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夏の魔法  作者: 九曜平祐
9/11

夏の魔法

 清輝と分かれて、俺はまず生徒会室に隣接する準備室へ踏みこんだ。

 生徒会室の様子を探ることもできるし、物陰も多く隠れ場所としては悪くない。

 灯台下暗しって言葉もある。

 隠れているとしたら割とこの場所を選ぶ可能性は高いんじゃないかと思ったけど、埃っぽい室内にはしばらくの間、人が立ち入った形跡はなかった。

 廊下に出ると、早くも着がえを済ませたクラスメートの一部が姿を現していた。

 軽く手だけ振って、次の目的地、保健室へ向かう。

 養護教諭がいるから、人目を避ける意味では不向きだ。

 でも逆に、「体調が悪いので休ませてください」と頼めば、自然な成り行きで匿ってもらえる。

 ベッドで横になって、走り回る俺を高みの見物……なんて、いかにも清輝が考えそうなことだ。

 けど、先生によれば、清輝は来室していないと言う。

 二つ続けてアテが外れた。

 まだたった二つと思いながらも、次第に焦りが膨らむのを感じる。

 もしかして、本当にいなくなってしまったのか。

「どこ行ったんだよ、清輝……!」

 低く唸って、廊下を走り出す。

 主のいない校長室。

 普段から鍵のかかった視聴覚室。

 空振りが重なるに連れ、どんどん気が急いていった。

 屋上へ向かう階段を上るときには、既に全力疾走の勢いだ。

「今度こそ……!」

 屋上へ通じるドアのノブに手をかける。

 鍵は開いていた。


 屋上はそう広くはない。

 貯水槽の上とかの死角はあるけど、それ以外は屋上に出た瞬間、だいたい視界に入る。

 そう遠くない位置に、フェンスにもたれて街並みを眺める金髪の後ろ姿があった。

「なんだよ、こんなとこにいたのかよ……」

 安堵に肩の力が抜ける。

 まったく、人騒がせな。さすがに今度ばかりは文句の一つも言ってやる。

 足音も荒く歩み寄り、口を開きかけた瞬間、清輝は振り向いた。

 風に髪がなびく。

「見つかっちゃった」

 いたずらがバレた子供のように微笑む。

「あのなぁ……」

 ため息交じりに漏れた声は、既に苦情や非難と呼べるような勢いを失っていた。

「連絡くらいくれよ。なにかあったのかって思うだろ」

「心配した?」

「聞く必要あるか、それ?」

「したのね」

「したよ。当たり前だろ」

 清輝はもう一度、視線を遠くに向ける。

「昔からかくれんぼって苦手なのよね」

 しまったな、「みーつけた」とでも言ってやれば良かった。そうすればきっと悔しがっただろう。

 そんな他愛もない考えが浮かぶのは、安心して余裕ができたおかげだ。

 スマホを取り出し、二号にメッセージを送って発見を伝え、事後処理を頼む。

 それが済んで、俺は軽く息をついた。

「で? どうしたんだよ」

「ちょっと考えごとをしてたの。これからどうしようかなって」

「どうって……」

「思い出したのよ」

 清輝は再び振り向いて、俺をじっと見つめる。

 なんだか思い詰めたような眼差しで、少しだけ先を聞くのが怖かった。

 それでも、ここで逃げ出すわけには行かない。

 覚悟を決めて続きを促す。

「今度はなにを?」

「自分が何者で、なんのためにここへ来たのか」

 軽い違和感を覚えた。

 目的を思い出した、それはいい。

 でも、何者もなにも、清輝は清輝のはずだ。

 まさか、この期に及んで実は天使や悪魔が化けていたとか言い出したりするつもりか。

「聞かせてくれるんだよな?」

「えぇ、もちろん。あなたには知る権利があるわ」

 ちょうどそのとき、スピーカーが校内放送の案内音を流す。

 それに続けて、ノイズ混じりでもなお耳に心地よい涼やかな声が作戦の終了を告げた。

『清輝です。手伝ってくれたみんな、ありがとう。スマホは無事に見つかったわ。お礼を言いたいからプールで待っててください』

 なるほど、と清輝は微笑んだ。

「私がスマホを失くした、という口実で皆に協力を求めたのね」

「なにしろ校舎のなかからたった一人を探し出さなきゃいけないのに、俺だけじゃまるで手が足りないからな」

「こんなことならスマホ解禁なんか公約にするんじゃなかったわ」

 肩をすくめる清輝に、俺はちらりと苦笑する。

 冗談にしてもデキが悪い。

 ただ、そのぼやきは俺の違和感への答えでもあった。

 自分が何者かとは言ったものの、こいつも清輝本人なんだ。

 だとすると、その言葉はどういう意味なのか。

 首を傾げる俺を、清輝ははぐらかす。

「ねぇ。話をする前にちょっと、校舎のなかを見て回ってもいい?」

 答えを急かしたい気持ちを抑えて俺は頷いた。

 なにか言い出しづらい理由でもあるんだろうか。

「あぁ。さっきの放送でみんな引き上げただろうし、二号もプールに行ったはずだし」

「ありがとう」

 清輝は微笑んで俺を促した。

「じゃぁ、行きましょう」


 最初に向かったのは俺達の教室だった。

 清輝は真っ直ぐ自分の席へ向かい、椅子に座って黒板を眺める。

 その目はなにかを懐かしんでいるような色に見えた。

「ぺーとは、あまり近くの席になれなかったわね」

「最初は前と後ろだったろ」

 入学してすぐの教室では、席が出席番号順に決まっていた。

 三年に進級したときもそうだ。

「それだけじゃない」

「まぁ、そうだけど。こんだけ人数がいれば席が近くになる確率も下がるのはしょうがない」

 席替えの度、近くになれるといいなと思う顔触れのなかに、もちろん、清輝は含まれていた。

 でも、あいにく俺はクジ運がそれほど良くなくて、清輝とは隣はおろか、近くと言えるようなポジションになれたことさえ数えるほどだ。

 そしてそんなこと、清輝はなんとも思っていないだろうとも思っていた。

 でも今、「なれなかった」と言った。

「なりたい」と思ってなきゃ出てこない言葉のはずだけど、意識しすぎだろうか。

「教科書を忘れて隣の人に見せてもらうとか、やってみたかったのよね」

「……忘れたことないのかよ」

「見せたことならあるんだけど」

 間接的な返事に俺はまじまじとその美貌を見つめてしまう。

 毎日学校に通っていれば忘れ物の一度や二度、誰だってすると思うけど、清輝にはその覚えがないらしい。

「ほら、私、目立つでしょ? だから、忘れ物とかすると、からかわれたりしたのよね。それがイヤで、学校の準備は入念にするクセがついたの」

「あぁ、そういう」

 俺は苦笑交じりに頷いた。

 気になる女の子につい意地悪をしてしまった記憶は俺にもある。

 今の自分が大人だとは思えないが、小学生の頃はさらにガキだった。

 当時のことを振り返ると恥ずかしくて身悶えしそうだ。

「お人形さんみたいだって評判の美少女だったし、しょうがないわね」

「自分で言うなよ」

「事実だから」

「はいはい」

 例によってのナルシスト発言を適当に受け流し、俺は教室を見渡した。

 清輝がなんだか感傷めいたことを言うのは、日本を離れるつもりだという決意と関係しているんだろうか。

 俺はまだそういう気持ちが湧かない。

 卒業が迫ってきていることはわかっていても、まだ半年以上先だ。

 修学旅行という一大イベントも控えているし、生徒会の最後の大仕事、文化祭も残っている。

 先生達は「受験まであっと言う間だぞ」なんて危機感を煽るけど、その前にやることが山積みだ。

 受験にしろ卒業にしろ、話はその後になる。

「今度わざと教科書を忘れてみたらいいんじゃないか? 隣のやつに頼めば喜んで見せてくれるだろ」

「今度の席替えで、ぺーの隣になれたら考えるわ」

「……前言撤回。忘れ物は良くないな、うん」

「あら、イヤなの?」

「絶対、冷やかされるから」

 特別な関係ってわけではないにせよ、清輝に割と近い位置にいるという点で、俺はそういうやっかみ……までは行かなくとも、うらやましがられることのあるポジションではある。

 ちょっとしたきっかけで、からかわれたことも何度かあった。

 余計な憶測を招かないよう平然を装って受け流すのも、割と気を使う。

「美しさって罪ね」

 清輝は片手で髪をかき上げながら含み笑いを漏らした。

「そういうこと平気で言える神経の太さがうらやましいよ」

「でも、今なら誰も見てないわよ」

 そう言って清輝は自分の机を隣の机とくっつける。

 そして、そこに座れと言うのだろう、目配せをした。

 一応、指摘する。

「そこ、俺の席じゃないけど」

「ちょっと貸してもらうだけよ」

 なにか意味のあることとも思えないけど、変に意地を張って突っぱねるほどのことでもない。

 俺は清輝の隣に腰を下ろした。

「教科書なんか持ってないぞ」

「私もよ。……代わりに、これで」

 清輝は取り出したスマホを俺に示した。

「なんだよ、持ってるなら連絡してくれよ。それこそ、失くしでもしたのかと思ったのに」

「使えなくなっちゃったの。もう一人の私もループしたから、割り込めなくなったのね」

「えっ、そうなの?」

 画面をのぞきこむと、ネットワークに接続できない旨のエラーメッセージが表示されている。

 電波も圏外扱いになっているようだ。

「なるほど、これじゃ連絡しようにもできないか」

「えぇ。下手に動き回ってもう一人の私と鉢合わせするのも避けたいから、身動きが取れなかったのよ」

 清輝は言いながらメッセージ入力画面を開いてスマホに指を滑らせた。

「ありがとう>>ぺー」というメッセージがつづられる。

「……なにに対して?」

「いろいろ」

 肩が触れ合うような距離でそれ以上直視してもいられなくて、俺は曖昧に頷きながら目を逸らす。

 清輝はクスッと笑って立ち上がった。

「次はどこへ行くんだ?」

 尋ねつつ、借りた机と椅子を元の位置に戻す。

「そうね、ここからだと音楽室が近かったんじゃない?」


 特別教室を一通り回り、図書室や職員室、保健室にまで顔を出す。

 最後に腰を落ち着けたのは、やはりと言うべきか、生徒会室だった。

「お茶を入れましょう。ジャンケン、」

 拳を振り上げた清輝を、手を挙げて制止する。

「さっき湧かしたお湯が残ってるはず。カップだけ洗ってきたら?」

「じゃ、そうさせてもらうわ」

 清輝が席を外している間にティーバッグを用意し、スマホに着信がないことを確かめる。

 今頃、もう一人の清輝は打ち合わせの通り、プールで泳いでいるはずだ。

 本当なら、このタイミングで声をかけるべきなんだろう。

 今回の件では、あいつが一番の被害者だ。

 服を脱がされ、ループに巻きこまれ。

 まぁ、被害者という点では俺も同じようなものだけど、制服消失事件に関しちゃ加害者の側だから少し立場が弱い。

 だから、なにがどうしてどうなったのか、説明を求める権利は誰よりあいつにある。

 だけど、俺が先に話を聞いておくほうがいい。

 いや、聞いておきたい。

 理屈としては、清輝と清輝が直接対決となれば今までより異常事態の度合いが一段跳ね上がるわけで、それは状況の解決という目的を余計に難しくしてしまいかねない……ということになるだろうか。

 ただ、それは後付けで、まず俺達の間で話をまとめたいという気分が強い。

 事件解決のため一緒に動いてきた分だけ、仲間意識みたいなものがある。

 悪いとは思いながら、連絡を取らないままスマホをポケットにしまった。

 それから自分の紅茶をいれている間に清輝が戻ってくる。

「よろしく」と差し出されたカップにお湯を注ぎ、ティーバッグを入れて返した。

 両手を添えたカップに目を落とし、清輝はしばらく黙っていた。

 俺は急かしたい気持ちを抑えて、紅茶をすする。

 やがて清輝はゆっくりと口を開いた。

「私、未来から来たの……って言ったら信じてくれる?」

 声音は落ち着いているけど、内容はとんでもなかった。

 俺は教室に続いて、まじまじと清輝を見つめてしまう。

 こんな状況じゃなかったら笑い飛ばしただろう。

 でも、次々と起こった不思議な現象を思えば、真剣に応じざるを得ない。

「それは……えーと、タイムマシンに乗って過去にやってきたネコ型ロボット的な?」

「そうね。便利な道具は持ってないけど」

「時間を止めるアプリなら持ってただろ」

「そう言えばそうだったわ」

 清輝はクスクスと笑って、紅茶を一口含む。

「未来って、何年後?」

 当然の問いに、清輝は軽く俺を睨んだ。

「ダメよ、ぺー。女性に年齢を尋ねるなんて、マナーが悪いわ」

「そう言われても、今の清輝と外見的には全く同じだろ?」

 少なくとも俺には見分けがつかない。

「それで未来から来たって言われても、ピンと来ないよ」

「世界って、融通が利かないのよ」

 清輝は苦笑して肩をすくめた。

「『この日、この時の清輝鳳華は中学三年の女の子じゃなくちゃいけない』って決めつけて譲らないの。それで『私』の姿や記憶まで当時そのままに戻されちゃったみたい」

「……そう言えば最初、断片的な記憶がどうとか言ってたな」

「えぇ。私本来の記憶がかなりの部分、制限されて、『中学三年生、夏休みの清輝鳳華』が持っている内容に近づけられていたのね」

「そんなことができるとしたら、神様くらいのもんじゃないのか」

「そうね。いわゆる神様とはちょっと違うけど、そういう超自然の……規則とか決まりとか、そういうものがあるって解釈でいいと思うわ」

「……すまん、まだよく飲みこめないんだけど、清輝はその規則だか決まりだかをねじ曲げて、過去に戻ってきたってこと?」

 俺の確認に清輝は鮮やかなウィンクを決めてみせた。

「私、ルールを変えるのって得意だったでしょ?」

 思わず天を仰いで嘆息する。

「スマホの持ち込み禁止って規則と、この世の原理原則みたいなものを同列に語るのは、乱暴だろ……」

「理不尽な決まりという意味では似たようなものよ」

 物事の性質という意味ではそうなのかもしれない。

 でも、それを変えようとする難易度は全然別物になるはずだ。

 それとも、

「未来では、過去の改変はそんな気軽にできるちゃうような事柄になるのか?」

「それは、ぺーが大人になったときのお楽しみ、ってことにしときましょう」

 楽しげに笑う清輝は、時を越えて過去に戻るなんて離れ業について語っているとは思えない、気楽な調子だ。

 それは、今と全く同じで。

「実際は何歳なのか知らないけど……」

「今の私はピチピチの中学三年生よ♪」

 思わずジト目でツッこむ。

「中学三年生の女の子は自分のこと『ピチピチ』とか言わないから」

 グッ、と清輝は言葉に詰まった。

 減らず口の叩き合いで一本取れるなんて、珍しいこともあるもんだ。

 年上という、いじりやすい特徴をさらしてくれたおかげか。

 とはいえ、それほど実感はできない。

「なんか、精神的にあんま成長してないような?」

「人間の本質はそう変わらないものよ。少なくとも私の場合は」

「……いつまでも若々しい、ということにしとこうか」

 多少の配慮を交えたコメントに、清輝は傷ついたような顔をする。

「そこまで言われるほどの年齢じゃないのよ?」

「ピチピチの中学生だからな」

「もう……。ぺーってそういう人だったわよね、本当」

「口が悪いって自覚はある」

「改めたほうがいいわよ」

「お互い様だろ」

 俺達は顔を見合わせ、盛大に噴き出した。

「そうそう、この感じよね。懐かしいわ」

 笑いすぎたのか目尻を拭いながら、清輝は頷く。

「懐かしいって感覚はないけど、清輝とのやりとりはいつもこんな感じだな」

「はるばる時間を超えて旅をしてきた甲斐があったわ」

「……なんのために? まさか、俺と茶飲み話をしに来たわけじゃないんだろ?」

 時間をさかのぼるという物語は、いくつか知っている。

 ハプニングの場合もあるし、なにか目的がある場合もある。

 後者ならたいてい、未来を良くするために過去の改変を試みる……という展開だ。

 そしてそれは、結構な騒動を引き起こす。

 重要人物の殺害、なんて物騒な使命を帯びている場合もしばしばだ。

 さすがに清輝はそこまで深刻な狙いは持っていないと思うけど、意図的に戻ってきたパターンのようだから、対応には注意する必要があるかもしれない。

 俺の緊張の理由を見抜いたのだろう、ことさらに軽い調子で清輝は手を振った。

「心配しないで。そんな大それたことを目論んでるわけじゃないから」

「うん、まぁ、清輝のことだから、しょうもない理由じゃないと思うけど」

「むしろしょうもない理由よ。人類のためとか未来のためとか、そんなご立派なお題目は抱えてないわ。極めて個人的な、ちょっとした感傷みたいなものよ」

 俺は無言のまま先を促す。

 清輝はわずかに目を伏せた。

「少し違う結末を見てみたい……それだけなの」

「違う結末?」

「ぺーだって、今までに自分の選択を後悔したことはあるでしょ?」

「山ほどあるよ」

「やり直してみたいと思わない?」

「思わないと言えばウソになるかな。でも、過去を変えると未来も変わっちゃうんだろ? だから過去を変えちゃいけない、なんて言うんだっけ……」

「タイムパラドクス?」

「そう、それ」

 清輝は小さく頷いた。

「過去を変えても未来は変わらないわ。やり直すことはできないの」

「え……。でも清輝、時間をさかのぼってきたんだろ?」

「えぇ。でも、今ここでなにをしても、私の世界に変化はないわ。実際、中学生のときの私の記憶に、未来の自分が登場した事実はないし」

「それじゃぁ……」

「過去を変えると、その改変に応じた新しい世界ができるのよ。私の世界とは、少しだけ違う世界」

並行世界(パラレルワールド)ってやつ……?」

「えぇ。あなたは、私の世界のぺーとはちょっと違う未来を見るはずよ」

「ちょっとって、どれくらい?」

「それはあなた次第。もしかしたら、私の話を聞いたあなたは生涯を研究に捧げ、タイムマシンを作り出してしまうかもしれない。でも夏休みに未来の清輝鳳華と出会ったことを思い出のなかにしまって、何事もなかったかのように人生を送るかもしれない」

「それじゃ、清輝が見たい結末って言うのは……?」

「内緒」

 清輝は人差し指を唇に当て、片目をつむってみせる。

 俺は思わず食ってかかった。

「そりゃないだろ。ここまで話したんだ、なにが望みか言ってくれよ。俺にできることなら協力するからさ」

「えぇ、あなたならそう言ってくれるわよね。だから私はなにも言わないの。私のせいで、あなたの未来をねじ曲げたくないから」

「……既にねじ曲げられた気が……」

「少なからず影響はあるわね。ごめんなさい」

 清輝は頭を下げ、それから真剣な眼差しで俺を見つめる。

「でも、私になにか言われてその通りにするあなたっていうのは、私が見たい結末じゃないの。だから、お願い。聞かないで」

「……ずるいぞ、それ」

 俺がぼやくと、清輝は人の悪そうな笑みを閃かせた。

「私がずるい人間なのは知ってるでしょ?」

「いや、知らない」

 言い合いとかじゃなく、単なる事実として、そしてなにより清輝の名誉のために、俺はその発言をきっぱり否定した。

「短所はいろいろあるけど、ずるいとか卑怯とかいう言葉はそのなかに含まれてないって思ってるよ」

「じゃぁ、あなたは今、私の新たな一面を知ったということね」

「ああ言えばこう言う……」

 思わずうなり声を上げたが、俺が知る清輝の短所の一つに「言い出したら聞かない」というものがある。

 だから言わないと言うなら言わないだろう。

 なので、その点に関しては仕方ない、不承不承引き下がることにして、質問を少し変えた。

「で、これからどうするんだ? その目的を果たすまで、諦めるつもりはないんだろ?」

「それはだいじょうぶ。あなたのおかげで既に達成できたわ」

「俺? なにもしてないぞ」

「生徒手帳、取ってくれたんでしょ?」

「あぁ、そうか、そうだった。……なんか解決したってこと?」

「えぇ。世界には決まりがあるって話をしたでしょ? 私は過去を変えたくて来たけど、世界はなにか変えられるのをすごくイヤがるの。この場合は特に、私……清輝鳳華という人間を、変えさせまいとして拘束するわ」

「それをどうにかするために、生徒手帳を取る必要があった……?」

 ちょっと疑わしげな声が出てしまった。

 だって目的と手段に関連性がありそうには思えない。

 清輝は気を悪くした風でもなく頷く。

「必ずしも生徒手帳じゃなくてもいいんだけど。拘束を解除するには校則……学校の規則のほうね、それを破らせるのが有効なのよ」

 拘束と校則、二つの熟語を頭のなかで漢字に変換して並べる。

 思わず変な顔になった。

「そんな、ダジャレみたいなことで?」

「言葉というものは、それ自体が力を持っているわ。それを表す音もね。入院している人をお見舞いに行くとき、鉢植えの植物は縁起が悪いからと避けるでしょう?」

 鉢植え=根がついている、だから「寝付く」に通じるとして避けられる、だったか。

 迷信と言えばそうだけど、案外そうした風習はそれなりに科学の発達した現代にも残っている。

「言霊信仰ってやつか」

「世界の規則をねじ曲げる魔法として、そういう手法が有効なときがあるのよ」

 自分で理解して実行したことじゃないから、実感は伴わない。

 ただ、それが世界に影響を与えたらしいのは、この目で確かめた。

 素晴らしい目の保養をさせてもらったから言うわけじゃないが、そういうものなんだと受け止めるよりないだろう。

「校則には、生徒手帳は常に携帯することって条項があるわ。それを本人の意志によらず携帯していない状態にすることで、校則を破っている状況にしたの」

「それで拘束が解けた……?」

「えぇ。おかげで私は本来の記憶を取り戻せたし、世界に干渉することもできたわ」

「世界に干渉って、なにをしたんだよ」

「あなたに『私がもう一人いる』って特殊な状況を経験させた。あと間接的にこの世界の『私』にもね」

「それで?」

「それだけよ。それだけで十分、世界は変わる。むしろ、ちょっとやりすぎちゃったかなって思ってるくらいだわ」

 確かに、こんな不思議な体験、滅多にできないだろう。

 なにもなかった場合と比べれば、俺や清輝の価値観なりなんなりにそれなりの違いは生じると思う。

 とはいえ、たかだか中学生二人の内面的な問題と言ってしまえば、それまでだ。

「わざわざ時間をさかのぼってきて、したことがそれだけ?」

 納得できない調子の俺に、清輝はドヤ顔で応じた。

「時間をさかのぼったこと自体が、あなたにはかなりのインパクトを与えたでしょ?」

「そりゃ、まぁ」

「加えて未来の私との邂逅。十分過ぎる影響よ。本当なら私としては、あなたと接触するつもりさえなかったの。この世界の私とちょっと話をして引き上げる予定だった。それで私の目的には十分だから」

「その割にはがっつり絡んできたな」

 清輝は苦笑する。

「本来の記憶を失くしてたから、その辺りの意識も飛んじゃってたのよ。そこは計算外ね」

「じゃぁ、ループしたのは?」

「あれは『同一人物が二人いる』って矛盾が許容されなくて時間が巻き戻っちゃう現象ね。ただ二人いるってだけでも異常なのに、それぞれの意思が大きく乖離することで限界を超えちゃうの。それでやり直すために最初に介入した時点まで戻されるのよ」

「意思……?」

 今の清輝と、未来の清輝。

 両者がどう違うのか、俺にはよくわからない。

 未来の清輝も、本来の記憶を取り戻した今はともかく、ループしている間は今の清輝と全然区別がつかなかった。

 強いて違いを探すなら、自分が二人いるという異常事態を認識しているかいないか、それだけのように思える。

「だから、私が元の世界に帰れば、発生しなくなるはずよ」

「……帰るの?」

「もちろん。清輝鳳華は本来、この世界に一人だけなんだから」

「そりゃそうか」

「寂しい?」

 からかうような笑みに、だけど俺は正直に頷いた。

「うん」

「あら、素直。なんのかんの理屈をこねて、平気なフリをするかと思ったのに」

「自分でも、なんか変だと思う。寂しがる理由なんかないはずだよな」

 清輝は清輝だ。

 見た目も性格もなにもかも同じで、だから俺にとって清輝鳳華という存在を失うことにはならない。

 それでも俺は二人を完全に同一の存在ととらえることはできそうもない。

 共に過ごした時間は全部合わせても半日かそこら、俺との関係性も今の清輝と全く違わない。

 なのに、俺のなかで未来の清輝は今の清輝とは違う、独自の存在のように感じられる。

 一緒にプールをのぞいて、生徒手帳を奪う計画を立て、最初のループに巻きこまれて、魔法のアプリを使って計画を練り直し、屋上で再会して校舎内を見て回ったのは、未来の清輝だ。

 逆に、図書室で本を探し、サンドイッチを分けてもらいながら進路の話をし、プールではしゃいで、制服消失のハプニングに狼狽えたのは今の清輝だ。

 未来の清輝に今の清輝の記憶はないし、今の清輝に未来の清輝の記憶はない。

 ほんの些細な違いでしかないけれど、それでも確かに二人は俺にとってそれぞれ別個の人間だ。

 だからだろうか、

「いなくなっちゃうの、残念だなぁと思うよ」

 いつもなら、思っていたとしても見栄なり意地なり張って口にできないような言葉が、するりと口から出てきた。

 相手が年上を自称しているせいか、それともこれでお別れなら見栄も意地も張る必要がないせいか。

「ありがとう。だいぶ引っかき回して、いろいろ迷惑だってかけたのに、別れを惜しんでくれるのね」

 それは当然、と言いかけて俺は言わなきゃいけないことを思い出した。

「あっ、そうだ。迷惑と言えば、生徒手帳を取ったら大変なことになったぞ」

「大変なこと?」

「服が脱げたんだよ。時間を止めて、手帳を抜き取ったら、制服が光の泡になって消えた」

「へぇ、そんなことになるとは思わなかったわ。見てみたかったわね」

 目を丸くした、それが演技じゃないなら清輝にとっても想定外の出来事なんだろう。

「知らなかったのか?」

「全然。……多分、校則を破って拘束が解けた、その影響ってことなんだと思うわ。制服の着用も校則に定められているでしょ? 拘束が解けた状態だってことが外見にも現れたんだと思う」

「理屈はともかく、めちゃくちゃ焦ったんだからな。なんて説明すればいいのかわかんないし」

 苦情を申し立てているつもりだったけど、清輝はにんまりと笑う。

「見た?」

 あ、墓穴を掘ったか。

 でも今さら撤回はできない。

 俺は渋々認めた。

「……下着姿を、ちらっとだけ。びっくりして目を逸らしちゃったから……」

「じっくり堪能すれば良かったのに。そのくらいの役得は認められていいはずよ」

「いいのかよ。過去……って言うか、別世界? だとしても、自分のことだろ」

「不可抗力でしょ。それに、私に目を奪われちゃうのは、人として当然のことだと思うわ」

 だったら今この場で脱げと言いたくなったけど、さすがに面と向かってセクハラ発言をぶちかます度胸はない。

 それに、笑い話で済んだのは結果論だ。

「清輝が許しても、誰かに見られたらただじゃ済まなかったぞ。人騒がせにもほどがある」

「そうね。ごめんなさい」

 清輝は一転、神妙な表情で頭を下げた。

「不測の事態を招く可能性はあったわけだし、軽率だったわ。もうちょっと慎重に計画を立てるべきだったわね。ただ、言い訳させてもらうと、あのときの私はその辺りの記憶がなかったのよ」

「あぁ、そっか」

 頷いて、でも俺は引っかかりを覚える。

 それは清輝に対してではない。

「……なんか世界とやらが下手に手を出したせいで、かえってこじれたんじゃないかって気がするのは俺だけ?」

「でしょ? 規則とか決まりとかって、たいていろくなものじゃないわよね」

「だからってそれにケンカ売る清輝もたいがいだけどな」

「なによ、ぺーはどっちの味方なの」

「敵も味方もないと思うんだが」

 苦笑すると、清輝は拗ねたように唇を尖らせる。

 俺は一段と苦笑を深めた。

「ちゃんと協力しただろ」

 それでどっちの味方なのかは明らかなはずだ。

「そうね」

 あっさり機嫌を直して清輝は頷き、朗らかに笑った。

「改めてお礼を言うわ。ありがとう、ぺー。あなたのおかげで私は目標を達成することができた」

「いくつになっても、相変わらず無茶をしてるみたいだな」

「おかげさまで」

 清輝はクスッと笑って、楽しそうに目を光らせる。

「あぁ、そうそう、ご褒美をあげなくちゃね」

「ご褒美?」

「最初に言ったでしょ? 協力してくれたらお礼をする、自分にできることならなんでも……って。なにかご希望は?」

「いいよ、そんなの。こんな不思議なことを体験できたってだけで、お腹いっぱいだ。いろいろ楽しい思い出もできたし」

「それはダメ。私はあなたに頼み事をして、あなたはそれを成し遂げた。だったら私にも約束を守る義務があるわ」

「変なところで律儀だよな、清輝って……」

「変なのは、ぺーでしょ」

「俺が? どうして?」

「こんな得体の知れない話に巻きこまれて、快く協力してくれるほうが珍しいわ。その上、約束の報酬を辞退しようとするなんて、人がいいにもほどがあるでしょ」

「二年半ほどかけて念入りに調教されたからな。清輝のやることに付き合わされるのには慣れてる」

 冗談めかして笑うと、清輝は目元を和ませた。

「そうね。あなたはいつも優しかったわね」

「いや、そんな、いい話っぽく言うなよ。清輝がいかに横暴だったかって話だろ」

「それをあなたは『しょうがないなぁ』って顔をするだけで、文句も言わずに受け止めてくれたって話よ」

「文句なら散々言ったぞ。清輝が聞く耳を持たなかっただけで。顔は……」

 そんな顔だったかどうか、自分ではわからない。

「思い出は美化されるって言うから、それだな」

「あら、大変。そのままでも美しい私がさらに美化されたりしたら、どうなるのかしら」

「言ってろ」

 俺はナルシスト発言を聞き流すときにお決まりの苦笑を浮かべた。

 それに対して清輝は頬杖をつくような仕草で思わせぶりに微笑む。

「それで? お礼、なにがいい? お昼ご飯を作ってあげましょうか。それとも、膝枕でお昼寝? 学校(ここ)でできることならなんでもいいわよ?」

「だからいいって……」

 遠慮しかけて、ふと思いついた。

「あぁ、そうだ。じゃぁ、写真、撮らせてくれよ」

 言いながら、スマホをかざす。

 清輝はきょとんとした顔で自分を指さした。

「私の?」

「一緒に。前回、プールで撮ったんだよ。でもループしたときに消えちゃったみたいで。その代わりと言っちゃなんだけど」

「欲がないわね」

「そんなことないだろ。未来人とのツーショットなんて誰も撮ったことないぞ。世界で唯一だ」

「じゃぁ、少しサービスしてあげる」

 言うなり、清輝は制服のボタンに手をかけた。

 俺は慌てて手を振る。

「ちょ、ちょい待ち! サービスって、そこまでしなくても……!」

「安心して。下は水着よ」

「へ? 水着? なんで?」

「プールで撮ったってことは、水着だったんでしょ? 少しでもその再現になればと思って」

 言いながら、清輝は思い切りよく制服を脱ぎ捨てた。

 下に着こんでいたのは例の白ビキニ。

「いや、俺が聞きたいのは、なんで水着なんか着てるのかってことで……」

「プールで遊びたかったからよ。決まってるじゃない」

 この世界の清輝によれば親戚にプレゼントされた水着を着ている証拠写真が必要だから、という理由だった。

 でもそれだけじゃなくて、少しはそういう純粋な気持ちもあったらしい。

「じゃぁ、撮りましょ」

 清輝は机を回りこんで隣に並び、なんの躊躇いもなく俺の腕を取った。

 あまりにも自然だったから、こっちもなんだか当たり前のように受け入れてしまった。

 けど、一拍置いてものすごい衝撃に襲われる。

 プールでの撮影のときのような「かすってる気が」というレベルじゃない。

 しっかりと胸が押し当てられていた。

 それを認識した瞬間、頭に血が上り、バクバクと心臓が脈打つ。

「ちょ、ちょっとやり過ぎじゃ……」

「お礼よ、お・れ・い」

 言いながら、清輝は耳元で囁いた。

「ほら、私の気が変わらないうちに撮っちゃったほうがいいわよ」

 この状況で冷静な判断なんてできるわけがない。

 俺は言われるままにスマホのカメラを自分達に向けてシャッターを切る。

 スマホの画面には、ぴったり寄り添う俺と清輝の姿が収まっていた。

 清輝は水着で、満面の笑み。

 一方の俺は制服で、引きつった赤面。

 しかも背景は生徒会室。

 ちぐはぐもいいところだけど、柔らかな感触込みで、一生の思い出ものの一葉だ。

「うん、よく撮れてるじゃない。引きつってるけど」

 清輝は指先で俺の頬をつつく。

 俺はそちらを見ずに、スマホを両手で捧げ持ってみせた。

「家宝にします」

「なんで敬語なのよ」

 あっけらかんと笑いながら清輝は腕を放し、元の席に戻る。

 俺の視線は清輝の後ろ姿とスマホの画面を行ったり来たりして、清輝が着がえを始めたのでスマホに固定された。

 脱ごうとしているんじゃなく着ようとしているんだから見ていても問題ないのかもしれないけど、なんとなく憚られる。

 衣擦れだけが響く状態に耐えられず、俺は目をスマホに向けたまま口を開いた。

「帰るって……いつ?」

「そうね、昼休みのチャイムがボーダーになってる気がするから、それまでには」

「……そっか」

「寂しい?」

「それ、もう聞いたろ」

「私も寂しいわ」

 その声音に滅多にない揺らぎを感じて顔を上げる。

 清輝は穏やかに微笑んでいた。

 だけどその瞳にほんのわずか、切なさのような色が見えた気がする。

「私にとってあなたとの会話は同窓会みたいなもの。あの頃は良かったね、なんて過去を振り返るだけの非生産的な感傷に過ぎない」

 でも、と清輝は目を伏せた。

「懐かし過ぎて立ち去り難く感じちゃうわ。同窓会なら、二次会に行くわよって宣言して、あなたを逃がすまいと捕まえてるところね」

「別に捕まえなくても逃げやしないよ」

「あまり後ろ髪を引くようなことを言わないで。ただの同窓会とはわけが違うんだから」

 清輝の声がわずかに震える。

 けれど、顔を上げたとき、その口元は笑みを湛えていた。

「スマホが使えなくなって、ちょうどいいかな、と思っちゃったのよね」

「なんだよ、それ。どういう意味?」

「あなたと会って言葉を交わしたら、決心が鈍ってしまいかねない。それで……このままなにも言わずにさよならしようかなって考えてたの」

「あっ、ひでぇ」

「そうよね、ひどいわよね。そう思われるのがイヤで、思い切れなかったわ」

「思いとどまってくれて良かったよ。こんだけいろいろあったのに、挨拶もなしとか薄情過ぎるだろ」

「ごめんなさい。でも……多分、私、あなたに探しに来て欲しかったのよ」

「だったら校内放送でも使って呼び出せば良かったのに。どこそこにいるから迎えに来いって」

 清輝は小さく噴き出す。

「そうね。そのほうが私らしいかもしれないわ」

 その笑顔が眩しかったから、俺は答えのわかりきっている無茶をつい口にしてしまった。

「このままここにいるわけには行かないんだよな?」

「残念ながら」

 清輝は苦笑して肩をすくめる。

「私が二人いるなんて無茶な並行世界(パラレルワールド)はさすがに成立しないでしょうね」

「賑やかで楽しそうではあるけどな」

「その分、フォローするあなたの心労も二倍よ?」

「……うん、どれだけ無茶かよくわかった。慎んでご遠慮申し上げる」

 渋い顔をしてみせると、清輝は柔らかく微笑う。

「それにね。元の世界にも私の帰りを待ってる人がいるの。だから、帰らなきゃ」

「そっか」

 俺は短く頷くに留めた。

 未来の清輝がどういう境遇なのか、それは聞いても教えてくれないだろう。

 幸せであればいいと思う。

 そして清輝のことだから、きっと強引にでも、幸せと呼べる条件を掴み取っているはずだ。

 そう思う一方で、少しだけ不安もある。

 現状に満足していたら、過去に戻って違う選択をしてみたいなんて思わないんじゃないか。

 考えすぎかもしれない。

 俺は今の自分にそれほど不満はないけど、過去に戻れるとしたら、やり直してみたいと思うこともいくつかある。

 それと同じで清輝もちょっとした気まぐれを起こしただけなんだろう。

 でもひょっとしたら、なにかものすごくイヤなことがあったりして、現実逃避で過去に戻ってきた可能性だってなくはない。

 俺の知る清輝はそんな後ろ向きな女の子じゃないけど、五年、十年と月日を積み重ねていくうち、思うようにならないこともきっとたくさん出てくるだろう。

 ふと弱音を吐きたくなることだってあるかもしれない。

 その相手に中学のとき一緒に生徒会をやっていた平凡な少年を選んでくれたのだとしたら。

 高校で、大学で、社会に出てから、あるいは逆に小学校や幼稚園ででも、清輝には無数の出会いがあったはずだ。

 そのなかで、そのどれでもなく俺を選んでくれたのだとしたら。

 俺は、ほんの少しだけ、自惚れてもいいのかもしれない。

 もう一度、引き留めたくなってしまう気持ちを抑えて尋ねる。

「で、どうやって帰るんだ? タイムマシンの類をどこかに隠してあるのか?」

「そんな大げさなものはいらないわ。私をこの世界に拘束してる魔法が解ければ、それで全て元通りよ」

 魔法を解く。

 ごく普通の中学生の俺には、本来そんな常識外の力はない。

 だけど今この状況でなら、できることがありそうに思えた。

「生徒手帳を取り上げればいいのか?」

「それじゃダメでしょうね。あなたに手帳を取られても、私はそれを受け入れちゃうから」

 予想できた答えだ。貸してくれと頼んで受け取るのではダメ、それと同じようなことだろう。

「自力でどうにかする方法もいくつか考えてきたんだけど……」

 清輝は一度言葉を切り、様々な色を含んだ目で俺を見つめた。

「できたら、ぺーに魔法を解いてもらいたいわ」

 どうやって、とは尋ねない。その答えは既に聞いたはずだから。

 代わりに確かめる。

「心残りはないか?」

「いっぱいあるけど、言い出したらキリがないから、いいわ」

 俺は頷いて、ゆっくりと机を回りこんだ。

 清輝との間には、もう一メートルの距離もない。

 俺の意図は伝わっているはずだ。

 そしてそれを拒む気配はない。

 一歩、踏み出した。

 今まで生きてきたなかで、一番緊張する。

 手を伸ばすと、清輝も同じように手を伸ばして応えた。

 指が絡み合う。

 どちらからともなく静かに目を閉じた。

 唇が重なる。

 柔らかな感触が脳を灼いた。

 まるで時間が止まったような錯覚を覚える。

 しばらくして、止めていた息が苦しくなって、顔を離す。

 大きな青い瞳がじっと俺を見つめていた。

 わずかに潤んでいるように見える。

 桜色の唇が微かに震えながら開いた。

「不純異性交遊……。校則違反ね」

「……ろくでもないよな、校則って」

「そうね」

 微笑んだ清輝の金の髪が、夏の陽射しのように眩く光る。

 その光はあっと言う間に全身を包んだ。

 もう残された時間は少ないんだろう。

 なにを言おう、なにを言えば。

 元気で? 幸運を? またいつか?

「ぺー」

 呼びかけられて、ただ見つめ返す。

「ありがとう」

 なんでもいい、なにか返事をしなきゃ。

 口を開きかけた俺の目の前で、光が弾けた。

「あ……」

 目瞬き一つ、そこにはもう誰もいない。

「…………」

 言えなかった言葉を呑みこむ。

 周囲を見回す。

 会長席に置かれたティーカップだけが、そこにいたはずの持ち主の存在を肯定してくれていた。


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