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異形の子ら  作者: Gさん
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第一章

 人生とは試練の連続である。少なくとも僕にとっては。


 朝早くから叩き起こされ掃除をさせられているのだが、それはまだ良い。僕とて一家の長兄なのだ。家業を手伝う事の大切さは分かっている。しかし、昨日の春台風が落として行った木の葉はかなりの量だし、今朝の霧でくっついて、掃いても掃いても取れやしない。苦行を課すにしても、こんな陰湿なタイプは勘弁して頂きたいものだ。

 そんなに広くない境内だけれど、一人で掃き清めるのは重労働である。二の鳥居から神門まで掃いただけなのに、もう疲れている。これから神門を潜って正面の拝殿前、左手の社務所と摂社の方、更に右手の青龍殿へと掃き進まなくてはならない。気が遠くなる。


 コイツらが憎らしい。さっきから遊び回っている弟どもだ。狛犬の辺りで何かしていたと思ったら、今は手水舎で水遊びだ。ここは兄として苦言を呈さねばなるまい。

「お前達、遊んでいないで仕事をしなさい」

 双子の弟、カイが立ち止まって振り返り、冷静に応える。

「兄上、それは素早くお勤めを終わらせた我々への嫉妬の言葉でしょうか? それとも敢えて最も困難な作業に従事している兄上自身への苛立ちを我々にぶつけたいという青春の一頁的言動なのでしょうか?」

 理屈っぽい言い回しで図星を突かれてしまった。これでは兄の威厳が保てないではないか。

「お勤めが終わっている事は分かった。しかしながら、困難に直面している兄に対して何かいう事はないかな?」

「ほー、我々が如何に比較的楽な仕事を仰せつかったか、その交渉手段を知りたいという訳ですね? その話はリクに聞いて下さい」

 そうじゃなくて、兄上手伝いましょうかの一言が欲しいだけなのだが・・・・

 双子の兄、リクがきょとんとした表情を見せる。

「俺が? 何を話すの? 今朝は何となく狛犬の顔を拭いてやりたかったんで、父上にそう話しただけだけど」

 カイがにやりとして続ける。

「そして私はその発言を止めなかった、という訳です」

 昨日の春台風、そして境内の状況からして今朝は何か仕事を言い付けられそうだと判断し、それなら楽な仕事を自ら提案する事によってその困難を回避する。一方、父とすれば七歳の子供が殊勝にもお勤めをしたいと願い出た事に感激こそすれ断る理由もなかった、という訳か。カイの策士振りには感心するが、その能力は家庭外で発揮して貰いたいものだ。


 しかしこの二人はまだましだ。妹のソラに至っては見掛けもしない。未だ寝汚くしているのだろう。幼い頃はいつも纏わりついて鬱陶しく思っていた妹だが、中学生になってからは滅多に口を利かなくなった。逆にこちらが厭まれているらしい。しきりにダッコやオンブをせがまれていた頃が懐かしいものだ。この前、久しぶりにダッコをしてやろうといったら、ありとあらゆる呪詛の言葉を聞かされた。こうして人はニヒリストになるのだろう。

 とにかく父は女どもに甘過ぎる。宮司としての資質に疑問を持たざるを得ない。


 でもまあ、綺麗になった境内を見れば気分も晴れる。霧で弱々しかった太陽も照り出している。薄らと汗をかいたところで仕事は終了。毎朝は勘弁して頂きたいが、風の強い日の翌朝ぐらいは早起きして、掃除の手伝いをするのも悪くはない。

 ようやく景色を眺める余裕ができた。小高くなっている神門からは海が見える。凪の海から立ち上る靄が天の橋立を包み込んでいて、生成のカンバスにすっと一本、松葉色の弧を引いた様だ。正しく『天に架かる橋』である。こんな景色が拝めたのも早起きしたお陰だろう。最後は拝殿にお参りし、清々しい気持ちで食卓へ向かう事にした。


 当家では古式ゆかしく、家族全員が揃って食事を摂る。

 屋敷は神社の裏手にあり、本殿と競える程古く、ちょっとした地震や台風が致命傷になりかねない造作になっている。伝統的な日本建築であり『3LDK、ロフト・バルコニー付き』とかそう言う表現をするなら『4・居間・土間、屋根裏・縁側付き』だろうか。匂い立つ程に熟成を極め、それなりの味を醸し出している。特に春は良い。家のどこにいても陽光の暖かさや風の薫りを感じられる。隙間が多いと評する向きもあるが。

 自分の名前が『ハル』だからいう訳じゃないけれど、春は好きな季節だ。名付けた祖母にその意味を聞いた事がある。曰く「冬に生まれたから『フユ』と名付けられた悔しさを誰かに分けてやるべきだと思ったから」だそうだ。どうせそんな理由だろうと思っていたが、本人には秘密にしておいて欲しかった。


 さて、居間に家族が揃った。

 父は日の出と共に神事を済ませ、今は新聞なぞ読んでいる。毎朝の事なので尊敬に値するが、母はもっと早起きして御贄を拵えたりしているのだ。どちらをより尊敬すべきかは自明の理だろう。それ以外にも炊事、洗濯、掃除と母の仕事は多い。

 祖母はいつもの如く上座にどっかりと腰を据え、ひとり食べ始めている。この家で祖母に文句のいえる人はいない。そんな事をすれば、十倍になって返ってくる事を皆知っているのだ。

 妹はまんじりとして食卓に突っ伏している。弟達は配膳を待ちきれない様子だ。

 今朝の餐は、真鰯を糠で漬けた郷土料理『へしこ』を焼いたものに菜の花のお浸し、浅蜊の吸い物、芥子菜の浅漬け、それに炊きたてのご飯である。

「頂きます」もそこそこに、弟達は競って食べ始める。妹は半ば眠りながら咀嚼している。意外と器用な奴だ。

 僕も箸を進める。芥子菜を手塩皿に取り、摺った生姜を上に乗せ醤油を数滴垂らす。それをご飯に乗せて口へ掻き込むと、生姜の香りと芥子菜のピリッとした風味が実に何ともいえない。そして後は猛然と食べ進める。

 母は家族達を見渡して満足そうにしている。父も珍しく機嫌が良い様子だ。

「皆、今朝はお勤めご苦労だった。ハルはきちんとお参りもした様だな。重畳な事だ」

 祖母がへしこに齧り付きながら口を挟む。

「何もお参りした事が偉い訳じゃない。何かに畏れを抱く事、その心根が大切なんだ。尊大にならずに済むだろう」

 母が笑顔で続ける。

「早起きは身体に良いのよ。お腹が空いて朝ご飯が美味しくなりますからね」

 父は元の無口な父に戻ってしまった。

 真理はいつも女性が持っている。我が家では特に。


 当家は神社を経営している。日本三景『天橋立』に程近い小社で、宮司の父と女性神官の母、それに斎女と名乗る祖母の三名による家族経営である。ちなみに『斎女』は正式なものでも何でもない。大神社においてはその様な役職を置いているところもあり、祭事で舞いを奉納する様な、うら若く清げな少女がなる役どころだったと思うが、別に法律に抵触する訳ではないという理由で名乗っているのはこの人だけであろう。しかし、そんな指摘を本人にしてはならない。絶対にだ。

 神社経営は意外と大変な仕事である。仕事に終わりがないし、何より人手が掛かる。今朝も掃除に借り出されたが、子供達もよく手伝わされる。しかし感謝しなくてはならないだろう。今は民間神道の信仰が流行っているご時世なので、こうやって一家が楽に生活を送れるだけの収入があるのだから。


 食事を終えて自室へ。

 廊下の端にある角度のきつい階段を登り、屋根裏部屋へと上がる。お宝かガラクタか判別できない品々が雑然と置かれた物置の隅。僕にとってはここが世界への入り口だ。

 さて、高校生としては学業が本分である。しばし個性的な家族と別れ、登校する事にした。


 学校に到着すると、案の定一番乗りである。

 まだ誰もいない教室。パイプと合板でできた机が整然と並べられている。真新しいラミネートの床が小気味良く靴を鳴らす。正面には大きな黒板。スライド式で上下二段に分かれていて、ガイダンスの時の板書がまだ残っている。

 入学式は行われなかった。生徒数が僅か三十名の新設校であるし、大仰な事をする必要も余裕もなかったのであろう。その代わり父兄同伴で入学ガイダンスが行われた。担任のテツタ先生は真新しい黒板に対峙して、おもむろに白墨を取り出し、その一筆目からポッキリと折って笑いを誘っていた。極端に筆圧の高い人で、文字も大きく角張っている。真面目な性格が現れた板書だ。

 窓を全開にしてみる。薄い無地のカーテンがふわりと揺れて、教室に静謐な空気が入り込む。窓枠に両手を着いて顔を出すと、校庭では主役がソメイヨシノから八重桜へと代わりつつあり、仄かに甘い香りをさせている。

 早く教室にきたのには訳がある。席は決められていないので早い者勝ちなのだ。こんな晴れた日は窓際に限る。流れる雲の情景を眺めるだけで一日潰せそうだ。

 確保した席に満足して頬杖を突いていると、実に心地良い気分に満たされる。ここで眠ってしまえればどんなに幸せだろう。何でも自由なこの世界にあって、それだけは許されない。眠れば現実世界に引き戻されてしまうのだ。これは大いなる欠陥といえる。

 遣る方なく、ぼやけた頭で二番手が誰になるのか演算して暇を潰す事にした。


 教室の隅に置かれたダンボール箱。そこから人の頭がぬっと出てきた。唯一この教室にエントリーできるアクセスゲートである。その証拠に『出入り口(仮)』と明朝フォントのポップアップが添えられている。空間同調に手間取っている様子からアキ君だろう。いつも二番手は彼なのだから考えるまでもなかった。

 頭部の同調が完了した時点で、彼が口を開く。

「考えられない。また負けてる」

「あくまで一番に拘るんだね」

「当然だろ。このままじゃ俺がお前よりも劣ってるみたいだ」

「そんな事、誰も思わないよ」

「何か隠してるだろう。狡い事でもしているんじゃないか?」

「それは君でしょう。他の生徒の内部時計を遅延させるスクリプトを仕掛けるなんて、見付かれば大目玉ものだよ」

 彼はまだ訝しがっている。無理もないが秘密は明かせない。僕はプログラマーの残した裏技(バックドア)を利用して、登校プロクラムを無視して教室に入っているのだ。報告義務のある虫喰い(バグ)の一つ。黙っているのは校則違反で、見付かれば何らかの罰があるかも知れない。しかしこんな便利なものは残しておいて、気に入った女子にでもこっそり教えて感謝されてみたいのだ。

「ほら、早く目的の席を取らなきゃ」

「そうだった」

 彼は教壇の真ん前の席に倒れ込んだ。そんな席は誰も座りたがらないと思うが、彼には彼の事情があるのだ。


 不意に誰かが僕の背中を突く。振り返れば、見慣れた顔がきょとんとした表情を見せている。

「ナツ君か。驚かさないでくれよ」

「皆様オハヨーなのです」

 彼女が三番手なのもいつも通りだ。彼女とは小学校の一年から三年までと、中学校の三年生の時に同窓だった。都合四年間、僕が最も多く会話を交わした異性である。とはいっても他愛ない会話だけなのだが。

 小学校三年の終わりに彼女が転校してしまうのが悲しかったのを憶えている。そして中学校で再会して、どんなに嬉しかったか。彼女は変わらずちっちゃくて色白で、上目遣いで見上げる様はとても可愛い。どうやら逢えなかった五年間で愛を暖めてしまったらしい。僕一人で・・・・

 毎朝、この三人で与太話をするのが楽しみになっている。相手はどう思っているか知らないが、僕にとっては入学以来の数少ない友人だ。この二人がいなくなったら、僕も転校を考えるだろう。所詮、学校なんてそんなものだ。


 アキ君がトラップを解除したので、他の級友達も登校してくる。ぺちゃくちゃと騒がしい連中もやってきた。流行りの高速言語で会話を交わしている女子グループである。彼女達の頭脳は会話に特化されている。いつの時代も人が集まるのは会話を交わすためなのだから、あながち間違いとはいえない。でも、数秒で文庫本一冊の情報量を持つ程の早口で、簡潔にまとめてしまえば数行にしかならない内容の会話をする必要性は理解できない、というかちょっと怖い。


 この学校は西暦2100年頃の公立高校を模している。平成の雰囲気を残す佇まいで、シールドも施されていない昔ながらの校舎。窓も大きく、高エネルギーの放射線が降り続けた『洪波期』前期の建物とはとても信じられない。常に曇が空を覆っていた山陰州ならではの存在だ。現実世界では廃校になったこの高校も、二百年を経てこの仮想空間で復活したという訳だ。最新のプラットホームにプログラミングされた最初の施設で、僕達はその一期生になる。一年間のランニングテストをした後、一般に開放されて現行のプラットホームと交代する。それまでは同窓の三十名と先生しかいない広大な世界だ。

 すぐに三十名分の席が埋まる。何名かは自分自身ではなく、人形(デコイ)に出席させている生徒もいるだろう。最新の市販ソフト『代返君』なら見分けがつかない。デコイの自作に拘る奴もいて、それを入学ガイダンスに出席させて見事にばれてしまった事があった。エントリーゲートで誰何されて「ワタシハニンゲンデス」と返答してしまったのだ。以来、彼はニンゲン君と呼ばれたりしている。誰あろうアキ君なのだが、それですっかり人気者だ。現在、彼のデコイは改良を重ねて市販品の上を行く出来映えとなっている。政治家が使う様なオートクチュール品レベルだ。ただ本人同様、敬語と丁寧語がちょっと苦手だが。


 予鈴が鳴る。

 今日の教育制度では、出席日数はあまり重要視されない。生徒には病院や施設で暮らす者も多く、仮想空間とはいえ毎日出席できない人もいるからだ。それで各学年の年度単位さえ取得できれば進級・進学できる規定になっている。一定数の授業に参加し、且つホームワークを提出するか、独学でもライセンス試験に合格すれば単位取得となる。試験はいつでも、何歳でも受験可能だ。だから級友の年齢もまちまちで、想像もつかない。


 本鈴が鳴って、ホームルームが始まる。

 担任のテツタ先生が足取りも軽く登場する。小柄でちょこまかと動く仕草は滑稽で、何だか憎めない先生だ。反面、その立派な顎を動かして話をし出すと妙な説得力がある。長く伸ばした揉上げを全力で頭に撫で付けているヘアスタイルがいじらしい。

 ホームルームでは出欠を取り、昨日分のホームワークを提出する。仮想空間にある学校の特徴として、この種のルーチンワークは手早く処理できる。その内容は音声だけでは何をしているのか分からない。

「皆さんおはよう。全員出席ですね。ではいつも通りに・・・・はい完了。特に連絡事項はありません。では、今日も一日頑張りましょう」

 三十秒とかからなかった。


 一限目始業のチャイムが鳴る。科目は『現代史Ⅰ』である。

 担当のケイコ先生はちょっと遅れて教室にきた。こうして軽くルールを破り、自分が疑似人格でない事をアピールしたいのだろう。彼女は眼鏡の奥に知的な眼差しを備えた才媛である。軽くウェーブした黒のロングヘアーに色白の肌、ナチュラルなメイクに新色のリップが際立っている。今日の服装は、やや胸元が開いたシルクのブラウスにタイトなスカート。その下にはバックシーム付きの靴下で武装した細い脚がある。ただ、惜しむらくはその上に白衣を羽織っていて、腰のくびれとかヒップラインとか、肝心な部分を隠してしまっているのだ。そこがまた良い、という者も多いが。


 アキ君はこの現代史の単位を取得済みなので、空でも眺めながら雲のアルゴリズムを解析していても一向に構わない筈だ。しかし実際は目を爛々と輝かせて先生を凝視している。彼には果たさなければならない使命があるのだ。

 彼は現実世界では十二歳で、好奇心旺盛なお年頃である。ケイコ先生に多大な関心を持っていて、何とか先生の居場所を突き止めて、実際に逢ってみたいと考えているらしい。だから自分が真剣に授業を受けていると見せ掛けて、先生のアクセスルートを調査(ハツキング)しているのだ。その作業はどの席にいても効率的には変わらないだろうが、彼にいわせれば「一番近くだと攻めてるって感じがして燃える」のだとか。

 ただ、彼自身も理解していると思うけれど、実物のケイコ先生も美人である保証はない。

 仮想空間の黎明期において、人の姿は現実世界でのそれと違う場合が多かった。性別、年齢は誤魔化し放題。爬虫類になったり、自作のキャラクターに扮する事が流行ったりもした。しかし、ラインを切っている時間が短くなり、仮想空間での生活の重要性が増すに連れて、現実世界での自分の姿を忠実に再現する様になって行った。それが自分の個性を表現する方法として最も優れているからである。今では姿を変える事は恰好悪いとされている。無論、違法ではない。

 アキ君と同じく僕も現代史の単位は取得済みだ。これは家庭の事情ともいえる。現代史は民間神道隆盛の歴史でもある。僕にとっては寝物語に聞かされた数編の悲劇に過ぎない。暇に任せてペラペラと教科書を捲る。


 西暦2051年、世界中の人々は満天のオーロラを目にする。緑と紫のカーテンが幾重にも夜空に浮かび、星々を隠したのだ。今でもその記録映像を観る事はできるが、実際に体験した人の心中は如何ばかりだったろう。辺境に住む人々は神の御技と畏怖し、情報化社会に属している人といえども、審判の日の到来に恐怖した。その輝きは太陽の一部が大気と衝突した結果であり、恐れるに値する何かが舞い降りている証左でもあった。

 太陽はこの惑星系にあって、その全質量の99・8%を占めている。そんな巨大な存在を原始日本人が神と崇めた事は想像に難くない。女性神だと想像したのも言い得て妙だ。平素は地平に光を注ぐ優しい存在でありながら、怒り出したら憤怒の様相を呈し、突如として自分自身の一部を四方八方に投げ散らかす。それが太陽風なのだが、その実態は秒速450キロで迫りくる高温でプラズマ状態の電子や陽子である。ヒステリックな女性は確かに存在するが、流石は神様、怒り方に遠慮がない。

 それでも地球に地磁気がある頃は問題がなかった。ヴァン・アレン帯にその粒子群を留め、極地にオーロラを出現させる程度で済んでいたのだ。しかし地球の地磁気は西暦2050年頃から急速に弱まり、やがて雲散霧消してしまった。そうなると貯まっていた粒子はゆっくりと落ち始め、新たな太陽風も遮る物なく降り注ぐ。落ちてきた粒子は空中の窒素や酸素にぶつかり、エネルギーを各種の電磁波に変える。見た目は美しいオーロラであっても、一定量発生してしまう高エネルギー放射線は人体に有害だ。それを二世紀にも渡って浴びせられては堪らない。

 結局、2051年から2248年までかかって、ようやく地磁気は復活した。今では磁気方位は逆転して、磁石のN極は南を指している。この二百年間を『洪波期』と呼ぶ。

 今年は2301年。ようやく二四世紀を迎えたが、悲しい時代の爪痕は未だ色濃く残っていて、十分の一に減った世界人口もようやく上昇し出したばかりだ。

 この『地磁気反転(ポールシフト)』は六十万年に一度ぐらいの頻度で起きてきたらしいが、時代によっては立て続けに発生したり、メカニズムはよく分かっていない。今回のケースは、長期に渡って地磁気を失っていた事、太陽の異常活動が頻繁に発生した事、環境破壊によるオゾン層の劣化が被害を大きくしたといわれている。

 そんな中、日本は幸運だった。降雨量の多い日本海沿岸地域では空を雲が覆い、降り続ける放射線を反射するなり吸収するなりして、大半を減衰してくれた。太平洋沿岸地域では、その豊富な資金を使って、巨大な地下都市を建設した。それでも有害な放射線を完全に避ける事は難しい。結果、癌患者の増大は元より、人の精や卵を傷付けて不妊症や死産を誘発した。艱難辛苦の末に子供を得たとしても、遺伝子的に親とは違う、厳密にいえばヒトとは異なる種である事例も多発した。


 多種多様な新人類、異形の子らの誕生である。


 日本の幸運をもう一つ挙げるなら、その神道的文化に言及する人も多い。生まれてきた子の遺伝子情報が従来のヒトとは違っていても、それならばその子は新人類なのだとすんなり納得できたし、あまつさえどこか優れた能力があるのではないかと期待したりもした。つまり『異形の人に神宿る』という訳だ。これまでのヒトと同じ種の子をクラスC、クラッシックとかクラッシィと呼んで可愛がったが、そうでない子も厚く保護し、同様に愛情を注いだ。

 クラスC以外では、現在でも、クラスAとBが存在し、治療と介護の必要度合から区別されている。クラスBは日常生活が送れるまで一定の治療が必要な個性。クラスAは高度な治療や恒常的介護が必要な個性を指す。何れにせよ治療費は国家や州が負担し、場合によっては家族の生活費も保証した。人口増加と個の多様性維持は今や国是であり、クラスAやBの子は新人類の候補として厚く保護されているのだ。彼らは高い確率で特殊な能力を備えている。そのあり方は知能が高かったり、感情が豊かであったりと様々で、ヒトの多様性を体現する存在なのである。

 一方、社会も大きく様変わりした。二百年続いた洪波期の間、自らの生命に向こう見ずな人を別にすれば、ひっそりと遮蔽物に隠れて暮らす事を余儀なくされたのだ。太平洋岸の都市圏を例に挙げると、まずは地上の建物を厚いコンクリートで覆い、建物同士を地下道でつないだ。しかし、それだけでは不十分である。やがて地下道と地下道が重なり地下街ができ、更には地下街同士が重なり地下都市になった。その増築とつなぎ合わせによる都市建設は非難の的で、日本の恥とまでいわれている。さながら迷路の様であり、移動にはコツが必要な程だ。都市住民達はそんな地下から一歩も出ずに生き抜いたのだ。

 当然の帰着として、地下生活者は広大な世界を欲する様になる。上空にはどこまでも高い青空があり、見渡せば地平線や水平線が遠くに見える広々とした世界。手に入らないと思えばどうしても欲しくなるのが人の性である。しかし、幾ら望んでみても良い方法がある訳でもない。比較的安全な日本海沿岸地域に引っ越す者、防護服に身を固めて地上を散策する者など、個々の経済的状況に応じて対処するしかなかった。

 やがてテクノロジーの発展を待って、画期的方法が編み出されるに至る。

 蛋白質で構成されたマイクロマシンを脳に入り込ませ、十二対の脳神経とネット回線を無線接続させて、仮想空間に自身が入り込める様にしたのだ。目を閉じて仮想空間に入れば、そこにはバーチャルな空や海や大地があり、走り回る事も大声を出す事も自由にできる。最初は精神病患者の治療の一環として採用され、閉鎖空間におけるストレス性疾患の治療に有効だと知れると、十年を待たずして地下都市での普及率が九割を超えてしまった。やや遅れて法整備がなされ、質・量・安全性が確保されると、地上を闊歩している日本海沿岸の住民もそれに倣った。そして洪波期中期の2150年頃には、学ぶ事も、働く事も、遊ぶ事も、人が人と知り合う事さえも仮想空間で済ませてしまう様になる。仮想空間はいつしか『エリア』と呼ばれ、人々の生活の場そのものになった。生理現象以外は、であるが。

 エリアはいわゆるネットと同義ではなく、ウエブという広漠とした世界の一部に、エリアと呼ばれる人が直接入り込める部分があるに過ぎない。例えば、どこかの商店にある会計用端末に意識を飛ばしてみても、その中に入れる訳ではない。ただその端末がオンラインであれば、エリアからその内容を覗き見るぐらいは可能だろう。

 エリアは基本的に現実世界を準えて構築してある。実際にある山や川、海といった地形を作り、そこに現実に近い感じの街がある。人々はそこに行って、歩いたり寝転んだり、風の匂いを嗅いだり、頬に当たる陽の光を感じたりして過ごす。机に座って仕事をしたり、公園でデートをしたりもする。恋人同士で手を繋いだり抱き締め合ったり、現実世界と変わらない行動をとる訳だ。

 このエリアには功罪の両面がある。病院や施設での生活を余儀なくされているクラスAやBの人々の活動の場として最適であった事。そして現実世界、つまり『リアル』で労働に従事する人々を差別する風潮が生まれてしまった事である。

 もう一つの罪として、プログラムで脳内麻薬をコントロールする新種の麻薬が生まれた事も上げられる。ケミカル系プログラムなどと呼ばれているが、勿論薬物を使う訳ではない。脳に着床しているマイクロマシンから刺激を発して、特定の神経伝達物質を増幅させるのだ。政府機関や州警察は躍起になってその撲滅に努めているが、証拠が残らないので対処が難しい。学識者が警鐘を鳴らす前に普及した事もあり、完全に出遅れた形だ。仕方なく一定の使用は黙認されている。公共施設でも利用されており、エリア内の病院、学校でも普通に使われている。行くだけでハイになる遊園地なんてのもある。

 洪波期が終わって半世紀。現在も『エリア』と『リアル』の二つの世界が存在している。人間の習慣はなかなか変わらない。今でも引き籠もりがちなのだから。それでも人々は少しづつ、外の世界へ出ようとしている。

 世論は大きく二つに分かれている。一方は、これまで通りエリアを存続すべきとするエリア尊重派。もう一方は、エリアは仮の宿りに過ぎないのであり、今後は廃止の方向へと政策を転換し、リアルの充実を図るべきとするリアル開発推進派である。財源も人的資源も有限なこの国にあって、両者を公平に尊重する事は難しい。双方のいがみ合いは変革の時代には付き物である覇権争いの様相を呈し、混沌とした状況を生み出しつつある・・・・


 アキ君はまだ悲しくも微笑ましい努力を続けている。僕はいつ真実を明かせば最も劇的か考えて楽しんでいた。

 彼に秘匿会話を打診してみる。

「忙しいかな?」

「決まってるだろ。しかし難し過ぎるよ。たかがアクセスルートを調べるだけなのに、何でこんなに厳重に隠匿しているんだ?」

 ヒントでも出してやりたいが、今回は控える。

「ケイコ先生ってなんかイイよね。君が夢中になるのも分かるよ」

「現代史の教え方が好きなんだ」

「おっと、これは失礼。内面的な要因だったんだ」

「この科目は悲惨な内容が多いだろ? 一方で日本が如何に幸運だったか強調する先生もいる。でもそれは下卑た考えだとは思わないか」

「唯一の救いはそこだと思うけれど」

「いや、日本も他の国と同様にもっと悲惨な目に合うべきだったんだ。この国の国民は相変わらずのんびり屋で、年中春みたく暮らしているだろう。もっと他人の痛みを知るべきなんだよ」

「厳しい意見だね」

「厳しいのは日本人だよ。ほぼ壊滅した赤道直下の国々を援助しなかったし、近隣の東亜細亜各国に対してもそうだった」

「自国の事で精一杯だったからね」

「援助も自国の事も、同様に精一杯やるべきだったんだよ。いずれ反動がくる筈だ」

「ケイコ先生もそんな事いってたっけ」

「そう、先生は今後の事を見据えて現代史を教えている。いわば未来論だよ」

 そういうと、彼は通信を切った。

 彼の事を普通じゃないと思うのはこんな時だ。ただの生意気なガキだと思わせておいて、時に深遠な意見を聞かせてくれる。今の時代、頭の良い子供は多いけれど、大人だと感じる子供はいない。一般に子供の人格は平板に過ぎないからだ。


 今度は珍しいルートで回線がつながる。ナツ君からの会話の申し込みだ。当然「喜んで」と返事をした。

「ハル君ひまそうです」

「ご明察。君はどうなの?」

「暇かな? ねえ、ハル君のお家って神社でしょ?」

「そうだよ」

「神社って宗教?」

「勿論、税制上の優遇措置を受けているからね」

「ずるい」

「そういわれても・・・・」

「じゃあさ、何か厳しい決まりとか教義とかあるの?」

「特にありません」

「モーゼの十戒みたいなのないの?『汝、隣人を貪る事なかれ』とか」

「えーと、確か読んだ事があるな。そんな感じのやつ」

「カッコイイ! どんなの?」

「例えば、田んぼの畦を壊してはならない」

「もう田んぼなんてないよ。お米はバイオプラントで作っているんだから」

「他人の田んぼに種を蒔いてはならない」

「また田んぼ・・・・」

「他人の田んぼを収穫してはならない」

「田んぼ以外にないの?」

「あるよ。お祭りをする場所に汚物を撒き散らしてはならない」

「どんな場所だって駄目だよ」

「生きた馬の皮を剥いではならない」

「剥ぎません」

「死んだ馬でもお尻の方から皮を剥いではならない」

「だから剥がないって」

「動物と性交をしてはならない」

「・・・・ひょっとして馬つながり?」

「瘤のできる病気になってはいけない」

「ヘルメット被んなきゃ」

「掟を破れば厳しい罰が待っているのだ」

「どんな?」

「村八分にされる」

「その言葉、久々に聞いたよ」

「ちなみに神々の世界にも厳しい掟がある」

「そっちはカッコイイかな」

「他の神様の田んぼを収穫してはならない」

「あー、もういいやこの話」

「つ、冷たい反応だね」

「今度はあたしの話を聞いてよ」

「珍しいね。拝聴しましょう」

「突然だけど、もし私がリアルで逢いたいっていったらどうする?」

「どうするもこうするもないよ。飛んで行くさ」

「高いところ苦手なのに飛べるの?」

「言葉の綾」

「実は割と近いんだよ、あたしの居場所。量子暗号通信でメールサーバに落としておくね」

「へえ、本当に行っても良いのかな。だったら今から行くよ」

「待ってる」

 彼女との回線が切れた。「量子暗号って政府の外交文書かいっ」と突っ込むのを忘れていたのが悔やまれる。早速メールサーバを調べると、果たして量子暗号文書で届けられていた。侮れない奴。住所は『国立児童育成研究所内1200号室』とある。見事なアスキーアートも添えられていたが、こんな物を量子暗号で送った人物は二人といないだろう。

 施設や病院で暮らしている生徒は多い。彼女もその一人だとは聞いていた。いつも活発な彼女がベッドで横になって過ごしている姿は想像し難い。でもそれが本当の姿なら、そんな彼女にも逢ってみたいのだ。逢って「リアルの君も可愛いね」とかいってみたい。児童研なら祖母の付き添いで訪れた事もある。随分昔の事で、あれは落成式だったか。IDを見せれば施設に入るまでは可能だろう。確かに場所も近い。我が家から地下鉄で十五分程だ。

 洪波期の間、地上で暮らす事が可能であった日本海沿岸地域の人々にとっても、外出がままならない事に変わりはなかった。許される時間が限られていたのだ。そんな地上生活者にとって、人が人とリアルで逢う事は特別な意味を持っていた。相手が異性ならまじまじと観察して、更にはもっと直接的な手段で互いを確かめ合ったそうだ。とにかく滅多にないチャンスなのだから、いちいち恥ずかしがってはいられなかったのだ。僕だって当時であれば、初対面の女の子に「服を脱いでみせて」と叫んでいたに違いない。

 今は外出しても身体に害がある訳ではないので、リアルでも普通に女性を見掛ける。それでも異性とリアルで逢うって事は、やっぱり特別な事に違いない。

 こうしてはいられない。自分の席にはデコイを置いて、リアルに戻る準備を始めた。


 ―リアルの自室に戻る―


 この瞬間がどうも苦手で、いつになっても慣れない。リアルの感覚が復活してくると、世界がぐるぐると回り出す。右手の感覚が戻ったのを確認して、準備しておいた漢方薬を嚥下する。祈りにも似た時間が過ぎて、ようやくめまいが収まる。全く、難儀な身体だ。

 さて、彼女の事を考えなければならない。彼女は「待ってる」といっていた。できるだけ早く行くべきだ。しかし、ちゃんと彼女のところまで辿り着けるだろうか。施設に入る事はできても、受付係の疑似人格に入室を拒否される可能性もある。病院ならまだしも国立の研究施設なのだから、ちゃんとアポイントを取るべきだった。でも民間人が研究施設にアクセスする事はできない。こうなると残る手段は一つ。 

「お祖母様に頼るか」

 祖母はちょっとした有名人である。あの時代に八人もの子供を作り、またその八人がそれぞれ四人以上の親になっている。それに信じられない程の長寿で、御歳八十八歳。新人類としての特徴も備えていて、勘が極めて鋭いし、人の考えている事がよく分かる。心底尊敬している僕としては、あの人程の奇人振りならばもっと思い切った特徴があっても良かったのにと思っている。目から光線が出るとか、後頭部に後光を発光させる器官が備わっているとか・・・・

 子供の頃、その話をして半年は笑われてしまった。以来、その話題はしない事にしている。

 さて、祖母に逢うなら社務所へと向かわねばならない。境内を通るのが嫌なのではないが、服を着替えるのが面倒なのだ。宮司一家の長兄としてはジーンズにポロシャツ姿では恰好がつかない。白い浄衣に着替えて、浅沓を履いて表に出る。


 境内は露店が並び、大勢の人でごった返している。いろんな食べ物の臭いがして、喋り声がして、賑やかな事この上ない。僕としてはもうちょっと凜とした神社経営が望ましいのだが、これも祖母の方針なのだ。本社と離れたところにある奥宮さえ人が立ち入らない様にしてあれば、毎日がお祭り騒ぎでも構わないし、楽しいし、儲かるというのが祖母の信念なのである。

 できるだけ神妙な面持ちで玉砂利の上を静々と進んだ。途中、参拝にきている氏子さんに頭を下げられる。いつも思う事だが本当に申し訳ない。僕は単に高いところと乗り物が苦手なだけの、偉くも有難くもない平凡な高校生なのだから。

 ようやく社務所に着く。奥の間まで進むと、執務室の障子を開け放ち、老眼鏡をかけた祖母が平机で物書きをしている。

「お祖母様!」

「おおハルか。どうした?」

「どうしたもこうしたもありませんよ。どうしてジャージ姿なんですか」

「楽だから」

 そりゃ楽でしょうとも。しかもフードまで被ってしっかり紐を結んでいる。喋り難いだろうに。

「何か用事じゃなかったのかい」

「ああ、そうでした。お祖母様に『国立児童育成研究所』についてお尋ねしたくて」

 そう聞くと老眼鏡を下にずらし、裸眼でギロリと睨み出した。僕は楚々と歩み寄り、祖母の前に正座をする。こういう場合は下手に出るに限るのだ。

「睨まれました」

「睨みました」

 奇妙な事実確認の後、祖母は老眼鏡の位置を戻し、少し考える素振りを見せた。

「読んでらっしゃいますか」

「読んでいますよ」

 今度は少し怖い事実確認になってしまった。僕は心を読まれて平静でいられる程、善良な孫ではない。正直に告白すれば「若くて美しい女性は全て私の物になれ」とか考えている健康な高校生男子なので、かなり恥ずかしいのだ。

 祖母が少しニヤリとする。ああ、完全に読まれている。

 少しの時間が過ぎ、祖母が口を開いた。

「ふん、良いでしょう。お前もそろそろ『クラスS』に逢うべきです」

 クラスS! 祖母の口からそんなSF用語が飛び出すとは思わなかった。タブロイド紙やオカルト本じゃあるまいし、国家が秘密裏に特殊能力者を保護しているなんて事があるのか? それにしても僕はそんな国宝クラスの人物に逢いたい訳ではない。彼女が、それこそ目から光線を出しても不思議ではないレベルの新人類だというのだろうか。祖母ですら単なるクラスCなのに?

 思わず彼女が光線でゴキブリ退治をする姿を目に浮かべてしまう。

「お前は幼い頃から成長していないね」

 また恥ずかしい内心を読まれてしまった。

「手筈なら私が整えておきます。あちら様のご迷惑になるのでお昼時は避ける事。家の夕飯までには帰ってきなさい。以上」

 園児に言い含める様な指示を受けて、トボトボと自室へ引き上げた。どうせ指図されるなら、せめて高校生らしく扱って欲しい。あの人にとって、僕はいつまで経ってもハイハイしている赤ん坊なのだろう。


 服装を戻し、ショルダーバッグを担いで『児童研』へ向かう。大鳥居を過ぎればすぐに地下鉄駅だ。

 しかし彼女がクラスSだなんて信じられない。それは特撮ヒーローみたいな存在(もの)ではないにしても、知能指数が極端に高いとか、学者か仙人の様な感じをイメージしていた。エリアでの彼女はごく普通の女子高生だ。よく喋った相手であり、鋭さを感じたり、ぶっ飛んだ様な印象は皆無である。むしろ恋愛対象として考えていた相手なのだ。会話ではちょっと言葉が足りない感じはあったが、それがまた印象的だったりして、他の女の子と少しばかり違うとは思っていた。でもそれだけだ。

 情報機器ってのは記憶したり分類したりするのが得意だから、バッグにある記録用端末(ストレージデバイス)を操作して、彼女との会話記録を取り出し、内容別に統計をとってみた。

 案の定、感覚的な会話、つまり「どんな異性が好き?」とか「どんな音楽を聴くの?」とか「食べ物は何が好き?」とかばかりである。

 僕がどう答えたかも統計をとる。これは恥ずかしい結果が出てきた。彼女の問いに対し、極めて詳細に、時に感情を込めて滔々と語っている。それを彼女がずっと聴いて、時折笑ったり相槌を打ったりしているパターンばかりだ。これじゃ彼女に関して何も情報を得られないばかりか、好かれる要素もない。男女の会話なんて、べらべら喋っている方が聞いてくれている方に片思いをしているパターンしか存在しないのだから。

 電車に揺られて時間を過ごすうちに、彼女が『クラスSかどうか』という前に『どうしてリアルで僕と逢うつもりになったのか』という疑問の方が大きくなってきた。リアルで逢うという事は、即子作りとはならなくても、互いにまじまじと見詰め合ったり、触ったりしてみましょうという事であっても不思議じゃない。人柄とか家柄とか知識とかフィーリングなんて内面的な要素は、エリアでも充分に分かる。リアルでしか確かめられない事、つまり肉体的な理由がある筈なのだ、っていうかあって欲しい。

 電車は目的地の駅を過ぎてしまった。それも構わないだろう。時間はまだある。路線はここから終点の駅までは地上を走る。海でも眺めながら疑問の続きを考える事にした。


 疑問にぶつかると、僕の中の父的人格と母的人格が顔を出してくる。父は僕が最も尊敬するペシミストであり、母は最も愛するオプティミストである。

 父は宮司だが、ペシミストの宗教家なんてユニーク過ぎる。晩婚であり、独白によれば「生殖能力の減退を感じて、その焦りからようやく結婚した」らしい。友人から「お前は石橋を叩く事すらしないタイプだ」といわれるとか。

 一方、母は真逆である。二十歳の時に四十歳の父の元へエイヤッと嫁いでいる。考える前に行動する人で、それでも考え抜いたのと同じ結果を得ている事が多く、しきりに周囲を関心させている。

 僕はそんな二人のハーフなのだから、半分づつ遺伝的影響を受けている訳だ。だから僕の場合『何も考えずに行動してしまい、途中あれこれ後悔し、結果どうにかなったり、ならなかったりする』というパターンを踏襲している。自分でも平凡過ぎると思うが仕方ない。

 今回の件にしても成長は見られない。母的に考えて、彼女が本当に僕に好意を持っていて呼んでくれたとも思えるし、父的に考えて、ただ僕を笑いたくて呼んだのかとも思える。でも結局分からない。分からないなら逢ってみるしかない。そう結論づけて、折り返し目的の駅へと向かう事にした。


 駅から『児童研』までは地下道を通る。歩いて五分程度だろうか。

 地下からは見えないが、地上三階建てで、窓のない灰色をした建物である。外壁は重金属とコンクリートの複合構造で、有害放射線どころかあらゆる電磁波をシャットアウトしている。地下は何階まであるか公表されていないが、ひょっとしてかなり深いのかも知れない。立派な施設の割に人の出入りが少なく、駅周辺に立ち並ぶ公共建造物の中でも地味な存在だ。

 施設ゲート前に到着した。現在午後二時。時間も頃合いである。意を決して自動ドアの前に立ち、監視カメラにIDを提示した。

 頑丈そうな扉が「プン」と開く。何となく躊躇われるが、意を決して中へ入る。

 屋内は予想以上に暗い空間だ。人声もない全くの無音。人工大理石でできた床が靴を鳴らすのみである。普通、公共施設のロビーといえば、年中出しっぱなしの傘立てがあって、掲示板に無意味なポスターが貼ってあって、無意味に大きなモニターで公共放送が流されていてるイメージがある。税金を無駄遣いしないのは立派だが、ここまでがらんとしていると何だか異様だ。

 奥へ進むと無人のカウンターがあった。

 ぽつねんと受付端末が置いてある。モニターに軽く触れて起動させると、疑似人格らしき女性の立体映像が浮かび出た。何も喋ってこないので祖母の名前を告げてみると、果たしてアポイントはしっかり取れていて、1200号室までの移動経路が表示される。少し拍子抜けだ。でもまあ、祖母に感謝を。

 1200号室は最下階の地下二階だそうだ。地上三階しかない建物の地下が何十階もあっては気味が悪い。京都市内じゃあるまいし、地の底といっても過言じゃない地下十二階まで潜らなくても良かったのは幸いだ。

 案内された通りに進むことにする。ドアを幾つか抜けて、階段を下りる。

 かなり奥へと進んでいるが、ここまで誰にも会っていない。無人化が進んだ時代ではあるが、これだけの施設を作っておきながら誰も利用していないなんて事があるのだろうか。

 どうやら目的の部屋に到着したらしい。ここにも誰もいない。白一色の椅子もテーブルもないがらんとした室内で、立ったままリアクションを待つ事にした。


「きゃは、リアルのハル君だ」

 彼女の声がした。どこからかは分からない。

「来たよ」

「本当に首を傾げているんだね」

「三半規管が悪いらしくて、傾いているのが分からないんだ」

「うん、知ってる。アゴに髭の剃り残しがあるよ。それに背中からシャツが出てるし」

 どうやら四方から僕をモニタリングしているらしい。一方的に見るなんて不公平だ。

「僕も君に逢いたいんだけれど。こっちに向かっているの?」

「あっ、うん。実は歩けないんだ。でもあたしばっかり見ているんじゃ悪いよね」

 前方のセラミックタイルが左右に開き、奥に通路が現れた。

 僕は腕組みを解いて歩き出す。

 通路にはエアカーテンがあって、少し消毒薬っぽい臭いがする。

「ねえ、白衣とか要らないのかな」

「虫さえ付いていなきゃ大丈夫」

 扉が開き、また白い部屋に出る。そして立体映像の、いつもの彼女が佇んでいた。

「姿があると落ち着くよ。それが疑似映像でもね」

「ごめん。脅かしちゃ悪いと思ってこれを出しておいたの。本物は左よ」

 僕はゆっくりと、その方向を向いた。


 そこには壁に埋め込まれた大きな水槽があり、一体の胎児が浮かんでいる。


「これが君か」

「そう、これがリアルのあたし」

 臍の緒が上へとつながっていて、巨大な頭部が下になっている。前頭葉から頭頂部にかけて施術の後らしきものがある。それでも女の子かどうか確認している自分が可笑しかった。

「僕達は同い年の筈だけれど、君はまだマイナス何ヶ月って感じだね」

「そうね。でも生まれたのは十六年前。その頃、脳髄以外は全く未成熟で、今までかかってようやくここまで成長したの。やっと肉眼ができたから、まず観たいものは何かなって考えたんだ」

「それが僕だった?」

「そう」

「光栄です」

「ハル君なら大抵の事は驚かないだろうし、それに好きだから」

「へ?」

「あたしね、肉体って持っていなかったから、感覚っていうか、五感で感じるって事が理解できなかったの。それでハル君にいろいろ聞いて教わって、カラダって素晴らしいな、なんて、そんなにいろいろ感じてるハル君って素敵だなって思っていたんだよ」

 合点がいった。それでいつも僕の与太話に付き合ってくれていたのか。肉体がないから・・・・

「僕が良く見えてる?」

「かなりピンボケ」

「じゃあ近づいてあげよう」

 水槽に近づいてターンしてみた。彼女は瞬きしない両眼で僕を観ているのだろうか。その焦点の定まらない、虚ろな瞳で。

「ありがと。少しは見易くなったかな」

「ねえ、君はまだ当分そこにいなきゃならないのかな」

「成長速度が速くなっているから、もうすぐ出られそうだよ。半年はかかるだろうけれど」

「それから呼べよな」

「眼が開いて、肉眼で見る感覚が分かったらもう我慢できなかったんだよ。早く逢いたくって」

 何だか愛おしい。疑似映像の姿をちらと見ていった。

「水槽から出られても、すぐにあそこまで成長しないよね」

「うん、当分赤ちゃんだよ。でも普通よりは早く成長するみたい。首が据わったらダッコさせてあげる」

 嬉しい様な、じれったい様な気持ちになる。


 それから僕は床に座って、彼女と長い会話をした。

 彼女がクラスSである理由、それは彼女の特徴、つまり知能が高くて五感がない事によるらしい。五感がない代わりに新たな感覚を得る事ができたのだ。

 彼女は情報の流れを見る事ができるし、機器類の動きを嗅ぎ取り、無機質の想いを肌で感じ、衛星の願いを聞いてやって、0と1の並びを味わえる。情報とそれを司る機器類との親和性が極端に高いのだ。

 彼女にいわせれば、新人類の特殊能力は失う事から始まるそうだ。生物全てにおいてそうなのであり、犬は色が認識できない代わりに鼻が利くし、コウモリは視力を棄てて音波を知覚できる能力を得た。

 では、働きの悪い三半規管の代わりに僕が会得したものは? ああ、祖母にいわれた事がある。謙虚さだ。これは詰まらん。神々に厳重抗議したい。

 この施設の真の目的も聞いた。軌道上に浮かぶ情報衛星や通信衛星からもたらされる雑多な情報。その処理の効率化を研究する事である。どの情報が重要で、更に詳細な情報を得る必要があるのか、その優先順位をフィードバックして、より効率的な情報管理システムを構築する。それが彼女の仕事だったのだ。

 優先順位の決定は人工知能にはできないといわれている。こればかりは人様の都合で決める事なのであって、人間が判断するしかないのだ。でも近づける事はできるだろう。何千、何万もの凡例を見せて、その模倣をさせて、間違いを正すという作業を繰り返せば。

 彼女は新しい管理システムを構築した。自己評価型AIプログラムともいうべき代物で、勝手に進化してくれる画期的なプログラムである。そして彼女の肉体は急速に成長し出した。そこには作為が感じられるが、彼女にとって、そんな事は百も承知だった。

「この国にとって、全ての活動、全ての情報管理は『子を成す事』『個の多様性を維持する事』のためにあるの。だから誰かが我慢しなきゃね。十六年遠回りしたけれど、子供だってまだ作れるし、丁度良い相手も見付かったしね」

「ひょっとして僕かな?」

「そうなの。あたしの二種の卵とハル君のXとYのどちらの精でも、互いの個性を存続させられる事が分かったの」

「そう・・・・」

 彼女は嬉しそうに喋っている。あどけない、コロコロとした人工音声(デジタルヴォイス)で。

「ところで君の疑似映像だけれど、あれは全くの空想の産物かな」

「ううん、あれはあたしが成長した姿を算出したものなの。そんなに誤差は出ないと思うよ」

「そうか。じゃ、結婚しよう」

「ぎゃー、嬉しい」

 気泡がボコリと音を立てる。水槽の胎児が動いたのだろうか。

 こんな奇妙なプロポーズは孫子の代まで自慢できそうだ。しかし、二人の個性が存続されてしまうとしたら、生まれた子供は五感に加えて平衡感覚までなくす事になる。可哀想な気もするが、その代わり得られる能力は神懸かりなものになるだろう。正しく世界に一人だ。

「さて、そろそろ帰るよ。何かして欲しい事はありませんか、奥様?」

「奥様だって! ええと、それじゃあ、パンツを脱いで下さい」

「お断りします」

「お断りされました」

 どうやら遊ばれているらしい。

「半年後にダッコさせてくれるんだよね」

「うん」

「その時にオムツを剥いでやる」

 大音量の悲鳴や罵詈雑言を聞きながら、部屋を辞した。


 帰路中ずっと、僕はニヤニヤしていたに違いない。疑問は全て解けたし、一足飛びに最終結論まで到達してしまった。

 今夜家族に話そう。きっと皆、個性的な反応をしてくれる事だろう。


 これまでも僕の事を好きだといってくれる女の子はいた。リアルで逢った事もあるけれど、どうもしっくりこなかった。どの子も神社の御曹司という色眼鏡でしか見てくれなかったし、神社を経営する事を、まるで権力者の仕事の様に勘違いしている場合が多かったのだ。そりゃ権力者になりたい神官もいるだろうが、僕の理想は違う。上手くいえないけれど、自分の主義主張を相手に押し付けるのが権力なら、そんな力は欲しくもない。

 僕のやりたい仕事は、僕自身を幸せにしてくれるものが良い。家族と幸せに過ごす手段として仕事をするのではなく、仕事自体が僕や周りの人を幸せにしてくれるものにしたいのだ。それに、イデオロギーではなく、感じた事を判断基準にできる事をしたい。具体的に何をすべきかは全く思い付かないのだけれど。

 彼女は僕の理想を体現する存在に思える。彼女は納得して国家の道具になっていた。それは、そうする必要があると感じていたからじゃないのか。そして自分の生命を賭してその思いに従った。そんな彼女を見習いたい。

 それに、好きな女の子を0歳から知る事ができるなんて素晴らしい。


 家に着くと、家族全員が食卓に着いて待っていた。少し遅れてしまった様子だ。

 祖母が笹鰈の干物をバリバリと食べている。父は僕を一瞥し、眉を吊り上げて席に着く様に促した。妹は大人しく、席にちょこんと座っている。弟どもは僕が遅れた事を声高に非難した。

 母はいそいそと料理を運びつつ、僕を見遣る。

「ちょっと遅くなるってお祖母様から聞いていましたよ」

「そうなのですか?」

 配膳が終わり、父の号令で夕食が始まる。口火を切るなら早い方が良い。

「ところで、皆さんに報告があります」

「では聴こうか」と父。

「実は今日、プロポーズしてまいりました」

 さあ来るぞ怒濤の様な反応が!

「・・・・・・・・」

 どうした事か。皆無言だ。

 はたと気が付いた。

「お祖母様!」

 祖母はアジフライを箸に突き刺したままで外方を向いている。

「何だい、ハル」

「何だいじゃありません。僕が喋る前に話しましたね」

「自分で話をしたかったのかい」

「したかったに決まっています。こんな面白い話、そう滅多にあるもんじゃないのに。どこまで話をしたのですか」

「どこまでって、そりゃお前が恥ずかしいと思ってる事以外全部だよ」

「恥ずかしい事だなんて・・・・」

 祖母が箸を置いて、僕に耳打ちをした。

「ちゃんと確認した様だね。本当に女の子かどうか」

 僕は黙るしかなくなってしまった。この人は千里眼も持っているのか。

 その様子に父が反応する。

「何! お祖母様から聞いた事以外にも、何かいえない様な、恥ずかしい事があるのか」

 ああ、また祖母の術中に嵌ってしまった。けして侮れない人だと知り尽くしているのに。

「いえ父上。そんな事はない、ともいえます」

「天地神明に誓えるか」

「誓えません」

 父は怒り、母は笑い出した。祖母は大いに満足している。弟妹達も笑っているので、僕は少し気が済んだ。


 食後、父は縁側に移って御神酒を飲んでいる。僕は隣に座って酒肴を盗む事にした。

「父上、日本酒のツマミに桜餅ですか」

「どちらも売れ残りだ。どうだ、お前も一杯やるか」

「僕はまだ未成年です」

「婚約すると飲酒が許可される筈だぞ」

「されません」

「それに神社の境内に限れば、御神酒を飲んでも違法にはならない。信教の自由だ」

「それは憲法解釈上の立派な争点ですね。判例もないでしょうから、少しなら頂きます」

 父の杯を受けて少し唇を湿らせた。父がポツリと話し出す。

「なあ。その人は良い人なのか・・・・お前の事だから間違いはないと思う。お祖母様も母さんも賛成している。私達がその人と逢えるのはまだ当分先になるそうじゃないか。心配なのではない。少し不安なのだ。いや、それはやっぱり心配だという事なのだが、家族なら当然だと思わないか。この境内をヨチヨチ歩いていたお前がもう・・・・」

 僕は父の隣で、ただ黙って・・・・目を回していた。アルコールには極端に弱いのだ。臭いを嗅いだだけでも三半規管は機能を完全に放擲してしまう。今日はいろんな事があり過ぎて、父も僕もその事を忘れていた。


 翌朝、自室の布団の中で目覚めた。靴下を半分だけ脱がしてくれているアバウトさからして、父と弟達が運んでくれたのだろう。朝食にはまだ時間があるので、急いで身を清め、新しい浄衣を着て奥宮へ向かう。

 奥宮は巌座と祠だけで構成されている。本社から離れた場所にひっそりとあり、立ち入りを禁止してある訳でもないのに、滅多に訪れる人もいない。その素晴らしさは近づいて初めて分かる。巌座の上に榊の亜種が群生し、幹は両手を拡げる様に伸び、根は巨石を抱き込んでいる。そしてその姿を隠す様に祠がある。

 この国と同等の古さを持つ弊社も、始まりはこの小さな宮であった。神話によれば、この巌は神々が天から地へ降りる際に使った梯子の基礎なのだそうだ。だから、この宮が奉ずるものは天界へと通ずる空間なのであり、天の橋立そのものなのだ。

僕はしばらく佇んで、参拝し、辞した。昨日の報告のつもりで。


 朝食を済ませ自室に下がる。安楽椅子に腰掛け、エリアへ行く準備を進める。八時前なので少々早いが、登校する事にした。

 棚にある無線ルーターの各種ランプが点いている事を確認する。机の上に水差しとコップを並べ、薬箱から目眩止めの漢方薬を出しておく。後は目を閉じて一連のイメージを辿ればエリアへと入って行けるのだ。


 ―エリアの学校へ―

 

 教室に入ると、ナツがいた。

 僕を確認するなり飛び付いてくる。

「ギュッてしてみて」

 これは照れるが、意を決して『ギュッ』をやってみた。すると彼女は頭を抱えて座り込んでしまった。

「ギュッてする感じは少し分かるのよ。たまに臍の緒に抱きついているから。でもギュッてされる感覚が分からない」

「そりゃそうでしょ。ところで、いつから来ているの?」

「二時間程前かな」

「この教室のプログラムって起動していた?」

「起動させた」

「どうやって?」

「えーとね、脇の辺りをくすぐるの」

「誰の?」

「サーバーさん」

「成る程ね」

 さっぱり分からん。

「でも二時間前はちょっと早いんじゃないかな。僕はいつも八時に登校する事にしているから、その頃においでよ」

「うん。そうする。他の人って何時に登校しているのかな」

「え? 君はこれまでどうしていたの?」

「アキ君にオンブして貰っていたの」

 これは分かり易い表現だ。何となく想像できる。しかし彼も迂闊な事よ。

「本当はね、八時二十分にならないと登校できないんだよ。登校プログラム上の規制でね。ほら、朝のHRに昨日一日分のホームワークを提出するでしょ。それを友達同士で不正にコピーしたり、それがばれない様に加工したりする時間的余裕を与えないためにね」

「ホームワークって、旦那様はどうしているの?」

「その呼び方は嬉しいけれど、みんなの前で使っちゃ駄目ですよ。あのね、デコイに授業を受けさせた時は、デコイがホームワークを受け取った時に解いてしまって、いつもの僕の指定席に置いておく様にしてあるんだ。自分が出席した時は自分で解くしさ。君はどうしているの?」

「んと、先生が見ると嬉しくなるものを貼って出すの」

「それって全科目共通?」

「共通っていうか、一度だけ。後はずっと白紙」

 これは凄過ぎる。どんなプログラムなのか見てみたい。きっと理解できないだろうが。

「その方法でこれまでライセンスを取ってきたんだ?」

「ううん。ライセンスは全部持っているの」

「全部って?」

「大学院の修士課程まで」

「左様ですか」

「偉い?」

「偉過ぎです」

「びっくり?」

「驚愕です」

 彼女を娶ろうなんて、畏れ多い事に思えてきた。というか、子作りの相手にしようなんて使い方を間違っている。『子を成す』のが人生至高の目的である現在でも、彼女は別格だ。

「八時から八時二十分までってさ、短くないかな」

「奥様は何をなさりたいのでしょうか?」

「エッチな事」

 ええええ! 内心の驚きと喜びは急いでしまい込む。

「あのね。バーチャル空間での体感ってのはリアルで感じた事のリピートでしかないんだ。リアルで未経験な事をエリアでやってみても何も感覚は得られないんだよ。希に間違った感覚を引き起こす事もあって、混乱の元にもなるしね」

「でも、それだと十年以上待たせちゃうよ」

 沈んだ。ノックアウト。リアルに残してきた身体が心配だ。鍵のない部屋だから、誰かに見られている可能性だってあるのに。

「嬉しいよ。でも今日結論を出さなきゃいけない問題でもないし、ゆっくり考えるさ。二人で」

「そだね」

 彼女といれば退屈な人生にはならないだろう。昨日結論を出して良かった。感じたままに行動して、それが最高に良い結果を出したなら、これ以上幸せな事があろうか。

「さて座ろうよ」

「あたしが席を決めたいな」

「伺いましょう」

「あたしの席と先生のいる教壇に直線を引きます」

「ほうほう」

「そしてその直線上に旦那様が座るのです」

「そのココロは?」

「そうすればあたしは先生を見ている様な振りをしながら旦那様を見続けられるのです」

「却下します」

「ええーっ」

「今度は僕の案を提示します」

「ではハルくーん」

「国会みたいだね。我が党は画期的な案を考えてきました」

「期待しましょう」

「僕はいつもの窓際の席に座ります」

「ほーほー」

「そしてナツはその前に座ります」

「しかしてその効能は?」

「効能って温泉かいっ。えーと、そうすれば僕がナツの背中を突いたり、頭をコツいたりしてイジめられます」

「突かれるのも、コツかれるのも分からないもんね」

「じゃあ、脇をくすぐる」

「サーバーさんみたいに?」

「そう」

「それじゃあたし、全部旦那様の言いなりになっちゃうな」

「えっ。脇をくすぐるってそんな効果があったんだ」

 結局、僕の案を通して貰い、彼女が前に座るっている。エリアじゃ最強なのに、心配な存在。じっと見ていないと安心できない。

 八時二十分になった。エントリー開始時間である。しばらくしてダンボール箱から人影が現れる。今日は幾分、同調時間が短いアキ君の登場である。

 例の如く最前列の席へと突進する。

「あれ、おっかしーな。レコードタイムが出てる。しかも今日は三番手だし」

 彼女をオンブしていない分早く同調できたのだろう。

 僕達はただ笑っていた。

「どうしてナツさんがハルの奴と一緒にいるの?」

「それは合体ゴボゴボ」

 急いで口を塞ぐ。やはり前に置いて正解だった。

「偶然だよ。別に気にする事もないさ。レコードだって? 凄いじゃないか」

「何か誤魔化そうとしてるな。俺にだって分かるぞ」

 しまった。流石は天才児。こうなったら奥の手を出すしかなさそうだ。僕はデータを彼に差し出した。ケイコ先生に関するプライベートな情報全てを。

 彼はそれをつかみ取り、信じられない程のスピードで確認し出した。

「・・・・・・・・俺、今日は帰る」

 幼気な少年にはキツかっただろうか。彼がまたこの教室に帰ってくる事を祈りたい。


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