冒頭
#### 現代のシーン
日が沈もうと、ビルの隙間から入り込む。東京の喧騒の中、直樹はエアコン修理の仕事に追われていた。働き蟻が列を作るように、ただひたすらに歯車としての役割を果たそうとしている。この日の夕方、直樹は渋谷の高層ビルの屋上で先輩と共に修理作業をしていた。まだ夏の空気が残る季節。空には灰色の雲が広がり、湿った風が頬を撫でてゆく。
「直樹、次のモンキーを頼む。」先輩の声が冷たく響く。直樹は工具箱からモンキーレンチを取り出し、「はい」と手渡す。先輩は慣れた手つきで作業を進め、直樹はその様子を熱心に見ながらも、自分の手元を見つめた。室外機の基板の交換は単純な作業だが、その中にもコツがある。直樹はそのコツをまだ完全には掴めていない。まるでスポーツのように先輩の指先は滑らかによく動く。
ビルの屋上から見下ろす東京の景色は、人口密度の限界を突破し、私を含めた働き蟻でひしめきあっている。こんなところに自分がいるなんて。直樹は何故かふと、10年前のことを思い出した。私の故郷だ。母が危篤状態にあった病室の窓から見えた雨の光景。彼はその時、雨粒を意識して見ていた気がする。そんな記憶がふいに蘇り、直樹の心を揺らした。喧騒のはるか手前の金属音に気がついていながら、直樹は過去の思い出の中に沈んでゆく。
「お前、ぼんやりして、どうしたってんだ。次の作業、さっさとやらねえか。」金属音の横からの罵声で目を見開いた直樹は、急いで工具を手に取り、次の作業に取り掛かる。神経が鈍った状態で、彼は生産的に手を動かしていた。
人工から出来上がってしまう風の真ん中で、直樹の心は何故か、ますます遠い過去へと向かっていった。東京の空は鈍く染まり、雨の匂いがしてきそうだ。その光景は10年前のあの日を思い出させた。
#### 10年前の回想
冷房のききすぎた部屋は私には肌寒さを覚えた。窓の外では静かに雨が降り続いている。直樹はベッドの横に座り、雨音に耳を澄ました。外と窓の間を焦点にして、粒がガラスを伝う様をぼんやりと見ていた。
「雨粒ってなんか寂しいのかな」下手な文字が額に並んで音を出す。直樹の心は、よく言う変わりたい、という感覚よりも現状に鬱々としたイメージを抱いていた。今は、働き蟻の何番目かを演じているに過ぎないのであった。
意識していても、それは他人の空似。真似事。後悔しないと決めたのはあのころだったか。粒がガラスを滑る様子は、私そのもの。
#### 現代に戻り
追憶は一瞬だったようだ。直樹は深いため息をついた。先輩の背中を見ながら、彼は再び作業に戻るため、工具を手に取る。右手には、握っていた掌の感覚が残っているのを感じる。直樹にはその記憶が、今日が終わるまで影を落としていた。
「おい、集中しろよ。」先輩の声が再びし、直樹は瞬きを何度かした。工具を握り、目の前の作業に集中しようと努めた。だが片隅にあるのは、温もりと流れゆく雨粒の記憶となっていた。
「この仕事、終わったら飲みに行くか。」先輩がふと提案した。直樹は少し驚いたが、ワンテンポ遅れて、「はい、ぜひぜひ。」と言った。応えた後で、少し気分が持ち上がるのを感じた。
東京の夜景が段々と現れ始めてゆく中、直樹は自分の心の中で何かが変わり始めている感覚がした。それはまだ小さいが、あったのだ。
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