第2話「記録されない朝」
夜は過ぎ、朝が訪れた。
そして、この街の朝は決して優しくはない。
少なくとも、然角にとっては。
第1巻 灯火の夜
第2話「記録されない朝」
夜が過ぎ、朝が訪れた。
朝になれば街が変わる、という言葉を、そのとき初めて実感した。
夜の灯火はまだ消えていなかったが、その光の意味は変わっていた。
夜には痕跡を消すために灯されていた光が、朝には秩序を示すために残されている。
路地の匂いが変わり、人々の足取りは速くなった。
朝は静かだった。
そして、この街では静かであることが、危険を意味していた。
壁にもたれて腰を下ろした。
身体はもう動かせる。痛みも管理できる範囲だ。
名前は然角。
年齢も、種族も、おおよそは推測できる。
それ以外は曖昧だった。
なぜこの街にいるのか、誰と一緒にいたのか、何を選び続けてきたのかは残っていない。
その代わり、感覚だけは残っていた。
夜を越えたという事実と、越えた代価がまだ訪れていないという直感。
路地の向こうから、布を引きずる音と低い話し声が混じって聞こえてきた。
この街の朝は、いつもこうして始まる。
騒ぎにならないよう整えられた動き、互いを見ないという配慮、そして問題を問題にしないという黙約。
ここでは、生き延びる方法よりも先に、目立たない方法が伝えられる。
その規則を破った者たちの末路を、俺はまだ見ていないだけだ。
この街は、俺を説明しない。
名前があっても、年齢が分かっても、それだけでは俺という存在は証明されない。
むしろ、説明されない状態のほうが安全に思えた。
理解されず、分類されない位置。
もしかすると俺は、何かを失ったのではなく、まだ選択していない状態なのかもしれない。
ほどなくして、彼女は戻ってきた。
足音はほとんどなかったのに、俺は先に彼女の気配に気づいていた。
理由は説明できない。
ただ、彼女がそうする必要がないほど静かに動いていることだけは分かった。
彼女は俺を見ても、何も訊かなかった。
よく眠れたか、どこが痛むか。そういう質問は、この街の朝には似合わないらしい。
「外域では、朝に歩き回らないこと。」
彼女はここを外域と呼んでいるようだった。
語尾は断定的で、説明はない。
「登録が動く時間帯だから。」
意味を完全に理解したわけではなかったが、俺は頷いた。
理解よりも、信頼が先だった。
外域では、その順序が入れ替わらないことを、身体が先に知っていた。
彼女は水と乾パンを差し出した。
包装はなく、量も最小限。
俺が口にしている間、彼女は路地を観察していた。
視線が留まるのは、いつも人の背丈より低い位置。
地面の摩耗、壁の擦れ、夜の間に変わった動線の痕跡。
彼女が見ているのは人ではなく、選択の痕跡のように見えた。
そういう視線で街を見る術を、俺はまだ持っていなかった。
「夜に何をしてたかは、訊かない。」
彼女が言った。
「その代わり、今日は何をするかを決めなきゃ。」
今日。
その言葉が、妙に馴染まなかった。
今日という時間を、初めて与えられた人間のような感覚。
過去がないから、今日というものはいつも唐突に訪れる。
計画という言葉が成立しない生き方。
その代わり、判断だけが残っていた。
今動くか、それともさらに隠れるか。
どちらにしても、代価は払うことになる。
「もう出るよ。」
彼女は、俺の決断を待たなかった。
「外域は、長くいる場所じゃない。」
そう言って、路地へと歩き出す。
「記録されていない人間は、守られる側じゃないから。」
それは法ではなかったが、朝の外域では法よりも正確に機能していた。
文書が動く時間帯、名を持たない存在は自然に排除される。
排除は暴力ではなく、手続きのように行われる。
路地を抜けた。
灯火の届く区域と、届かない区域の境界がはっきりする。
光に触れた瞬間、人々の態度が変わった。
視線は短くなり、歩調は一定になる。
誰かを長く見ることは、不要な誤解を招く。
この街の朝は、そうして作られた習慣の上に立っていた。
その途中で、俺は何度か足を止めかけた。
特別な理由はない。
ただ身体が危険を計算していて、その結果を言葉にしなかっただけだ。
淡然は、そんな俺の歩みを急かさなかった。
待つことも、ひとつの選択だというように。
次の区域へ続く路地で、彼女は立ち止まった。
「中域からは、規則が変わる。」
この街は、外域・中域・内域に分かれているらしい。
彼女は俺の手を見た。
震えはない。
代わりに、奇妙な空白があった。
「君は戦える。でも、戦う理由を知らない。」
否定はしなかった。
否定する根拠がなかった。
身体にはすでにいくつかの動きが染みついていて、危険が近づくほど、それは明確になる。
それが本能なのか、痕跡なのかは、まだ判断できない。
ただひとつ確かなのは、この街がそんな区別に興味を持たないということだ。
彼女は頷いた。
それで十分だというように。
朝の風が路地を抜けていった。
夜の匂いが完全に消える前に、街の秩序が定着していく。
初めて実感した。
ここで生き延びるというのは、強くなることではなく、いつどこに立つかを選ぶことなのだと。
その選択は小さく、静かで、ほとんどの場合、誰にも気づかれない。
そして、その選択はいつも、記録よりも先に訪れる。
中域は、外域よりも騒がしかった。
灯火が消えた後も、路地は静まらない。
代わりに、音の種類が変わる。
足音、荷車の車輪、金属がぶつかる鈍い音。
夜には息を潜めていたものが、昼には当然のように場所を占めている。
彼女は先を歩いた。
道の説明もしない。目的地も告げない。
歩幅は一定で、振り返らない。
それでも俺は、遅れなかった。
遅れないこと自体が、目的だったからだ。
中域は、人を分類する。
急ぐ者、止まる者、道を譲る者。
そして、そのどこにも属さない者。
俺は、その最後だった。
人々は俺を避けない。
ぶつかりもしない。
視界の端から、自然に外れていくだけだ。
この街は、俺を説明しない。
名前があり、年齢を知り、言葉を理解し、計算ができても、それだけでは俺という存在は証明されない。
記録されていないというのは、不足しているという意味ではない。
まだ分類されていない状態に近い。
そのことを、俺は妙なほど理解していた。
彼女は再び立ち止まった。
中域の低い塀のそば、人の動線から半歩ずれた場所。
周囲を一度だけ確認し、短く言う。
「ここからは、一人で動いてもいい。朝はみんな忙しいから。」
その言葉には、配慮と距離が混じっていた。
俺は頷いた。
理由は訊かなかった。
なぜここまでなのか、なぜこれ以上案内しないのか。
この街では、質問は常に危険を呼ぶ。
彼女は背を向けた。
「名前。」
去る前に、呼び止めて訊いた。
少し迷ったあと、彼女は答えた。
「淡然。今は、それで十分。」
そう言って、淡然は再び背を向け、去っていった。
俺はその場に立ち尽くした。
人の流れが、俺の横を通り過ぎていく。
しばらく、方向を失った。
どこへ行けばいいのかは、相変わらず分からない。
中域の喧騒は、外域とは違った広がり方をしていた。
騒がしいというより、隙間なく満たされている。
人々の歩調はぶつからず、視線は必要以上に留まらない。
ここでは、誰も他人を長く見ない。
見るという行為そのものが、余計な判断を呼ぶからだ。
淡然が去ったあとも、しばらくその場に立っていた。
振り返らない選択は、まだ慣れない。
だが、誰かを引き止めないという点では、この街のやり方と大きく違わなかった。
中域は、関係を長く保たない。
必要な間だけ重なり、目的が違えば自然に散る。
俺は人の流れに半拍遅れて歩き始めた。
速すぎれば目立ち、遅すぎれば押し流される。
中域での歩く速度は、自分がどんな存在かを示す、最も早い方法だった。
登録された商人は目的地が明確で、傭兵は周囲を測りながら進み、職人は手にした道具の重さだけ先を見る。
そのどれでも、俺はなかった。
それがすぐに露わにならないことが、奇妙に不安だった。
外域では、記録されていないという事実が即座に危険へと繋がる。
だが中域では違う。
ここでの記録は、即時の排除ではなく、保留に近い。
判断を遅らせ、分類を引き延ばし、とりあえず通す。
その保留が長引くほど、存在は曖昧になる。
そして曖昧な存在は、いつでも別の選択の材料になる。
中域中央通路近くの小さな掲示板が目に入った。
『登録日程、通行制限区域、夜間移動許可』
文字は整っていて、内容は乾いていた。
どの項目にも感情はない。
この街は、親切でも敵対的でもない。
ただ規則を並べているだけだ。
俺はその前に長くは立たなかった。
読むこと自体が、記録になり得るという感覚があった。
実際に誰かが見ているかは分からない。
だが、この街では、それだけで行動を変える理由になる。
歩き出すと、自然と人々が視界から外れていった。
避けられているわけではない。
すでに計算された動線のように、互いの軌跡が重ならないだけだ。
その中で、俺は次第に端へと押しやられていく。
この街が俺を押し出しているようには感じなかった。
むしろ逆だ。
街は俺を引き留めない。
引き留めないという選択を、あまりにも自然に実行している。
やがて、別の塀のそばで一度足を止めた。
人の視線が届かないが、完全には隠れられない場所。
そういう場所が意外に多いのが、中域の特徴なのだろう。
外域では隠れ場所と危険地帯が明確だったが、ここは違う。
休まなかった。
休めたが、そうしなかった。
休んだ瞬間、留まる存在になる。
留まる存在は、すぐに分類対象になる。
歩みを止めないまま、己を点検する。
身体の状態は安定している。
痛みは残っているが、判断を曇らせるほどではない。
名前と年齢、最低限の常識が残っていることも再確認した。
記憶を失っても、すべてが空になるわけではない。
問題は、残っているものが、どこにも繋がっていないことだった。
中域は、繋がりを要求する。
所属、目的、交換可能な価値。
そのいずれかを示せなければ、ずっと周縁を回ることになる。
今の俺が、まさにそれだった。
ここに長く留まれば、選択を迫られる。
登録するか、去るか。
中域は外域のように暴力的に追い立てはしない。
代わりに、少しずつ選択肢を狭めていく。
俺はゆっくりと顔を上げた。
通路の向こうに、より明るい区域が見える。
中域の中心部、登録窓口のある方向だ。
あちらへ行けば、説明すべきことが増える。
背を向ければ、選択は先延ばしになる。
少し迷った。
迷うこと自体が、すでに判断だということを、俺は知っていた。
何もしないという選択は、この街では最も早く消滅する。
俺は一歩、足を運んだ。
中心部ではなく、その脇へ。
人通りは少ないが、塞がれてはいない通路。
まだ質問を受けずに済む位置。
逃げではない。
避けでもない。
今はまだ、分類されないという選択だ。
中域の朝は、そうして流れていく。
誰かは登録され、誰かは取引をし、
誰かは理由もなく消えていく。
俺はまだ、その間にいた。
この街が俺をどう分類するかは分からない。
だが少なくとも今は、
誰かに代わって決められてはいないということだけは確かだった。
その事実が、なぜか俺の呼吸を楽にしていた。
まだまだだ!!!




