7
『寂しい者同士、慰め合うのは悪いことか?』
シキの言った言葉がホタルの耳に残っている。
確かにホタルは寂しい。
だけど、シキが言うのは違うと思う。
慰め合えば、その時は寂しさが薄れるのかもしれない。
でも、その後はどうなるの?
慰め合うためだけに寄り添って、そのあとは?
また、寂しさに苛まれるだけではないの?
そうしたら、また、慰めてくれる人を探すの?
そんなの嫌。
こうして一人で眠れない夜を過ごす方が良い。
どのような未来が先にあるのかは、もちろんどんなに耳を澄ましたところで聞こえる筈もないけれど。
でも、サクラの未来がカイと共にあるならば。
それでも、ホタルはサクラが唯一なのだから。
だったら、さっさとこの寂しさに慣れてしまいたい。
できる筈。
離れ離れになる訳ではないのだ。ホタルよりもサクラに近しい方が現れただけ。
サクラは側にいる。
それは、サクラが現れる前の孤独な日々よりよほど良い筈。
そうでしょう?
ホタルはため息をついて、寝返りを打った。
眠れない。
『寂しくない?』
聞きたくない声が脳裏に響く。
ホタルはそれが今現在囁かれているものではないと分かっていながら耳を塞いだ。
どうしてあの人は、構うのだろう。
苦手だと分かっているだろうに。
どれだけ、無礼な態度を取っても、優雅に微笑んでそれを受け止める。
苦手だ。
とても。
枕に顔をうずめる。
考えない。考えても仕方がない。
高貴な方の戯れを真剣に受け取るのは愚かだ。
そう言い聞かせるのに。
シキに掴まれた腕が熱い気がする。一瞬触れただけの体の感触が手のひらに残っている気がする。
それを認めたくなくて、ホタルはギュッと目を閉じて眠りを待った。
ようやく、浅い眠りが訪れる。
そんな時、ホタルは再び目を開けることを余議なくされた。
僅かな物音。
微かな息遣い。
普段ならば、気が付かなかったかもしれないほどのそれ。
ホタルを身を起こした。
耳を澄ます。
寝静まった屋敷内の物音は少ない。
それを通り越しもっと遠くへ。もっと広い範囲を。
そして、届いた音にベッドを降りる。
迷っている暇はない。
ホタルは数えきれないほどの寝返りでベッドから滑り落ちていたショールを拾い上げ羽織ると、部屋を飛び出し走り出した。
誰もいない薄暗い廊下。
壁の向こうのその向こう、嫌な音が近づいてくる。
目的の扉が目に入るなり、慌ただしくノックした。
軍神は、誰と問うこともなく、すぐに部屋から出てきた。
「どうした?」
いつかは、嫌いだとも思った低い声。
しかし、ひっそりとした空気の中に響くそれは、驚くほどホタルを落ち着かせた。
だが、ひしひしと確実に近付いてくる音は、それをも蹴散らす。
「嫌な音がするのです」
今、この時も。
ほら、近づいてくる。
「…分かった」
カイはホタルの様子に何かを察したのか頷くと、一旦は部屋の中に入っていく。
幾らも経たない内に現れたカイの手には、剣が握られていた。
「どんな音だ?」
長い足が速足で進む。行き先は、迷わずサクラの部屋。
ほとんど駆け足になりながら、ホタルは乱れる呼吸の中答えた。
「…唸り声…呼吸…足音…とてもたくさんです」
なお探る。
近い。
「どのくらい近い?」
もうすぐそこに。
そして、一体どれほどいるのか分からぬほどに、幾重にも重なっている。
「かなり近いのです。申し訳ありません。魔獣は音を消すのが上手なので…」
どうして、もっと早く気がつけなかったのだろう。
どうして、もっといろいろなことを聞けないのだろう。
もどかしさを覚える中「詫びる必要はない」
カイはそう言った。
そして「シキに知らせに行けるか?」
と問う。
命令ではない。実は足が震えているホタルの怯えを知っているのだ。
この方は。
なるほど、本当はお優しいのだ。
ホタルは答えた。
「はい」
カイがちらりとホタルを見る。
そして、励ますように微笑んだ。
「寝てるだろうが、たたき起こせ」
その言い方に、ホタルは一時だけ状況を忘れて笑みを零した。
シキの扉の前での躊躇は一瞬。
あまりに近いそれは呑気にノックをしている場合ではないのだと、ホタルの覚悟を決めさせた。
「シキ様!起きて下さい!」
有無を言わさず、扉を開け放った。
アイリじゃあるまいし、人生、こんな無作法をしたことはない。
でも、そんなことを言っている場合ではない。
ベッドの上、シキが飛び起きた。
同時に枕元にある剣を構えるあたりは、さすがだ。
「ホタル?」
驚いた様子を隠しもしない騎士に、ホタルは近寄りベッドへと伸し掛かる。
「君…夜這いなら、もう少し穏やかに…」
「違います!早く起きて下さい!」
相変わらずの軽口に返しながら、シキの腕を取ってベッドを降りようとしたそのとき、どこかでガラスの割れる音がした。
「何だ?」
「魔獣です。すごい数が…」
状況を説明しようとすると、シキの背後で激しい音がする。
シキは反射的に自らの体をシーツで覆い、更に、その体でホタルを庇う。
音が止み、室内に目を向けたシキは唖然とした。
「なんだ、これは…」
ガラス窓が無残に打ち破られている。
「寒い季節でなくて良かった、のかな」
などと言いながらも、今がそんな状況ではないことはすぐさま知れた。
部屋には、無数の魔獣が目を光らせて、蠢いていた。
「知らせに来たのは、これか?」
尋ねられて、ホタルはコクリと頷いた。
思わず、シキに縋る。
なんて数なのか。
ここまでとは、思わなかった。
「…カイ様は…サクラ様のところに…」
シキは縋るホタルを抱き寄せながら、手にしていた剣を構えた。
また、どこかでガラスの割れる音がする。
それに刺激されたのか、何匹かの獣が飛び掛ってくるのを、シキの剣があっさりと切り捨てるのを、ホタルは抱かれたままで茫然と見ていた。
「知らせてきたのか?」
頷いた。
もはや、声は出ない。
「上出来だ」
見上げれば、いつもと変わらない笑みがホタルを見ろしている。
微笑む余裕が、この人にはあるのだ。
どんなに、穏やかに見えても、この人も戦士なのだ。
「しかし参ったな…身動きが取れない」
自分がくっついているせいかと身じろぎすると、逆に引き寄せられて、大きな手のひらがぽんぽんと背中を叩く。
「違う。この数だ…たぶん、屋敷中に溢れてるんだろうから…」
耳を澄ませばシキの言うとおり。
もう何が何だか判らない音が、屋敷中に渦巻いている。
「…っや…」
紛れる激しい悲鳴にホタルは、シキの胸に顔を埋めた。
「ああ…もう、この子は真面目だな。聞かなくて良いから、ここで大人しくしてろ」
何を聞いたのか察したのか、シキはホタルの頭を抱いた。
「そうは言ってもあまり大人しくもしてられないか…とりあえず、奥方のとこに向かうかな。努力はしておかないと、後でタキに何を言われるか」
シキは言いながら、ホタルを抱きかかえるようにしてベッドを降りた。
「歩けるか?」
問いに頷けば、ホタルの腕を取って歩き始める。
昼間は怒りに任せて振り払ったそれが、今はこんなに頼り甲斐があるとは。
だが、開け放ってあった扉から一歩踏み出して、そんな僅かな安堵は飛び散った。
ホタルはガクガクと震え出す体を止められなかった。
獣、獣、獣。そして…屍。
見知った侍女のそれに、ホタルは目を背けた。
「見るな…って言っても無理か」
ホタルの頭を胸に押し付けて視界を遮りながら、シキは言う。
怖い。
怖い。
怖い。
これが騎士や狩人が生きる戦場という場所?
何度も耳で聞いたそれは、目にはこんな風に映るのか。
動けない。
固まってしまった体は、一歩も進めない。
どうしよう。
サクラ様の元に行きたい。
だけど。
「ホタル、奥方のところに行くんだろう?」
シキが耳元で囁く。
ホタルは顔を上げた。
「カイ様がいる。だけど、それでも君は奥方のところに行きたいんだろう?」
ホタルは頷いた。
「じゃあ…なんとかついて来い」
腕を掴んだままシキが走り出す。
キーキーと耳障りな声が渦巻く中で、シキの絶つ獣の悲鳴がひと際甲高く響く。
シキは決してホタルの腕を離さなかった。
そればかりか、時には抱き寄せてホタルを全身で庇う。
完全に足手まといだ。
それを思い知って、だから、ホタルは必死に走った。
頑張って。
走って、走って。
ようやく辿り着いたサクラの部屋。
床を埋め尽くさんばかりの獣の残骸。
見たこともないような巨大な真黒な魔獣が、横たわっている。
少し離れたところには、一度だけカイと共にいるのを見た白い獣。
そして、サクラはカイの腕の中にいた。
それを見て、ホタルは心底ほっとした。
寂しいとか。
恋しいとか。
そんなことは、もうどうでも良かった。
サクラが無事で。
そして、何よりも安全な、何よりもサクラが求める…カイの腕の中にいる。
「遅い。もう終わった」
大事そうにカイがサクラを抱く。
「…ひとまず、だがな」
ホタルの腕を掴むシキの手に力がこもる。
ホタルはシキを見上げたが、シキはホタルを見ていなかった。
カイと巨大な黒い山に目をやりながら、ホタルの腕を掴んだままカイとサクラに近づいていく。
「無茶言わないで下さい。そこら中、魔獣だらけだったんですから。屋敷中、めちゃくちゃですよ」
ホタルはシキから目を離し、驚く大きさの魔獣をすれ違い様に眺め、そして、カイに抱かれているサクラに視線を移した。
サクラはカイの腕の中で疲れたように、それでも、ホタルに頷いて見せた。
大丈夫だと。
そして、大丈夫かと問いかけてくる視線に、ホタルもまた頷いて見せた。
ホタルの耳に新たな足音が届く。
「カイ様、屋敷内には魔獣は残っていないようです」
タキだった。
これでは、シキだかタキだか分からない。
そう思うほど、血に塗れている。
「…例の魔獣でしょうか。サラの…」
「…分からん…見知った者に確認させろ」
カイが命じるのをホタルはぼんやりと聞いていた。
しばらく、何も聞きたくない気分だ。
だが、タキが出ていく足音が耳に響く。
精神的におかしな状態になっているのだろう。
聞きたい音。
聞きたくない音。
求める声。
興味のない会話。
様々なものがホタルの意思に関係なく遠ざかったり、近づいたりする。
「このあたりの狩人に伝えろ」
カイのそれはシキに向けられているようだった。
既にシキの手はホタルを離している。
それに気がついた途端、その場にしゃがみ込みたい思いに駆られたが、なんとか立ち続ける。
「ここから去って行った奴らが、しばらくは暴れるだろう…根こそぎ討ち払え」
「了解です。俺も、このまま着替えて出ますよ…奥方様、準備にホタルをお借りしても?」
シキの声がホタルの名を紡いだことだけが、やけに現実味を帯びて耳に届く。
サクラを見ると、サクラもまたホタルを見ている。
カイに抱かれているサクラには、ホタルは必要ないだろう。
ホタルは部屋を出るシキに続いて、サクラに背を向けた。
シキはホタルを待っていた。
その姿を見た途端、何故か急に泣きたくなった。
「頑張ったな」
シキの労いに首を振る。
何の役にも立っていない。何の役にも立たない。
それでも、涙は堪えた。
まだ、終わっていない。
これから、この人は魔獣を追ってここを発つのだ。
「…頑張ったよ。ついでにもうひと頑張りしてくれ」
シキの腕がホタルの腕を取って歩き出す。
「はい」
ホタルは素直に頷いて、それに従った。
シキの支度を手伝いながら、ホタルは母を思い出していた。
思い出したくもない思い出ばかりの中で、唯一といって良い辛くない光景。
ホタルの母は、父を戦に送り出す支度に手を貸している。
日頃は冷たい視線で父を嘲る母が、何故かその時だけは献身的な妻に見えた。
こうして戦いに赴こうとする男を目の前にすると、それがどんな男であっても。
それがどんな女であっても、その無事を祈らずにはいられないのだろうか。
シキが血に塗れた衣を脱ぐ。
細かな傷が散りばめられた背中に、ホタルは新たに用意された衣をかけた。
今は濃紺のこれも、いずれ紅に濡れるのだろうか。
それが、どうか、この人自身の血でありませんように。
そう祈る。
シキの前に周り、生地を整える。
「ホタル…昼間は悪かった」
上から降ってくる声に、顔を上げた。
「冗談が過ぎた」
そう言うシキは、真面目な顔で見下ろしている。
そんな顔、しないで欲しい。
まるで、これが最期の別れのように思えてくる。
「いえ」
答えながら、背後に周り、広い肩にマントをかける。
そして、再び前に戻り、首元の紐に手を伸ばした。
「頼みがあるんだが」
シキは変わらない真面目な顔で、ホタルに言う。
「はい」
素直に返事をして、マントの紐を結わいてから、手を下ろしてシキを見上げる。
「抱きしめたい」
ホタルは眉を寄せた。
意味は多分分かっている。しかし、その本意が分かりかねる。
ただ、シキの口調と表情がいつもと違うから、やみくもに拒否するのも躊躇われた。
「これで…最期かもしれないから、抱いておきたい」
それは…ホタルではなくても良いということだろうか。
慰める相手を求めるように。
今この時に、ただ、誰かを抱きしめたいということだろうか。
ホタルは迷った。そして、「私でよろしければ…どうぞ」
結局、そう答えた。
シキの言うとおり、これで最期かもしれないから。
だから、だ。
シキの腕が肩を抱く。
ぐっと引き寄せられて、ホタルは許したことを少し悔やんだ。
「やっぱり…細いな」
背中を手の平が撫でる。
思いがけない強さで、腰が引き寄せられる。
想像以上の密着に、ホタルは身を強張らせた。
「細すぎる」
解いてある髪に顔を埋められて、首筋にかかる呼吸に肌がざわめいた。
「抱き心地の悪さは…我慢して下さい」
そして、ホタル自身にも我慢を強いる。
逃げたいのを抑えて。
背中に手を回したい、と一瞬よぎったのを抑えて。
シキの腕に納まる。
「抱き心地は悪くないって…言わなかったか?」
シキはしばらくの間、ホタルを抱いていた。
ホタルの耳には、シキの鼓動と息遣い。
そこに。
「ホタル」
名を呼ぶ声が混じる。
「キスしてもいい?」
そんな問い掛け。
「いやです」
即答すれば、小さな笑い声が頭上から届く。
「それは…」
ホタルはシキの胸に手を置き、そっと体を離した。
「無事にお戻りになってから、お好みの方となさって下さい」
それは、ホタルではない。
どんな女性かは知らない。知りたいとも思わない。
でも、ホタルではない。
「行ってらっしゃいませ」
ホタルは微笑んで、最上級の礼をしてみせる。
侍女として。
それ以外には、何もないけれど。
教えられた仕草に、素直にシキを心配する想いを乗せて。
「心よりご無事をお祈りしております」
シキはホタルを見つめていた。
何かを言いたいように唇が動く。
だが、何も声にならない。
だから、ホタルには聞こえない。
「…悪い…これだけ許してくれ」
シキは呟き不意に背を屈ませると、ホタルの頬に一瞬唇を触れた。
「行ってくる」
離れていく騎士の背を見送ることもなく、ホタルは立ち竦んでいた。
「…何、これ…」
少しして呟いた。
ハタハタと絶え間なく、涙が溢れて止まらなかった。