾してしまった。迂闊なところは憎めないが、マイナス要因でもある。手伝って貰うにしても事細かに指示をすべきだろう。

「いいですか、まず報酬ですが、ネジさんのこのホテルでの滞在費と食費を私が持ちます。探し終えたら成功報酬は別途払いましょう。ネジさんがもう一度この地下都市を回れるぐらいの額を」

「ヨッシャ、任しとき」

 変わらず軽いノリである。

 僕はある程度まで事情を説明した。そして事の重大さを知ったネジさんは「そんな話やったら金はいらん。ただで手伝う」といってくれたが、改めて報酬を約束し「仕事として、責任を持って行動して欲しい」と念を押した。


 時間が惜しい。早速行動である。まずは僕の部屋に移動し手順を説明する。

 京都市は二つのエリアプラットホームを平行して運用している。地上世界を模したエリア、そして地下都市を模したエリアである。勿論二つはつながっているし、他の地区のエリアともつながっている。我々が行動するエリアは地下都市の方である。

 まずケミカル系プログラムを売買しているグループを探す。しかもクラッシィを相手にしている輩だ。このグループがどれぐらい存在しているのか。また、それぞれの縄張りや構成員の数を調査する。この作業までを手伝って貰う。

 それ以降は微妙な駆け引きが必要になる。例のプログラムをもう持っているのか、入手を交渉中なのか、アキ君が売り込みそうな相手なのか、彼らしき人物に逢った事があるのかなどを調べなくてはならない。

 ネジさんには、エリアでは必ず姿を変える事、客を装う話術、解毒プログラムの使い方、連中に紐を付ける方法、僕とのホットラインを常に維持する事を理解して貰い、二人でエリアに入る事にした。

僕にとっては久しぶりの同時複数潜入(マルチエントリー)である。一度に九人のデコイを使って、効率良く情報を集める。そのためのワークステーションだ。


 ―若干緊張しながらエリアの地下都市へ―


 エリアの地下四層階は実物より多少広々としていた。厳密にリアル世界を表現する必要はないのだから、この方が住民の希望に添っているのであろう。

 ネジさんとはこの『蓮亭』の場所で待ち合わせている。エリアではゲームアーケードになっていて、中では宿の女主と同じ顔をしたデコイが店番をしている。

 しばらくして、彼が入ってきた。

「遅うなった」

「いえ、僕はエントリーが早いのが取り柄なんですよ。ところで、ここから地下五階に行くとしたら、入り口はどこにありますかね」

「この近くやったら入り口はざっと十カ所やな。リアルでの話やけど」

 データを受け取る。流石、何日も走り回った人は違う。

「ネジさんはどこから潜りますか?」

「いや、儂はまず大阪のエリアへ戻って、その手の輩の情報を聞いてくるわ。仕事柄、知り合いは多いからな」

「ネジさんの仕事って何ですか?」

「儂は坊主や」

 商売敵だったとは。

「僕の家は神社なんです」

「おお、二十四世紀の神仏習合やな。珍しい縁もあったモンや」

 至極納得させられる一言を残して、彼は去ってしまった。

 さて、地下五層目への入り口が十カ所なら数が合う。デコイ達と手分けして、潜り込む事にした。


 地下五層目は公然と存在している訳ではない。それはリアル、エリアのどちらの世界でも変わらない。だた、そう名乗る事自体は個人の勝手である。リアルの四層目に住んでいる者が所有地に穴を掘り、その穴蔵を五層目だと言い張っても構わないだろう。同様に、民間運営のエリアが五層目を名乗っても咎められない。

 エリア@京都地下都市第五層。それは文字通りアンダーグラウンドな世界である。運営者は意図的にリンクの数を減らして、一定の目的を持った者しか訪れない様にしている。リアル世界や公営のエリアとは違い、官憲の目はそこまで届かない。イリーガルな空間というより、もはや独立国家に近いだろう。


 五層目への降り口に足を踏み入れる。一瞬、目の前が暗転し、見知らぬ空間へと移送された。そこは実際には存在しないどこかである。閉ざされた天があり、薄暗く、雑然としている。地上世界でいえば繁華街の裏通りの様な感じだ。風俗店、ギャンブル場、クラブ、ジャンクショップが軒を連ねている。ドットの粗いネオンサインやそこら中にある落書きが街のチープさを現している。

 手分けしてエントリーしたデコイ達もここに移送されているようだ。こんな街の情報集積地はクラブかギャンブル場だろう。デコイ達にはクラブへ行かせて、自分自身はギャンブル店に行ってみる事にした。


 ひときわ目立つカジノへ入る。店の前に立つと、強面のドアボーイが扉を開けて招き入れてくれた。彼はこの僕が高校生だとは思っていないだろう。今はスーツを着たサラリーマンに扮している。

 店内は多くの客で騒然としている。中央にルーレット台が一台、ブラックジャックテーブルが二台、バカラテーブルが五台、そしてポーカー台が一台ある。それ以外にはバーカウンターがあって、中ではバーテンダーがシェーカーを振っている。 

 エリアマネーをこの店でしか使えない独自の通貨に替える。単位は$で、1$が千円である。遊び終わって再度エリアマネーに換金する場合には5%のコミッションを取られるそうだ。取り敢えず五十万円分の換金を願い出て、金色に光る100$チップを五枚受け取った。このまま帰っても再換金時に5%の手数料を取られるのだから、既に二万五千円の損害である。

 ルーレットを見てみる。ホイールが自然な回転をしている。イカサマはしていなさそうだ。二人のプレイヤーが少額のチップをいろんな場所に賭けて遊んでいる。勘の善し悪しが勝負を決めるゲームで短時間遊んで帰るには適している、と本には解説されていた。長居して店の様子を伺うのが目的なのだから、簡単にお金を消費したくはない。勘の勝負なら必ず負ける自信があるのだ。

 最も賑わっているのは『西洋風オイチョカブ』のバカラだが、これも同じく勘が頼りのゲームであり、避ける事にする。

 ポーカーのテーブルを見る。ハウスルールはテキサスホールデムを採用しているらしい。このルールが複雑で、見ていてもさっぱり分からない。とにかく自分に配られた二枚のカードと、フロップと呼ばれる場にオープンで置かれるカードを組み合わせて役を作るみたいだ。

 興味があったのは『エリアでもポーカーフェイスが存在するのか』である。どうやら、存在するみたいだ。ただし、皆がランダムに表情を変えていて、手札との関連はなさそうだ。だから全く参考にならない。テーブルに座っている五人が泣いたり笑ったり表情をコロコロと変えるので、端から見ている分には面白い。滑稽な出し物を観ている感覚だ。

 何れにせよ、客同士でチップを取り合うゲームは避けた方が良いだろう。トラブルに巻き込まれては何にもならない。

 ブラックジャックのテーブルを見てみる。

 子供の頃『21』とか『ドボン』という名称で遊んだ記憶があるカードゲームだ。これなら僕にもできそうだ。

 ベットの上限と下限が表示されていて、二台のうち一方は1~20$。もう一方は5~100$とある。安い方のテーブルは満席なので、やむなく高い方のテーブルに座る。


 エリアの賭場ではイカサマが簡単にできてしまう。店も客も同様にだ。だが商売の基本は変わらない。信用が第一であり、信用されない店はすぐに廃れる。店がイカサマをして儲けているという噂はその日の内に顧客全員に広まり、誰もこなくなるだろう。一方、店側も客のイカサマには充分に配慮している。手練れを揃え、監視を怠らない。結果、リアルにあるカジノよりイカサマは少なくなっている。客にも手練れが多い。手練れが多いという事は、自然とディープな情報が得られる可能性が高くなる訳だ。だから僕はここに来ている。


 若い女性のディーラーが慣れた手つきでシャッフルしている。それを三人の客が待っている。右端からお爺さん、お婆さん、おばちゃんの順である。僕は軽く会釈をして、左端の席に着いた。

 ディーラーは一定の手順でシャッフルを終え、お爺さんにカットをさせた。

 最初のワンゲームはノーベットで行う。プレイヤーは、そのカードの並びから次のゲームを憶測する。

「ベットプリーズ」の掛け声を聞いて、客達は掛け金をテーブルに置く。

 僕は5$チップを一枚置いた。

 ディーラーは素早い手つきでカードを配る。まずテーブルも右端の人からカードをオープンにして配り、そして自分の前にもオープンにしたカードを一枚置く。二枚目も左端からオープンで配り、最後に自分の二枚目のカードを伏せて置く。

 ディーラーのカードは一枚目が2のカード。二枚目は伏せてある。

 お爺さんのカードはキャラクターカードと7。キャラクターカードは全て10で計算するので、足して17である。まずまずの数字だ。

「ステイ」と宣言し、次の人に移る。

 お婆さんのカードは5と4。足して9である。

「ヒット」と宣言し、カードが一枚、オープンで配られる。

 10であった。足して19。かなり良い数字だ。お爺さんと一緒に喜んでいる。夫婦なのかも知れない。

「ステイ」と宣言し、次の人に移る。

 次はおばちゃんの番だ。カードは8と2。足して10である。

 この店のルールではいつでもダブルダウンができる。ダブルダウンはヒットを一枚しかできないが、代わりに賭け金を倍にできるというオプションである。最初の二枚が足して10か11の場合は特にチャンスだ。次の一枚でバーストする事はないし、21になる可能性もある。

 おばちゃんは他の人に配られているカードを見回して、ダブルを宣言する。チップが足されて10$になった。

「ダブルはワンカードオンリーになります」とディーラーがいい、オープンでカードが配られる。

 エースであった。エースカードは1か11で計算するので、足して21となる。最良の結果だ。おばちゃんは「ヤッター」と叫んで、僕の肩をポンポン叩く。ギャンブルは楽しめば勝ちなのだから、喜ぶべき時は大いに喜べば良い。このおばちゃんの態度は正しいといえる。

 僕の番である。カードはエースが二枚。貴重なカードが重なってきてしまった。最初の二枚がエースと10以上ならば、ディーラーが同様に21である場合を除いて、その場で勝ちとなり、賭け金の1・5倍のリターンを得られる。いわゆる『ブラックジャック』という役だ。

 さて困った。このままでは足して12である。ディーラーがバーストする以外に勝てない。このままヒットしても10以上のカードがくれば同じく12のまま、更にヒットしてもう一度10以上なら22でバーストしてしまう。逆に10以上が続けてくるならスプリットする手がある。二枚の内どちらかに10以上が来れば21なのだから、引き分ける事はできそうだと考え「スプリット」と宣言した。

 重ねられたカードを横に並べ変え、同額の賭け金を追加する。

 ディーラーがカードを配る。3であった。足して4か14である。

 テーブルをトントンと叩いてヒットを宣言する。これがやってみたかったのだ。

 更にもう一枚が配られる。また3だ。足せば17。もう充分と判断し、手の平を水平にして横に振る。ステイの宣言だ。気分が乗ってくる。

 更にもう一勝負残っている。

 ディーラーがカードを配る。今度はキャラクターであった。これで21だ。最初の二枚ではないのでブラックジャックにはならないが、予想通り片方だけでも来てくれて嬉しい。

 これ以上のヒットはできないので、自動的に次に移る。

 ディーラーのオープンカードは2であった。伏せてあるカードが開けられる。

「11です」

 開けられたカードは9であり、ディーラーは足した結果のみを告げる。

 プレイヤー側は面白くない。10と数えるカードは多い。一回のヒットで21になってしまう確率が30%以上あるのだ。

 ディーラーは自身の手札が17以上になるまでヒットしなければならず、また17以上になったらヒットを止めなくてはならない。機械的に進行させて行く。

「16・・・・19です」

 最初のカードは5、次のカードは3であった。ここで終了である。

 お爺さんはチップを没収される。お婆さんはドローなのでチップを取られない。おばちゃんは見事ダブルダウンで倍にした10$分のチップをせしめた。

 僕はスプリットをして勝ちと負けでドローである。でもスプリットにしなければ、キャラクターカードがディーラーに行ってしまい、21を作っていただろう。

 この様に、テーブルの左端に座る人の責任は重い。このゲームのコツは『いかに自分がバーストせず、ディーラーをバーストさせるか』にある。プレイヤー同士はチップを取り合わないので、結託してディーラーをバーストさせる事に集中しなければならないのだ。


 次のゲームが始まる。

 皆がベットを済ませると、素早い手つきでカードが配られる。ディーラーの手札はエースがオープンになっている。

「インシュアランス?」と聞かれる。

 プレイヤーは賭け金の半分を出して、保険に入る事ができるといっているのだ。ディーラーがブラックジャックである可能性は30%である。ブラックジャックなら保険金も賭け金も戻ってくる。ブラックジャックでなければ保険金は没収されるシステムだ。

 僕は人生弱腰で行こうと決めているので、当然保険に入る。5$賭けているので、2$50¢をテーブルに置いた。

 僕の様子を見て、おばちゃんはイーブンマネーを宣言した。おばちゃんはブラックジャックを出しているのだ。ディーラーがブラックジャックでなければ、賭け金の1・5倍が貰えるのだが、ブラックジャックだとドローなってしまう。そこでイーブンマネーを選択すると、賭け金と同額のチップが即座に支払われる。

「バックカードを確認します」

 ディーラーは伏せてあるカードの端をチラと見て、ゆっくりと表を向けた。カードはキャラクター。ブラックジャックである。

 保険をかけた僕はドロー。おばちゃんは賭け金の一倍の配当を既に受けている。お爺さんとお婆さんは、自分の手札を完成させる事なく負けとなる。


 三回目のゲームは特に語るべき事もない。ディーラーのオープンカードが9だった事もあり、プレイヤー全員が19以上を狙ってバーストしてしまった。プレイヤーはバーストした時点でチップを没収されてしまうので、ディーラーは自分の手札を完成させる必要もなく勝ちを確定させた。


 ここまでプレイすればディーラーの有利な点が見えてくる。一つは、客が先にヒットする仕組みなので、そこでバーストしてしまう可能性がある事だ。バーストすればその時点でチップを回収されてしまう。その後でディーラーがバーストしてもディーラーの勝ちに変わりない。もう一つは、ディーラーがブラックジャックならばその場でゲーム終了となり、客にヒットさせてドローまで持ち込む機会を奪っている事である。

 ディーラーの不利な点もある。ディーラーは手札が17以上になるまでヒットしなくてはならず、17以上になれはそれ以上ヒットできない。たとえプレイヤー全員が13とか14であったとしてもだ。バーストしてしまう確率は30%程度と意外に高い。


 四回目のゲームの開始である。

 みんな頭に来たらしく、黒い10$チップを五枚づつ積んでいる。ダブルダウンがあるのでテーブルの実質的上限である。冷静さを失えば必ず負けるのがギャンブルなのだが、一人でクールを気取っていても目立ちそうだったので、お付き合いして50$分のチップを積んだ。

 またしてもディーラーのオープンカードは10と良いカードある。声も弾んでいる。

「バックエースを確認します」

 ディーラーの手札がブラックジャックであればゲーム終了である。プレイヤー達は祈る様な気持ちでディーラーの手元を見ていた。伏せてあるカードの端を指で弾く様にして見るのだが、一度見て、もう一度見直した。そして「エースではありませんでした」といっている。これは珍しい事ではないのか?

「今、二回見ましたよね」

 おばちゃんに同意を求めた。

「そうよね。ちょっと奇妙だわ」

 やはり間違いない。二回見た事はどういう意味を持つのか。

 チラと見て何のカードなのか分からなかったと考えるのが自然だ。とすれば11以上は排除できる。キャラクターカードを見間違える人はいない。2から10のカードでも何のカードなのかしっかり確認する理由はない。進行上、問題ないからだ。ただしエースは別だ。エースならそれを表に向けて、ブラックジャックを宣言しなくてはならない。でもエースではなかった。だとすれば、エースに似たカードで「ひょっとしてエースだったかも」と再確認する必要があった事になる。エースに似たカード?

「エースと見間違えるとすればどのカードですかね」

 おばちゃんはキッパリと答えた。

「4でしょう。端を見ただけならどっちも尖ってるから、見間違えるなら4だわ」

 得心がいった。4ならば足して14だ。ディーラーがバーストする可能性は50%以上もある。これはチャンスだ。

 プレイヤーの手札は全員が低い数字ばかり。揃ってダブルダウンを宣言した。

 ディーラーが伏せカードを開けると、やはり4であった。そして一枚ヒットして、バーストした。この一ゲームでディーラーは四十万も損を出したのだ。

 それからのディーラーは散々だった。可哀想になる程だ。できるだけチップを弾んだが、にこりともせず、コンコンとテーブルを叩いて感謝の意を示すだけであった。

 ゲームはシューターの中にかなりのカードを残して終了となる。エリアのカジノでは、常にカウンティングを注意しなくてはならない。残りのカードに何が何枚残っているのか数えるなんて誰にでもできるし、店側としても防ぐ方法がないのだ。よって五組のカードを使い、更に残り枚数を増やす事でそれを回避している。


 テーブルはシャッフルタイムとなった。十分以上かけて丁寧にシャッフルするので、僕とおばちゃんはカウンターに移った。

「お互い儲かりましたね」

「そうね。こんな事は珍しいわ。カジノのゲームはどれもお店側が有利になっているの。でも、それはほんの数%だけ。特にブラックジャックは戦略を練れば1%未満にできる。換金時のコミッションは避けられないけれど、店側も今回みたいにミスしてくれるんだがら、おあいこね」

 ギャンブルは各種ある。宝くじは60%近くも控除率があり、胴元がごっそりと儲かる仕組みになっている。公営レースは20%だ。それに比べればカジノゲームはましなのかも知れない。店側の控除率はルーレットでも5%程度、バカラでその半分、更にブラックジャックならば1%以下。コミッションを考慮してもまだ有利だ。もっとも、ギャンブル全般において胴元が儲かる仕組みになっているのだから、冷静に考えればこれ程馬鹿らしいものはない。賭け事で確実性が高いやり方を『鉄板』と言うが、賭け事をしない事が一番手堅い『鉄板中の鉄板』なのだ。


 彼女はバーテンからグラスを受け取る。

「何を飲んでらっしゃるのですか」

「これ? 眠気覚ましね」

 ケミカル系のプログラムの様だ。

「どうやって注文するのですか」

「普通に。バーテンさんに頼めばただで貰えるわよ」

 こっそりと解毒ソフトを準備して、バーテンを呼んだ。

「バーテンさん。どんな飲み物がありますか?」

「冷たいものを各種取り揃えております。呼び方は様々ございますが、冷たいモノ、とても冷たいモノ、最高に冷たいモノの三種類でしょうか」

 覚醒を促す物をそう表現するらしい。エリアで眠ってしまえばリアルに戻ってしまうのだから、お店としてもその系統の物を出すのが利益につながるのだろう。

「じゃあ、冷たいモノを下さい」

「かしこまりました」

 バーテンダーは棚から細長いグラスを取り出し、青い蛍光色の液体を注いでこちらに渡した。

 飲む振りをして中身を解析する。

 疲労を感知させるアデノシンの働きを阻害するプログラムの様である。コーヒーに入っているカフェインと同じだ。

 無力化して一気に飲み干した。冷たい舌触りと甘い香りだけがして、特殊な効果は何もない。

「うん、美味しい」

「良かったわね」

「これも良いのですが、逆のタイプはないのでしょうかね」

「逆っていうと、鎮痛作用や多幸感があって、ほわーんとする方ね。でもあれはすぐ眠くなってしまって、リアルに戻っちゃうわよ」

「実は僕、内耳が悪い性分でしてね。こうやってエリアにいる時にはそんなに気にならないのですが、リアルに戻ると結構辛いんですよ。こっちで飲んで、その効果がリアルでも持続するものってありませんか?」

「この辺りの店ならどこでもケミカルを扱っているけれど、そんな話は聞かないわね」

「違う場所ならありそうですか?」

「そんなものがあるとしたら、やっぱりあそこかしら」

「どこです?」

「この地下五層目とは違う五層目よ」

「何ですかそれ?」

「クラッシィ専門に商売しているケミカル屋が一件だけあって、四層目から誰も気付かない入り口を通って行くらしいの」

「誰も気付かない入り口ですか?」

「そう、どんなにスキルを駆使しても分からない入り口。でもクラッシィなら、それも根気よく探せば見付かるらしいわ」

「実際に行った人はいるのですか?」

「子供が見付けたって噂を聞いた事があるの。それに私の知り合いでも、特にスキルの未熟な奴が行ったっていってたわね」

「その人に逢えますか?」

「逢えないわ」

「どうして?」

「貴方の事は気の毒に思うけれど、アイツはもう死んでしまったから・・・・」

 それは残念。でもかなり有力な情報を得ることができた。一旦戻って作戦を練り直した方が良さそうだ。

 おばさんに丁寧に礼を述べて、店を出る事にした。


 デコイ達の様子を調べる。どうやら僕はゲームに夢中になり過ぎていたらしい。大変な事になっている。

 一体はずっと壁に向かったまま足踏みしている。

 一体は人にぶつかりながら直進している。それも頭からバケツを被らされて。

 一体はスローモーションでムーンウォークをしている。ワークステーションにかかる負荷が大き過ぎたらしい。お陰で人集りができている。

 全員に四層目に戻る事を命じた。

 こっちの一体は人間テストを受けさせられている。これは最悪だ。急いで僕自身と入れ替わった。


 クラブの一角らしい。喧騒の中、店員や客達に囲まれている。

「おいコラ、よく聞けよ。俺は嘘吐きな人間なんだよ。さて、それじゃあ俺が今いった言葉は本当か嘘かどっちだ。『本当』なら俺は『嘘吐きでありながら本当の事をいった』事になる。『嘘』なら俺は『嘘吐きでないのに嘘を吐いた』事になる。さてどっちだ」

 エピメニデスのパラドックスか? 古典的なテストをしてくれるものだ。

「貴方の顔を見てると正直者には見えませんね」

「そんな事は聞いていないんだよ。嘘吐きだっていっている俺の言葉自体は本当か嘘かどっちだと聞いているんだ」

「本当ですね」

「ほう、じゃあ俺が嘘吐きだっていうんだな」

「ええ、貴方は嘘吐きです」

「じゃあ『俺は嘘吐きだ』といった事はどうなるんだ。その事は本当になってしまうぜ」

「ええ、貴方は本当の事を喋りました」

「俺は嘘吐きだといったばかりじゃないか」

「ええ、そういいましたけど、何か?」

「何かじゃねえ。おかしいじゃないか」

「おかしくはありません」

「じゃあどういう理屈なのか説明してみろよ」

「では説明します。貴方は『俺は嘘吐きだ』といった。でもこれは貴方が『常に嘘を吐いている』といっている訳ではありません。頻繁に嘘をいうけれど、たまには本当の事もいう人間なのだといっているだけです。よって、貴方は嘘吐きだけれど『俺は嘘吐きだ』といったその言葉は本当だった、という訳です」

「おお~」

 周りから歓声が上がる。この程度のテストだったらデコイに任せて良かったかも知れない。現に、先程答えたのはデコイに仕込んである問答方法なのである。

 エピメニデスのパラドックスに陥る一連の質問をされた場合、相手が選択を迫ったら肯定的な方を常に選ばせる。また、その選択自身を非難をされれば、それを否定するだけだ。そして説明を求められれば先程の通りの説明をしてやれば良い。

「じゃあこれはどうだ」

 他の男が歩み寄って話す。

「とある村に一件の床屋がある。その床屋は自分で髭を剃らない村人全員の髭を剃っている。自分で髭を剃る村人の髭は剃らない。さて、その床屋自身の髭は誰が剃るんだ? 床屋自身が剃る場合は『自分で髭を剃る人の髭を剃らない』定義に反するし、床屋自身が剃らないなら『自分で髭を剃らない人全員の髭を剃る』定義に反するぞ」

 今度はラッセルか。

「誰も剃らない」

「どうして?」

「その床屋は女だから」

 皆黙ってしまった。気の利いたジョークのつもりだったのに。

「こいつはかなり捻くれたデコイだな」

 誰かがそう話す。酷い言い草だ。途中から僕に代わっているのに。

「どうしてデコイだなんていうのですか?」

「そりゃ決まっている。こんな質問に真面目に答える奴はデコイしかいない。違うかい?」

 それはそうだ。

 逃げ出す様に店を出た。笑い声が聞こえる。笑われるのには慣れているが、デコイだといわれるのは悔しいものだ。人間性の全否定だから。


 エリア四層目のゲームアーケード『蓮亭』に集まった。デコイを一体づつ調べて、紐が付けられたりしていないか確認する。運良くイタズラはされていない様だ。

彼らの拾ったデータの解析をしてみる・・・・してみるんじゃなかった。後ろから蹴られたり物を投げつけられたりして、それでも無反応のままだなんて。怒ったり、せめて振り向く事ぐらいはして欲しい。余計な事を喋っていない分まだましだったと考えるべきなのだろうか。

 九体のデコイ達を消去した。念の為でもあるし、使い物にならない事が分かったからでもある。アキ君のデコイは優秀だった。早く彼に逢いたいものだ。


 ネジさんからホットラインのコールがきた。

「いよう、どんな感じ?」

「いようじゃありませんよ。落ち込んでいます」

「そらアカンな。テンション高くせんと、人間、何もできへんで」

「ところで、何か情報を拾えましたか?」

「おう、ちょっと待っててや。すぐに行くからな」

 しばらくして袈裟姿のネジさんがこちらにきた。

「そっちはどうや?」

 おばちゃんから得た情報を話す。

「そうか、こっちも同じ話や。知り合いにチンペーいう奴がおってな。これがまたどう仕様もない奴なんやけど、このエリア四層目から、普段は行かれへん五層目に行った事があるらしいんや。そこには頭の悪そうなケミカル屋がおって、そいつから名前だけは大層なプログラムを買うた事があるそうや」

「その入り口はどこなのか分かりますか?」

「それが憶えておらんそうや。チン坊は阿呆やから、三分も経てば大概の事は忘れてしまうんやな」

「入り口を見付けた時の状況は?」

「何でも、歩いてたらちょっと変なところがあって、何かをどうにかしたら入り口があったらしいで」

 そんな情報では全ての事象が当てはまってしまうではないか。でも彼は頑張って情報を集めてくれたのだ、贅沢はいうまい。

 とにかく、この辺りを回ってみる事にした。エリアでも夜は暗くなるのだが、見えなくなる程ではない。でも何を探せば良いのだろう。

 ネジさんは走っている。袈裟姿をして下を向いたままで。もう深夜なので誰もいないが、人が見ればどう思うだろう。見てはいけないものを見たと思うに違いない。離れている事がせめてもの幸いだ。    

 当然何も見付けられない。道端に置いてある物、例えばポストをずらそうとしたり、マンホールを開けようとしたりしてみたが、動かす事はできない。エリアにはどちらも必要ない物だ。街の風景として描かれているだけなのだから、当然である。

 当たり前の手法として、この近辺を構築しているプログラムを全て解析してみたが、どこかへリンクしている場所は存在していなかった。ネジさんから教わった入り口を除けば。

 かなりの時間を費やしたが何も得られずに終わった。もう明け方である。二人ともリアルへ戻って、眠る事にした。


 ―リアルのINN『蓮亭』―


 翌日は昼過ぎになってから集合し、これからの方策を話し合う事にした。

「昨夜はさっぱりでしたね」

「そうやな。こう言うのを『腹減り損のくたびれ儲け』って言うんや」

「損はしなかったのですがね」

「何が儲かったんや?」

「カジノで少し」

「博打かいな。アカンでそれは。仏の道に反するで」

「そうですか?」

「そうや」

「江戸時代には寺社で富くじを売ったりしていたじゃないですか」

「それは・・・・そうやね」

「それで今はギャンブルが駄目だなんて、理屈が通りませんよ」

「理屈ではそうやけど、でもアカン」

「どうして?」

「ギャンブルは金を捨てる様なモンや。金は喰い物を購うためにあるんやで」

「成る程。ではこのお金でお腹いっぱい食べましょうか」

「それは賛成や」

 ネジさんに近くの店を紹介して貰う。何でも、雰囲気のある店を知っているそうなので、そこへ行く事にした。今日は土用の丑の日だから鰻でも良いし、多少お金を浪費しても贅沢をしたい気分だ。

 しばらく歩くと『食事処 森重』という看板が見えてきた。店の前には古びたサンプルのショーケースがあり、昔は白かったであろう暖簾が掛けられている。彼にとって「雰囲気のある」とはこういう雰囲気の事らしい。

 白いのカウンターに丸いパイプ椅子が十席程並んでいる。お昼時を過ぎているので客は我々だけだ。壁一面にメニューが貼られていて、どれも驚く程安い。

「さあ食べましょう。ここなら何をどれだけ食べて頂いても結構ですよ」

「ホンマか。有難いなぁ。マスター、コッチの高い方から順にこの辺まで作ってえな」

 店のマスターは彼を知っているらしく「またか」的な反応を見せて応じた。

「僕はこの『スタミナカツ定食』を下さい」

 マスターは「ヘイ」と応えて忙しく作り始めた。

「ここは初めてじゃないんですね」

「そうや。この辺で一番安くて、一番ボリュームがある店がここや」

「味は?」

「旨いで」

「お気に入りなんですね」

「そや。儂は喰いモンの店には煩いんや。旨くても値段が高い店はアカン。安くても不味かったら許せん。安くて旨い店は数あるけれど、安くて旨くてボリュームもある店は貴重やで。それこそ金剛石みたいな存在やな」

 カウンターの奥でマスターがニヤリとした。

「ほんでここが好きなんや。それにな、ここは大盛りにしたらご飯とおかずが五割増しになる。普通はご飯だけやろ。そこがまた良いんや。ああマスター、全部大盛りで頼むで」

 マスターは「分かっていました」と頷く。

 しばらくして「まずこれを」と大きな丼に入った豚汁がきた。

 具は数片の豚コマ肉と豆腐、それに葱を少々。後は汁だけだが、トロリとしてコクがある。七味が合いそうだ。

 次に平皿に乗ったご飯がくる。大盛りにしただけあってずしりと重い。

 続いて四百五十円+大盛り百円の『スタミナカツ』がやってきた。薄くて大きなカツが三つ、刻みキャベツに乗っている。酢醤油が入った小皿が添えられている。

 カツの真ん中の一片を酢醤油に浸し、口に入れる。餃子の中身をフライにした物の様だ。大蒜が効いていて、豚のミンチ肉がほんのり甘い。ご飯を掻き込み、続けて豚汁を飲むと実に旨い。千切りのキャベツが良く合う。添えてあっても良さそうなお新香やレモンやパセリがないが、シンプルで力強い食べ物だ。

 ネジさんは『ミックスフライ』やら『牛オイル焼』やらを懸命に食べている。まだ他にもやってくるのだろう。流し込む様に口に入れている。

「ご飯は一回までお代わり無料や」と彼は付け加えてくれたが、それは無用な情報である。こんなに美味しい物を残すなんて罪悪以外の何ものでもないが、全てを胃に収めなくてはならないかと思うと気が滅入る。僕も何かに急き立てられているかの如く食べ進めた。


 結局、ご飯のお代わりをしてしまった。少しフラつきながら道を戻る。

「物凄く食べましたね」

「すまんかったなぁ。ご馳走さん」

「いえいえ。お金は全然掛かりませんでしたよ」

「お前さんも結構食べてたな」

「こんなに満腹なのは初めてです」

「これが『幸せな状態』や。君はこれまで幸せを知らんかったんやな」

 できる事なら食べる前の状態に戻して欲しいのだが。

「ネジさんはいわゆる生臭坊主なのですか?」

「そうやで。この世に美味しいもんがたんとあるのに、我慢したり、坊主特有の隠語を使こうて誤魔化したりする意味が分からん。ヒトは生き物を喰う事でしか生きられない。ヒトの宿罪や。それに動物の命が重くて植物が軽いとはいえへんやろ。せやから植物しか喰ってないといってもその罪が軽くなるとも思えんしな」

 ネジさんは腹を突き出して大股でゆっくり歩いている。その態度と相まって、単なる自己弁護なのに説得力がある。


「あっ、猫がおる」

 彼は猫目掛けて走り出した。感心した直後にこれだ。子供じゃあるまいし、やめて欲しい。

「走れるんですか!」

 必死になって追いかけた。彼を遊ばせておく訳には行かない。

 猫はドアの隙間から奥へ入っていった。南端の壁に設置されている扉で『職員専用』と書かれている。

「お邪魔するで」

 彼は遠慮なく入って行った。その大胆さは何なのだ。

 中は派出所程度の狭い空間で、守衛さんらしき人物が座ってTV番組を観ている。奥にはもう一つ扉がある。その扉の向こうに空調設備の機械室や電算室があるのだろう。

「ここは立ち入り禁止ですよ」と守衛さんが話す。

 ネジさんは構わず猫にじゃれている。幸せな人だ。

「少し話をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」

「ええまあ、暇ですから構いませんよ」

「ここからスタッフの皆さんが出勤されるのですか?」

「いえ、そうではありません。ランチタイムに出入りする程度ですな。近くに安い定食屋があって、そこに行く人が何人かいますから」

 森重のファンは多い。

「守衛さんはずっとここに?」

「まあ大概は。夜は帰りますがね」

「この奥ではどれ位の人が働いているのでしょう?」

「十人程度でしょうか。自動化が進んだ世の中ですから、清掃をするにしても人手が必要なのはトイレと机の上ぐらいなものですし、管理職一人に事務員一人、後は機械類の修理担当スタッフが七、八名だと聞いています」

「ここみたいな出入り口は沢山あるのでしょうか?」

「各階の北東、南東、北西、南西の端に一つずつありますな」

「その場所にも守衛さんが?」

「いえ、スタッフが決めたこの一カ所だけです。他の場所は施錠されて無人ですな」

 あまり根掘り葉掘り聞くので、ちょっと訝っている。

「泥棒に入るのはよしなさい。監視カメラが設置されているし、入っても奥へは進めません。人体認証キーが必要ですからな。更にいえば、奥へ行ったとしても何もありませんよ。迷子になるだけです」

「いえ、泥棒じゃありませんよ」

「そうや、誰が泥棒やコラ」

 ネジさんが割って入ってきたので、これ以上話ができなくなった。

「面白い話を有り難うございました」と礼を述べて、彼を引っ張り出した。

 でも本当に面白そうだ。エリアではこの場所はどうなっているのだろう。


 ―身体を自室に置いてエリアへ―


 昼間であっても人通りがない。どこへでも行けるエリア空間において、地下都市でしかも庶民的過ぎるこの場所は人気がないのだろう。

 ネジさんには残り三カ所の出入り口を探って貰う事にして、単身で先程の守衛室へ行く。

 一応ノックしてからドアを開ける。当然無人である。この守衛室も奥の空調設備にしても、エリアでは無用の代物だ。このエリアを構築したプログラマーが遊びで作ったのだろう。リアルにある守衛室を忠実に再現してある。天井には監視カメラがあり、律儀にもちゃんと作動している。

 プログラムで作り出された監視カメラをクラックして記録映像を取り出す。それによると昨夜の午後十時に三人の人物が侵入し、更に奥へと入っている。しばらくしてまた侵入者がいたが、ノイズでよく見えない。カメラを見て笑っている感じもする。この人物が一時間後に出るとノイズが収まった。それからは誰も来ず、やがて最初に入って行った三人が出てくる。午前零時である。それ以降の出入りはない。

 この映像を考察すると、最初の三人は目的のケミカル屋ではなかろうか。二番目の訪問者は謎だが、カメラにノイズが走る程、緻密で重量感のある存在である事から、かなりの手練れである事は確かだ。

それにしても謎であった『もう一つの五層目』が、実は四層目の一角を指しているとは気付かなかった。恐るべし伝聞情報。表現は的確かつ詳細にして欲しいものだ。

 更に奥へと進んでみる。リアルでは人体認証キーが必要な扉だが、このエリアでは普通の自動ドアになっている。誰かが改竄した痕跡がある。

 空調設備の中も現実通りに再現してあるのだろう。配電盤やパイプ類が犇めく薄暗い空間だ。荷台に動力が付いた形式の電気自動車モートルカーもある。これがあれば移動に便利だが、エリアには必要ない。ここでは考えるだけで空間移動ができるのだから。

 広い空調設備施設を全て解析しておき、幾つか監視スクリプトを仕掛けておいた。後はケミカル屋達が出勤する時間を待つばかりである。


 午後十一時。ケミカル屋らしきチンピラが入って一時間経過した。これから二人して潜入を開始する。

「何だかワクワクせえへんか」

「しますね。でも緊張は不要でしょう。多分、すぐに片が付きますよ」

『職員専用』と書かれた守衛室のドアを開ける。張り紙がしてあり「クラッシィ専門ケミカルショップ『ディスカウント地下五層目』はこの奥です」と書かれている。馬鹿じゃないだろうか。違法行為の証拠を残してどうするのだ。

 奥に入り、仕掛けておいた監視プログラムを使って彼らの居場所を探る。少し離れた休憩室に一人と、その奥の部屋に二人いる事が分かる。全く迂闊な連中だ。

 休憩室のドアをノックしてみた。

「どうぞ~」

 野太い声が聞こえる。入るのが嫌になったが、やむを得ず中に入る。部屋の中はわりと清潔で明るい。大きなテーブルとベンチ、飲み物の自販機が数台ある。更に奥へと通じる扉には『所長室』と書かれている。

 阿呆面をした男が出迎えた。

「お前ら客だろうな。そうじゃなかったら殺すんだな」

 本当に馬鹿だ。エリアで殺人ができるとしたら、それこそ超能力者だ。

 それにコイツの姿は何なのだ。マリオネットみたく紐を五本も付けられている。その内二本が京都市警で一本が民間の調査会社、もう一本がローン会社か。三十万借金して返済期限を過ぎている。悲しい奴。残る一本は不明だ。優れた暗号化技術と複雑な経路で、先まで辿り着けない。

「・・・・客ですよ」

「おいコラ、何をじろじろ見てやがる」

「いえ、何でもありませんよ。それよりどんな商品があるのですか?」

「おお、ちょっと待ってるんだな」

 彼はごそごそと瓶を取り出している。リアルと同じ動きをする必要はないのだから、予めプレゼンテーション用プログラムでも組んでおけば良いのに。

 紐だけじゃなく、コイツの身体にはあらゆるウイルスが入り込んでいる。女性と逢った時にゲップをするものや、笑おうとすればシャックリが止まらなくなるもの、背中に「お馬鹿」とか「へたれ」とか文字が浮かび出るものなど、多数取り揃えている。アンチウイルスソフトを使うという考えがないのか? 

 このウイルス群を一度に起動させたくなる衝動を必死に押さえる。

「これがワシら自慢のケミカルなんだな。他じゃ手に入らない代物ばかりなんだな」

「順に説明して頂けますか」

「おう、よく聞くんだな。まずコレが『キラリ☆北極星』だな。五十万だな」

 ドーパミンを誘発させようとして失敗しているプログラムの様である。使用しても偽薬(プラセボ)効果以外は期待できない代物だ。それを五十万とは。

「次に『バナナで釘打ち南極二号』だな。六十万」

 昨日カジノで無料だったものと同じか。

「コイツが『冷やし中華始めました二月だけど』だな。七十万」

 右に同じ。名前だけ変えてあるのか。

 本当にこんなものを買う人がいるのか。確かにこの値段だったら月に一度売れれば充分だろうが。


「おうおうおう。麻薬を売りつけるたぁこの人でなしめ。てめえら観念しやがれ」

 しまった。ネジさんが先走っている。しかも江戸弁になってるし。

「何だとこのコノヤロー。兄貴! アニキィー」

 奥のドアが蹴破られる様にして開く。

「オメエら、待たせたなぁ」

 主犯格が出てきた。オメエらって僕達は別段待っていないのだが。

 今度の奴も思い切っている。紐が六本も付いていると納豆みたいだ。

 京都市警と調査会社は同じで、二本が京都市内にある病院の一室につながっている。ええと、コイツと同姓の女の子がこの男の動きを調べているのか。妹さんだろうか。馬鹿な兄貴を持つと気苦労が絶えないだろうな。更にその女の子と同室の女性にもつながっている。こちらの関係はすぐに推察できない・・・・ああ婚約者みたいだ。まとめると、コイツには入院している妹がいると、そしてその妹と同室の女性と仲良くなってプロポーズしたが、その女性はコイツがどんな仕事をしているか心配になって調べている、といったトコロか。最後の一本はやはり不明だ。

「お客人、さっさと買って貰おうか。でなきゃ痛い目に遭うぜ」

「でも好みの物がなさそうです。もっと最新の、例えばここ最近入手した様な物はありませんか?」

「そうかい? ちょいと値が張るぜ」

「まずは見させて頂けますか」

「これだぜ。まあ名付けるとしたら『赤い薔薇の花束、お尻に挿して』だぜ」

「アニキは名前を付ける天才なんだな」

 確かに物凄くどうにかなりそうな名称だ。ちょっと調べてみたが、僕の能力じゃ解析も解毒もできない代物らしい。アキ君の作品だと断定しても良さそうだ。

「これを頂きましょう。オリジナルのプログラムごと全部。しかもタダで」

「そうや。頂いて行くで」

 ネジさんが大阪弁に戻っている。

「さてはオヤジ狩りの連中だな。そうはさせないぜ。先生! センセェー」

 扉の奥から背の低い奴が出てきた。白いスーツにオールバックとサングラス。時代掛かったファッションだ。

「この先生は京地下スキルコンテストで『気張りはったで賞』を受賞なさったんだぜ」

「そうなんだな。この場所の鍵を開けたのも先生なんだな」

 その用心棒はチンピラ二人を背にして仁王立ちしている。

「フッ、四年桜組第三班班長にして給食係、ちなみに好きな物は海老フライ嫌いな物は奈良漬けであるところの俺様が相手をしてやる」

 小学生を用心棒に雇っているのか、このチンピラは。

 用心棒は片足をテーブルの上に上げてポーズを決めようとしているらしい。かなり手間取っているが。

「あの、もう目的のものを頂いてしまいましたが」

「フッ、無事に帰れると思うなよ」

「いえ、すぐにでも帰れそうですが」

「フッ、そうされると困る」

「お困りですか」

「フッ、せめて悲鳴を上げながら出て行って欲しい」

「悲鳴ねぇ」

「フッ、そうしないとクビになっちゃうでしょ。僕が」

「それは仕方ないんじゃないですか」

「フッ、ママのお誕生日のプレゼントを買いたいんだ。そうしないと海老フライを作って貰えなくなる。もうスーパーのお総菜はこりごりなんだよ。ママの手作り海老フライじゃなきゃ嫌なんだぁ」

 少年が飛び掛かってきた、というか抱きついてきた。

 揉み合っている最中に小声で耳打ちされる。

「フッ、ここで逃げてよ。お願いだから」

 やむなく逃げてやる事にした。

「ギャー、逃げるぞぉー」

「ホンマかいなぁー」

 ネジさんもちゃんと演技してやっているみたいだ。二人して休憩室から脱出した。

 扉の向こうから「これに懲りたらく来るんじゃないぜ」と兄貴が叫んでいる。

 どうにか演技は通じたみたいだ。

 さて、目的のプログラムは回収した。あとはアキ君本人を捜さなくてはならない。もうここに用事は残っていない。取り敢えず守衛室へと向かう事にする。


 パイプと配線が犇めく空調設備の一角。

 気持ちばかりがはやる。急がなければ、彼がまた他のグループに接触するまでに逢わなければならない。

 しかし奇妙だ。意識を飛ばしても守衛室に行けなくなっている。走っても休憩室から離れない。これはトラップに掛かっている証拠じゃないか。

 ふと背中に寒気を覚えて振り返った。


 誰かいる! 暗がりの中に大きな影が映っている。

 知らない男だ。季節外れの黒いロングコートを纏い、天井に届く程の巨体を苦しそうに曲げている。両袖はまくり上げられ、細く筋張った腕をだらりと垂らしている。顔は影になって確認できない。

「誰?」

 その人物は口元に微笑を浮かべるだけで、何も答えない。

 突然めまいが襲う。

 床がグニャリと曲がり、足を取られてしまう。

 その人物がポツリという。

「そうか、邪魔をしにきたのか」

「ア、アキ君か?」

 彼は応えない。

 彼が一歩踏み出すと、その足下から亀裂が走り、また再合成される。

プログラムを書き変えているのか。

 一歩、また一歩と近づいてくる。

「こりゃアカンで。一旦引き上げや」

 賛成だ。しかしリアルに戻ろうとしても、意識が混濁して戻れない。ネジさんも困惑している。

「どうやらエリアに足止めされたみたいです」

「ホンマや。こんな事、どないな方法でできるんや」

 スキルでは敵いそうにない。何とかして話をしなくては。

「どうして君にはこんな事ができるんだ。このケミカルにしてもそうだ。どうして・・・・」

 突如、身体が刻まれた感覚を覚える。バターでできた身体に熱したスプーンを突き立てられたかの様に、何もかもごっそりと持って行かれた。

 幾つものプログラムが機能不全に陥り、姿を維持できなくなりつつある。

 チンピラ達から奪ったプログラムも消失している。

「どうしてか、だって? さあどうしてだろうね」

 喋りたいが、口が動かない。

「ハルも見ただろう。病院で一晩中悲鳴を上げている奴を」

 ヒコジョー氏と逢った夜の事か。

「俺も同じだったのさ。ずっと苦痛と共に生きてきた」

 生まれつき身体が弱かったのは聞いている。でも、それとこの力にどんな関連があるのだ。

「毎日が苦しくて、辛くて、狂いそうだった」

 あの患者の様に、毎晩悲鳴を上げていたのか。

「あの頃は、良く効く鎮痛剤が欲しかった。エリアに行ってもタダじゃ手に入らない。自分で作ろうにも苦しくて何もできない。そうして過ごしてるうちに、こう考える様になったんだ。これは俺じゃない。苦痛に喘いでいるのは別の人間だと」

 別人格化か。

「脳をイメージするんだ。そしてそれを幾つかに分割する。そして、その一つ一つに別の人格を与える。こいつは苦痛担当、こいつは喧嘩専門、こいつは面白い事をいうヤツ、こいつはまとめ役って感じでね」

 多重人格!

「普段は、苦痛を担当するヤツを奥に押し込めていた。でも気付いたんだ。こいつも俺の一人だってね。何とかしてやりたい。そう思った」

「そして人格を増やす度に苦痛が和らぐ事が分かった。神経伝達物質のエンドルフィン群が増加して、鎮痛作用を起こしていたんだ。それが糸口だった」

「学者先生に頼んで、マイクロマシンの増量をしてみた。今、俺の脳には通常の四倍のマイクロマシンが着床している。演算装置も組み込んだ。俺に逢った時、俺の後頭部にある四つの瘤に気付かなかったかい」

「俺は一人じゃない。俺の中には十人の俺がいる。優秀な人間がこれだけ揃っていて、しかも頭の中に仮想空間を生み出すシステムが埋まっている。それならばどんなプログラムでも開発できて当然だ。そして作り出したんだ。脳内麻薬の増加をリアルでも持続させるプログラムをね」

 それが例のケミカルか。

「脳には報酬野という部分があってね。そこでは大量のβエンドルフィンを生成できる。何か物事を達成した時、持続的な苦痛を感じた時に、それをエクスタシーに変える器官だよ。君の報酬野にもマイクロマシンが着床している。それを使って、常にβエンドルフィンを生成し続ける様に脳の回路を書き換えるんだ」

 それは困る。常に涎を垂らしながらヘラヘラ笑っている人になってしまう。もしくは死んでしまうだろう。

 彼は僕にそれを使うつもりなのか。

 彼が近づいてくる。

 どうすれば・・・・


「おんどりゃー」

 ネジさんが突っ込んで行く。

 駄目だ。彼に敵う筈がない。

 決死の体当たりは事もなく避けられ、逆に、片手で頭をつかまれてしまった。

 白目を剥いてグッタリとしている。

「へえ、大阪の坊主か。面白い知り合いがいるんだね」

 彼を殺してしまったのか。

「坊主って意外と精神が弱いじゃないか。もう事切れたか」

 彼を巻き込むんじゃなかった。

 すまない。

 僕は諦めるしかなさそうだ。

 ネジさんが死んで、僕が生きていては申し訳ないし、ここから逃げる術もない。

 せめて話す事ができれば、彼を説得できるかも知れないのに。

 彼はこれから犯罪者として生きるのか? まだ十二歳だというのに、新しい苦悩と戦って残りの人生を過ごして行くのか?

 肉体の苦痛は脳内麻薬とやらで解決できるのかも知れない。でも罪の意識は避けられない。寝ても覚めても、何をしていても傍らにある苦痛。それと寄り添って生きられるのか。

 彼が目の前まで迫る。もう何も逆らえない。

 静脈がくっきりと浮かぶ手で、僕の頭をつかんだ。

 彼は充血した目を見開いて、喰い縛った歯を見せながら力を込める。

頭蓋がみしみしと悲鳴を上げている。

 しばらくすれば、快楽に変わるのだろうか。

 意識が遠退いて行く・・・・


「旦那様、手助けが必要ですか?」

 声が聞こえる。懐かしい声だ。

「もしもーし」

 ああ、これが走馬燈なのか。

 有難い。最後にナツに逢えた。最後が祖母との再会では死ぬに死ねない・・・・死ぬ? 嫌だ。まだ死ねない。あんな事やこんな事をするまで、僕は死ねない!

「た、たすけ・・・・」

 全神経を振り絞って、そこまで呟いた。

 すぅと楽になる。

 彼の手が離れ、僕はその場に倒された。

 糸のように細い意識で、何が起こっているのか理解しようとしていた。

 重い瞼を開いて、ナツがアキ君と対峙している様子を見ている。

 閃光と、振動と、轟音と、暴風が沸き起こっている。

 どうやら、アキ君が僕に施そうとしたプログラムが逆流しているみたいだ。

 やがて彼は倒れ、エリアから去ってしまった。

「旦那様、もう大丈夫です。また明日逢いましょ」

 たぶん彼女はそういったと思う。

 お礼をいいたかったが、僕は完全に眠ってしまった。

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