魔王の入れ知恵
屋上に通じる扉には鍵がかかっていて普段は入れない。
清輝は休み時間などにも利用できるよう、常時開放したいと考えていて、何度か意見を求められたりもした。
でも、スマホ禁止と違ってそれほど切実な問題というわけでもなかったから、先生方への働きかけもそれなりで、転落等の危険を未然に防止するとかの建前をひっくり返すところまでは行かなかった。
その手前、階段の行き止まりは人もあまり来なくて、人に聞かれたくない話をするには都合がいい。
踊り場から見上げると、清輝が脚を組んで座っていた。
太腿のかなり際どい部分まで露わで、すごく惜しい。
もうちょっとで……
「見えるぞ」
「本当? 見えないようにぎりぎりのポジションで座ったはずなんだけど」
「うん、実際に見えてるわけじゃない。もう少しで見えちゃいそうだぞ、って注意喚起だ」
「ありがとう。気をつけるわ」
形式的な謝辞には応えない。
って言うか、どうせ隠すつもりなら、間違いのない場所、体勢を選んでほしい。
わざわざぎりぎりのラインを攻めるのは、なまじ期待を持たせるだけ残酷だ。
この小悪魔め。
……いや、そんなかわいいもんじゃないか。
大悪魔、むしろ魔王という言葉こそ相応しい。
ん? 女性の魔王ってなんて呼ぶんだ?
女魔王? 魔女王? 魔女王だと魔女の王ってことになりそうだし、違うか。
どうでもいい考えを追い出して頭を切り換え、改めての報告も兼ねて作戦の結果を総括した。
「いきなり出鼻を挫かれたな」
「そうね」
清輝は相槌を打ちながら、手元のスマホに目を落としている。
「もうちょっとプールで遊んでくれてたら良かったのに」
「次の手は?」
清輝のことだ、更衣室潜入作戦がダメなら二の矢、三の矢を用意しているだろう。
むしろ更衣室に忍びこむっていうのは、かなり不確定要素の多い策だ。
もう少し穏当で成功率の高いやり方だってありそうに思える。
清輝はスマホをしまって、こちらに目を向けた。
「それなんだけど、二号は図書室へ向かったようなの」
「本でも借りに行ったのかな」
「違うと思うわ。図書室の貧弱さは、あなたのほうがよく知ってるでしょ?」
「それもそうか」
残念なことにうちの学校は図書室の整備にそれほど力を入れてくれない。
教科書に出てくるような古典や名作、文豪の全集なんかはそれなりに揃っているものの、新しい本はさっぱり増えなくて、魅力に乏しい。
授業で研究発表をするとき資料を探したりする分には十分だけど、自分で読みたい本があっても図書室で見つけられることはまずない。
なにもマンガを並べろとまでは言わない、せめて賞を取った話題作の一つや二つも仕入れれば、もう少し利用者も増えるだろう。
実は、清輝のスマホ禁止撤廃に刺激を受けて、俺も少しは生徒会役員らしい仕事をしてみようかと、図書室の充実を計画したことがある。
それなりに賛同者もいたし清輝も後押ししてくれたけど、予算というそれはそれは厚い壁に阻まれて引き下がらざるを得なかった。
所詮、世の中、金か。世知辛い。
「きっと涼しい場所で宿題でもやるつもりよ」
「用事があるとか言ってたのは、それか?」
「それも違うんじゃない? あなたなら、そのためだけにわざわざ学校まで来る?」
「来ない。だとすると、なにか他に目的があって、プールや図書室はついでに寄ったって考えるほうが自然か」
「多分ね」
二号の目的について話し合ううちに思い出して、追加の報告をする。
「あぁ、そうだ。生徒手帳は持ってきてたよ。胸ポケットに入ってるのを見た」
「やっぱり」
頷いて、清輝は小首を傾げた。
いろいろな可能性を瞬時に検討したんだろう。
「胸ポケットなら変に小細工をするより相手の気を逸らした隙にパッと取っちゃうほうが話が早そうね」
「そんな簡単に言うなよ。胸だぞ? ちょっと手が滑って変なとこ触ったら今度こそ痴漢扱いだ」
「大げさね。体育で着替えるとき、ふざけて揉まれたりするわよ?」
マジか! あれってマンガのなかだけの話じゃなくて、実際にあることなの?
こんな身近で実際に起きているなんて知らなかったよ。
清輝の胸を揉めるなんて、うらやましいにも程がある。
体育のときだけ女子になりたい。
でも、願望はともかく、現実問題として
「俺は男だからなぁ。女同士なら冗談で通るかもしれないけど」
「男女差別はんたーい」
棒読みの建前は、冗談にしても明後日の方向だ。
今の流れを言葉通りに解釈すれば、俺が清輝の胸をふざけて揉んでも、女子のときと同様に許されて然るべきだということになる。
そんな、いくらなんでも俺に都合の良すぎる発言は、本気のはずがない。
それでも俺は乗っからずにはいられなかった。
「今この瞬間だけその言葉に百パー賛同する」
欲望を取り繕うことを忘れた失言を、清輝は聞き流す。
それどころか、起こり得るハプニングにお墨付きまで与えてくれた。
「ま、悪気があってのことじゃないし、誠心誠意謝れば許されるわよ。私が保証するわ」
「……本人がそう言うなら、まぁ」
この場合、果たして本人と言っていいのかどうか、それが微妙だけど。
「だとしても、怪しまれずに手が届く距離まで近づかなきゃいけないし、その状態で都合よくよそ見をしてくれるかって問題が」
懸念材料は山盛りだ。
けど、清輝は自信ありげに俺の目を見返した。
「図書室なら無理なくできそうじゃない?」
「なにかいいアイデアがありそうだな」
「声をかけたら、なにをしに来たの、みたいな話になるでしょ? そこで、宿題の参考にする資料を探して……みたいな返事をしたら?」
「お互い大変ね、頑張りましょう」
清輝の言いそうなことを予想して答えたのに、なぜか睨まれる。
「私、そこまで薄情じゃないつもりだけど」
「薄情か? 普通のリアクションだろ」
「相手が普段ろくに言葉を交わさないようなクラスメートならね。でもぺーなら『なにか手伝う?』くらいは言うわ」
「えっ、いいよ、悪いよ」
「……と断られたら、『お互い大変ね、頑張りましょう』とまとめるかもしれないわね」
「じゃぁ、そこで手伝ってもらえってこと?」
「えぇ。なにか適当な本を探していることにして、一緒に書架へ行くの。通路は狭いから自然と近い距離で行動することになるし、本を探していれば視線もそっちへ向くはずよ」
「あ、なるほど」
その光景は割と無理なく想像できる。
……と言うか、生徒会室に隣接する準備室という名の物置で、過去の資料を探していたとき、実際に似たような状況を体験した。
準備室は狭い上に物が多くて、一人ならまだしも二人で入室すると割と窮屈だ。
声をかけられて振り向いたら清輝の顔がすぐ間近にあって、ちょっと間違えたら唇同士が触れ合っちゃいそうな距離で、めちゃくちゃ狼狽えた。
なにを想像したのよって、爆笑されたっけ。
少し恥ずかしそうな顔とかしてくれたら、妄想もはかどったのに。
俺が回想にふけっている間に、清輝は提案を補足する。
「二号からそういうリアクションを引き出すため、少し苦戦してるみたいなニュアンスを付け加えれば堅いんじゃない?」
頭のなかでシミュレーションしてみて、俺は頷いた。
「うん、行けそうな気がする」
少なくとも、ゴキブリがどうこうなんて言い訳を用意して女子更衣室に忍びこむよりは、遥かに現実的だ。
ただ、問題がないわけじゃない。
「どこで苦戦してるの、とかツッこまれたら返事のしようがないぞ。教科書とかノートも持ってきてないし」
「自由研究って言えば、なんとでもごまかせるでしょ」
「あぁ、そうか」
納得して、俺は忘れていたかった現実を思い出す。
「でも俺、自由研究のテーマ、まだ決めてないんだよな……」
思わずため息をつくと、清輝は苦笑めいた表情を浮かべる。
「だいじょうぶ? もう夏休みも残り少ないわよ」
「あんまりだいじょうぶじゃない気もするけど、なにをすればいいか決められなくて」
学問に熱意のない俺は、自由に研究しろとか言われても、なかなかいいアイデアが浮かばない。
あれをやれこれをやれと言われれば渋々ながらこなすけど、題材は自分で選んでいいと言われても嬉しくない。むしろ余計な手間がかかる分、面倒だ。
その点では一味違うはずの会長様にヒントを求めてみる。
「清輝はどうしたんだ?」
俺の問いに清輝は素っ気ない風で目を逸らした。
「私は祖国の現状についてレポートをまとめたわ」
清輝の外見的な特徴、特にその色彩は、生まれに由来する。
父が東欧の人で、留学中だった日本人の母と出会い、結ばれての子供だそうだ。
他では聞かない名字は父の姓の当て字らしい。
この夏休みに父の国を訪れたとかで、少し前の登校日に話を聞かせてもらった。
生徒会役員一同、おみやげももらっている。
魔除けの意味を持つとかいう人形のキーホルダーで、正直キモい。
美形はたいてい芸術的センスにも優れているってのが定番だけど、清輝は例外なのかもしれないと一瞬だけ思った。
もっとも、美術の成績を考えれば、その可能性は否定されるだろう。
「そっか。ちょうどいいって言うとアレだけど現地まで取材に行ったようなもんだからな。ネタについては迷う必要もないか」
「おかげで楽をさせてもらったわ」
一時間目が自習になってラッキー、くらいの口調で清輝は微笑む。
自分から聞いといてなんだけど、参考にはならなそうだ。
俺はこの夏、母の里帰りに連れて行かれたくらいで、宿題の足しになりそうな出来事に心当たりがない。
「俺もどこか旅行にでも行ってれば、それをネタにするんだけどなぁ」
「思いつかないようなら、なにか好きなものを題材にすれば?」
「マンガとかゲームとか?」
あまり高尚とは言えない例示だけど、清輝は笑みを崩さず頷いた。
「『呪術大戦』が好きなら、呪術というものについて調べてみるのはどう? なにか興味のあるものと結びつけば、少しはやる気も出るんじゃない?」
「あぁ、いいかもな。そういう方向で考えてみるよ」
もっとも、と清輝の笑みに苦笑が混じる。
「図書室に呪術に関する本は置いてないでしょうけどね」
図書室へ向かう前にアリバイ作りのため一度プールに寄る。
手早く着替えてプールに飛びこみ、適当に泳いですぐ上がる。
制服に袖を通すのももどかしく一号に確認すると、二号はまだ図書室にいるらしい。
逸る気持ちを抑えて校内を突っ切り、状況設定を脳内でおさらいして、図書室のドアを開けた。
清輝は比較的奥のほうの机でノートを広げていた。
宿題でもやるつもりだろうという一号の読みが当たっていたようだ。
他にも数人の生徒が机に向かっているが、知った顔はない。
密かに胸をなで下ろす。
生徒手帳をかっぱらうくらいそれほどの悪事というわけじゃないだろうけど、目撃者は少ないに越したことはない。
何食わぬ顔で清輝のほうへ向かう。
あと数歩の距離まで近づいたところで、彼女は顔を上げた。
目が合うと少し意外そうな表情をする。
「あら、プールは?」
「仲のいいやつが来てないから、手持ち無沙汰なんだ。水に浸かってボケーッとしててもしょうがないし、切り上げてきた」
それもウソではない。
クラスでよく言葉を交わす連中は自然と同類が多くなる。
マイルドに言えばインドア派。
要するにプール開放日と聞いても興味を示さないタイプだ。
清輝は納得顔で頷いた。
「夏休みだし、みんな忙しいんでしょ」
無難なコメントに続けて、想定通りこっちの事情に話が移る。
「それで? 本でも借りに来たの?」
「まぁ、そんなとこかな。せっかく学校に来たんだから、資料でも探そうかと」
「資料?」
「自由研究。思うように進まなくてさ」
一号は祖国への旅行を題材にあっさり片づけたと言っていたけど、こっちの清輝は苦笑して共感を示した。
「あぁ、面倒よね、あれ。テーマは決まってるの?」
「呪術について調べようかと……」
一号の入れ知恵そのままに答えると、清輝はクスッと微笑を漏らす。
「マンガの影響?」
「バレたか」
清輝はシャーペンを置いて立ち上がった。
「あまり詳しいことを書いた本はないと思うわよ」
「そりゃそうだろ。そんなもん学校の図書室に置いてあったら逆に怖ぇーよ」
「でも、まるっきりノーチャンスというわけでもないわ」
「マジで?」
「マジで。民俗学、あるいは日本神話に関する本ならあるし、そこからマンガで描かれた内容の元ネタを見つけることくらいはできるはずよ」
「へぇ……」
感心している俺を促し、清輝は歩き出す。
該当するジャンルの書架まで案内してくれるつもりらしい。
一号の予想よりも親切だ。
歩幅を広げてその後を追う。
書架の間の通路は狭く、計画通り、肩を並べるくらいのポジションを取ることができた。
清輝は並んだ本を見上げて題名を確かめる。
「民話には妖怪や祟りについての伝承も多いから、そういうオカルト的な内容も含まれていると思うんだけど……」
「ふぅん」
生返事をしながら、清輝の胸元に目を走らせた。
ブラウスがはち切れそうなボリュームに気を取られそうになるけど、今はそういう邪なことを考えている場合じゃない。
胸ポケットの生徒手帳を──
「あ?」
思わず声が出た。
ない。
ポケットは空だ。
さっきは確かに手帳が入ってるように見えたのに。
「どうしたの?」
「あぁ、いや、なんでもない」
本に目を向けるフリでごまかし、横目で確かめる。
やっぱり胸ポケットにはなにも入ってなさそうだ。
どこか別の場所に移したのか、それともそもそも俺の見間違いだったのか。
おい、一号! どうなってんだよ! こんな事態は想定外だぞ!
……なんて八つ当たりしてもしょうがない。
でも、どうする?
清輝はすぐ近くにいる。
さすがにこの距離じゃ避けようもないし、胸ポケットに手を突っこむことくらいはできるだろう。
でも、肝心の生徒手帳が見当たらないのにそんなことをしても、清輝を驚かせるだけでなんの意味もない。
ここはひとまず自重して、次の機会を待つべきか。
「この辺の本は昔のものだから文が読みづらいのよね。そこを乗り越えられれば、内容は面白いんだけど」
清輝は手に取った本を開いて中身を確かめている。
思わず心のなかで両手を合わせた。
すまん、清輝。自由研究なんてその場しのぎの出任せなのに、ここまで親切にしてくれて。
一方的に紹介ばかりしてもらうのも申し訳なくて、とりあえず目についた本を手に取り、ぺらぺらとめくってみる。
再び声が出た。
「おぉ」
九字切りが図解つきで解説されている。
こんなマニアックな本があるなんて予想外もいいところだ。
案外、図書室も侮れない。
「なに?」
のぞきこんでくる清輝に図を示す。
「これ、見たことないか? 魔物退治のマンガとかで『臨兵闘者皆陣列在前』って唱えながら印を結んだりするの」
「あぁ、映画で見たような気がするわ」
「臨……」
本を見ながら右手だけ形をマネる。
「こう?」
清輝が組んだ両手を俺に示した。
「あぁ、そうだな。で、兵……」
二人して図とにらめっこしながら、印を結ぶ。
「なんだかややこしいわね。えぇと……?」
「いや、違う。人差し指と中指をこう……」
ちょっと馴れ馴れしいかと思いつつ意識するほどのことでもないかと考え直し、清輝の指に触れて組み方を直す。
少し冷たくてしっとりした肌の感触が照れくさい。
やっぱり馴れ馴れしかったかも。
「あぁ、なるほど、こうね」
清輝は得意げな笑みをたたえて結んだ印を見せびらかすように俺の鼻先に突きつける。
こっちのささやかな葛藤など気にも留めていないようだ。
だったらもっと遠慮しないで触れば良かった。
惜しいことをした。
好奇心をそそられる本、そして清輝とのちょっとしたスキンシップに気を取られたせいで生徒手帳奪取作戦のことがすっぽり頭から抜け落ちていることに俺が気づくのは、貸し出し手続きを終えて図書室を出てからのことだった。