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第5話「保留の終着点」

この都市は、選択を強要しない。

ただ、長く先延ばしにされた判断から、静かに整理していくだけだ。

第1巻 灯火の夜


第5話「保留の終着点」


夜は完全に退き、早朝へと移っていた。

太陽はまだ建物の上まで昇っていないが、人々の動きはすでに昼の規則に従っている。

中域の朝は、いつもこうして始まる。

前日に先送りされた判断を、もう一度取り出して整理する時間。

残すものと押し流すものを仕分けし、昨日の保留に名前を与え始める刻だ。


この時間帯の中域は、最も冷静だ。

何かを隠すのではなく、最初から隠す必要のないものとして扱う。

残す価値のない存在は、わざわざ排除されなくても、自然と縁へと流れていく。


俺は通路の縁をなぞるように、歩調を落としていた。

立ち止まらない。

止まった瞬間、分類される。

だから歩き続ける。

目的がないことを、あえて露呈させない程度の速度で。


朝の中域では、動かずにいる人間のほうが先に目につく。

歩いている者は、まだ判断の対象ではない。

だから俺は動き続けた。

昨日から続く保留を、今朝まで引き延ばすために。


そのとき、視界の外から視線を感じた。

露骨ではなく、長く留まりもしない。

確認だけして引き上げる種類の視線。

この街で最も危険なのは、そういう目だ。

すでに一度、計算された証拠だから。


「ここまで来たね。」


低い声が、背後から聞こえた。

振り返らなくても、誰かは分かった。


淡然だった。


前日の夕刻に別れてから、朝を迎える前に再会する。

中域では、決して多くない巡り合わせだ。

偶然と呼ぶには、あまりにも正確すぎる。


彼女は通路の影に立っていた。

まだ陽が完全に落ちていない時間帯で、顔ははっきりしない。

それでも、肩の線と立ち姿だけで十分だった。

急がず、だが躊躇もしない均衡。

中域に長く留まってきた者特有の感覚だ。


「俺を探してたのか?」


そう言うと、淡然はわずかに首を傾けた。

肯定でも否定でもない反応。

この街で最も一般的な答え方だ。


「探すほどじゃない。」


淡然は言った。


「まだ、出ていなかっただけ。」


意味を理解するのに時間は要らなかった。

俺はまだ分類されていない。

だから、まだここにいる。


淡然は俺の隣へ歩み寄った。

人の流れから、わずかに拍を外した位置。

並んでいても、視界に引っかからない距離だ。

彼女は周囲を見回さなかった。

代わりに、人々がどう避けていくかを見ていた。


「この時間の中域の奥は、あまり良くない。」


理由は語られなかった。

説明を必要としない言葉だった。

今は、問いを投げる側が先に印を付けられる。


「じゃあ、どこへ?」


口にしてから気づく。

これは行き先を尋ねる問いではない。

この状態を、どこまで保てるかを問う言葉だった。


淡然は、ごく短く沈黙した。

迷っている時間ではない。

計算を終えるための間だ。


「今は動くべき。

日が完全に昇る前までに。」


そう言って、彼女は進路を変えた。

登録窓口でも、外域へ下る道でもない。

中域と外域の境界に近いが、どちらにも属さない通路。


俺は自然に、その後を追った。

断る理由はなく、

一人で留まる名分も、すでに消えていた。


「なぜ俺なんだ?」


歩調を崩さず、淡然に尋ねた。

朝の中域では、質問そのものが目立つ。


淡然は速度を変えなかった。


「君は、まだ使われきっていないから。」


その一言で十分だった。

この街で“使われきっていない”というのは、

まだ選択肢が残されている、という意味だ。


「それに―」


彼女は付け加える。


「今日、君が消えたら、

私が説明しなきゃいけないことが増える。」


俺は、それ以上は訊かなかった。

理由を掘り下げた瞬間、この同行は契約になる。

契約は、記録を呼ぶ。


通路の先から風が吹いた。

外域から立ち上る匂いと、中域の金属臭が混じる空気。

街が一日を始める直前の匂いだった。


淡然はそこで、ようやく足を止めた。

そして、こちらを振り返る。


「今日は、一緒に動く。」


命令でも、頼みでもない。

事実を確認するような口調だった。


「明日のことは、

その先で考えればいい。」


俺は頷いた。

これが選択なのか、

それとも保留の延長なのかは、まだ分からない。


ただ一つだけ、確かなことがあった。

今日は、独りじゃない。


朝の中域は、ゆっくりと明るさを増していった。

まだ陽光は届いていないが、街はすでに呼吸を整えている。

その隙間へ、俺は淡然と並んで踏み込んでいた。

記録が付く直前の、わずかな余白へ。


淡然は再び歩き出した。

朝の中域は、昼よりも早く整理を求める。

日が完全に昇るまで残っている存在は、たいてい理由があるか、

あるいは、まだ理由を定めきれていない側だ。

俺は後者だった。


通路は次第に狭くなっていく。

人の密度は目に見えて減った。

代わりに、視線の質が変わる。

露骨に見ることはないが、位置と速度を同時に測る目。

中域の朝にだけ存在する種類の視線だった。


「ここは、長く歩く場所じゃない。」


淡然が言った。

前を向いたまま、しかし俺に届く程度の低さで。


「朝は皆、忙しい。

忙しい人間は、理由のないものを一番嫌う。」


俺は頷いた。

昨日までは曖昧だった言葉が、今日は不思議とすんなり腑に落ちる。

この街は常に理由を求めるが、朝はその要求が、より直接的だ。


俺たちは、もう一度進路を変えた。

人が列を成す大通りではなく、その脇に延びる、

役目を終えたあとにだけ使われる通路。

中域には、そうした道がいくつもある。

公式の地図には載らないが、人の足取りが刻んだ痕跡だ。


その道を歩く間、淡然は一度も振り返らなかった。

それでも歩調は、確かに俺に合わせられている。

意識して調整しているというより、

二人で動くとき、最も無理のない間隔だった。


「今日は、君がどこまで行けるかを見る日。」


淡然が言った。


俺は尋ねた。


「登録か?」


淡然は首を振る。


「違う。

登録は選択じゃない。

選択が終わったあとの整理だから。」


それ以上は訊かなかった。

今は、意味をすべて理解する必要はない。

この街では、理解より先に、タイミングが来る。


通路の先に、小さな階段が現れた。

上へ向かうものではなく、中域の層をわずかに外して下る構造。

人々が、意識的に視線を逸らす位置だ。


淡然は、その階段の前で立ち止まった。


「ここから先は、

君が私について来た、という記録も残らない。」


警告に近い言葉だった。

同行は続くが、責任は共有しないという宣言。


「大丈夫?」


俺は少し考えた。

“大丈夫”という言葉の意味を、この街の基準で組み直してから、頷く。


「問題ない。」


淡然は何も言わず、階段を下りていった。

俺も、その後を追う。


階段の下は、思ったよりも明るかった。

光がないわけではない。

光が留まらない構造だ。

だから影は一定で、動きがよく見える。


「ここは―」


淡然が言った。


「中域でも、曖昧な人間だけが通る。」


“曖昧”という言葉が、今の俺を妙に正確に表していた。

俺たちは、そこでしばらく足を止めた。

完全に隠れることはできないが、

すぐに質問を受けることもない位置。


淡然は壁にもたれなかった。

立ったまま、街の音を聞いている。


「記憶がないって、言ってたよね。」


初めて、彼女のほうからその話題を切り出した。

俺は頷く。


「それでも、動きがいい。」


疑いはなかった。

評価に近い響きだ。


「特別だからじゃない。」


淡然が続けた。


「この街は、特別な人間を長く置かない。」


俺は黙って彼女を見た。


「君は、ただ多く残っていただけ。」


説明ではなく、結論だった。


「記憶はなくても、判断の痕跡は残る。

君の身体に。」


その言葉は、なぜか俺を落ち着かせた。

特別だからではなく、

特別でなくても生き残れる、

そう言われた気がしたからだ。


「だから―」


淡然は顔を上げる。


「今日からは、

動く理由を一つくらい作らないと。」


理由と目的。

中域で、最も早く記録されるものだ。


「強くなる必要はない。」


彼女は言った。


「その代わり、

どこまで退けるかは、知っておくべき。」


俺は呼吸を整え、ゆっくりと頷いた。


まだ目的はない。

だが、方向は生まれつつあった。

独りではないという事実が、その輪郭をわずかに明確にしていた。


朝の光が、階段の上からさらに差し込んでくる。

中域は、完全に昼へ移ろうとしている。


淡然は、再び歩き出した。

今度は迷いがなかった。

俺は、その隣に立つ。


この同行が、いつまで続くかは分からない。

だが少なくとも今日は、

保留ではなく、前に進んでいるということだけは確かだった。


そして、その一点だけで、

この街はまだ、俺を押し出してはいなかった。


歩きながら、もう一つ感じたことがある。

この同行は、安全を保証しない。

ただ、危険を先に知らせてくれるだけだ。

その違いが、この街では決定的だ。


今日が終わるころ、

俺は今とは違う場所に立っているかもしれない。

だが少なくとも、

何もせずに押し流されることはない。


それだけで、今日の選択は十分に意味があった。


朝の中域は、そうして静かに人を試している。

その試験は、すでに始まっていた。


俺はもう、その事実を否定しなかった。


今日は、動いた側に残る。

理由はまだないが、方向だけは見え始めている。

それで今は、十分だった。


明日を考える余裕がある。

その程度の余白が、この街では、

すでに一歩前に進んだ証だった。

ごくわずかに。


四千字にも届かないとは、正直思っていませんでした……

本来なら五千字前後が普通なのに、更新も遅くなってしまい、

さらに分量まで少なくなってしまって、本当に申し訳ありません。


それでも、ここまで読んでくださった方には、心から感謝しています。

少しずつではありますが、物語は確実に前へ進んでいますので、

どうかもう少しだけ、お付き合いいただけたら嬉しいです。


次回は、もう少し腰を据えて書けるよう頑張ります。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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