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記憶喪失の婚約者が愛したのは私ではなく妹でした

作者: 槻宮とりな



 昏睡状態だった婚約者が目覚めたという報せを受け、慌てて駆けつけた私が寝室で見た光景は、婚約者と妹が抱き合っている姿だった。





 シュトラウス侯爵家の嫡男であり、私の婚約者でもあるアルベルト様が落馬事故に遭ったのは、約1ヶ月前のことだった。

 遠乗りに出掛けた先での不慮の事故。

 幸い、大きな怪我こそなかったものの、落馬の際に頭を強く打ったため意識が戻らず、長らく昏睡状態が続いていた。

 その報せを受けてシュトラウス侯爵家の屋敷に駆けつけた私は、ベッドの上に横たわる生気のない顔のアルベルト様を見て取り乱し、泣き叫びながら主治医に縋った。

 どうかアルベルト様を助けて欲しい、命を救って欲しい、と。

 それから1ヶ月間、時間が許す限り、私はアルベルト様の枕元で回復を祈り続けていた。

 意識が戻らず眠り続けるアルベルト様の手を握り締め、脳裏に浮かぶ最悪の事態を必死に遠ざけながら、ひたすら目を覚ましてくれることを願っていた。





 私、フレデリカ・カルデンがアルベルト・シュトラウス様と婚約を結んだのは今から10年前のことだ。

 我がカルデン伯爵家とシュトラウス侯爵家は古くから付き合いがあり、その縁で私はアルベルト様と出逢った。

 お互い、社交界に出る前の初々しい年齢だった。確か私が8歳、アルベルト様が10歳の頃。

 チョコレート色の艶やかな髪と深い森を思わせる深緑色の瞳を持つアルベルト様は、まるで物語の中から出てきた王子様のように美しくて、幼かった私は一目で恋に落ちた。初恋だった。

 アルベルト様は優しい方だった。口数は多くはないものの、読書を好み、よく面白い話や珍しい話を聞かせてくれた。甘い物はあまりお好きではなかったけれど、私の作るお菓子をいつも笑顔で食べてくれた。どんな些細な話にも耳を傾け、時には笑い、時には意見を述べ、悩みには共に解決策を考えてくれた。

 私はアルベルト様が大好きだった。

 こんなにも優しくて素敵な方が婚約者だという事実に何度感謝したか数え切れない。

 ゆくゆくは彼に嫁ぎ、シュトラウス侯爵夫人として彼を支え、子を産み育て、子供たちの成長を見守りながら彼と余生を過ごす。

 そんな幸せな未来を夢見て、それが現実となることを信じて疑わなかった。

 その最中(さなか)に起きた落馬事故。

 意識の戻らない大好きな人の手を握り締めながら、私はただ怯えていた。

 大切な人を失うかもしれない。他愛のない話も、笑い合うことも、手を取り合って踊ることも、共に生きていくことも、全部が全部、この手をすり抜けていく恐怖。

 怖くて怖くて堪らず、狂ってしまいそうだった。

 もし最悪の事態を迎えてしまったら彼の後を追おうかと、そんな馬鹿なことを考えてしまうくらい、私はアルベルト様のことが好きだった。

 だが、幸いにもそんな私の悲痛な決意は実を結ぶことはなく、アルベルト様は目を覚ました。

 その報せを喜び、けれど、それが再び絶望に叩き落されるまで、そう長くは掛からなかったけれど。





 アルベルト様が目覚めたという報せを聞いた時、私はシュトラウス侯爵家の別室にいた。

 できる限りの時間、意識のないアルベルト様に寄り添っていたかったが、彼の状態を悲しむのは私だけではない。

 アルベルト様の母親であるシエラ様もまた、この事態に心を酷く痛めていた。

 元々身体が丈夫ではなく、子供もアルベルト様1人だけ。大切に育ててきたアルベルト様が生死を彷徨っている事実はシエラ様の心を深く抉っていた。

 私以上に青い顔をして啜り泣くシエラ様を必死に慰めていた時だった。慌てた様子の侍女が飛び込んで来て、アルベルト様が目覚めたことを告げたのだ。

 喜びを覚えるよりも先に私は勢いよく部屋を飛び出した。作法も淑やかさも全てをなげうって、全力で廊下を駆けながらアルベルト様の寝室へと向かい、そして――アルベルト様と妹のパトリシアが抱き合っている光景を目の当たりにした。

 その日、偶然私と共にアルベルト様を訪ねていたパトリシア。

 毎日とはいかずとも空いた時間の全てをアルベルト様への見舞いに費やす私のことを心配し、自分にもできることがあるのなら、と付いてきたパトリシア。

 2歳年下の彼女は愛らしく、薄く赤みがかった金髪と透き通るような空色の瞳の美少女だった。

 薄い色の金髪と濃い青の瞳を持つ私とは似ているようで、美しさでは彼女には敵わない。

 しかし、彼女は姉である私を慕い、私もまた、そんなパトリシアを心から可愛がっていた。

 アルベルト様のことを心配する私のことを心配し、「お姉様、少し休んでいらして。アルベルト様がお目覚めになった時、お姉様が倒れてしまっては元も子もありませんもの」と気遣ってくれたパトリシア。

 それなのに何故、アルベルト様と彼女が抱き合っているの?

 抱き合うと言っても、パトリシアがアルベルト様の胸に顔を埋め、その肩にアルベルト様の腕が添えられている程度だけれど、傍目から見れば十分抱き合っているように見える。

 その目の前の信じられない光景は、やがて報せを受けて集まってきた人々の前でも晒された。

 喜びの声と主治医への連絡の指示が飛び交う中、アルベルト様の腕の中でハッと我に返ったらしいパトリシアが慌てて駆け寄ってきた。


「ごめんなさい、お姉様。アルベルト様が目覚めた時、たまたま傍にいたのが私だけで……。つい嬉しくて……」


 視線を伏せ、申し訳なさそうにしているパトリシアに私は何と声を掛けていいかわからなかった。

 腑に落ちないことはあるものの、それよりもアルベルト様は、と視線を向けた瞬間、深緑色の瞳と目が合った。

 1ヶ月間眠っていたためか、その姿は痩せており、以前のような凛々しさは薄れてしまっていたけれど、それは確かにアルベルト様だった。

 遅れてやってきた歓喜が涙に変わるまで、そう長い時間は掛からなかった。

 ベッドに横たわる彼の枕元に近付き、崩れるように膝を付く。


「ああ、良かった……! アルベルト様、アルベルト様……っ、私、ずっと貴方のことを心配して……!」

「……君は、誰?」

「……え?」


 ――その瞬間のことを、どう表現すればいいのだろう。

 涙を流す私を見つめるアルベルト様の瞳には、それまであった親しみや優しさはなく――ただただ困惑と、懐疑的な色が浮かんでいた。

 周囲が一瞬で凍りつく。

 アルベルト様の視線が私を貫く。


「アルベルト……。それが、僕の名前……?」

「アル、ベルト様……?」


 歓喜の涙が引っ込んで、代わりに全身の血の気が引いた。

 アルベルト様はまるで知らない他人を見るような目をして私のことを見つめていた。

 そして、言葉を失い呆然とする私から目を逸らし、背後にいたパトリシアへと視線を移す。


「……君は、誰?」


 私に向けたのと同じ言葉。

 パトリシアが動揺し、私へと視線を向けるのがわかった。

 しかし、私は起こっている事態を理解しようとするのに必死で、アルベルト様とパトリシアのやり取りを眺めていることしかできなかった。


「パ、パトリシア……と、申します……」


 震える声でパトリシアが名乗る。


「……パトリシア」


 その名を繰り返し、アルベルト様がふと微笑んだ。

 まるでとろけるような優しい微笑み。

 私に向けられたことのない、初めて見る表情だった。






 結論から言うと、アルベルト様は記憶を喪っていた。

 主治医が言うには落馬の際、頭を強く殴打したことが原因だろうとのこと。

 会話や日常生活に必要な知識には問題ないが、自身やその周囲の人々に関する記憶は全て喪ってしまっている。

 すぐに記憶を取り戻す術はないが、近しい人との関わりや五感を刺激することにより、何かのきっかけで思い出すことがあるかもしれない――。

 それが主治医の診断だった。

 アルベルト様が記憶を喪った。家族のことも、婚約者である私のことも覚えていない。

 そのことに震えるほど動揺したが、最悪の事態を回避したことは事実だ。二度と記憶が喪われたわけではないし、いつか絶対に思い出せるはず、と自分に言い聞かせ、私はまた時間の許す限り、アルベルト様のお見舞いへと参じた。




 私が婚約者だと伝えられた時、アルベルト様は酷く戸惑っていた。

 無理もない。自分のことも家族のこともわからない中、見知らぬ女に婚約者だと名乗られても混乱するのは仕方ないだろう。

 しかし、私とて10年間、アルベルト様の婚約者として過ごしてきた。それなりの時間を共にした自負はあるし、好き嫌いや趣味嗜好等、ある程度は把握している。何かしら役に立てることには違いない。それはシュトラウス侯爵家のご両親にも期待されている。

 アルベルト様の記憶が戻りますように。

 私のことを思い出してくれますように。

 また私に微笑みかけてくれますように。

 そんな切なる願いを胸に抱き、アルベルト様が好きな本やお菓子、私のことや家族のことを知る限り、少しずつ少しずつ、記憶が戻るきっかけとなることを願いながら伝えた。

 私から話を聞く度にアルベルト様は困惑の表情を見せていた。知らない人についての説明を聞くような、釈然としない様子。

 ただ、話題が私の家族のことになった途端、その顔が少し明るくなった。


「……パトリシアは、君の妹か……」


 ぽつりと呟き、アルベルト様が何かを思い出すように目を細めた。


「目を覚めた時、彼女が目の前にいて……その姿が、とても美しくて……」


 その時のことを思い出しているのか、表情が和らいだ。

 私と相対している時には見せない、とても安らいだ表情。

 その瞬間、嫌な予感がした。

 言葉にするのは難しいけれど、何か取り返しのつかないことが起ころうとしているような、そんな予感。

 漠然とした不安を抱きながらも、私は次に発せられるアルベルト様の言葉を遮ることができなかった。







「こんにちは、アルベルト様! ご機嫌はいかがですか?」

「よく来たね、パトリシア」


 明るいパトリシアの声にアルベルト様が微笑んだ。

 そして、慈愛に満ちた深緑色の瞳がパトリシアの背後にいる私に向けられた途端、僅かに翳る。


「ご機嫌よう、アルベルト様」

「フレデリカも……ようこそ」


 ぎこちない挨拶に優雅にお辞儀を返しながらも、キリキリと胸の奥が痛んだ。

 アルベルト様が目を覚まされてから3ヶ月。

 その間も記憶を取り戻そうと様々なことを試してみたけれど、特に進展は見られず、時間だけが経っていった。

 アルベルト様は少しずつ以前の生活へと身体を慣らしていた。一通りの作法を覚え直し、記憶がないことを除けば、私がよく知るアルベルト様の姿だった。

 私も定期的にアルベルト様へのお見舞いを続けていたが、以前と違うことと言えば、そこにパトリシアが加わるようになったことだ。

 アルベルト様自身がパトリシアに会うことを望んだのだ。

 そのことを告げた時、パトリシアはとても驚いていたけれど、案外あっさりとアルベルト様に会うことを了承した。


『目覚めたアルベルト様が最初に目にしたのが私だったから、きっとそれが理由ですわ。ほら、ひよこも最初に見たものを親だと認識するって言いますでしょう? それと同じですわ!』


 そう言って、パトリシアはあっけらかんと笑う。

 

『アルベルト様が1日も早く記憶を取り戻せるように私も力になりますね! お姉様とアルベルト様の幸せを誰よりも願っているのは私ですもの!』


 可愛い妹。美しい妹。無邪気な妹。

 誰が見てもパトリシアは愛らしく、心優しい少女だった。

 そんな妹が可愛くて、大切で、だからこそ、今この胸に抱いている気持ちが苦しくて堪らない。


「本日はお菓子を持って参りましたの。我が家の料理人のお菓子はとっても美味しいと評判ですのよ? アルベルト様にも是非召し上がっていただきたくて!」

「ありがとう。いただくよ」


 侯爵家の庭園に用意されたお茶会用のテーブルに持参したお菓子を広げ、パトリシアが伯爵家の料理人の腕前を熱く語る。

 その姿を眩しそうに見つめながら、アルベルト様は笑顔で相槌を打っていた。


「あと、今度王都で評判のお店のお菓子を持ってきますね。何でも2枚重ねたクッキーの間にクリームやドライフルーツがたっぷり挟んであって、とても甘くて美味しいんですって! 私、一度それを食べてみたくて、お父様にお願いしましたの。アルベルト様にもお裾分けしますね!」


 そんなパトリシアの無邪気な言葉に、私は反射的に声を上げそうになった。


 いいえ、アルベルト様は甘い物を好まないわ。前に一度、私が作ったクッキーをお持ちしたら顔をしかめていらしたもの。

 それでも「フレデリカが作った物なら」と食べてくださったわ。

 それから私、甘さの少ないお菓子ばかり作っていたのに。


「あと、この本、巷で流行りの冒険譚なんですって! アルベルト様は読書がお好きですよね? なんでも主人公が不思議な力に目覚めて悪の王に挑む波乱万丈な冒険のお話だそうですわ!」


 いいえ、アルベルト様は空想の物語は好まないわ。この方は歴史書を読むのが好きだった。

 過去の歴史があるからこそ今の時代がある、とよく語っていらしたわ。

 だから、私もアルベルト様と同じ世界が見たくて、たくさん歴史書を読んだのよ。


「そうだわ。今度、一緒にピクニックに行きましょう? お屋敷でのお茶会もいいですけれど、外で食べるお菓子はまた格別なんですよ! ね、お姉様?」


 屈託なく笑い、華やいだ表情でパトリシアが話を振る。

 それに「そうね」と頷きながらも、私はアルベルト様の様子が気になって仕方がなかった。

 まるでパトリシアしか見えていないというように、隣にいる私のことなど目にも入れず、パトリシアだけを一心に見つめる横顔。

 私に柔らかな微笑みを向けてくれたアルベルト様は、今ここにはいない。


「アルベルト様」


 不意に唇から名が溢れた。

 驚いて口元を指で押さえれば、アルベルト様が怪訝な顔でこちらを見る。

 パトリシアに向けられる柔らかな眼差しとは程遠い、どこか強張った視線。

 その眼差しを目の当たりにし、焦りと落胆の入り交じる感情が胸に渦巻いた。


 なぜ、そのような目で私を見るの? 妹にはあんな優しい顔を見せるのに。あなたの婚約者は私のはずなのに。

 

 言いたいことも、問い詰めたいことも、沢山あった。

 でも、それを言葉にしてしまったら取り返しのつかないことになると知っていた。

 少しずつ、少しずつ、何かが狂っていく。

 歯車が少しずつずれて、不協和音を立てるような。

 それが分かっているのに、その狂いを正す手立てがわからないまま、私は全てを呑み込んで笑顔を作る。


「紅茶のお代わりはいかがですか?」

「……もらうよ」


 わざわざ今聞くことか。

 そんな考えが手に取るように分かる表情でアルベルト様が小さく頷いた。

 笑顔を保ち、自らの手でティーポットから紅茶を注ぎながら、私は揺れる紅茶の水面を見つめていた。






 それから更に2ヶ月が経過した。

 アルベルト様の記憶は今も戻らないまま。

 以前の記憶が戻らない代わりに新たな記憶が彼の中に蓄積されていく。

 その最も多くを占めるであろう妹が今日も笑顔でアルベルト様の隣に立って、私はその後ろに立ち竦む。


「お姉様、アルベルト様の記憶はまだ戻りませんの?」


 今となっては当たり前となったシュトラウス侯爵家への訪問後、帰宅したパトリシアが心配そうに尋ねてきた。

 彼女は純粋にアルベルト様のことを心配している。アルベルト様が自分に会いたがるのも、卵から孵ったばかりの雛のように、何も知らない世界で初めて出逢ったのが自分だったからだろうと、そう考えている。

 回数を重ねるにごとにアルベルト様の深緑色の瞳に宿る熱情に彼女は気付いていないのだろう。

 そんなアルベルト様と何も知らず無邪気に笑う妹の姿を姉がどんな気持ちで見ているかなど、夢にも思わないのだろう。


「ええ……そうね」

「もう事故から半年近くとなるのに……。お姉様の結婚も延期されているし、アルベルト様の記憶が早く戻るといいんですけれど……」


 パトリシアの言う通り、アルベルト様の落馬事故を受け、私たちの結婚は先延ばしとなった。

 本来ならば来年、私が誕生日を迎える頃に結婚式を挙げる予定だったが――今となっては、それがどうなるかも怪しい。

 目覚めた当初は不安と困惑に暗い顔を見せていたアルベルト様も、今となっては以前と変わらない様子で過ごしている。

 それに関してはシュトラウス侯爵家のご両親も大いに喜んでおり、私とパトリシアに感謝の気持ちを伝えてくださった。

 だが、私は素直に喜べなかった。

 アルベルト様が元気になることは喜ばしい。

 喜ばしいことなのに――会いに行く度、彼が誰に会いたがっているのか、その視線が誰を追っているのか、痛いほどに察してしまう。

 黙り込む私にパトリシアが殊更明るく声を張り上げた。


「私、今度アルベルト様と一緒に王立公園に行くことになりましたの! お医者様が家の中だけにいるのも良くないだろうと仰っていて……。王立公園ならば馬車で行ける距離ですし、緑豊かでアルベルト様も心が休まると思って」


 王都の郊外にある森林公園の名を挙げて、パトリシアが微笑んだ。


「それを提案したら、アルベルト様も是非と仰っていて。王立公園の次は海辺で静養するのも良いですし、その計画も立てておりますの。もちろん、お姉様も一緒に参りましょうね! アルベルト様の婚約者なんですもの!」


 婚約者。

 そう、私はアルベルト様の婚約者。10年前に婚約を結び、これまでずっと彼の婚約者として生きてきた。

 でも、でも、でも。

 今のアルベルト様は私のことを見ていない。

 アルベルト様が見ているのは、婚約者である私ではなくて――


「約束ですよ、お姉様!」


 愛らしい仕草で首を傾げ、パトリシアが私に抱き着く。


「そう、ね。……そう、私は……アルベルト様の婚約者だから……」


 その身体を抱き返すことができないまま、私はそっと視線を伏せた。

 





 アルベルト様とパトリシアの距離が段々と近づいていることは分かっていた。

 代わりに私との距離がどんどん離れていることも。

 でも、どうすればいいのか分からなかった。

 記憶を喪っているアルベルト様に対する接し方が分からない。

 私の記憶にあるかつてのアルベルト様と、今のアルベルト様は違う。

 甘いお菓子が苦手だったはずなのに、パトリシアが持参したとびきり甘いお菓子を笑顔で召し上がっている。

 歴史書を好んで読んでいたはずなのに、私が史実の話を振っても困ったような顔をされるだけ。

 かつて私に向けていた優しい笑顔をパトリシアに向けて、優しい声で名を呼んで、優しい眼差しで見つめて。

 パトリシアの明るさや屈託のなさは生来のもの。アルベルト様への気遣いや提案は私たちを(おもんぱか)ってのこと。

 パトリシアが懸命にアルベルト様の記憶を取り戻そうとし、私の幸せを願ってくれていることは分かっている。分かっているのだ。

 だから、私は大切な妹を恨むことも憎むこともできなかったし――したくもなかった。







「……今日は、君だけかい?」

「ご機嫌よう、アルベルト様。ええ、私だけですわ」


 シュトラウス侯爵家へ訪問する日。

 その日、私は久々に1人でアルベルト様の元を訪れた。

 アルベルト様が意識を取り戻して以降、パトリシアと訪れることがほとんどであったが、今日は私だけ。

 私を迎えたアルベルト様の深緑色の瞳に落胆が過ぎったのを見ないフリして、普段通りの微笑みを浮かべる。


「パトリシアは友人のお茶会へ参加しておりますの。あの子も年頃ですし、彼女なりの交友関係がございますから。いつまでも私たちのことで心配をかけるのも申し訳ないですわ」

「それは……そうだね。彼女も貴族令嬢だし、社交をこなすのも仕事のうちだし……」

「ええ。両親もそろそろあの子の婚約者を決めるそうですし、そうなったら婚約者の方と過ごす時間が増えるかもしれませんわね」


 何気なく告げた言葉にアルベルト様の顔色が一瞬で悪くなった。

 その様子に気付かないフリをして、私は室内に用意されたお茶会の席へと腰掛ける。

 

「久し振りにお菓子を作りましたの。アルベルト様のお好きな紅茶のクッキーです。茶葉を多く入れたので甘さは控えめですわ。それと、以前お好きだと仰っていた歴史家の最新刊が出たので、それも一緒に。以前、このシリーズの近代史編が欲しいと仰っておりましたでしょう?」


 持参したバスケットからクッキーの包みと本を取り出し、テーブルの上へと並べる。

 記憶を喪う前のアルベルト様は甘い物が苦手で、歴史書が好きだった。だから、私が用意するのは甘さの少ないお菓子と歴史書。

 記憶を取り戻すためには記憶を喪う前の嗜好を試すことが有効だと聞いたため、かつてのアルベルト様が好きだったものをできる限り用意したのだ。

 このクッキーも本もアルベルト様が好きだった物。だから、何か記憶の琴線に触れればいいと、その一心で。


「――君が興味あるのは、過去の僕だけなんだな」


 これまで聞いたことのないに冷たい声に動きが止まった。

 ゆっくりと視線を向ければ、冷ややかな深緑色の瞳と目が合う。

 そこにあるのは失望――いや、違う。

 これは、怒り。アルベルト様が怒っている。

 私に対して、怒っているのだ


「君が語るのは過去の――かつての僕のことだけだ。今の僕のことなど、知ろうともしない」


 怒気を含んだ静かな声が耳に刺さる。

 テーブルの上に置かれた分厚い歴史書を一瞥し、アルベルト様は淡々と言った。


「皆の話を聞く限り、確かに過去の僕は甘い物が苦手で、読書家で、その中でも特に歴史が好きだった。婚約者のことを大切にして、悩みに耳を傾けて、侯爵家の跡取りとして立派に育ったんだろう。……だけど、今の僕は甘い物が好きだし、読書はそんなに好きじゃない。歴史なんて興味もないし、おまけに自分の知らない自分の話ばかりする女の話なんて心底どうでもいい」


 ガタンッ、と大きな音を立て、アルベルト様が椅子から立ち上がる。

 私は何も言えず、その姿を見上げることしかできない。

 そんな私を睥睨し、アルベルト様は冷たく言い放った。


「僕が本当に好きなのは、今の僕のことを理解してくれる人だ」

「アルベルト様――」

「パトリシアが僕の婚約者だったら良かったのに」


 ――心臓が、止まったかと思った。

 冷ややかな視線ともに繰り出された言葉は、私から思考と言葉を奪うには十分過ぎるほどの威力を持っていた。

 何も言えない私から目を逸らし、アルベルト様はそのまま部屋を出ていった。その背中を見送ることしかできない。

 ……過去を思い出してもらえれば、また以前のように笑いかけてもらえる。嬉しそうに抱き締めてくれる。好きだと言ってもらえる。

 そう信じていた。だから、私はアルベルト様の記憶を取り戻そうと必死だったのだ。どんな些細なことでも記憶の片鱗に引っ掛からないかと、できる限りのことをした。

 彼の記憶が戻ることを誰よりも願い、祈り、懸命に努力した。

 だけど、私はアルベルト様の記憶を取り戻すことに必死で、今のアルベルト様のことを見ていなかったのだろう。

 今の彼の嗜好も趣味も全部無視して、かつてのアルベルト様が好きだった物を押し付けた。

 そのことに今更ながら気付いたけれど――もう、全てが手遅れだった。

 テーブルに残された、アルベルト様のために用意した贈り物に視線を落とす。

 甘くないクッキー。高価な歴史書。過去の自分のことばかり話す婚約者。

 彼が辟易したのは、はたしてどれだったのか。

 どうすることもできないまま、贈り先を失ったクッキーを1枚手に取り、齧る。


「……苦いわ……」


 紅茶の味と苦味が強い。それが美味しいかどうかなんてわからなくて。

 ひどく苦くて塩辛いクッキーだということしか、わからなかった。







 その日を境に私がアルベルト様を訪ねることはなくなった。

 代わりにパトリシアが頻繁にシュトラウス侯爵家へと招かれていた。

 当の本人は心底不思議そうな顔をしながらも、毎回甘いお菓子を持って出掛けていったことを知っている。

 そして、アルベルト様が目覚めてから半年後――私は父に呼び出され、そのことを告げられた。


「シュトラウス侯爵家から打診がきた。アルベルト殿の婚約者をお前からパトリシアに変更できないか、と……」


 用件は薄々分かっていた。

 こうなることも予想していた。

 だから、私は取り乱すことなく、淡々と答えた。


「お受けなさってくださいな。記憶を喪ったアルベルト様に一番真摯に向き合っていたのはパトリシアです。アルベルト様が惹かれるのも当然のことでしょう」

「だが、お前もアルベルト殿のことを心配していたではないか。彼が昏睡状態だった時のお前の様子はよく覚えている。あんな憔悴するほど身を案じていたお前を蔑ろにし、妹に心変わりするなど――」

「お父様」


 怒りを滲ませる父を見つめ、私は微笑んだ。

 上手く笑えていたかはわからないが、きっと笑えていたと思う。


「私は確かにアルベルト様を愛しておりましたわ。でも、私が愛していたのは、私のアルベルト様なのです。甘い物が苦手で、読書家で、歴史が好きな、優しい方。……それが私の愛するアルベルト様ですわ」


 にこりと微笑む私を父は何とも言えない表情で見つめていた。

 そして、深い深い溜め息の後の「本当にいいのか?」との言葉に私はゆっくりと頷く。


「アルベルト様がパトリシアとの結婚をお望みならば、どうかそのようになさってください。……代わりに私の願いを1つ、叶えていただけますか?」


 沈痛な顔の父を安心させるように微笑みながら、私はずっと考えていた願いを口にした。






 シュトラウス侯爵家嫡男の婚約者を変更することはすんなりと決まり、(フレデリカ)から(パトリシア)へすげ替えるだけで事足りた。

 おまけにパトリシアがアルベルト様を人目につく場所に連れ出していたお陰で、社交界では近々侯爵家の跡取り息子の婚約者が変わるのではないか、と噂されていたらしい。

 本来であれば眉を顰められる話だが、アルベルト様が不慮の事故で記憶を喪ったことは知られているし、それに加え、パトリシアの献身的なお見舞いの件も噂に登り、大きな悪感情なく受け入れられた。

 傍から見れば何も分からない。侯爵家の嫡男の婚約者は伯爵家の令嬢。その中身が姉だろうが妹だろうが関係ない。

 この両家の取り決めに関して、一番驚いていたのはパトリシアだった。

 彼女は私がアルベルト様を愛していたことを知っている。だからこそ、この決定に納得がいかなかったのだろう。


「何故ですか、お姉様……! あんなにアルベルト様のことを案じていらっしゃったのに、どうして私がアルベルト様と結婚することになるんですか!?」


 この決定がパトリシアへ伝えられた日、彼女は可哀想なほど青褪めた顔で自室にいる私の元へとやってきた。


「急な話で驚いたでしょう。でも、アルベルト様がそう望んだのよ。だから、あなたは何も気にしなくていいの」

「そんな……! 嘘です! だって、アルベルト様はあんなにもお姉様のことを……!」

「パトリシア」


 今にも泣きそうな顔をするパトリシアの手を握り、諭すように言葉を紡ぐ。


「どうか聞いて。……今のアルベルト様は昔のアルベルト様とは違うの。アルベルト様であることには違いないけれど……私は、今のアルベルト様とどう接すればいいのか、わからなくなってしまったの」


 記憶を取り戻して欲しかった。

 私のことを思い出して欲しかった。

 かつてと同じ関係性に戻りたかった。

 けれど、そのどれも叶うことはなくて、気付いた時には取り返しのつかないところまで来てしまっていた。

 過去に固執して現在を見ることができず、自分の中の願望を優先して本来見なければいけなかったものを見落とした。

 だから、この結末は全て自分のせい。

 自分以外、誰も悪くはないのだ。


「私はアルベルト様の記憶を取り戻すことに必死で、今のアルベルト様を理解することができなかった……いえ、理解しようとすらしなかったの。でも、あなたは違った。きちんとアルベルト様自身のことを見て、彼のことを考えていた。記憶を取り戻すことに固執する私とは違ってね」

「買いかぶりすぎです……! 私はただ、お姉様の役に立ちたくて……」


 それは本当なのだろう。パトリシアは決して姉の婚約者を奪おうと考える子ではない。

 純粋に心配して、ひたむきに努力して、自分にできることをした。本当にただそれだけなのだ。

 そこに悪意がないことは私が一番よく知っている。


「ありがとう、パトリシア。その気持ちだけで十分よ。……あなたなら、きっと侯爵夫人でもやっていけるわ。賢くて可愛い、私の自慢の妹だもの」

「お姉様……」

「それとも、あなたはアルベルト様のことが嫌いかしら? 記憶喪失の殿方に嫁ぐのは不安?」


 わざと意地悪に問えば、パトリシアが反射的に首を横に振り――ハッと我に返る。

 慌てる彼女を見つめ、私は微笑んだ。

 その反応が何よりの答えだ。


「あなたが私の幸せを願ってくれていたように、私もあなたの幸せを願っているわ」


 彼女自身、ただの義務感だけで姉の婚約者の元を訪れていたわけではないだろう。

 自身の想いを義務感で括ってしまうのは、あまりに酷だと思うから。

 パトリシアが去った後、ふと机の上に置かれた歴史書が目に入った。

 アルベルト様が好きだった歴史書。この国の起源から近代に至るまで、文化や戦争、他国との関係まで様々なことが総体的に綴られている。

 昔は歴史なんて難しくて苦手だったのに、アルベルト様に追いつきたい一心で読み耽り、今日まで大切にしていた。

 今でも共にこの本を開き、好きな時代や文化を語り合った日のことを昨日のことのように思い出す。

 とても、とても幸せな記憶だった。


「……あなたのことが大好きでしたわ、アルベルト様」


 そう呟きながらボロボロの表紙を一撫でし、私はそれを本棚の奥へと押し込んだ。








 それからしばらくして、私は家を出た。

 表向きは療養と称し、王都から少し離れた海辺の街に住む叔母の家に身を寄せることとなった。

 父の姉にあたるレーニア様は、とある侯爵家に嫁いでいる。だが、ご夫君は既に亡くなり、お子様は独り立ちして侯爵家を継いでいる。そのため、レーニア様は海辺の街の一角に家を買い、悠々自適に余生を過ごされているのだ。

 レーニア様には幼い頃から可愛がられており、「困ったことがあれば遠慮なく頼りなさい」と常々気に掛けてもらっていた。

 だから、その言葉に甘えた。

 父から許しを貰い、レーニア様へ連絡を取り、全ての手筈が整うや否や、私はアルベルト様たちから逃げるようにこの街へとやってきた。 

 王都とはまた違った活気に満ちた美しい海辺の街。

 海の見える小高い丘の上の屋敷に住むレーニア様は優しく私を迎え入れてくれた。

 事情は全て伝えた。自分の至らなさも不甲斐なさも余すことなく、逃げ出してしまったことへの罪悪感も包み隠さず全て。

 そんな私の懺悔をレーニア様は真剣に聞き、「好きなだけここで過ごすといいわ」と微笑んでくれた。

 それから、私はずっとレーニア様の元で暮らしている。

 穏やかな日々だった。

 海を眺め、港町を歩き、新鮮な魚に目を輝かせ、波際で潮に濡れ、街の子供たちと戯れ、漁師から魚を盗んで逃げる猫を見て笑う。

 伯爵令嬢として暮らしていた頃では考えられなかったことばかり。 

 そんな毎日が楽しくて、幸せで、辛い記憶を少しずつ上書きしてくれた。

 悲しみはすぐには癒えないけれど、いずれ時が解決するだろう。

 そう思える程度には心が回復してきた頃、ある日、私に来客があった。

 私がここにいることを知るのは両親と妹、あとはごく親しい友人くらいだ。だが、彼らと定期的にやり取りしている手紙に来訪の予定はなかった。

 心当たりがなく、首を傾げながら応接室に向かえば――そこにはアルベルト様がいた。

 艷やかなチョコレート色の髪、宝石のような深緑色の瞳。だが、美しい顔には疲労の色が濃く、最後に会った時よりずっとやつれていた。まだ意識がなかった頃の方が血色が良かったぐらいだ。

 驚く私を見た途端、アルベルト様が目を見開き――不意に泣き出しそうな顔をした。

 初めて見る表情だった。

 かつてのアルベルト様でも、冷たい目で私を見つめたアルベルト様でもない、安堵と喜びと憔悴が入り混じる、あまりにも無防備な姿。

 何故そんな顔をするのか分からないまま、私は冷静を装って立ち竦む彼に着席を勧めた。


「お会いするのはお久しぶりですね。お元気でいらっしゃいましたか?」


 穏やかに微笑みながら言えば、アルベルト様の表情が強張る。

 私が家を出たのは半年以上前だが、アルベルト様と顔を合わせたのは1人でシュトラウス侯爵家を訪ねたあの日が最後だ。

 それ以降では初めて顔を合わせることとなる。


「私がこちらに滞在していることはどなたからお聞きになりましたの? 両親……いえ、パトリシアかしら。ああ、あの子は元気ですか? 定期的に手紙は書いておりますけれど、あまり返事が来なくて。きっと結婚の準備で忙しく――」

「フレデリカ」

 

 私の言葉をアルベルト様が遮った。

 アルベルト様は酷く青褪めた顔をしていた。目の下の隈が濃い。ろくに眠れていないのだろう。

 それきり応接室に沈黙が落ちる。重い沈黙だった。漂う空気が質量を持ち、呼吸すら重くしている感覚。

 頭の片隅に巣食う違和感が徐々に確証を持ち始めた頃、アルベルト様が重い口を開いた。


「……思い出したんだ……すべて……」


 その言葉に瞬く。

 沈黙したままの私に焦れたように、アルベルト様が身を乗り出した。


「記憶が戻ったんだ……!」


 記憶が戻った。

 その言葉を口の中で転がす。

 違和感が確証になるのと同時に、アルベルト様の顔色の悪さの理由を何となく察した。


「昔のことも、君のことも、記憶を喪っていた時のことも、全部思い出したんだ……!」

「それは、いつのことですか?」

「……つい、先日だ」


 項垂れながらアルベルト様が小さな声を絞り出す。

 よくよく聞けば、パトリシアとの結婚式の段取りを話し合ってる最中に突然、記憶が蘇ったらしい。周囲が私との結婚式の内容を一部流用しようと提案した時、記憶を取り戻した、と。皮肉なことだ。

 そして、アルベルト様は自分の周囲を取り巻く環境の変化――主に婚約者のすげ替え――を知り、居ても立っても居られず、私の居場所を聞き出して飛んできたらしい。

 

「すまなかった、フレデリカ。僕は君になんてことをしてしまったんだろう……。誰よりも僕を気遣い、心を砕いてくれた君に心ない言葉を掛けてしまった。君はずっと僕を心配し、記憶を取り戻そうとしていてくれたのに……!」


 アルベルト様が頭を抱える。

 その取り乱しようからして、彼は私に対しての行いを思い出し、そして打ちのめされたのだろう。

 10年間、婚約者であった私を拒絶し、妹のパトリシアとの結婚を望んだ自分の浅ましいとも言える望みを。

 憔悴しきったアルベルト様の懺悔に耳を傾けながらも、私の心は不思議と凪いでいた。以前のように胸が痛むこともない。

 今にも床にひれ伏しそうなほど項垂れる彼に微笑みかける。


「お気になさらないでください。アルベルト様のせいではございませんわ。私が……やり方を間違えてしまったのです。婚約者として貴方と向き合わなければいけなかったのに、私は過去の貴方に固執してしまった。記憶を喪ったアルベルト様を尊重できなかった私の不徳です」

「いや、君は何も間違ってない。間違ってなんていないんだ……。誰だって大切な人の記憶がなくなったら元に戻って欲しいと願う。それが当たり前だ。その人の中にある記憶を全部引っくるめて、その人自身になるんだから」


 その通りだ。けれど、私は首を横に振る。


「記憶があろうとなかろうと、アルベルト様はアルベルト様でした。……アルベルト様はよく仰っていたでしょう? 歴史のお話しをする時、『過去の歴史があるからこそ今の時代がある』と。それと同じことです。過去と今は地続きで、記憶だって同じこと」


 記憶は人の歴史。

 忘れてしまっても決してなくなりはしない。その記憶を上書きしながら人は生きていくのだ。

 全部忘れてしまったからといって、その人自身の価値が失われるはずがない。


「私は過去の幸せにしがみつき、記憶を喪ったあなたのことを受け入れることができなかった。人として未熟だったのでしょう。……でも、パトリシアは違った」


 その名を口にした途端、アルベルト様の肩が強張った。

 私は微笑みを絶やさない。


「パトリシアのこと、幸せにしてくださいね。あの子は私の愛する可愛い妹ですわ」

「フレデリカ、僕は……」

「あの子はあなたを慕っております。少なくとも私にはそう見えます。……それに、あの子を望んだのは他ならぬあなたですもの」


 目を覚ました時、家族の話をした時、最後に会った時。

 アルベルト様の視線の先には常にパトリシアの姿があった。

 無邪気で純真なパトリシア。可愛い可愛い私の妹。

 無意識であれ何であれ、彼女に惹かれるのは当然のことだったのだろう。あんなにも愛らしい存在に心を奪われるのも仕方がない。

 それが記憶を喪った後であっても――前であっても。

 アルベルト様の顔色は酷いものだった。ここに来た時よりも更に血の気が引いて白に近い。

 私は穏やかな微笑みを崩さないまま、そっと揃えた指先を応接室の扉へと向けた。


「どうかお元気で。パトリシアによろしくお伝えくださいませ。結婚式、楽しみにしておりますわ」

「フレデリカ……」


 嗚呼、どうしてあなたが泣きそうな顔をするのかしら?

 まるで捨てられた子供のよう。信じていたものに裏切られたとでも言うようね。


 でもね、アルベルト様?

 先に本心を晒したのは、あなたの方よ?


「君は、僕を……愛していた?」


 アルベルト様の声は弱々しかった。

 その問に答えることはせず、私は微笑みながら使用人を呼ぶためのベルを鳴らした。









 屋敷の前に止まっていた馬車の車輪が徐々に遠ざかっていく。

 その音を応接室の中で聞きながら、私はゆっくりと立ち上がった。そのまま屋敷の玄関から外に出る。

 海の見える丘の上にあるレーニア様の屋敷は貴族のものにしては少し小さいが、小ぢんまりとした庭は綺麗に手入れされ、季節の花々が咲いている。少し歩けば民家があるが、それ以外は見晴らしのいい緑の丘だ。

 その丘の一番高い場所――海がよく見える場所を目指し、私は足早に歩を進めた。

 丘を吹き抜ける風が頬を撫で、海風と混ざって髪をさらっていく。舞い上がる髪を押さえながら必死に目を凝らせば、海岸に沿った眼下の街道を1台の馬車が駆けていくのが見える。

 王都へと続く道を駆ける馬車。見慣れた白い箱馬車は、まだ明るい陽を照り返してほんのりと輝いていた。

 街道を走り去る馬車が見えなくなるまで見送って、視界から完全に姿を消した瞬間、私はその場にへたり込む。

 柔らかな草が肌をかすめ、潮の香りが鼻腔を満たす。慣れ親しんだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら、私はそっと目を閉じた。


 ――後悔はない。これで良かった。心からそう思う。


 それでも立ち上がる気力が湧かず、地面に座り込んだまま視線を上げれば、輝く海の碧が目に飛び込んできた。波が打ち寄せる度にキラキラと輝く光景はこの世の全ての宝石の輝きを詰め込んだようで、とても美しかった。

 言葉では表し難い美しい光景をぼうっと眺めていると、不意に背後で草を踏む音が聞こえた。


「失礼、お嬢さん。どこか具合でも……?」


 ゆっくり視線を向けると同時に声の主が息を呑む。いつの間にか傍に立っていた見知らぬ青年は私の顔を見て目を丸くしていた。

 回らない思考のまま、知らない人ね……などと思っていれば、慌てた様子で青年が懐を探り、ハンカチを差し出してきた。


「その、余計なお世話かもしれませんが……。何か悲しいことでもありましたか?」


 そう言って差し出されたハンカチは目の覚めるような青色で、縁に白い刺繍が施されていた。それがまるで海のようだった。

 そんな場違いな感想を抱きつつ、意味が分からないままハンカチと青年の顔を交互に見つめ、そこでようやく、自分が泣いていることに気がつく。

 ぽろぽろと頬を伝っていく涙を指で拭うと、何だか無性におかしくなってしまった。


「いいえ。……悲しいことではありませんわ」


 差し出されたハンカチを有り難く受け取って、私は心からの微笑みを浮かべる。


「今、とても晴れやかな気分ですの」


 その言葉を後押しするように、澄み切った海風が私の傍を吹き抜けていった。





〈完〉


お読みいただきありがとうございました。

一人称視点の話を書いてみたく、出来上がった物語でした。明確な悪人のいない悲劇です。

フレデリカの内面を重視しているため、ざまぁが目的ではありませんが、楽しんでいただけましたら幸いです。

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