序章
書物は人を楽しませるために存在している。ただし『この世に絶対はない』という真理に違わず、異なるものもある。
この本は毒薬に似ている。読むだけで気分を害し、身体に異常を覚えさせ、病院に足を向けさせる効果を及ぼすのだ。この危険性に省みず、どの家庭でも蔵書に加えがちなのはどうしてなのだろう。
まあ、僕が密かに愛読している『家庭用医学事典』の事なのだが。
その中にこんな記述がある。何でも、乳児の発育段階は大概決まっていて、首が据わる→寝返り→ハイハイ→お座り→つかまり立ち→伝い歩き→歩行と進むらしい。つかまり立ちは生後十~十一ヶ月頃です、とある。
僕の場合は発育が遅く、一年半を過ぎても立てなかったと聞いている。その見返りとしてハイハイは予想を超える進化を遂げ、急加速と急ハンドルを手に入れて、一旦動き出したら何か貴重な物を壊すまで止まらなかったそうだ。先祖伝来の花器を壊された祖母は「四つ足の生まれ変わりなのだろう」と嫌味をいったとか。当時の僕は傷付くだけの知性を備えていなかったが、代わりに母が悲しんだ。
そしてある日、すっくと立ち上がって猛然と走り出したそうだ。その時の母の驚きと喜びは一入だったろう。だが、同時におかしな点も目についた。首が傾いているのだ。常に小首を傾げている。どうしてなのか原因が分からないだけに家族は不安だ。病院にも連れて行ったが、外科的な異常はなく「経過を観ましょう」となおざりな事しかいわれなかった。
時が過ぎ、医師の言の通り原因は究明された。三半規管かそれを司る脳に異常があると判明したのだ。乗り物酔い、高所恐怖症、激しく動き回ると眩暈がするといった症状が現れ、家族達は「成る程ね」と納得した。原因が分かれば皆の愁眉も開き、やがて興味を失って行ったが、本人は至極不安である。幼い頃ならまだしも、身長が180センチになった今でも首を傾げている様は滑稽だし、スポーツも苦手だし、歩道橋が渡れない程の高所恐怖症に乗り物酔い。これで不安にならずにいられようか。でも家族は「それぐらいなら」と取り合わない。理不尽な話だ。
『洪波期』以降、生まれつき何らかの異常がある人は珍しくない。洪波期とは、人類社会と人類そのものが変革を迫られた時代の事である。