名刹と関白秀吉様
この小説はフィクションであり、実在の人物・建物等とは関係ありません。
(1)
九州大宰府にある観世音寺は、九州の中でも、最も由緒正しき名刹の1つである。
しかしながら、訪れた観光客は「ここがあの有名な観世音寺?」
と、首をかしげたくなる人が多いという。
由緒正しき名刹の割には、あまり保護を受けていない様に思われるからである。
観世音寺の起源は、1350年も前に遡る。
西暦661年、女帝として名高い斉明天皇が亡くなった際、
その子である天智天皇が大変悲しみ、
母の菩提を弔う為に、発願したとされている。
約80年後の746年には、僧尼に戒を授ける戒壇を設置し、
奈良の東大寺、下野の薬師寺と並ぶ日本三戒壇のひとつ。
330m四方の寺域の中には、講堂・金堂・五重の塔、等の建物があった。
と大宰府の観光案内には書いてある。
(2)
本能寺の変後、中国攻めからおうむ返しで帰った豊臣秀吉は、明智軍を討伐し、
柴田勝家を凌いだ。
ポスト織田信長として頭角を表した秀吉は、その後、各地を平定。
関白・太政大臣にまで昇りつめた。
勢いに乗った秀吉は、薩摩の島津を服従させ、乗りに乗っている時、
将に、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
1587年、その秀吉が、島津から凱旋の途中、大宰府天満宮に参詣した。
(3)
「この近くで休みてゃーで。」秀吉が言うと、
「それがよろしいかと思います。」石田三成が応えた。
「近くに観世音寺という有名なお寺がございます。」三成が言うと、
「かんぜおんじ?」「そこにいくでよー。」秀吉は了承した。
延暦寺や本願寺等、数々の寺社を相手に戦って来た秀吉には、観世音寺が由緒正しき、
歴史ある名刹であっても、関係無かった。
「ここがいいでよー。」秀吉は観世音寺の鎮守社=日吉神社に陣を張った。
「周りを見て見てゃーで。」
秀吉は、日吉神社から見える景色が、京都や奈良の山から見える景色に似て好きであった。
近衆の家来達を引き連れ、周りを見物に出かけた。
「それにしても島津は強かったでよー。」
「大友も毛利も、もうちょっとやると思っとったもんだでよー。」
「長くなってまったがね。」
島津を服従させた凱旋の途中だけに、秀吉は機嫌が良かった。
天気も良く、新緑の緑が青空に映えて、気持ちの良い日であった。
「三成、島津の事は、頼んどくでよー。良くしたってちょー。」
(4)
丁度その頃、観世音寺の別当(仏教坊主が神主を兼務している場合、寺の住職を別当という。)
の所へ、秀吉の家来から、
「関白、秀吉様が日吉神社で陣を張っているので、拝謁に来る様に。」
との連絡が入った。
別当は急な事に驚き、ここ一番の正装を着て、寺の者4人に輿を担がせ、いつもの様に出かけた。
暫く行くと、わいわいがやがやと、侍らしき集団がこちらに近づいて来るのが見えた。
良く見ると、侍らしき甲冑を付けた者達の先頭で、見るからに派手な金色と赤色に輝く、
陣羽織と袴を付けた、猿の様な顔をした小男が、侍達に向かって何かしゃべっているのが、
輿の上から見えた。
九州の武将は、皆、揃って恰幅が良く、日焼けした歴戦の勇者という感じで、
見た目だけで、相手を威圧する様な風貌の武将が多かった。
観世音寺の別当は、まさか、その猿顔の派手な小男が、数々の戦いに勝ち続けた武将⇒関白・秀吉様
であるとは、思いもよらなかった。
別当は、輿に乗ったまま、通り過ぎようと、前に進んだ。
その瞬間、猿顔の派手な小男と目が合った。
目が合ったまま、しばらく時が止まった。
秀吉の顔が、怒りの顔に変化するのと、別当が「しまった!」と思ったのは、ほぼ同時であった。
秀吉側近の家来が、輿に手を掛け、観世音寺の別当を引きずり降ろした。
「なに奴か!」「名を名乗れ!」
秀吉の顔は、怒りに震えていた。
「関白様の前を輿に乗ったまま通り過ぎるとは!貴様!覚悟は出来ているだろうな!」
側近の家来は、別当の体を地面に何度も叩き付けた。
当時の日本で、関白・秀吉より偉い者は一人もいなかった。
「陣に連れて行け!」秀吉の顔はまだ怒っていた。
(5)
秀吉の陣での取り調べの内容は、記録に無い。
しかしながら、この時の罪により、激怒した秀吉が、観世音寺の別当職の解任はもとより、
観世音寺の寺領を、没収してしまった事からも、内容の過酷さが伺える。
時の権力者に睨まれ、江戸時代に黒田藩主によって復興されるまで、観世音寺の衰退は続いた。
現在、観世音寺の鐘は、国宝に指定され、厳重に保護されている。
小説を読んで頂き、有難うございました。
小説は、私が観世音寺を訪れた際に、目にしたものを、題材にしました。
歴史ものとしては、秀吉の人柄や、当時の九州の状況を想像出来、
比較的、面白く出来上がったのでは、と思っております。