第1話「灯火の届かない場所」
この街は、夜になっても明るい。
だが、すべての光が、すべての人に届くわけではない。
第1巻 灯火の夜
第1話 「灯火の届かない場所」
路地の中で目を覚ました。
灯火の届かない。
最初に俺を起こしたのは、光ではなく匂いだった。
湿った土と、古い血。
そして、火が消えた後に残る、鼻を刺すような煤けた残り香。
夜だということは、空を見なくても分かった。
この街は、夜になるほど明るくなる。
それでも、この路地には光がない。
灯火の点かない区画。
誰かが意図的に空けておいたか、あるいは最初から関心を向けられなかった場所だ。
身体を起こすと、関節がずれたような痛みが追いかけてきた。
致命傷ではない。
死ぬほどの痛みでもない。
だが、確かに一度は倒れたという感覚が残っている。
呼吸を整えながら、自分の身体を確かめた。
手も足も、腕も脚も、すべてきちんとついている。
血も、少しずつ止まりつつあった。
だが、記憶がない。
いや、すべてが失われているわけではない。
名前は然角。年は二十五。種族は沙那。
それ以外にも、ある程度の常識は残っている。
言葉を話せる。数も理解できる。
ここが中輪大陸のどこかだということも分かる。
しかし、それ以外のことはすべて途切れていた。
なぜここにいるのか。誰と一緒にいたのか。
何をしていて、どうしてこうなったのか。
思い出そうとすると、頭の中で手を滑らせたように、感覚だけが抜け落ちていく。
「……記憶喪失、か…」
独り言が自然と口をついた。
声に違和感はない。
少なくとも、この身体はこの声に慣れているらしかった。
恐怖はない。
それより先に、状況を整理しようとする感覚が動き出す。
元からそうだったのか、生き残るために染みついたものなのかは分からない。
そのとき、路地の奥で何かが動いた。
人の気配。足音は二つ。
一つは慌ただしく、もう一つは遅い。
俺は反射的に壁際へ身を寄せた。
理由は説明できない。
ただ、今は姿を見せる側に回るのが危険だという感覚が先にあった。
しばらくして、二人の人影が路地を横切っていった。
悲鳴。
終わりは短い。鈍い音が一つ。
息が途切れる音。
そして、再び静寂。
見なくても分かった。
ここでは、そういうことが珍しくない。
その事実が、不思議なほど自然に受け入れられた。
驚きはない。
そう感じている自分を認識して、俺はこの街の規則にすでに適応しているのだと理解した。
ほどなくして、路地を抜けた。
灯火の届く通りへ出た途端、夜が急に明るくなる。
数百の灯りが通りの上に吊るされ、人々はその下を何事もなかったかのように行き交っていた。
ついさっきの死は、この光の中では事件ですらない。
騒音は一定で、笑い声と取引の声が混ざり合い、夜を満たしている。
行き交う人々は、すれ違いざまにちらりと俺を見る。
長くは見ない。
関心がないのだ。
異質な存在を長く眺めるのは、無駄な行為だから。
その視線の中に、妙な基準を感じた。
強さでも、弱さでもない。
価値があるかどうか。
その判断だけが交わされる。
この街では、尊厳より効率が先に来る。
商店街の端では、警備が二人、書類を照合していた。
名前を呼び、文書を確認し、頷く。
通された者だけが奥へ入っていく。
俺は自然に進路を変えた。
あの線を越えた瞬間、俺は質問を受ける。
質問に答えられない存在は、この街に長く留まれない。
その瞬間、頭の奥で短い眩暈が走った。
足元の感覚がわずかにずれ、視界の中心が一瞬揺らぐ。
識か、と考えたが確信はなかった。
意識的に何かをした記憶はない。
ただ、身体が勝手に均衡を取り戻した。
まるで、昔からそうしてきたかのように。
「無駄に目立つな。」
誰かの声がした。
だが、実際に口を開いた人物はいない。
記憶の残響か、ただの幻聴かは分からない。
それでも、その言葉は正確だった。
この街は、目立つものを好まない。
まして、記録されていないものなら、なおさらだ。
再び歩き出す。
目的地はない。
だが、ここで立ち止まってはいけないということだけははっきりしていた。
この街で、こうした無記録者がじっとしていれば、すぐに問題になる。
問題になれば、処理される。
理由は残らない。
記録されていないのだから。
歩みを止めないまま、掌を見る。
胼胝の位置と大きさが、長く握っていた武器の存在を物語っている。
だが、どんな武器だったのかは思い出せない。
戦った記憶もない。
ただ、何かを握っていた感覚だけが、空虚さを生んでいた。
いつかこの感覚が、俺を危険へ引きずり込むかもしれない。
それでも今は、この不完全さが俺を生かしていることを否定できなかった。
俺はまだ、この街のことをよく知らない。
だが、この街が俺を望んでいないという事実だけは、はっきり理解していた。
それでも、俺はここを離れない。
まだ、去る理由を見つけていないからだ。
生き延びること以外には。
それでも、夜が終われば朝は来る。
朝が来ても、この街の基準は変わらない。
だが俺は、その基準の外側に立っている。
誰かはこの状態を猶予と呼ぶかもしれない。
何も選ばないまま、留まっている状態。
だが今の俺には分かる。
この猶予が終わる瞬間、選択は必ず俺を見つける。
それでも灯火の下で、夜は続いていた。
そして俺は、まだ何も選ばないまま、生きていた。
それが今のところ、最も安全な状態だということも。
この街の夜は、すでに機能していた。
灯りは一定で、影は整理されている。
人々はそれぞれの速度で動いていた。
この街は、夜に最も秩序立つ。
闇を消すために灯を点けたのではない。
闇がどこにあるのかを明確にするために、灯を点けているように感じられた。
灯火の届く区域と、届かない区域。
その境界は、思った以上に露骨だ。
俺は自然と、その境界に沿って歩いていた。
意図したわけではない。
完全に明るい側へ踏み込めば、すぐに質問を受ける。
かといって暗い側へ戻れば、ほどなくして再び倒れるだろう。
判断は計算のように速くもなく、感情のように衝動的でもない。
ただ、そのほうが生き残りやすい気がしただけだ。
この街は選択を強要しない。
だが、選ばない状態を長くは放置しない。
そのとき、通りの一角で誰かが声を荒げた。
店同士の揉め事だった。
一枚の書類が地面に落ち、それを拾おうとする二人がもみ合っている。
周囲の人間は止めに入らない。
どちらの言い分が正しいかは重要ではない。
その書類が、誰の手に渡るかだけが重要なのだ。
結局、一方が書類を手にした。
もう一人は悪態を残して退いた。
その光景があまりに自然で、しばらく視線を外せなかった。
ここでは力より先に、証拠が来る。
証拠がなければ、存在しないのと同じだ。
それを改めて思い知らされた。
そしてようやく、自分の身なりを確認した。
目立たない色合い。
古すぎもせず、新しすぎもしない。
財布のようなものはない。
武器もない。
それでも、不安はなかった。
まるで「今の俺にはこれで十分だ」という感覚が、先に敷かれているかのように。
灯火の下でしばらく立ち止まったとき、再び眩暈が襲った。
ほんの一瞬だった。
視界が霞む暇もない。
代わりに、周囲の音が一瞬遠のき、すぐに戻ってきた。
識という言葉が頭をよぎったが、やはり確信はない。
自分がそれを意識的に使ったことがない、という事実だけは明確だった。
問題は、この感覚が、さっきとは違ってまったく陌生ではないという点だ。
「……慣れてる…」
小さく呟いて、自分でも可笑しく感じた。
記憶を失った人間が、慣れを語るのは矛盾している。
それでも、この身体は反論しなかった。
むしろ同意するように、姿勢をわずかに整える。
重心が安定する。
呼吸が深くなる。
そのときだった。
「そこ。」
低く、淡々とした声。
命令でも、脅しでもない。
ただ、俺を特定したという事実だけが明確な呼びかけ。
俺は振り返った。
柱の陰に、女が立っていた。
長く垂らした黒褐色の髪。
飾り気のない服装。
淡い肌色と、独特のしなやかで節度のある体つき。
沙那だった。
視線は長く留まらず、俺を値踏みするより先に、周囲を確認している。
警戒というより、確認しているという印象が強い。
「ここは、長居する場所じゃない」
理由は説明しなかった。
そのまま自然に進路を変え、歩き出す。
ついて来いとも言わない。
それでも俺は、一拍遅れてその背中を追っていた。
理由は訊かなかった。
訊いた瞬間から、この関係は成立しなくなる気がしたからだ。
数歩進んだところで、彼女が再び口を開いた。
「どうして、ここまで来た」
断定的な口調だった。
「記憶がない」
少し迷ってから、俺は頷いた。
嘘をつく理由も、正直さを証明する必要もない。
この街は、真実より処理可能性を見る。
「それなら、ここに来るべきじゃない」
そう言って、彼女は再び黙った。
俺は彼女の歩き方を観察した。
速くはない。だが、迷いがない。
路地を選ぶ基準が明確だ。
灯火の死角、巡回の隙、音の流れ。
説明はできないが、この人はこの街の夜を知っている。
「名前は。」
また質問が飛んできた。
「然角だ。」
その名が口から出るのに、何の抵抗もなかった。
この名前だけは間違っていない、そんな感覚があった。
少なくとも今は、その名が俺を拒んでいない。
「そう。」
彼女は頷いた。
それ以上は聞かない。
姓も、出自も、記録の有無も。
それらは今は重要ではない、という態度だった。
やがて、別の灯火が完全には届かない路地の前で、彼女は立ち止まった。
最初に目覚めた場所と似ているが、雰囲気は違う。
死の匂いは薄く、人の痕跡がある。
安全だとは言えないが、少なくともすぐに処理される場所ではない。
「ここで、少し休め。」
そう言って、背を向けた。
「朝までは。」
口にはしなかったが、その言葉には条件が含まれていた。
朝が来れば、この猶予は終わる。
選択を先延ばしにできるのは、夜の間だけだ。
俺はそれを、直感的に理解した。
「どうして助ける。」
今度は俺から訊いた。
彼女は少し考えるようにしてから、短く答えた。
「まだ、問題ないから。」
その言葉が妙に引っかかった。
まだ問題がない、ということは、いずれ問題になる可能性があるという意味でもある。
だが、彼女はそれ以上語らなかった。
この街では、説明は常に危険を伴う。
俺は路地の中へ入った。
壁に背を預けて座ると、張り詰めていたものが少し緩む。
そこでようやく感じる。
疲労。痛み。
そして、ほんのわずかな恐怖。
それでも、俺はまだ生きている。
この夜が終われば、選択が始まる。
そしてその選択は、きっと記録されない。
だが今は、それでいい。
灯火の届かないこの場所で、誰にも見られない判断の中で、俺は息をしている。
まだまだ行きっています。




