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第8話「見えぬ方向」

死は、いつも音を残さない。

ただ、その後に下される選択の中でだけ、形を持ち始める。


何かを失っても、まだ怒りを感じないというのは、

怒りそのものが、まだ辿り着いていないだけなのかもしれない。


この日の判断は、静かだった。

だからこそ、より深く残った。

第1巻 灯火の夜


第8話「見えぬ方向」


中城の午後が傾き始めた頃、俺たちは内側へは入らなかった。

日が落ちる前の時間帯は、判断が鈍る代わりに、意味が重なり合う。

この時間に起こる出来事の多くは記録されないが、その分、長く残る。


遊牧が歩調を落とした。

止まったわけではないが、これ以上先を行くこともない。

その微妙な変化だけで、これからの動きが、これまでとは違うと分かった。


「ここからは、確認だけだ。」


遊牧が言った。

淡然は頷いた。

そこに質問も、反論もなかった。

すでに同じ判断に辿り着いている合図だった。


俺は二人より半歩後ろから、周囲を見回した。

目立つ危険はない。

だからこそ、不安だった。

この場所の空気には、誰かが一度整理して立ち去ったあとの気配があった。


建物の間に伸びる細い通路。

人が意図的に避ける位置。

光は届いているが、長く留まらない構造だ。

こうした場所は中城に多い。

記録が付く前の判断が、束の間、休むための隙間。


遊牧が先に中へ入った。

槍は抜かなかった。

手を空けたまま、視線だけで空間を測っている。

その様子は、先ほどよりも慎重に見えた。


通路の奥で、まず匂いが届いた。

血の臭いではない。

古い木材と埃が混じった、長く滞留した空気。

人がしばらく留まり、そして消えた場所にだけ残る種類の匂いだった。


淡然が足を止めた。

俺と遊牧も、同時に歩みを止める。

誰かが合図を送ったわけではない。

ただ、全員が同じ一点を見ていた。


直剣を手にしたまま、死んでいる死体がそこにあった。


倒れていたわけでも、吊られていたわけでもない。

壁に背を預け、まるで少し休んだまま止まってしまった人のように。

姿勢は崩れておらず、手も無理に開かれてはいない。

意図的に整えられた死。

その表現が最も近かった。


右の腹部に深い傷がある。

血はすでに乾き、床へ流れ落ちてもいない。

脚にも、同じような痕が一つ。

逃げられないようにした痕跡だ。

首元には、刃が通った跡が残っている。

完全には斬っていない。

いや、斬らなかったに近い。


遊牧はしばらく口を開かなかった。

近づくこともせず、

目だけで、何が起きたのかを大まかに測っていた。

死体の傷、その深さ。


「腕の立つ相手だった。」


低く、そう言った。

淡然は頷いた。

俺にも分かった。

傷の位置が、あまりにも正確だ。

無造作に振るわれた刃ではない。

必要な場所だけを突き、必要な分だけ斬っている。


「それでも―」


遊牧は続けた。


「俺よりは、一枚下だっただろうな。」


そこに驕りはなかった。

事実を分類するような判断だった。

だからこそ、重い。


死体を長くは見なかった。

見たくなかったからではない。

これ以上見ても、意味が増えないと分かっていたからだ。

これは警告ではない。

メッセージでもない。

ただ、誰かの判断が、ここで終わったという印。


淡然が周囲をもう一周、見渡した。

動線、壁の擦れ、床の摩耗。

そして首を横に振る。


「一人だった。」


遊牧が短く息を吐いた。


「なら、余計に危ない。」


一人だったという事実は、

この男が判断を誤ったという意味ではない。

この街では、

一人であった、というだけで条件になる。


遊牧は、ようやく一歩だけ近づいた。

膝を折ることはせず、視線を落として、傷を改めて確かめる。

識の痕跡を感じ取ろうとする、集中した仕草だった。


「残響がある。」


そう言った。


「消そうとしたが、完全には消せていない。」


その言葉に、淡然の表情がわずかに引き締まった。

ようやく、この出来事の向きが、はっきりと見え始めた気がした。


奇妙な空白を感じた。

悲しみでも、怒りでもない。

ただ、一つの基準が失われた感覚。

この男が生きていれば、どこまでが安全なのかを訊ねられたはずだ。

今は、それができないという事実だけが残っている。


「戻ろう。」


遊牧が言った。

判断は速いが、軽くはなかった。


「日が落ちる前に、ここで得られるものはもうない。」


淡然は何も言わず、進路を変えた。

俺は最後にもう一度、死体を見た。

名も、理由も知らない男。

だが確かに、いくつもの判断が重なった末に、ここへ行き着いた存在だった。


その場を離れながら、初めて思った。

この街には、見えない方向がある。

俺たちが歩いている道とは別の線の上で、

すでに終わった判断同士が、静かに重なっているということを。


そしてその線は、いつか俺たちにも触れる。

そのとき、何が失われるのかは、まだ分からない。


歩きながら、俺は不思議と振り返らなかった。

確認しなくてもいい終わりだ、という感覚があった。

この空白は、埋めるべきものではなく、抱えて進む種類のものだ。

そしてそうした空白は、たいてい後になって重さを示す。


まだ、分からない。

ただ、この日の中城は、静かに次の頁をめくっていた。


遊牧の歩みは以前と変わらないが、

その間隔は、わずかに変化していた。

淡然もそれを感じ取ったのか、何も言わずに位置を調整した。

俺は、その間に立っていた。

この配置が長く続かないという予感だけが、

名のない不安として残っていた。


通路を抜けたあとも、空気の感触は簡単には消えなかった。

中城の午後は相変わらず整然としていたが、

先ほどの場所だけは、その秩序から微かに外れていた。

誰も口にせず、誰も記録しなかったが、

確かに一つの判断が終わった場所だった。


遊牧は前を歩いた。

速度は同じだが、歩幅は短くなっている。

無意識の調整。

戦いが終わり、死を確認したあとにだけ現れる変化だった。


淡然は黙っていた。

その沈黙は警戒ではなく、整理だった。

この街で、言葉を発しない時間は、

思考を止めていない証であることが多い。


俺は二人の背中を追いながら、

先ほど見た光景を整理しようとした。

だが、うまくいかなかった。

頭に残っていたのは場面そのものではなく、

その場面が作られた「やり方」だった。


なぜ、あの男はああして死ななければならなかったのか。

なぜ、騒ぎにならなかったのか。

なぜ、これほど静かに終わったのか。


答えは一つにまとまらなかった。

代わりに、いくつもの方向へ散っていった。

そして、そのどこにも怒りはなかった。


中城の午後は、人を飲み込み続けていた。

何事もなかったかのように。

先ほどの死でさえ、この時間帯では小さすぎた。

だからこそ、現実味があった。


「さっきの男。」


遊牧が突然、口を開いた。

歩みを止めることなく、低い声で。


「やけに綺麗だったな。」


俺は頷いた。

淡然も同じ反応だった。


「脅しでも、誇示でもない。」


彼は続けた。


「必要な分だけ、終わらせている。」


その言葉で、はっと気づいた。

これは、怒りの結果ではない。

感情が介在した戦いではなかった。

誰かにとって、この死は、ただの手続きだったのだ。


その認識が、胸の中を妙に空にした。

感情が足りないからではない。

何を満たせばいいのか、分からなかったからだ。


遊牧が言った。


「こういう識は、相手が強いから出るんじゃない。

判断が速いときに出る。」


強さ、という言葉は、この状況には似合わなかった。

強かったから勝ったのでも、弱かったから負けたのでもない。

ただ、先に終わりを決めただけだ。


淡然が、初めて顔を上げた。


「だから―」


低い声で、続ける。


「私たちも、早く決めないと。」


何を決めるのかは、訊かなかった。

今は、言葉にしなくても分かっていたからだ。


三人は、しばらく無言で歩いた。

中城の建物は相変わらず整い、

人の動線も安定している。

そのすべての上に、

見えない方向が重なっているように感じられた。


「連角。」


遊牧が、俺の名を呼んだ。

名を呼ぶという行為は、この街では重い。

関係が、もう一段深くなるという意味だからだ。


「さっき、あまり驚いていなかったな。」


すぐには答えなかった。

驚かなかった、というより、

驚く暇がなかったに近い。


「慣れているように見えたから聞いたんじゃない。」


遊牧が付け加えた。


「むしろ、逆だ。」


淡然がこちらを見た。

ほんの一瞬の視線。

だが、取りこぼさない種類のもの。


「空白があるように見えた。」


断定的な言い方だった。

感情の有無を問うのではなく、

残っている“場所”そのものを指す口調。


そのとき初めて、自分自身を振り返った。

確かに何かを見て、何かを認識したはずなのに、

それに見合う感情が、追いついていない。

不思議なことに、その事実のほうが不安だった。


「まだ―」


俺は言った。


「何を感じればいいのか、分からない。」


遊牧は頷いた。


「それで正常だ。」


淡々とした声。

慰めでも、警告でもない。


「この街で一番危険なのは、

意味を急いで付けることだからな。」


その言葉が、妙に長く残った。

意味を付けない、という選択。

それは逃避ではなく、

まだ判断していないという宣言に近い。


三人は再び進路を変えた。

先ほどよりも、人の流れに近い側へ。

完全に隠れもせず、完全に露わにもならない位置。


中城の午後は、完全に傾きつつあった。

建物の間に伸びる影が、互いの境界を少しずつ曖昧にしていく。

やがて、夕方の規則が降りてくる時間だ。

それまでに、最低限の居場所を確保する必要があった。


「今日は―」


淡然が言った。


「三人で動く、ってことで。」


宣言だった。

問いではない。


「明日は?」


俺が訊ねた。


淡然は、ごく短く沈黙した。

そして答える。


「明日は、

今日を越えてから考える。」


その基準が、気に入った。

終わりを決めない代わりに、

今だけは、はっきり掴むやり方。


遊牧は何も言わず、前を歩いた。

だが、もう距離を広げることはなかった。

その変化は、俺にははっきりと分かった。


一緒に動くというのは、

保護でも、責任でもない。

ただ、同じ方向から危険を見る、ということだ。


ふと考えた。

先ほどの男の死は、俺に何を残したのか。


怒りではない。

悲しみでもない。

代わりに残ったのは、何かが抜け落ちた場所。


その場所には、まだ名前がない。

だからこそ、長く残りそうだった。


この街では、空いた感覚ほど、整理されるのが遅い。

そしてそうしたものは、いつか必ず、別の判断を呼び起こす。


そのことを、俺はようやく少し理解し始めていた。

まだ遠いが、確かに、同じ方向を見ている。


中城は、そうして再び夜へと向かっていた。

何事もなかったかのように。

だが、重なった判断だけは、

静かに次を待っていた。

うーん…まだまだですねっ!!

今日はあんまり書くことがないのです〜!

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