灰とダイヤモンド MLB選手 ジム・ジェンタイル
ジム・ジェンティルは駆け出し時代にブルックリン・ドジャースの一員として来日経験があり、その時の活躍ぶりが記憶に残っているオールドファンもおられるかもしれない。それだけに、再来日の時は大きな期待を寄せたと思われるが、歳月はゴールデン・ジムにも残酷だった。
昭和四十四年、元オリオールズの四番打者という金看板を背負って近鉄バファローズに入団しながら、ほとんど代打専門だったジムタイルという選手を覚えておられる方はかなり年配のプロ野球ファンに限られるだろう。
しかし、ジムタイルの記憶がなくとも、リアルタイムでこの時期の野球を観戦した方々にとって、昭和四十四年の近鉄はひときわ印象深かったはずだ。
近鉄といえば長年最下位が指定席のパ・リーグのお荷物球団だったが、昭和四十三年に「魔術師」三原脩が監督に就任するや、まるで魔法がかかったかのように勝ち始め、開幕からしばらくの間はリーグの首位を走っていた。
この年は最終的には息切れして五位に終わったものの、翌四十四年は、本気で優勝を狙った三原の思惑どおり終盤まで阪急とデッドヒートを繰り広げ、球団創設初の二位(阪急とは2ゲーム差)に躍進した実り多い一年だった。
エースの鈴木啓示と四番土井正博の働きは想定内としても、三番に抜擢された二年目の永淵洋三が首位打者を獲得したのはファンにとっても驚きだった。水島信司の漫画「あぶさん」のモデルとされる永淵は、ユニフォームから酒の臭いが漂うほどの飲んだくれだったが、三原魔術によって一流打者となった。
この永淵、土井に続く勝負強い五番として期待されたのが、メジャー有数のクラッチヒッターとして一時代を築いたジムタイルだった。当面のライバルである阪急の四番スペンサーを凌ぐメジャー実績を誇るジムタイルが、三原が大洋時代に採用したディック・スチュアート程度の数字を残せさえすれば、ペナントは近鉄のものという目算だったが、この目論見は大きく外れた。開幕戦で五番スタメンに入ったジムタイルは、この試合で故障のある両膝を痛め、開幕二試合目からは代打でしか起用できない事態に陥ったのだ。
「期待外れの害人」のレッテルを貼られたジムタイルは、次第に陰の薄い存在になっていったが、五月十八日の阪急戦で前代未聞の珍事の主役として珍プレーの歴史にその名を刻む存在となった。
二回表、久々にスタメン登場したジムタイルは阪急のエース、足立光宏から先制のソロホームランを放ったが、一塁の手前で足の肉離れを起こし、代走に出た伊勢孝夫が代わりにベースを一周しホームを踏んだ。このため、記録上の得点はホームを踏んだ伊勢に与えられ、この試合のジムタイルは本塁打1、得点0となった。
本塁打の代走は日本プロ野球初の珍事だが、上には上がいるもので、メジャーでは二〇一〇年五月二十九日のエンゼルス対マリナーズ戦で、十回裏にサヨナラ本塁打を放ったエンゼルスの主砲、ケンドリス・モラレスが喜び勇んでジャンプしてホームインした際、着地でバランスを崩して右足骨折の重傷を負っている。モラレスはこの怪我が元で翌シーズンを棒に振っており、メジャー唯一の自爆ホームインという珍記録にその名を刻むことになった。
結局ジムタイルは復帰試合で再び故障し、近鉄では六十五試合の出場(スタメンは十二試合)に留まった。ただし、全二十二安打(八十六打数)中、本塁打は八本とバットに当たった時のパワーはメジャー級だったため、相手投手からは必要以上に警戒され、出塁率は首位打者の永淵とほとんど変わらない三割七分三厘に達した。
ジムタイルがもう少し活躍していれば、近鉄はこの年に初優勝していたかも知れない。
何といってもネーミングが悪すぎた。ジム・ジェンタイルの姓と名をくっつけて登録名がジムタイルというのはひどい。まるでタイルの製造メーカーのようだ(正式な発音はジェンティルだが日本ではジェンタイルと表記された)。いくら外人の名前が呼びにくいからといって、これはないだろう。
南海のドン・ブラッシンゲームが「ブレイザー」(MLBでの登録名)というのは本名よりも格好いいし、阪急のゴーディー・ウィンドホーンの「ウインディ」だってそうだ。二人とも洒落た登録名のおかげかどうか、所属チームの優勝に貢献し、日本球界との縁も深かった(在日期間はブレイザー七年、ウインディ六年)。
余談ながら三原脩は近鉄を退団後、ヤクルトアトムズの監督に就任した際にもジョー・ペピトーン(元ヤンキースの五番打者)という史上最悪の外国人選手を引き当ててしまい、外国人にはあまりツキがなかった。
このへんでジムタイルことジム・ジェンタイルがスターだった頃に話を戻そう。
ジェンタイルが高校卒業後にドジャースとマイナー契約を結んだのは一九五二年のことで、投手としての契約だった。
投手としては二勝六敗と冴えなかったため、翌年からは打力を生かすために一塁手にコンバートされ、1Aで二割七分〇厘、三四本塁打を打った。この時まだ十九歳だった。
一九五六年には2Aで二割九分六厘、四〇本塁打、一一五打点の好成績を収め、ドジャース来日の際に同行している。この時点では2A所属の選手であったため、日本でも全く無名だったが、出場十六試合で五十一打数二十四安打十九打点六本塁打と大当たり。スナイダー、キャンパネラといったメジャー屈指の長距離砲が霞むほどのパンチ力を見せつけた。
これほどの活躍をもってしてもメジャーは甘くない。日本人投手との対戦などエキジビション同然の扱いしか受けず、翌年もずっと3A暮らし。メジャーで起用されたのは四試合だけだった。
ドジャース時代は一塁にギル・ホッジスという強打者がいたため、一塁しか守れないジェンタイルには出る幕がなかったが、一九六〇年にオリオールズに移籍してからは正一塁手に定着し、まだ新人王の資格を有していたこのシーズン、二割九分二厘、二一本塁打、九十八打点とようやく本来の実力を披露することができた。
ヤンキースのMM砲のアーチ競演が日本でも話題になるほどの盛り上がりを見せた一九六一年、ア・リーグ第三の男として随所で印象深い本塁打を連発したのがジェンタイルだった。
五月九日、観客わずか四千五百人と閑古鳥が鳴くミネソタ・メトロポリタン球場で、ジェンタイルはツインズ対オリオールズ戦というBクラス争いのゲームにわざわざ足を運んでくれたファンのためにワンマンショーを繰り広げた。
初回、いきなりノーアウト満塁でジェンタイルの打席が回ってきた。カウントツーストライク・ノーボールからペドロ・ラモスが投げたのは顎のあたりをかすめるようなボール球だった。ラモスはもう一球、内角高めの際どい球で身体を起こすつもりだったが、コントロールミスでジェンタイルのアッパースイングの餌食となった。
バックスクリーンに飛び込む推定飛距離一三〇メートルの満塁本塁打は、まだこの日の序曲だった。
二回表、またしても満塁でジェンタイルの打席が回ってきた。ラモスはこの回途中で降板し、ポール・ギーエルがリリーフ立ったが、ジェンタイルの二打席連続満塁本塁打を浴びて轟沈した。
一、二打席連続の満塁本塁打はメジャー史上二度目の記録だった。
ジェンタイルはさらに犠牲フライで打点を稼ぎ、一試合九打点の球団記録を樹立した。
ジェンタイルは前年に一一二安打で九十八打点、この年は一四七安打で一四一打点を稼いでいるように安打一本あたりの打点が非常に高いことから、「ダイヤモンド・ジム」というゴージャスなニックネーム(価値が高い選手という意味だろう)で呼ばれていたが、この記録ラッシュでさらに波に乗り、年間満塁本塁打五本というカブスのアーニー・バンクスが一九五五年に記録したメジャー記録に並んだ。なお、この記録は一九八七年にヤンキースのドン・マッティングリーが六本打って更新し、今も破られていない。
MM砲のどちらがベーブ・ルースの六〇本塁打を破るかが注目されている中、ジェンタイルも話題性たっぷりの一発を量産し、本塁打こそマリスの六一本、マントルの五四本には及ばなかったものの、好機に強く、マリスと打点王を分け合っている(シーズン成績は三割二厘、四六本塁打、一四一打点)。
ところが、当時は本塁打競争に話題が集中しすぎていたせいか、誰一人マリスの打点集計にミスがあったことに気付かず、公式記録が一四二打点となっていたため、ジェンタイルは一打点差で無冠に終わっているのだ。
古い記録の再集計が行われるようになったのは近年のことで、マリスの打点集計ミスが発覚したのはマリスの死後、二〇一〇年のことだった。
もっともマリスの二冠とMVPは変わらないので問題はないが、ジェンタイルが存命中に改めて打点王に認定されたのは幸いだった。やはりメジャーの主要打撃タイトルは人生の勲章だからだ。
同時にもう一つジェンタイルに嬉しい知らせがあった。オリオールズから五千ドルのボーナスが支払われたのだ。
当時、オリオールズはクラッチヒッターであるジェンタイルと、打点王を獲得した場合に五千ドルのボーナスを追加支給する契約を結んでいたからである。五十年も経てば法的効力はないのかもしれないが、球団はかつての功労者に粋な計らいを見せた。
一九六二年度の年俸は前年の功績によって三万ドルに倍増し、三年連続出場となったオールスターでも初のスタメン一塁手に選ばれた。本塁打は三三本に減ったが、これは他チームからの警戒が厳重になった表れでもあり、十六回の敬遠はリーグトップだった。
一九六六年からはメジャーとマイナーを行き来するようになったが、さすがにマイナーリーグではダイヤモンド・ジムのオーラが成せる業なのか、一九六六年の3Aでの成績は打率二割六分七厘に対し、出塁率は四割四分七厘、一九六七年も二割三分六厘の低打率にもかかわらず出塁率は四割五厘と高かった。
来日前の三年間の3A時代は、安打数より四死球の方が多いという有様で、いかに投手が勝負を避けていたかがわかる。
ジェンタイルが日本行きを承諾したのは、初来日時に大活躍し、野球誌のインタビューを受けるなど、マイナーリーガーでありながら、本国では経験したことがないほど注目を浴び、厚遇されたことがよほど忘れがたい思い出として記憶に焼き付いていたからなのだろう。
ゲンの良い日本でもう一花と思いきや、ダイヤモンドは燃え尽きて灰になっていた。
終身打率 二割六分〇厘 一七九本塁打 五四九打点(実働九年)
ジェンティルはメジャー昇格前の選手であるにもかかわらず、連日素晴らしい活躍を見せたこともあって、主力選手との座談会に招かれたり、インタビューを受けたりと、アメリカでは想像がつかないほどの歓待を受けた。どんな家に住んでいるか、という質問に対するジェンティルの答えがふるっている。サンフランシスコの、風呂が二つある七部屋の家に住んでいる、とのことだが、マイナー選手なのにセレブ並みなのは、もしかして金持ちのぼんぼんだったのだろうか。ちなみに九十歳を超えた今もサンフランシスコに健在である。