第9話「判断が留まっていた場所」
この街は、決断を急がない。
ただ、終えられていない判断が
どこに留まっているのかだけは、
静かに記憶している。
第1巻 灯火の夜
第9話「判断が留まっていた場所」
夜が完全に降りきる直前の中城下層は、
昼にも夜にも属さない表情をしていた。
灯火が点るにはまだ早く、
かといって記録を整理するには遅すぎる時間。
この区画は、そうした時間帯の残滓が集まる場所だった。
廃棄記録区画の外縁。
正式な通路から一段外れた位置。
ここに残っているのは、人よりも記録の痕跡に近いものばかりだ。
引き裂かれた記録紙、
整理されなかった封印文書、
名を削がれた標識。
誰かの判断は終わったが、
まだ完全には消えきっていないものが集まっていた。
遊牧は無言で、その間を歩いた。
槍は背に負ったまま、両手は空けている。
すでに戦うつもりはない、という態度。
それよりも、確認を終えに来た人間のように見えた。
彼が足を止めた先には、小さな記録封筒が一つ落ちていた。
正式な封印も、管理の印もないもの。
中城では、こうした品こそが最も危険だ。
誰のものでもないが、
確かに誰かの判断が残っているという証だからだ。
遊牧は腰を折り、封筒を拾い上げた。
開きはしない。
指先で重さだけを確かめ、静かに頷く。
「終わったな。」
短い言葉だったが、軽くはなかった。
何かを解決したという宣言ではなく、
これ以上続く判断が存在しないという確認に近い。
淡然は少し離れた位置で、周囲を見ていた。
視線が向いているのは記録ではなく、人の動線だ。
この区画では、記録よりも先に人が危険になる。
「その件は?」
俺が訊ねると、
遊牧は封筒を元の場所に戻しながら答えた。
「整理は済んだ。
確認した。
残すものは残し、
押し出すものは押し出した。」
そこに感情はなかった。
成功でも失敗でもない、処理完了。
遊牧が仕事を終えたというのは、こういう言い方をする。
しばし沈黙が流れる。
灯火が一つ、また一つと点り始め、
空間の色がゆっくりと変わっていった。
闇は薄れたが、その代わりに影がはっきりと浮かび上がる。
そのときになって、淡然がこちらに視線を向けた。
「もう、話していいわね。」
顔を上げる。
何を語るつもりなのか、訊かなくても分かっていた。
この同行が始まった理由。
なぜ、よりにもよって俺だったのか。
「連角。」
彼女は俺の名を呼んだ。
声は低いままだが、これまでとは質が違っていた。
「最初から、あなたを守るつもりはなかった。」
その言葉は、予想と大きく外れてはいなかった。
だから俺は、何も言わずに続きを待った。
「中城で生き残る人間は、
大体二種類に分かれる。
記録の中に完全に入った側か、
それとも記録を避けることに慣れきった側。」
淡然は一度言葉を切り、周囲を見回す。
「あなたは、そのどちらでもなかった。
記録にも入らず、
避け方も、ちゃんとは知らなかった。」
評価ではあったが、非難ではない。
「それでも、まだ残っていた。」
その事実が重要だと告げるように、彼女は続けた。
「それは普通、
誰かが代わりに判断していたか、
もしくは、判断そのものが、まだ届いていないか。」
遊牧が自然に言葉を引き取る。
「どっちにしても、厄介だ。」
淡然は頷いた。
「だから、危険だったからじゃない。」
遊牧が続ける。
「確かめたかったんだ。
お前の周りに残っている判断の肌理を。」
そのとき、ようやく理解した。
淡然が見ていたのは俺自身ではなく、
俺を取り巻く空白と、残響だったのだ。
「それで―」
淡然が付け加える。
「今日の昼に、確信した。」
遊牧が仕事を終えたと告げた、その直後。
淡然の視線が一瞬だけ遊牧へ向き、
すぐに俺へ戻ってきた。
「あなたは、
誰かの選択を代わりに背負える側よ。」
それは期待でも、命令でもなかった。
可能性についての、静かな言明だった。
灯火が完全に点った。
中城の夜が始まった合図だ。
この区画は、まもなく封鎖される。
「ここに長居はできない。」
遊牧が言う。
「外城側へ抜ける。
灯火の死角になる通路だ。」
俺たちは無言で進路を変えた。
中城下層を抜け、外城との接境へと続く細い道。
灯火が意図的に届かないよう設計された通路。
出来事が記録されないよう、配慮された空間だった。
通路の中は静かだった。
光がないからではない。
光が、留まらないからだ。
淡然が歩調を落とし、俺の隣へと並ぶ。
「これからは―」
彼女が言った。
「あなたが選ばなくても、
選択は、あなたの前に置かれる。」
頷いた。
すでに、そう感じていた。
遊牧は先頭で道を切り開いていた。
少し前までとは違い、
明確に、俺たちを導く位置にいる。
通路の先から、外城の夜の空気が流れ込んできた。
粗く、整理されていない匂い。
淡然が最後に言う。
「ここまで来た以上、
戻る意味はない。」
反論はしなかった。
戻るという選択肢は、
今の俺には最初から存在していなかった。
静かに息を吸い込む。
この夜が、
ある判断の終わりではなく、
どこかに留まっていた判断の始まりになる。
そうなりそうだ、という感覚だけが残った。
まだ、名を与えることはできない。
だが確かに、
何かが動き始めている。
通路は、思っていたよりも長かった。
中城と外城の境に作られたこの道は、
物理的な距離以上に、
心理的な隔たりを広げる構造をしている。
光が届かない代わりに、
音だけがかすかに残っていた。
足音、呼吸、衣擦れの摩擦音。
すべてが、半拍遅れて届く。
遊牧は通路の前を担っていた。
速めもせず、遅らせもしない。
まるで、この道の先を
すでに知っているかのように。
その背中が、
先ほどよりもはっきりと見えた。
彼は、もう仕事を終えている。
だから、周囲に引きずられない。
淡然は中ほどを歩く。
視線は常に低く、
壁と床の継ぎ目を確かめていた。
危険を探す目ではない。
痕跡が、どう消されているかを見る視線だ。
この通路は出来事が記録されない場所だが、
何も起きない場所というわけではない。
俺は二人の後ろを歩いた。
一歩分、距離を空けて。
守られる位置でも、
完全に自由な位置でもない。
今の俺に、最も相応しい場所だった。
「さっき言ったこと。」
通路を半ばほど進んだところで、淡然が口を開いた。
「あなたが、代わりに背負うという話。」
頷く。
「いい意味じゃないわ。」
彼女は先に線を引いた。
「そういう人は、長く残らない。
自分の選択じゃないものを、
ずっと抱えることになるから。」
その言葉に、初めて遊牧が
わずかに顔を向けた。
ほんの一瞬。
淡然の言葉が間違っていないと、
認める仕草だった。
「それでも―」
淡然は続ける。
「そうしなければ、
中城ではもっと早く押し出される。」
誰かの選択を背負う人間。
その言葉が、
今の俺を正確に言い表している気がした。
何を望んでいるのかは分からない。
だが、どこまで退くべきかは、
体が先に知っている。
その感覚が、俺をここまで運んだ。
通路の空気が、少し変わった。
外城の匂いが混じり始める。
不完全な燃料の臭い、
古い布、
人の体温。
整理されない生の匂いだった。
「ここからは、中城の基準で動くな。」
遊牧が低く言う。
足は止めない。
説明ではなく、警告だった。
「外城では、
判断が速いことが、
必ずしも良いとは限らない。」
その言葉が、妙に胸に残った。
中城では、判断が遅れると危険になる。
だが外城では、
早すぎる判断が命を削ることもある。
この通路は、その違いを
体に覚えさせる場所だった。
やがて、通路の先が見え始めた。
完全に開いた出口ではない。
壁が一度折れ、
視界が分断される造り。
外をすぐに見せない設計だ。
その手前で、遊牧が足を止めた。
「ここから先は、
各自で動ける。」
その言葉に、淡然が視線を向ける。
「今日は違う。」
短い否定だった。
理由は添えない。
遊牧はしばらく沈黙し、
やがて頷いた。
「分かった。
今日までは。」
同意であり、
期限の設定でもあった。
遊牧はいつも、そう判断する。
恒久的な約束を作らない。
だからこそ、信頼できた。
外城の夜が、姿を現した。
灯火は中城よりも疎らで、
光と光の間の闇は深い。
人々は光の下に集まり、
その間の影には、
誰も長く留まらない。
俺たちは、光のない側へと歩いた。
意図的な選択だった。
灯火の下では、
あまりにも多くの視線が付く。
外城の道は、中城とは違う。
定められた動線はなく、
人ごとに速度も、向きも異なる。
その中で目立たずにいるには、
誰のリズムにも、
完全には合わせない必要がある。
「ここは―」
淡然が言う。
「あなたが、最初に目を覚ました場所に近い。」
返事はしなかった。
思い出したくない光景だったからだ。
だが、体は反応した。
肩が、ほんのわずかに強張る。
「戻る必要はない。」
彼女はその反応を見逃さなかった。
「確認するだけ。
あなたが、
ここでも同じ選択をするかどうか。」
同じ選択。
その意味は、まだはっきりしない。
ただ、また判断を引き受けることになる。
そんな予感だけがあった。
外城の一角に辿り着いたとき、
遊牧が再び足を止めた。
「俺は、ここまでだ。」
そう言った。
今回は期限ではなく、分岐点だった。
「依頼は終わった。
これ以上先は、俺の仕事じゃない。」
淡然は頷いた。
予想していた、という反応だった。
遊牧が俺を見る。
評価でも、確認でもない視線。
結果を待たない人間の目だ。
「連角。」
名を呼ばれる。
「今日見たものを、
無理に整理しようとするな。」
今までで、一番助言に近い言葉だった。
「空いている感覚は、
後になって一番役に立つ。」
それ以上、彼は語らなかった。
代わりに、進路を変える。
光の方でも、闇の方でもない。
外城の、また別の枝路へ。
その背中が、今回は妙に長く目に残った。
消えていくというより、
整理されていく感覚。
この男は、こうして去る側なのだと、
そういう側なのだと、遅れて実感した。
淡然は、引き留めなかった。
呼び止めもしない。
外城では、それは無粋だ。
「これで―」
彼女が言う。
「本当に、二人ね。」
頷いた。
不思議と、不安はなかった。
むしろ、
何かが抜け落ちた場所が、
はっきりした感覚があった。
外城の夜は深い。
だが、完全な闇ではない。
灯火の隙間で、
人々は今も生きている。
歩きながら、考えた。
今日一日、
俺は自分の意志で
大きな選択を一つもしていない。
それでも、ここまで来た。
その事実こそが、
この街では最も危険な可能性なのだと、
今なら少し理解できる。
判断が留まっていた場所は、
空になったとき、
最も長く残る。
そしてその場所を、
誰かは必ず通る。
次は、俺の番なのかもしれない。
うーん…その…
実はですね!昨日はちゃんと更新するつもりだったんですよ!
ほんとに!
でも!机で作業してたらそのまま寝ちゃいまして!
さっき起きました…!
でもでも!
ほとんど書き終わってたので!
今こうして投稿しておりますっ!




