第6話「過ぎ去った顔」
この街は、まず顔を覚える。
名前はそのあとで、意味はさらに遅れてついてくる。
今日すれ違った顔たちも、
まだ何ひとつ証明してはいない。
ただ、いつかまた出会うための準備だけを、
静かに終えていただけだ。
第1巻 灯火の夜
第6話「過ぎ去った顔」
さらに下へ降りてきて、ようやく朝が終わりかけていることを実感した。
階段の下の空気は、時間が留まらない流れ方をしていた。
光は確かに存在しているのに、どこにも長く残らない。
だから影は、いつも同じ形のまま固定されている。
人々は、この場所をただ通り過ぎていく。
足を止める者はいない。
視線も留まらない。
問いが交わされることはなく、通過だけが許される場所。
淡然と俺は、その流れから外れないまま歩いていた。
まだ、名前も理由も与えられていない状態で。
共に動いているという事実は変わらなかった。
だが、もはや「余白」という言葉で耐えられる空気ではなくなっていた。
朝に許されていた曖昧さは、昼に移るとすぐに危険へと変わる。
中域とは、そういう場所だ。
淡然は口を開かなかった。
その沈黙は、もはや選択を先送りにするためのものではなく、
タイミングを測っている合図のように感じられた。
俺も、それ以上は訊かなかった。
昨日の保留は終わり、今日はすでに動いた側に立っている。
そう理解していたからだ。
沈黙は長く続かなかった。
正確に言えば、長くならないよう調整された沈黙だった。
* * *
淡然が先に口を開いたのは、
俺がこれ以上訊かないと、心の中で結論を出した直後だった。
中域には、そういう間がある。
問いが消えたときに、答えが現れる瞬間。
「さっき―」
彼女は低く言った。
「一度、視線が引っかかった。」
俺は顔を上げた。
そのときになって、昨日の場面が、少し違う形で甦った。
介入のタイミング、撤退の速さ、残された空白。
偶然で片づけるには、あまりにも滑らかな動きだった。
「識の追跡者。
痕跡を見る側。」
淡然の説明は短い。
だが、それで十分だった。
人を見るのではない。
人が残した“選択”を見る。
昨日の違和感は、一つの形を持った。
介入の時機、撤退の速度、残された空白。
すべてが、計算された選択だったという確信。
「じゃあ、昨日の通行路で―」
俺が言い終える前に、淡然は首を横に振った。
「確認しただけ。
まだ、ね。」
『まだ』。
その一語が、妙に重かった。
確認が終わっていない、という意味だからだ。
その場を離れた。
留まる理由はなかった。
歩きながら、俺は昨日、別の形で介入していた顔を思い出す。
槍を持っていた男。
中域の規則を破らず、それでも一線を越えていた態度。
遊牧。
名を思い浮かべた瞬間、
昨日の場面がもう一度、整理された。
槍を携え、線を越えないまま、
確かに介入していた姿。
「その男―」
俺は言った。
「昨日、槍を持っていた人に会った。」
淡然はそこで初めて顔を上げた。
短く、確認するように。
「遊牧。」
名前を知っているという事実が、
不思議と彼の輪郭をより鮮明にした。
この街では、名前を知った瞬間から関係が始まる。
淡然は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「名前だけは聞いたことがある。
中域で、長く残っている方だって。」
確信ではない。
伝聞に近い情報だった。
だがその言葉を、俺は反芻した。
“長く残っている”という表現が、この街で何を意味するかを知っているからだ。
さらに奥へ進んだ。
人の密度は減り、代わりに視線の重さが増していく。
ここでは、誰も簡単には声をかけない。
声をかけた瞬間、責任が生まれるからだ。
淡然が足を止めた。
「少し待って。」
そう言って、彼女は周囲を一度だけ見渡した。
危険はないが、余裕もない場所。
「遊牧とは、また会うことになる。
たぶんね。」
そうだろう。
この街は、同じ顔と何度も向き合わせる。
偶然ではなく、選択の結果として。
その言葉を聞いたあと、
そこに長く留まることはしなかった。
淡然が先に進路を変え、
俺は何も言わず、その背を追った。
階段下の曖昧な空間を抜け、
中域の構造が再びはっきりする方へ。
通路は次第に広がり、天井の高さも増していく。
人の往来は途切れないが、
留まるためではなく、通過するために設計された区画。
中域の内側へ入っている、という感覚が、
そこでようやく明確になった。
ここはもう、「問いを避ける場所」ではない。
目立たずにいるには、
動いている理由を持たなければならない位置。
淡然が立ち止まっていた場所は、
まさにその境界の手前だったのだ。
俺は頷いた。
昨日より少し多くのことを知り、
その分、今日の判断は重くなっていた。
まだ目的はない。
だが、顔は増えた。
淡然と、遊牧。
名前を持つ顔が、一つずつ積み重なっていく。
それが、この街で関係が生まれるやり方だ。
そして関係は、いつだって代価を求める。
上へ戻るころには、朝の中域はすでに昼へ移っていた。
人々の声は大きくなり、判断はより露骨に交わされている。
分かった。
これからは、誰かの選択が終わる瞬間を見届ける立場に回ることもある、ということを。
そのとき、何も感じなくなっていたら―
それは、たぶん今よりも危険だ。
この街では、感情が残っているという事実そのものが、
まだ選択肢が残っている証になるのだから。
* * *
遊牧を再び見たのは、その日の正午を少し過ぎたころだった。
中域の内側、通行が途切れる直前にある広い空き地。
人々が意図的に空けておく場所。
争いが起きるには開けすぎており、
何も起きないと言い切るには、視線が多すぎる。
彼は独りではなかった。
だが、同行と呼ぶには曖昧な距離。
互いに背中を預けることはせず、
かといって、完全に離れているわけでもない位置。
中域ではよく見かける組み合わせだった。
遊牧は、先に俺を見なかった。
周囲を一度だけ見渡し、風の流れを確かめてから、ようやく顔を上げる。
その視線が、俺と淡然を同時に掠めた。
「ここまで来たか。」
昨日と同じ言葉。
だが今日は、問いではない。
確認に近い響きだった。
「昨日よりは、奥だな。」
淡然が短く答えた。
言い訳でも説明でもない、事実の伝達。
遊牧はその言葉に頷いた。
「なら、そろそろ動く必要がある。」
彼がそう言った瞬間、
空気の密度が、わずかに変わった。
ほんの小さな変化だ。
人々は気づかない。
だが、俺には分かった。
空間が、一拍遅れて反応している。
識。
正確な定義はいまだ掴めない。
それでも、この感覚がその言葉と結びついていることだけは、確かだった。
遊牧が、槍を握る手に力を込めた。
まだ引き抜かない。
代わりに、足先が半歩だけ動く。
逃げでも、攻めでもない。
位置の調整だ。
「下がれ。」
低い声。
命令ではなく、忠告だった。
理由は訊かなかった。
身体が先に動いた。
その瞬間、空き地の縁から人影が飛び出した。
一人ではない。
二人。
そして、わずかに拍を外して三人目。
動きは速くない。
だが、向きが正確だった。
遊牧を中心に、逃げ場のない角度。
淡然が息を整える音が聞こえた。
ごく短く。
戦いに入る前の癖。
遊牧が槍を抜いた。
完全には晒さない。
穂先だけを光に触れさせるやり方。
よく使われる手だ。
威圧は最小限に、意図は明確に。
「退け。」
声は大きくない。
だが、識を帯びていた。
空間が、一拍遅れて震えた。
相手は退かなかった。
代わりに、鼻で笑う。
この状況が、計算の内だという反応。
そこから先は、速かった。
一人が前に出て、残りの二人が左右へ散る。
正面突破ではない。
反応を探る動き。
遊牧の槍が前へ出た。
今度は迷いがない。
穂先が描く軌道は、一直線に頭部を捉える。
中域では珍しい選択だった。
殺す意図を、隠さない動き。
その瞬間、空気が歪んだ。
空間に残っていた感覚が一斉に引き剥がされ、
床と壁、足音が重なって響く。
距離感が崩れ、
自分がどこに立っているのかさえ、一瞬分からなくなった。
槍先は正確だった。
頭を貫く直前まで、何の異常もないように見えた。
だが、そこで止まった。
遊牧の視線が、一拍遅れて追いつく。
頭の中が、急に水に沈んだように鈍くなった。
その隙を、相手は逃さなかった。
横合いから閃光が走る。
刃が、遊牧の喉元へと滑り込んだ。
ほんの少しでも遅れていれば、
血が先に飛び散っていた距離だ。
「―!」
誰かが、突風のように割り込んだ。
淡然だった。
彼女の足が地を踏んだ瞬間、
空気が裂けた。
黒い風。
説明する間もない速度。
身体の重心を低く保ったまま、
一本の線で空間を断ち、敵の懐へと潜り込む。
一人目は、すれ違いざまに崩れ落ちた。
二人目は、反応すらできない。
手首が折れる音と、息が途切れる気配が、同時に重なる。
刃を持っていた最後の一人は、
何かを認識する前に、地面へ沈んだ。
終わりだった。
遊牧は一歩下がり、槍を地面に突いた。
息を整えようとしたが、
頭の内側の反響は、なかなか収まらない。
視界が、一瞬揺れた。
「大丈夫?」
淡然の声。
遊牧は頷いたが、その動きすら一拍遅れる。
しばらくして、人の気配が遠のき、
中域の騒音が、元の速度を取り戻した。
俺は遊牧に近づき、口を開いた。
「さっき……どうして止まった?」
遊牧は、しばらく黙っていた。
やがて、槍から手を離し、低く言う。
「残響識ってやつはな、使うと少し頭が鈍る。」
どうやら、今しがた使った識の系統を、
“残響識”と呼ぶらしい。
言い訳には聞こえなかった。
経験から出た、事実の共有だ。
「いつもじゃない。
だが、タイミングが重なると、今日みたいになる。」
俺はその言葉を、記憶の奥へ押し込めた。
今は意味のすべてが分からなくても、
いつか、また浮かび上がる予感がした。
そのときだった。
淡然が近づき、口を開く。
短い視線。
確認だけして引き上げる目。
「手、震えてる?」
俺は自分の手を見下ろした。
震えてはいない。
心拍も、いつもと変わらない。
「いや。」
淡然は頷いた。
「なら、まだだね。」
意味は訊かなかった。
もう、分かる気がしていた。
遊牧は空き地を離れながら言った。
「次は、俺が先に助けないかもしれない。」
脅しではない。
予告だった。
俺は、その言葉が、
この街で最も重い信頼だということを、
なぜか理解していた。
遊牧の背中を見送りながら、
俺は初めて考えた。
この男は、いつかこの街で死ぬかもしれない、と。
そして、そのとき何も感じなくなっていたら、
それこそが問題なのだ、と。
まだだ。
まだ、そうじゃない。
そう思いながら、もう一度呼吸を整え、
中域の騒音の中へと歩き出した。
えっと…あの…その…ええとですね…
昨日、更新を落としてしまった件については、本当に申し訳なく思っております…
面目ないです…はい…
ただ…ちょっとだけ…言い訳をさせていただくとですね…
友だちがやってるバンドのライブがあって、
なんか急にボーカルが飛んだらしくて、
「代わりに出てくれ」って呼ばれてしまいまして…
で…気づいたら打ち上げまで連れて行かれてて…
そういう流れで…その…はい…
とりあえず!
明日からはちゃんと連載続けますので!
どうか! お許しください…!




