激情
爆発的な怒りに対する小さな男の話
私は、着ていた運動用のウェアを脱ぎ、床に叩きつけた。
トレーニングに失敗したというわけでもなく、ただ怒りに任せて体が動き出していた。
達成感という喜びではなく、溜まっていた物がとめどなく自身の中から溢れ出たのだ。
その後、野生の動物よりも大きな声で絶叫し(いや、遠吠えだったかもしれない)、床に手をつき、四つ這いになった。
自殺を企てる瞬間というのはこういう時なのだろうと本能的に思った。
もう何もかもがどうなっても良い、そんな気分であった。
この怒りの矛先をどこへ向けるべきか、賃貸のこの部屋の中では狭すぎる。
どこか広すぎるところへ、どこかへ向かわねばならぬと決意した。
シャワーを浴びながら吠え続け、この激情の行き先を考えていた。
どこにいても私には敬意が払われない。
道化のように日々を振る舞う私は大抵笑われながら過ごしている。
職場では善い人として振る舞っているつもりだが、周囲はどこか私を小馬鹿にするかのように笑う。
精一杯、誠一杯日々を過ごす私を、笑うのだ。
その溜まっていた鬱憤がアドレナリンの放出と共に表出したのであろう。
またもタオルを床に叩きつけ、髪も乾かさずに部屋を出た。
どこか広いところへ、広すぎるところへと歩みを進めた。
私には行きつけのバーがある。そこでならきっと今の私を鎮めてくれるだろうとたかを括り、金を下ろし、酒のシャワーを浴びるかのように飲もうと思ったのである。
そこには私が世界で最も尊敬している女性が働いている。
常に人の話を聞き、不快感を与えない相槌をし、肯定してくれる。この街で医療従事者に次いで人を救う、素晴らしい女性である。
この激情した私を小馬鹿にせずに、ただ頷いてくれる、そんな存在を求めて夜の街の中へ溶け込んで行った。
当然彼女はバーにいた。いらっしゃい、と一言だけ言い、私がキープしているボトルを持ち、カウンターの席へ通した。
いつもの割り方で、一杯をグイと飲み干した。
「どうしたの、今日は。そんな無茶な飲み方しちゃダメだよ」と私を宥める。
「今日はヤバかったんだ。自分が膨れ上がっちゃって。どうしようもないと思ったんだ」
「それで来たのね、この時間に、珍しいと思ったんだ」
午前2時過ぎだ、平日で、客も私しかいない。
「髪濡れてるしボサボサじゃん、乾かさないと禿げるよ」
「今日はいいんだ、もう乾かすのすらできなかった」
「じゃあよく来たね、頑張ったんだ」
「そう、ここまで頑張りすぎたんだ」
多くを語らずとも彼女は察していた。
私は飲み干したグラスを彼女に奪われ、酒を注ぎ、いつもの割り方でまたグラスを渡してきた。
「でもお店としては酔い潰れられたら困るからね、ちゃんと歩いて帰るんだよ」
「来たばかりで帰りの話なんかしないでおくれよ、寂しいじゃないか」
「でも困るのよ、無茶に飲みすぎないでね」
熱していた体が冷えたグラスのおかげで冷めていくかのようだった。
だが熱していたものを急激に冷ましてしまうとどうなるか。グラスを落とした時のように割れてしまうのだ。
一杯飲み干しただけの私を案じて、欲しかった言葉をくれる。
その暖かさで涙腺が緩んで、少し泣いた。
ただ、激情だけは生きていた。
ドロドロとふつふつとただ言葉にできない怒りを、酒に溺れていく自身の愚かさと共に私は涙しながら彼女にとめどなく言語化できない思いを話し続けた。
死をイメージした一瞬を、ただ仕事で働いている彼女に打ち明け続けた。
ただただ言葉がボロボロとこぼれ落ちていった。
涙が酒に落ち、逃げ場として選んだ酒場でまた追い込まれていった。
私は弱く、小さい生き物だ。苦い酒を飲み、ただただ自身を誤魔化そうとした。
その選択をした自分の不甲斐なさでまた涙が溢れた。
死をイメージした私の言葉の一つ一つを彼女は拾っていく。
「大変だったね」
その一言が何よりの救いだった。
彼女は遠慮してどんどん薄く酒を継ぎ足していった。
「酒に飲まれることは悪くないよ、その思いでここまで来て私に話してくれてありがとう。でも、その感情だけは共感できないよ。私はまだ生きるし、楽しみたい。死にたいなら今一度自分を殺して、これから先は死後の世界の余暇として過ごせばいいじゃない。帰り道にダンプに轢かれるかもしれない、それでもきっとその瞬間は"死ねる"安心感は訪れないと思うし、だから結局生きていくしかないんだと思う」
一つ一つの言葉が身にしみて、少しずつ激情が和らいでゆく。
ただ、消えることのないこの激情は酒で誤魔化せない。私はそう悟り、何杯目かもわからない
酒を飲み干し、チェックをした。
彼女が飲んだドリンク代と、空にしたボトル代を追加して、私はまた夜の街に足を繰り出した。
もう十二分に飲んだ。それだけだった。
慣れない紙タバコを吸い、深く吐き出して、それで今日を終わらせて寝床につこう。
そう考えていた。
ただ私の熱くなっていた心を冷やし、心という器にヒビを入れ、ひび割れた心にはもう希死念慮しかなかった。
「ああ、ここで死ぬんだ」と思い、高い欄干に足をかけ、飛び降りることを決意した。
欄干に足をかけることに躊躇いはなかった。
この激情から逃れたい。その一心だった。
酔った頭ではまともな思考ができない。
ただそれすらも凌駕するごとく、飛び降りる決意をした。
細い欄干の上に立ち、普段よりも高い位置から視界に入る全てのものを見渡した。
ネオンの消えかかったホテル、一室だけ部屋の明かりがついているマンション、そして下に広がり私を迎え入れてくれる線路。
終わりに相応しい景色だと思った。
先立つ不幸をお許しください。そんな気持ちだった。
誰かが泣いてくれればいいな。
もしくは遂に死んだか、と笑い飛ばす友人の笑顔でもいいな。
そうして自然と足を空中へ落とし、頭が下になるように落ちた。
ただ、いらない勇気を振り絞り空を飛んだ。
見事に死ねなかった。
足が重力に引っ張られるように下を向き、ただ着地した。
飛んだ。死ねなかった。
足にジンとした鈍い痛みだけが残った。
見事に着地してしまった。
絶望した、自殺未遂に終わってしまった。
四つ這いになり、吠えた。
安心感が訪れてしまったのである。
彼女の言う通りだった。
信ずる宗教はないが、神が私を止めたとしか説明がつかない状況に更に絶望した。
ジンジンとする足を動かし、また欄干まで戻った。ただ、もう一度飛び降りようという気持ちにはならなかった。
死ななかったのだからこれですら無理なのだと察した。
激情が私を悪き方向へ揺り起こした。
ただ、死ななかった。
この思いを抱え、痛めたであろう足を引きずりながら部屋へ戻り、タバコを吸った。
肺が痛くなるまで何本も何本も吸った。
そして私は、明日のことを思い出した。
明日は朝から仕事なのだ。
行かなければならない、チンケな道化として。
私は睡眠薬を過剰に摂取し、カラカラとする頭と、ジンジンする足の感覚を味わいながら、病的に眠りについた。
まもなく朝になる。夜が終わる。
日差しが差し込んでくる。
また変わらず、何事もなかったかのように、ただ、朝が来た。
死ねない、死んではならないと思い続けていた。
この感覚を誤魔化してはいけない、と思い書き連ねた。