第3話「境界に立つ者」
この街は、説明しない。
名があっても、選択があっても、記録されなければ通り過ぎていく。
第1巻 灯火の夜
第3話「境界に立つ者」
中域の朝は、外域とは違い、人を隠さなかった。
その代わり、均等に広げていた。
誰が何をしているかは正確には分からないが、誰がどこに属しているかは、なんとなく把握できる。
そういう見せ方だった。
俺は相変わらず、中域の縁をなぞるように歩いていた。
中心に入るわけでもなく、完全に外れるわけでもない位置。
人の動線が自然に分かれていく地点。
意識しなくても、最も目立たない場所に立ってしまうところだ。
外域では、記録がないという事実は危険を意味していた。
だが中域では、その意味が変わる。
記録がないというのは、まだ判断されていないということだ。
判断されていないものは、排除されない。
その代わり、継続して観察される。
その視線は露骨ではない。
背後から感じることもない。
ただ、説明できない圧力のように、周囲に残っている。
俺はその圧を避けなかった。
避けた瞬間、理由が生まれる。
中域では、理由が生じるほうが、よほど危険だ。
いくつかの路地を抜けたころ、
俺の前で、誰かが足を止めた。
意図して塞いだわけではない。
ただ、そこに立っていただけだ。
だが、その位置は正確だった。
通ろうとすれば、必ず視線が交わる距離。
セラゴだった。
体格は大きすぎず、小さすぎもしない。
装備は目立たないが、よく整えられている。
槍を持ってはいたが、持っているという事実よりも、いつでも手放せるという感覚のほうが先に伝わってきた。
彼は俺を見るなり、声をかけてはこなかった。
視線だけで、状態をなぞる。
名、所属、目的。
確認できないものを、手早く仕分ける目だった。
「迷った顔だな。」
低く、簡潔な声。
嘲りも、警戒も含まれていない。
俺は答えなかった。
答える言葉がなかった。
彼はしばらく俺を見てから、
俺の視線が壁際へ向いていることに気づいたらしい。
そして、ごくわずかに体の角度を変えた。
通路が開く。
「ここで立ち止まると、誰かに物みたいに測られる。」
警告に近い言葉だった。
だが、命令ではない。
一歩、足を運んだ。
彼は自然に、俺と並んで歩き出す。
速度を合わせるでもなく、先に出るでもない。
ただ、同じ方向へ進んでいるだけだった。
「名前は?」
「連角。」
言葉が先に出た。
不思議と、隠したいとは思わなかった。
彼は頷いた。
それで十分だという反応だった。
「俺は遊牧だ。
中域じゃ、それくらいでいい。」
名は、重さもなく落ちた。
ここでは名前が関係の始まりではなく、
単なる便宜の印のようだった。
遊牧は、俺の歩きを見ていた。
姿勢、呼吸、重心。
戦いを前提にした観察ではない。
むしろ、戦いを起こさせないための確認に近い。
「外域から来たな?」
問いというより、確認だった。
「そうだ。」
「朝に?」
「さっき。」
それ以上、彼は聞かなかった。
聞かないという選択をした。
中域では、それも相手を尊重するやり方のひとつだ。
「今日は登録日だ。
知らない顔が増えると、面倒が起きやすい。」
遊牧は、槍の石突きを軽く地面に当てた。
音は小さい。
だが、周囲の人間の動きが、半拍遅れて変わった。
彼がどういう人物かは、説明するまでもなく、周囲が先に理解しているようだった。
「一つ、聞いていいか。」
彼が足を止めた。
俺も、それに合わせて止まる。
「ここで、何をするつもりだった?」
答えは、すぐには出なかった。
正確には、出せる言葉がなかった。
「まだ、自分でも分からない。」
彼は、その答えに失望しなかった。
むしろ、わずかに笑ったように見えた。
「それならいい。」
その言葉は、不思議と軽かった。
「分からない奴のほうが、案外長く残る。
目的を持ってる連中よりな。」
彼は再び歩き出した。
今度は、俺が半拍遅れて続く。
中域の喧騒が、二人の間を満たしていった。
言葉を続けなくても、不自然さはなかった。
余計なことを言わない関係。
まだ何も約束していない距離。
遊牧は、最後にひとつだけ言葉を添えた。
「今日は一日、俺の視界に入れておく。」
保護でも、命令でもない。
選択肢を提示する言い方だった。
俺は頷いた。
理由は訊かなかった。
今は、その問いが必要ではなかった。
中域の朝は、そうして流れていった。
何も決まっていないまま、だが一人ではない状態で。
それは外域では、なかなか得られない位置だった。
そして俺は、その立場がいつまで許されるものではないことを、本能的に理解していた。
遊牧はそれ以上、何も言わなかった。
代わりに、人の流れが一度折れる地点で足を止めた。
そこは自然と音が低くなり、声が互いを侵さない場所だった。
「ここから先は、お前の判断だ。」
そう言って、彼はごく自然に一歩引いた。
並んで歩いていた線が、そこで切れた。
俺は、彼が完全に背を向けるまで、何も言わなかった。
引き止める理由も、縋る名分もなかった。
中域は、いつもこうして関係を整理する。
説明もなく、音もなく。
必要以上の繋がりを許さない。
遊牧が人波に紛れて消えたあと、俺はしばらくその場に立っていた。
一人になったわけではないが、再び一人になる準備が整った状態だった。
そしてそれが、この街で最も一般的な同行の終わり方だということを、俺は不思議と理解していた。
遊牧が消えたあと、俺は中域の流れに完全に溶け込むことも、押し出されることもなく歩いた。
彼の言った「視界に入れる」という言葉の意味は、正確には分からない。
だが、この場所で誰かの視界に入るということが、保護と監視を同時に含むということくらいは想像できた。
中域の路地は、外域と違って直線的だった。
道が真っ直ぐだということは、逃げ場が少ないという意味でもある。
人々は道の上で、互いを避けて歩かない。
その代わり、あらかじめ計算された間隔を保つ。
その隙間で、俺は相変わらず縁に近い位置を保っていた。
誰かの視線を感じた。
確信はない。
だが、空気の流れがわずかに変わった。
視線が触れたときの圧とは違う。
結果だけを待つ観測のような、感情の介在しない感覚。
その感覚は長くは続かなかった。
方向を確かめるように一瞬触れ、すぐに消える。
俺は顔を上げなかった。
中域では、確かめようとする態度そのものが、記録になり得る。
歩きながら考えた。
今の俺は、誰かにとって興味のある存在なのか。
それとも、まだ判断する価値すらない変数なのか。
どちらにしても、良い状況ではない。
興味は介入を呼び、無視は消滅を招く。
そう考えているうちに、路地の空気が少しずつ変わっていった。
店の看板が増え、地面の摩耗が規則的になる。
人々の服装も、機能重視から役割重視へと変わっていた。
この区画は、中域の中でも「留まる人間」が多い場所だった。
俺は意図的に歩調を落とした。
誰かを待っているようにも見えず、
かといって、目的のない人間にも見えない速度。
この微妙な均衡が、中域では重要だ。
速度は、そのまま意図になる。
やがて、通り沿いの小さな作業場の前で足を止めた。
扉は開いていたが、中へ入るつもりはない。
立ち止まる理由が必要だっただけだ。
人は、理由のある停止には、あまり関心を持たない。
そのとき、背後でごく低い足音がした。
外域で聞くものとは違う。
重さがあり、一定のリズムを刻む歩み。
急がず、隠そうともしない。
俺は振り返らなかった。
代わりに、硝子に映った影を確認する。
輪郭だけで、顔は分からない。
それで十分だった。
今すぐ声をかけるつもりはなさそうだ。
足音は、俺の横をかすめるように通り過ぎた。
何事もなかったかのように。
だが通り過ぎたあと、空気は元に戻った。
その短い瞬間の意味を、俺はあえて解釈しなかった。
解釈は、遅らせたほうが安全な場合もある。
それからしばらく、特別な出来事はなかった。
中域の昼は、そうして過ぎていく。
事件は減り、判断が積み重なる。
目立つ衝突がなくても、選択は絶えず行われている。
陽が傾き始めたころ、俺は再び縁へと押し戻された。
意図したわけではないが、結果はいつも似ている。
分類されない存在は、自然と境界へ向かう。
街が押し出すのではない。
居場所を定めきれないことの帰結だ。
そのとき、見覚えのある動きが視界に入った。
朝に見たあの仕草。
人の背丈より低い位置を先に確かめる視線。
動線を確認してから踏み出す足取り。
俺は、そちらへ目を向けた。
彼女は、すでにこちらを見ていた。
まるで、俺がここへ来ることを知っていたかのように。
「ここまで来たね。」
低い声。
周囲に溶け込む音量。
中域では、会話でさえ目立たないように行われる。
「中域は、思ってるより人を消耗させる。」
彼女は、俺の立ち位置を一度だけ確認し、頷いた。
まだ問題はない、という判断らしい。
「朝に言ったこと、覚えてる?」
外域は長くいる場所じゃない、という言葉。
その延長にあった警告。
俺は頷いた。
「だから、ここまで。」
彼女は、背後の路地を指した。
中域から外域へ続く、目立たない道。
人々が意図的に避ける方向。
「この先は、君の判断。
でも、この道はまだ記録が届きにくい。」
それは親切でも、放置でもなかった。
選択肢を一つ、差し出すやり方だ。
俺はしばらく、その道を見つめた。
行き着く先は分からない。
ただ、明るくはないということだけは確かだった。
中域の秩序が、最も薄くなる方向。
人々が意図的に目を逸らしてきた結果が積もる場所。
そして、再び彼女を見る。
「淡然。」
名を呼ぶと、彼女はごくわずかに目を細めた。
覚えていたことを確かめる反応。
「そう。」
短い返事とともに、朝は気づかなかった彼女の顔が一瞬だけ視界に入った。
黒く垂れた髪は飾り気なく整えられ、
眼差しは鋭いというより、余分を削ぎ落とした印象だ。
目立たないが、それゆえに記憶に残る顔だった。
「次に会ったら、その時は理由を聞く。」
それ以上、彼女は語らなかった。
背を向け、中域の流れへ溶けていく。
俺はしばらく、その場に立っていた。
人の足音が重なり、ほどけていくのを眺めながら、
この街が、どうやって個を消費していくのかを考えた。
そして、ゆっくりと、
彼女が示した方向とは逆へ、歩き出した。
中域は、一方向にだけ流れているわけではない。
登録窓口へ向かう道、
商会や工房が密集する通路、
そして、意図的に説明されない内側の道。
中域と外域の境界は、線ではなく層だ。
表向きは中域に属しながら、記録の密度が緩む区画。
分類はされるが、管理までは及ばない隙間。
人々は、そこを通っても、あえて名を付けない。
名を与えた瞬間、責任が生まれるからだ。
俺は、その隙間へ足を踏み入れた。
外域へ戻ったのではない。
中域の内側へ、もう一歩進んだだけだ。
ここでは、記録は完全には機能せず、
非記録も、まだ許されていない。
だから危険は減らないが、
選択肢は増える。
考えた。
まだ、選んでいないのだと。
ただ、選択を求められる位置へ、
もう少し深く踏み込んだだけなのだ
身を燃やせ……




