七夕
七夕は「棚機」とも表記しました。
女子の技巧向上や男子の詩歌の技術向上を願って行われる行事で、神話の神々も機織りをしています。
現在は笹に願い事を記した短冊を下げる風習となりましたが、古くは梶の葉に願い事を詩歌にして記したり、五色の糸をヒサギの葉に刺した針穴に通したりしたようです。
七夕祭りには「七」に関連した物事を行い、七つの遊戯や七首の短歌、七連の詩歌などと趣向を凝らして夜通しで遊ぶのが通例でした。
七夕は「星合いの祭り」とも称されて、牽牛星と織女星が無事に再会することを観賞する祭りでもありました。
さて機織りが重要性を帯びているのは、獣と違って人は服を着用するところから、衣服が文明の証と思われていたからでしょう。
衣服の重要性は、その色彩と文様にもあります。
古代中国では階層に応じて着用できる衣服の色彩と文様が決められており、その制度は我が国にも律令制と共に導入されています。
推古朝で導入された冠位制度も位階に応じた色分けがされており、その風習は現代でも武道に於ける帯の色彩などに受け継がれております。
また禁色と呼ばれる色彩は、天皇陛下しか着用が認められない高貴な色彩として指定されており、その規定は現代でも通用しています。
文様に関しては、中国では階層に応じて使える文様が決まっていましたが、我が国では特定の文様以外は割と融通が利いたようです。
また江戸幕府による服制の規定は衣服の色彩と文様と共に、その素材についても身分によって統制されていました。それを更に各藩が細かく定めており、家紋の大きさや位置まで規定されていたようです。
服飾の歴史は人類文明の歴史でもあります。
西洋では聖書に記載された人類の始祖が知恵を付けてから裸体を隠すようになり、それが神の怒りに触れた描写に繋がります。
衣服の着用が文明人と野蛮人を分ける点であり、衣服の色彩や文様、形式などで着用する人物の社会的な地位を表現していました。
そうした文化的に重要な役割を担う衣服を作製する技術が途絶えないように、七夕の行事は続いて来たのでしょう。
我が国の歴史でも律令制以前には服部という衣服専門の職能集団が存在し、律令制では織部司、縫殿寮という役所が存在しました。
織部司は織物を生産する職人を管理する部署で、各地へ吏僚を派遣して機織りの技術指導を行いました。
縫殿寮は女官が務める部署で、宮中用の衣服を生産しています。平安時代の後半には衰退して廃絶します。縫殿寮に付随する糸所は現代でいうところの紡績を行う部署でした。
平安時代の初期頃までは朝廷が管理していた織布の生産や染色技術も、地方において独自の進化を始めます。その顕著な事例としては応仁の乱で散った染織技術者が、乱の終結後に東軍や西軍の本陣跡地へ集結して、京織物の再興に着手した頃に発するでしょう。
今でも西陣織は我が国最高峰の織物です。
この西陣織の技法を採り入れて発展したのが丹後ちりめんです。
丹後ちりめんは十八世紀前半に生産が始まります。調べていて気付いたのですが、時代劇で諸国漫遊をしていた某ご老公が「越後のちりめん問屋の隠居」と名乗りますが、丹後ちりめんの開発はこの某ご老公が亡くなった二十年後ですので、設定に無理があるのではないかと思います。
ところで西洋でも織物文化は古代ギリシア以前からあり、ギリシア神話では女神と織物の技術で競い合った女性が登場します。
女神も感嘆するほどの腕前でしたが、織り出した題材が神々を嘲弄する内容であったために女神の怒りを買い、彼女は糸を紡ぎ出す動物、蜘蛛に変身させられてしまいました。
ダンテの「神曲」では傲慢の罪を戒める事例として、彼女「アラクネ」の姿が地獄の第一階層に彫刻されています。
七夕の夜は星合いの夜ですから、牽牛星と織女星が出会うように願いました。
その様子を大伴家持は短歌として残しています。
かつては天の川に架かる橋をカササギが形成するという伝承がありました。
ただ西洋では牽牛星アルタイルと織女星ベガに加えて、はくちょう座のデネブが夏の大三角形を形作るというのは如何なものでしょうか。
デネブがカササギの役割のように、アルタイルとベガの橋渡しとなるよう願いたいものです。
みをつくし かけて渡せる カササギの 橋も渡れぬ 星合いの夜
皆さんも会いたい人がいる時は、夜空を眺めると良いかもしれません。
昔の歌に「月が鏡であったなら」という歌詞がありますが、奈良時代にも振り返った夜空に浮かぶ月を見て、故郷を思う歌が詠まれています。
夜空の向こうには、人を惹き付けてやまない、何かがあるのでしょう。
大伴家持の短歌は小倉百人一首に収録されています。
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける