6
ほんの数日。
カイがサクラを連れて行ってしまってから、サクラに再会するまでの時間はほんの数日だった。今まで共にいた時間に比べれば、それは本当に僅かなものに過ぎない。
なのに、サクラはすっかり変わっていた。
体調が回復したというそれだけではない。
鮮やかに。
艶やかに。
変化を遂げた。
自らの想いを認められた方は、あまりにも眩しい。
ホタルが触れることを躊躇うほどに。
匂やかな瑞々しさに満ち満ちていた。
全て、カイのために。
あの方のためだけに、サクラは変わったのだ。
そして、カイもまた。
ホタルからサクラを奪った方。
サクラを傷つけるばかりだった方。
だけど、サクラが求めて止まない方。
その方がサクラを受け入れた。
サクラの想いが届いた時に、その場に共にあれたことを、ホタルはとても嬉しく思った。
サクラの想いが通じて。
そして、思いも寄らないほどの、深い愛情がカイから返って。
本当に良かったと、心からそう思っている。
だけど、許して欲しい。
寂しいと思うこと。
恋しいと思うこと。
どうしても、拭い切れない。
どんなに言い聞かせてみても、一人になったという思いだけはホタルからなくならない。
どうしても。
「サクラ様。準備できましたよ」
サクラの今日のドレスは、夏の若草を集めたような鮮やかな黄緑。薄い布地で涼しげではあったが、華奢な首筋や肩はやんわりと隠す大人しいデザインだ。
ほんの数日前には、アルクリシュのドレスは首と肩を晒すのが特徴と言っていたアイリだが、手の平を返したように露出を抑えたドレスを準備している。
怪我を負ったカイを煽らないため、と公言して憚らないのはさすがだが、どれほど功を奏しているのか。
「カイ様のお部屋に行かれるのでしょう?」
呼び掛けても動き出さないサクラに再度声をかける。
サクラはちらりとホタルを見やり、少し頬を膨らませて「簡単に言わないで…心の準備がいるの」
頼りなげに訴えてくる。
「心の準備、ですか?」
サクラは頷きながら、柔らかなドレスの裾を実に無造作に、だが華麗に捌きながらラグの上に座り込む。
サクラ自身はあまり気がついていないらしいが、作法に厳しいオードル夫人にきっちり躾けられているサクラの動作は、実のところ、とても優雅で美しい。
「こんな状況、想像したことないもの…どうしたら良いのか分からないの」
どんな状況かは、深く追求しないことにする。
とはいえ、アイリの不作法のおかげで、カイの腕の中に収まるサクラをはっきり見てしまった身としては、その状況を想像するのは難しいことではない。
その上で、ホタルが言えることと言えば。
「私だって、どうしたらいいか分かりません」
ぐらいだ。
オードル家にいた頃は、来客として訪れる貴族らに何度も不埒な真似を仕掛けられたことはある。
だが、ホタルはそういったことは頑なに拒んでいたし、周りの親しい者達はそんなホタルを庇ってくれた。
故に経験といえば、先日の…と考えが至って、遮断する。
「相談相手には到底なれません」
としか言いようがない。
「頑張って心の準備をして下さい」
情けない応援を口にしながら、時間を気にする。
「サクラ様、そろそろ行かれた方が…」
そうしないと。
と思ったところで、扉がノックされる。
大方予想しながら答えると、「奥方様、そろそろカイ様の所に行って下さい」
思った通り、慌ただしくシキが現れた。
シキが歩み近づこうとするサクラを見やれば。
サクラは縋るようにホタルを見ている。
「何か不都合でも?」
シキはホタルに尋ねた。
これは多分、ホタルが適当な言い訳をすれば、シキは猶予を与えてくれるつもりということだろう。
「…何もないと思います」
しかし、そう答える。
いずれ、サクラをカイの元へ送り出さねばならないのだ。
少しばかり先延ばしにしたところで意味はない。
「じゃあ、カイ様のところにどうぞ」
シキがにっこりとサクラに笑いかける。
サクラは動かない。
不安げな表情で…カイ様が見たら絶対怒る…とホタルが心配する愛らしい不安定さで、シキを見上げた。
「…まあ、奥方様の戸惑いも分からなくはありませんが」
シキは苦笑いのような、それでいてサクラを宥めるような笑みを浮かべた。
その笑みは、ホタルをも懐柔させそうな柔らかな優しげなものだったのに。
「カイ様も花を眺めて愛でる方ではないので…しかも、それが咲き誇って、触れられるのを待っているかのようでは堪えろと言う方が酷でしょう」
サラッと言ってのけられた言葉は、若い娘二人を硬直させた。
シキ様…ちょっと、それは。
赤くなって俯くサクラに代わって、ホタルはシキを止めようと口を開きかけた。
だが。
「まして、貴方は妃な訳ですから…本来なら、誰に咎められることなく、好きにしていい筈ですし」
と、続けざまの言葉も際どい。
更には「…医者の言うことはもっともかもしれませんが…我慢させ過ぎるのもどうかと思いませんか?」
などと言われて、サクラは黙って身を縮めるようにしている。
「シキ様」
ホタルはなんとかシキを止めようと声をかけた。
サクラもだろうが、ホタルだって、そんな恥ずかしいこと、聞きたくない。
だが、シキはそれを易々と無視して続けた。
「怪我なら大丈夫ですよ。あの程度なら、あの方にとってはどうってことないですから。何も気にせずカイ様に任せてしまえば、あとは…」
限界。
あとは、なんなのかなんて、絶対に聞きたくない。
「シキ様!」
声を荒げて、その名を呼ぶ。
シキは言葉を止めた。
真っ赤になって睨むホタルを眺め、ふと微笑むと。
「ま、逃げ場はありません。諦めて下さい」
サクラには極上の笑みを見せて、手を差し伸べた。
「…という訳で、カイ様の所にどうぞ」
サクラはシキの手を眺め、やがて「分かりました」と、そこに手を添えた。
ホタルは、シキの助けを得て立ち上がるサクラに近付き、髪とドレスを整えた。
「ホタル、行ってくるわ」
笑顔を見せるサクラに、笑顔を返し。
「行ってらっしゃいませ」
そして、サクラには分からないようにこっそり、だけど思い切りシキを睨みつけたのだった。
人目を避けるようにして、ホタルは庭の隅に座り込んでいた。
膝を抱える姿は、やはり少女のようだ。
「ホタル」
これ以上近づくと気がつくだろうというところで立ち止まり、名を呼ぶ。
ホタルは振り返り、シキを認めると慌てたように立ち上がった。
「何かご用でしょうか」
この2、3日で、少し打ち解けたかと思っていたが、また、元に戻ってしまったようだ。
だが、シキはそれをあえて素知らぬ風に近づき、ホタルの横に腰掛ける。
そして、ホタルに隣を指差して見せた。
ホタルは少し迷った後、素直にそこに座った。
やはり、多少は歩み寄ることができているらしい。
「…泣いてるかと思った」
ホタルを見つけた時は、本当にそう思った。
というか、実のところ、探していたのだ。
一人で、どこかで、泣いているのではないかと思って。
「泣きません。何も…泣く理由なんてありません」
言うものの、シキには泣いているように見える。
「まあ、それもそうか」
だが、そう言っておく。
ホタルはホタルで、何かを思っている筈だから。
「…暇そうだな」
少し庭を眺めて、シキは尋ねた。片隅から覗き見る庭は、どこか遠い世界に思える。
平和な一時だ。
ほんの少し前に、魔獣に出くわして、主君が怪我を負ったとは思えないほどに。
「ここでは特に仕事もありませんし」
ホタルは同じように庭を眺めながら答えた。
静かな瞳は、シキと同じような違和感を感じているかのよう。
この娘は、時々ひどく大人びた顔をする。
それは遠耳という力のせいだろうか。
「カイ様はサクラ様にベッタリだしねえ」
言えば、大人の表情が消えて、子供の笑みが零れた。
だが、それがすぐ険しくなってシキを睨む。
「シキ様、サクラ様を虐めないで下さい」
もちろん、今朝方の会話だろう。カイの求めに戸惑うサクラに、あえて際どい言葉を投げ掛けてみた。
「親切な助言だっただろう?」
「助言?」
疑う目線に笑いかけた。
「奥方はもう少し自覚した方がいい」
シキ自身、最近気がついた。
サクラという主の妃は。
「ご自身が十分に魅力的だということをね」
平凡な娘だと思っていた。特筆すべきことのない凡庸な娘だと思っていた。
だが、違う。
あの柔らかさ。
あの温かさ。
そして、通った一筋の強さ。
サクラという娘は、軍神や、この侍女を魅了するだけのものを持つのだ。
「そうだろう?」
ホタルはシキを見つめ、そして嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
こちらの娘も、自覚すべきだ。
その笑みが、いかにこちらに切り込んでくるか。
もっとも、まだまだこちらは咲き誇るには、時間がかかりそうだが。
「シキ様は何してらっしゃるんですか?」
少しの間をおいて、ホタルが尋ねてきた。
ホタルの方から、会話を続ける様子を見せたことを意外に思いながら。
「私も暇を持て余しているところだ」
答える。
カイに傷を負わせた魔獣は狩った。
もう一頭いる筈の魔獣は、まだ見つからない。
剣を振るう相手がいない内は、シキには比較的自由が与えられる。
とはいえ、言うほど暇を持て余している訳ではない。
今しがたも、現れた狩人達に幾つかの指示を出してきたところだ。
「…タキ様はお忙しそうにお仕事していらっしゃいますよ」
ホタルが言う。
「あいつは仕事が趣味だから」
シキは肩を竦めて見せた。
双子の片割れの忙しさは承知している。
だが、それはシキが口を出すことではない。シキが必要な時、タキは迷いも遠慮もなく使ってくれるのだから。
だから、今はこうして一時の平穏を過ごすくらいは許されるだろう。
「…カイ様が」
ぽつり、とホタルが切りだした。
見ると、何か言いづらそうにしている。
「うん?」
促す。
「…私がシキ様をお連れしたのか…とおっしゃったのですが」
ホタルは俯いたままだ。
「ここには…いらっしゃることを、あまりお望みではなかったのでしょうか」
これは何か聞いたな、と察する。
「そうだな」
ホタルが見た目の幼さと裏腹に、ひどく大人びた風に思い悩むタイプらしい、と気が付いているシキは、そんな些細なことがホタルに引っかかっているなら取り除いてやりたい、と単純に思って軽く答える。
「…それは…」
ホタルは言葉を探すようにしていたが、結局
「アイリ様がここにいらっしゃるからでしょうか?」
すっぱり聞いていた。
つい笑みが零れたのは、まるで駆け引きができない率直さが可愛らしいと思えたからだ。
「何か聞いた?」
尋ねる。
「遠耳で聞いたのではないです」
との答えに、また、ホタルが力を卑下していると感じながら。
「そういう意味で聞いたんじゃないよ」
手を伸ばして、ポンポンと小さな頭を軽くはたく。
ホタルは戸惑うような表情を見せながらも、シキの手のひらを拒まなかった。
「ここの侍女の方々が…その…過去の経緯をいろいろと教えて下さいまして…」
ここの侍女達は若く華やかな分だけ、口も軽いらしい。
シキは「ふーん」と、なんとなく答えた。
ホタルは少しだけ間をおいて。
「シキ様もアイリ様をお好きなのですか?」
まるで子供の問い掛けだった。
「そういうことを、サラリと言うかな、この子は」
本当に駆け引きのないそれ。
「はっきりしておこうと思いまして」
そして、やけにきっぱり言う。
「何故?」
問えば。
「お詫びすべきかと」
一度も視線を合わせないのはそういうことか。
どうやら、侍女の心中には罪悪感、というものがあるらしい。
「ここに連れてきて頂いたので…申し訳なかったと…」
シキはもう一度ホタルの頭を手のひらで宥めた。
こんなことで、ホタルを煩わすのは避けたい。
「いや…正直来て良かったよ」
だから、隠すことなく話すことにする。
「アイリが好きだったよ」
幼い頃から一緒にいた小さな姫君。
美しい娘になる様を見守って、それが、いつの間にか恋慕になった。
だが、カイの妻になる女性だと、手の届かない方だと、最初から求めもしなかった。
あのままカイの妻になっていれば、違っただろう。
主君の妃として仕え、想いは何らかの姿に変わったと思う。
ところが、アイリは双子のタキの妻となった。思いがけない…いやアイリの想いには気がついてはいたのだが、それでも、まさか…という現実にシキの気持ちはどこにも行き場がなくなってしまったのだ。
引きずっているとは思いたくなかった。
だが、どんな想いを抱き続けているのか形が見えなくて。
だから、ここには来たくなかった。タキとアイリが共にいるところを見たくなかった。
「けど、もう、大丈夫だった」
そう、大丈夫だったのだ。
アイリは、双子の兄の妻。
その現実は、あっさりとシキの中に落ち着いた。
さすがに無邪気な抱擁を受け入れるのは躊躇われたが。
昔話に花を咲かせられるくらいには。
それは過去の想いだった。
「…本当に?」
心配げに尋ねる少女のような娘に頷く。
ほっとしたように微笑んだのに満足しながら、ふと話を振ってみる。
「ホタルは?」
さほどの意図があった訳ではない。
まるでその手の話題に興味のなさそうな娘への好奇心?…の筈。
「私?」
ホタルは首を傾げた。
「そう…君は、誰か好き?」
ホタルは首を振った。
「…私、そんな資格ありません」
呟かれたそれの意味は分からない。
「資格?」
誰かを好きになる資格。
そんなもの、誰にだってあるだろう。
「サクラ様だけでいいんです」
ホタルは言った。
きっぱりと。
それが気に入らなかった。
「だが、奥方の唯一は君じゃない」
自分でもひどいことを言ったという自覚は十分にある。
しかし、事実。
ホタルが唯一と仕える方は、ホタルではないたった一人を見つけた。
「意地悪ですね」
ホタルが睨んでくる。
それをさぞかし余裕めいて見えるだろう笑みで受け止めた。
「寂しくない?」
尋ねる言葉は、自分でも思いがけない優しさを含んでいた。
計算ではないそれに一瞬シキ自身が戸惑った。
だが、それはホタルを懐柔しない。
人よりたくさんの言葉を聞く耳は、その優しさをどう取ったのか。
「本当に意地悪ですね」
むしろ、気分を害したようだ。
立ち上がろうとするのを腕を掴んで止める。
「私は寂しいよ」
一人は寂しい。
そんなの当たり前だろう。
だから、みな誰かを求めるのだ。
違うか?
「だから…たくさん恋人をお持ちなのでしょう?」
責める口調ではなかった。
事実として突き付けて、シキから離れたいというだけの気持ちを含んだ言葉だったのだろう。
だが、それは何故かシキに何かを抱かせた。
名を付けるなら、罪悪感とか後ろめたさ。
「それも親切な誰かが教えてくれたのか?」
それでも、余裕の笑みを見せて尋ねた。
ホタルは答えない。
ただ、シキをじっと見つめてきた。
「本当に欲しい一人が手に入らないとね…一人じゃ代わりにはならないんだ」
視線を逸らさずに、シキはそんなことを口にしてみた。
多分、それは本音だ。
ただ、本当に欲しい一人は誰なのか。
戦の最中、狩りの最中。
もしかしたら、これが最期の時かも。
そんな時さえも。
思い描く人をシキは持っていない。
幾人の情人がいても。
戦いを終えて戻る場所は、シキは定まっていない。
「…私は…一人で良いんです」
サクラ様だけで。
ホタルは呟いた。
とはいっても、シキに侮蔑の視線を向けるでもない。
なるほど。
シキのことは他人事か。
己には関係ないと、あっさり切り捨てられるのか。
やはり、本当にあの妃だけなのか。
だけど。
「寂しいのに?」
言いながら腕を引く。
「…寂しい者同士…慰め合うのは悪いことか?」
本気か冗談かは自分でも分からない。
だが、細い腕を掴んだ力は自分自身でも思いがけず強い。
ホタルは崩れるようにシキの胸に倒れ込んだが、すぐに顔を上げた。
そして、今度は明らかな蔑視を胸元からくれる。
「申し訳ありませんが、他を当たって下さい」
腕を払われ、すぐさま胸から逃れる娘に、再び引き寄せられる隙はなかった。
「失礼します」
礼さえなく、ホタルは小走りに逃げていく。
失敗した。
だが、止まらなかった。
サクラ一人を求めて、誰も受け入れようとしないホタルが腹立たしい。
こんなに。
こんなにシキを捕えておいて、サクラしかいらないというホタルが。
ああ、そうか。
ストンとシキの中で、何かが落ちた。
そうなのか。
シキは、納得した。
なんとなく、気がつきかけていた。
だが、唐突にそれに納得した。
あの娘に惹かれている。
あの娘が欲しい。
シキはホタルが去った方を眺める。
だから、目が離せない。
泣いていないかと心配で、姿を探さずにはいられない。
そして、笑みを向けられれば、胸が跳ね上がるのだ。
そうか。
己はあの娘が欲しいのだ。
なのに、あの娘の心を占めるのはたった一人。
だから、こんなにも腹立たしい。
とはいえ、どうする?
あの娘は、妃が最も信頼する侍女だ。
遠耳という能力を持ち、しかも、まだまだ何かを内に抱えていそうだ。
何よりも、シキを苦手だとはっきり意思表示しているではないか。
軽い気持ちで手を出すには、少々、いや、かなり厄介な相手。
考えてみる。
このまま、距離を置くと言うのも一つの手。
いや、そうするべきだろう。
だが、できるのか。
気がつかぬ内にも視線が追うのに。
意識せずとも、手が伸びるのに。
手に入れずに済むのか?