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第4話「保留された介入」

記録は、いつも遅れて届く。

選択は、必ずそれより先に起こる。

この物語は、その間に取り残された者についての記録だ。

第1巻 灯火の夜


第4話「保留された介入」


中域の内側は、思ったほど騒がしくはなかった。

人が減ったわけでもないのに、音が互いに重ならない。

目的が明確な場所では、不要な摩擦が自然と消える。

足取りは一定で、視線は短い。

誰かを長く見るという行為そのものが、計算を要するものとして扱われているようだった。


その流れから、半拍遅れて歩く。

前に出るわけでもなく、完全に遅れるわけでもない速度。

誰かの動線に自然と紛れ込み、そして抜けていく位置。

中域で目立たないというのは、隠れることとは別の技術だった。


ここでは、名よりも目的のほうが先に問われるようだった。

どこへ向かうのか、何を持っているのか、どれほど留まるつもりなのか。

それらに答えない存在は、ひとまず保留される。

そして、保留された存在は、しばらくの間いないものとして扱われる。


その扱いがいつまで続くのかは、誰も教えてくれない。


中域の内側の路地は、外域のように露骨な危険を孕んではいなかった。

その代わり、危険が整理されている。

無駄な暴力はなく、残っているのは計算された介入だけだ。

ここでは、争いでさえ取引の延長として処理される。


俺は、そういう空間に慣れていなかった。

だが、身体は戸惑っていない。

人と人の距離、壁と床の高低差、視界が途切れる地点。

意識的に分析しなくても、視線が先に動いていた。


学んだ記憶はない。

それでいて、まったく初めての感覚でもない。

身体のどこかに残っていた癖が、中域の構造に合わせて浮かび上がってくるような感覚だった。


そのときだった。


前方で、短い言い争いの声が弾けた。

怒号ではない。

周囲の人間が一瞬だけ顔を上げる程度の音量。

意図的に、それ以上大きくならないよう抑えられた声だった。


俺は歩調を落とした。

人の流れが、わずかに分かれる。

進路を変える者もいれば、視線を逸らす者もいる。

中域では、こうした反応が先に起こる。

事件になる前に、事態を整理しようとする動きだ。


通路の一角で、三人が一人を囲んでいた。

数だけを見れば、三人が有利なのは明らかだった。

だが、空気はそうではない。

三人の動きが、あまりにも揃いすぎている。

偶発的な衝突ではなく、すでに役割が分かれている状態だった。


囲まれていたのは、若い男だった。

身なりは平凡で、手には何も持っていない。

だが、その立ち方には違和感があった。

逃げ出そうとする人間の角度ではない。

すでに、どこまで退けるかの計算が終わっているような姿勢。


その光景を、長くは見なかった。

ここで長く見ることは、介入の意思を示す行為になる。

代わりに、視界の端にだけ状況を留める。


その瞬間、空気の流れがわずかに歪んだ。


「識」という言葉が、再び頭をよぎる。

明確な定義は分からない。

だが、この感覚がそれに触れていることだけは、確信できた。

ごく微細に、しかし確かに。

誰かが判断を遅らせるために残した痕跡。


三人のうちの一人の手が、腰のあたりへ下がった。

武器ではない。

合図に近い動きだ。

残る二人が、同時に半歩詰める。


それは警告ではない。

整理だった。


俺は足を止めた。

介入する理由はない。

あの男を知っているわけでもなく、ここで何かを証明する必要もない。

中域は、そういう名分を求めない。


それでも足が止まったのは、理由を言葉にできなかった。

身体が、まだ判断を終えていないという合図だった。


そのとき、通路の反対側から、一人の男が歩み出てきた。


歩幅は大きく、足取りは重かった。

中域の人間としては珍しく、視線を隠さない。

周囲を確認しつつも、あえて避けようとはしない態度。

それ自体が、登録された存在であることを示す振る舞いだった。


彼が近づくにつれて、三人の動きがわずかに乱れた。

役割分担が崩れる感覚。

ほんの小さな変化だったが、それで十分だった。


「ここは通路だ。」


低い声だった。

脅しでも、説得でもない。

事実を確認するように放たれた一言。


三人のうち一人が舌打ちし、

もう一人が周囲を見回し、

最後の一人は無言で一歩退いた。


結論は早かった。

彼らはそれ以上言葉を交わさない。

中央にいた男を残し、それぞれ別の方向へ散っていく。

中域では、こうした撤退は珍しくない。

敗北ではなく、計算の修正だからだ。


通路には、短い沈黙が落ちた。


俺は、まだその場に立っていた。

介入もせず、完全に無視もしない位置。

その曖昧さが、かえってこの場所に馴染んでいた。


近づいてきた男が、俺を一瞥した。

短い視線。

確認だけを済ませ、判断は保留する目。


「怪我は?」


彼は、囲まれていた男に問いかけた。

男は首を横に振る。

言葉より先に、息を整えることを選んだ。


「運が良かったな。」


慰めも、皮肉も含まれない。

ただの評価だった。

そのときになって、俺は気づく。

この男が、この区画での介入の基準を理解していることを。

無闇に踏み込まず、だが必要な瞬間には躊躇しないタイプだ。


彼の視線が、こちらへ向いた。

今度は、少しだけ長く。


「お前は?」


短い問いだった。


俺は答えなかった。

答えられなかったわけじゃない。

今は、答えないほうがいいと感じただけだ。


彼はその反応を不審には思わなかった。

むしろ、軽く頷く。


「そうか。まだ、なんだな。」


意味の説明はなかった。

だが、その言葉が俺を脅かすものではないことだけは分かった。


彼は再び、中央に立っていた男へ向き直った。

短く手で示すと、相手は頭を下げ、別の通路へと消えていく。

通路には、俺と彼だけが残った。


「ここは、長く立つ場所じゃない。」


彼が言う。


「ここでは、動かない人間から先に整理される。」


俺は否定しなかった。

すでに感じ取っていた事実だったからだ。


彼はしばらく俺を見てから、通路の先を指した。

人は少ないが、塞がれてはいない方向。


「選択は、今じゃなくていい。」


そう付け加える。


「だが、場所は変えろ。」


俺は頷いた。

それが助言なのか、警告なのかは重要じゃない。

今、必要なのは動くという選択だった。


そして、ゆっくりと、

彼が示した方向とは反対へ歩き出す。

中域は、相変わらず俺を分類しなかった。

だが、先ほどとは違う意味での保留が始まった感覚があった。


誰かが、俺を認識した。


その事実だけで、今日の昼はすでに十分に重くなっていた。


中域の夕方は、朝や昼よりもさらに無関心だった。

人々はすでにそれぞれの軌道へ散っており、

その軌道が交わることはほとんどない。

俺は、その隙間をなぞるように歩いていた。

目立たず、だが消えもしない位置で。


中域では、力よりも説明が先に求められる。

どこから来たのか、何ができるのか、

誰の責任の下にあるのか。

問いは丁寧だが、答えられない瞬間、表情が変わる。

外域のように強引ではない。

ゆっくりと、しかし確実に選択肢を削っていく。


その問いを受けないために、歩いた。

人が目的を持って立ち止まる場所を避け、

取引が終わったあとの空白や、

始まる直前の曖昧な時間帯を選ぶ。

そういう場所には、必ず一瞬の余裕がある。

そしてその余白こそが、記録が貼り付く前の空間だった。


中域の一角で、小さな騒ぎが起きた。

誰かが声を荒げ、すぐに収まる。

中域では、怒号は長く続かない。

問題が大きくなる前に整理されるか、

整理されなければ、最初から無かったことになる。


俺はそちらを見なかった。

見た瞬間、判断が始まるからだ。

代わりに歩調を落とす。

この街は、速く動く者よりも、

ほどよく遅れる者を長く観察する。


そのときだった。


人の流れが、わずかにずれた。

誰かを避けるわけでも、何かを囲むわけでもない。

ただ、動線が少し変わっただけ。

それが意図的でないことは、すぐに分かった。

この場所では、そうした歪みが時折生まれる。

問題は、その歪みが、同じ方向に繰り返されるときだ。


中域の夕刻は、昼よりも静かだった。

人が消えたわけではない。

ただ、動きの目的が終わっている。

取引は締められ、登録窓口は閉じ、

残るのは、その日の選択を整理する時間。


俺は、すでに内側へ入っていた。

戻る理由も、急ぐ目的もない。

ここは、中域の中心と外縁のあいだ、

記録が貼られる直前で、立ち止まることを許された場所だ。


人の流れが、微妙に分かれる。

避けるでも、集まるでもない。

互いの位置を計算した末に、

自然と重ならない方向を選んだ結果。


その隙間で、覚えのある気配を感じた。


昼に一度、見ている。

槍を携え、中域の中心にいても過度に目立たない立ち方。

あのときと同じく、今も警戒はしていない。


遊牧だった。


すでに判断は終わっている、という佇まい。

彼の視線が一瞬、俺を掠める。

評価ではない。

確認に近い。

まだそこにいるか、

まだ使われていないか。


俺は顔を上げなかった。

ここでは、互いを認識したという事実だけで足りる。

顔を上げた瞬間、それ以上の関係が生まれる。


陽が完全に落ちるころ、

街の音が、もう一度変わった。

金属の響きが減り、人の声が増える。

昼の目的が終わり、夜の判断が始まる時間。


彼は、俺の前を通り過ぎながら低く言った。


「内側に来たな。」


問いではなかった。

すでに分かっている口ぶり。

俺は頷いた。

否定する理由も、説明する必要もない。


「なら、遅くなる前に決めておけ。」


彼は立ち止まらなかった。

忠告だけを残し、

人の流れへと自然に溶けていく。

それは親切でも脅しでもない。

中域で長く生き延びた者が残せる、

最小限の基準のような言葉だった。


俺は、その場にしばらく立っていた。

夕暮れの中域は、外域よりもゆっくり冷えていく。

人々が完全に散るまで、

街は何度も判断を繰り返す。

今の俺は、その判断の端に引っかかっていた。


選ばなければ、押し出される。

だが、早く決めすぎても、

別の名で記録されるだけだ。


息を整え、身体の緊張をゆっくり解く。

今日は、ここまで。

逃げでも、前進でもない選択。

ただ、この街に、もう一日留まるという判断。


中域の夕光が、建物の隙間から差し込んでいた。

外域の灯火と違い、この光は何も隠さない。

だからこそ、正確だった。


ここで生き残るというのは、

強くなることではない。

いつ止まるかを知ることだ。


そのことを、俺はすでに知っていた。

ただ、どこまで進んでから止まるのかを、

まだ決めていないだけだった。

どうすればもっと面白くなるんだろう。

……いや、そもそも今は、ちゃんと面白いんだろうか?

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