5
腹痛、頭痛…いっそ生理痛なんてどうだろう。まさか、証拠を見せろとは言われまい。
朝から、昨日頂戴したありがたくないこのご招待を、ご辞退申し上げる理由をいろいろと考えてはみたものの、結局どれも口にすることはできず、ホタルは不本意ながらスタートン邸へと赴く羽目になっていた。
しかも、「今日は侍女としてお伺いするのではないのだから」と、マアサに言われて、日頃身につけている侍女の衣装は却下されてしまう。
由緒正しい方を訪問するためにと、マアサが着せてくれたのは小奇麗な浅黄の夏のドレス。髪もいつもはみつあみして、引っ詰めるだけなのに、今日は多少華やかに結い上げられる。
途中でたまたま通り掛かったカノンが加わって、化粧までされてしまった。
日頃は慌ただしく仕事をこなす二人だが、カイにサクラ、さらにはタキまでいないとあって、かなり時間も気分も余裕のようだ。
新しい玩具でも見つけたかのように、寄ってたかって弄られること、数十分。
「あら」
化粧を終えたカノンが、感心したように呟く。
「きれいな顔してるとは思っていたけど…やっぱり若いっていいわねえ。化粧のノリが違うわ」
自らの作品に満足するような二人の侍女と裏腹に、鏡に映る姿を見たホタルの気分は、ただでさえ下り坂だった所に、思い切り拍車がかかって急降下だ。
この姿で、あの騎士の前に出るの?
言い訳でなく、本当に胃のあたりが痛い気がしてきた。
「でも、さすがにちょっと淋し過ぎない?」
言いながら、カノンが突然、ホタルの胸に手の平を当てる。ギョッと身を引くと、真剣な顔で「なんか詰め物する?」と聞かれた。
「しません!」
勢いよく返事をする。
冗談ではない。
何の意味があって、そんなことをしなくてはいけないのか。
「細い子だとは思ってたけど…それでは、うちの子供みたいよ?」
カノンの子といえば、上の10歳児は男の子だから。
7歳児と一緒にされてしまったようだ。
でも、それでいい。
「体型なんて、まだ、これから変わりますよ」
マアサがクスクスと笑いながら、フォローらしきことを口にする。
ホタルは何も言わずに、鏡の中の自分に目を向けた。
言われても仕方がない、細い体。凹凸に乏しい体は、確かに子供のようだ。
いつからか成長が止まってしまったかのように。
ホタルの体は幼い。
でも、このままでいい。
ふくよかな胸も腰もいらない。
サクラやカノンのように、女性らしい体なんていらない。
誰にも触れられることのない体だから。
何も育まない体だから。
だから、必要ない。
子供のような。
女性らしさのまるでない。
このままの体でいい。
「シキ様がいらっしゃいましたよ」
かけられる声で鏡から目を逸らし、ホタルは重い足取りながら部屋を出た。
シキは、しみじみとホタルを眺めてきた。
本当に不躾な、全く遠慮のない視線だ。
恥じらったり、怒ったりしたら負けな気がする。
だから、なるべく普通を装って「…なんでしょうか?」
尋ねる。
「いや…新鮮だな、と」
多分、素直な感想なのだろう。妙に気を遣われて、気恥ずかしい言葉をかけられるより、よほどいいと思った途端。
「君は…少し北の方の血が入っているのか?」
シキが何気なく続けたらしい言葉に、ホタルは自身でもびっくりするくらい体が強張った。その反応は、どんなに愚鈍な者でも気がつくだろうというくらい、あからさまだった。
シキが気がつかない筈はない。
更に質問を重ねられたら、どうすれば良い?
何か言い訳をとホタルが焦る中、シキの方はまるで何事もなかったかのように歩きだした。
少し後ろを付いて歩くと、前方から「しかし…細いな」と呟きが聞こえてくる。
またか。
本当ならうんざりするところだが、話題が変わったことを素直に喜ぶ。
でも。
「細すぎる…ちゃんと食べてるのか?」
ちらりと見下ろしながら、しみじみと言われるのは、いい気分ではない。
ちゃんと食べてはいる。
「食べても肉のつかない体質なんです」
だから、その問いには正直に答える。食べさせてもらってないとでも思われたら、屋敷内の誰に迷惑がかかるのやら。
シキは片方の眉を器用に上げた。
「それはそれでマアサあたりが羨ましがりそうな話だが…細すぎるだろう」
何度も繰り返されて、さすがにムッとくる。
思わず「どうせ、サクラ様と違って、抱き心地が悪そうです」
と言ってしまってから。
「それは…」
しまった、と思った。
無礼な態度と。
カイとの会話を遠耳で聞いていたという露呈を、自らほじくり返す失態。
しかし、後の祭りだ。
「…君は普段はどれぐらい聞こえているんだ?」
シキの問い掛けに、慌てて答える。常に聞き耳を立てているとは、例え相手が苦手なシキであっても思われたくはない。
「あの時は、お屋敷についたばかりだったので、緊張してて…ちょっと力が暴走気味だったんです…普段は本当に人より少し聞こえる程度で…」
段々、言い訳が尻すぼみになっていくのは、そこにかなり誤魔化しがあるから。
つまるところ、ホタルは正直者なのだ。
だから、つい俯き加減になってしまう。
「責めてる訳じゃないよ」
シキはきっぱりと言った。
勇気を持って少し顔を上げれば、シキは柔らかい表情でホタルを見下ろしていた。
「能力を使って自らの権威を示そうとする者はいくらでもいるけど、君がそういう人種ではないことは分かってる」
そうありたいと思っている。
持っているものは仕方がないと、諦めの言葉を何度も唱えて。
せめて、誰かのお役に立てれば良い。サクラ様をお守りできれば良い。
そう考えるのに。
なのに、ホタルは力を使ってサクラを追い詰めた。
ツンと鼻の奥が痛くなる。
自らが犯した間違いに、また胸が苦しくなる。
「ホタル」
シキは足を止めた。
「大事な人を守るために、力を使うことを恥じたり、負い目を感じる必要はない」
真剣な顔で、ホタルを見下ろしてくる騎士は諭すように続けた。
「皆、何かを守るために自らの持てるものを駆使する。それは悪いことじゃない。君が奥方を守りたいと力を使うことは、決して間違ったことではない」
そして、笑みを浮かべる。
「何も持たない私なんかは、剣を振り回すしかないんだよ」
少し自嘲が混じったようなそれ。
いつもとは少し違う表情に、シキの本音を垣間見た。
「だから、そんなに自分の力を卑下するんじゃない」
そんな風に言われたのは初めてだ。
ホタルは小さな声で礼を述べた。上辺ではない、心からの礼を。
「さ、行こう」
再びシキが歩きだす。
シキが諭したのは、ホタルが己の力を嫌悪する表の理由についてだ。
それでも、なんだか少し救われた気がした。
黙々と従って歩いたホタルは、馬車の前に辿り着いた。
「どうぞ」
車の扉を開けて、シキが促す。
「これに乗るのですか?」
歩いて行ける距離と聞いている。
なのに、馬車?
しかも、御者はいない。
つまり、シキが御者をする?
「呑気に歩いていくと、途中で逃げられそうだから」
そんなことありませんと言い切れないのは、先ほどまで仮病の言い訳を考えていたからだ。
「乗って」
と言われても。
まさか、公爵家のご子息に御者をさせて、侍女ごときがのほほんと座っていられる筈がない。
「ホタル?」
少し悩み、仕方無くホタルは、シキが座るだろう御者台の横に座った。
「…そこ?」
「恐れ多くて後ろには乗れません」
シキは微笑んだ。
「私としては大歓迎だけどね…その姿でここはちょっとね」
確かに。
正装で御者台は、変な光景だろう。
だから、いつもの服で良いと言ったのに。
ただでさえ乗り気ではないのに。
どうしようかと思うけれど、でも、やはり後ろには乗れない。
そういう身分ではない。
「ちょっと待って」
と言うシキが、馬車の中から持ってきたのは、女性用のショールだった。
ホタルの隣に座ると、それをふわりと広げてホタルの頭に被せる。
柔らかな生地は、かなり大きめのもので、頭から腰あたりまですっぽりと隠すことができる。
「ないよりはマシ…ぐらいだけどね」
ホタルはショールで顔を隠すようにして「…ありがとうございます」
まったくもってこの方は。
その優しさと気遣いは。
どれだけの女性を惑わせるのだろうか。
こういうところも苦手なところの一つだ。
ホタルの小さなため息は、ゆっくりと動き出した馬車の揺れに飲み込まれた。
動き出して間もなく。
「昨日、ケイカという名を母が口にしていただろう?」
シキが話を切り出した。
「はい」
予測していた会話の流れ。
ホタルは頷きながら、昨日の会話を思い出す。
今日お相手をするのはシキの母君と、拗ねて部屋から出てこない、ホタルと同い年だという娘。
「妹の名前だ」
妹。公爵家の令嬢、ということか。
別段、驚く話ではない。
シキに妹がいたとは知らなかったが、それだけホタルには関係のない話だということだ。
だが、続いた言葉には正直驚いた。
「五年前、かけおちして、そのまま行方知れず、という困った妹でね」
それが本当ならば公爵家の令嬢の出奔ということになる。
当時の世間は、さぞかし醜聞に湧き立っただろう。
「生きてるなら23歳になってる」
ホタルははっとした。
23歳?
母君は、ホタルと同じ歳だと、言っていなかったか。
「駆け落ちしたのが、18歳の時だった」
ホタルはあっさりとそれを理解した。
そして、やはり、と思う。
あの時、感じたものは間違っていなかったのだ。
あの方は、同じなのだ。
あの女と。
「相手が身分の低い男で、父が猛反対。妹は、さっさと家を出て男と行ってしまった、と」
そこまでの口調は、いつものシキと変わらなかった。
だが、さすがに次の言葉は声が沈んだ。
「母は、それから、少し壊れている」
大事な人を失って、それが辛くて堪えられなくなったとき。
人はその事実を、己の中から消してしまうことがある。
そして、何事もないように日常を過ごすのだ。
ホタルは、そんな女を一人知っている。
シキの母が、その女に重なる。
「母の中でケイカは18のままで、拗ねて部屋から出てこない困った娘なんだ」
やはり、来るべきではなかった。
ホタルはギュッと手を握りしめた。
私は大丈夫だろうか。
あの女と、同じものを抱えた女性を前に、平静でいられるだろうか。
「適当に話を合わせてやってくれ」
不安を抱いたまま、しかし、ショールの内でホタルは頷いた。
ほどなく、馬車は立派なお屋敷の門を潜り、中庭に止まった。
シキの手を借りて、馬車を降りると、突然「あ、そうだ」とシキが声をだす。
まだ、何かあるのかと顔を上げれば。
「悪くなかったよ」
にっこりと、笑うシキに出くわす。何故か少々嫌な感じを覚えながらも「…何がですか?」
問う。
「君の抱き心地」
一瞬、意味が分からない。
だが、その意味が分かった途端、今度はカッと頬が熱くなる。
それは、多分あのキスの時のこと?
というか、それしかありえないだろう。
「でも、やっぱり、もう少し凹凸が欲しいかな」
ホタルの能力を認めるようなことを言ってくれて。
ちょっと、いい方かもしれないと思ったりしていたのに。
「レンの作る料理はうまいけど、うちの料理人の作るものも悪くないから出たものは、きちんと食べなさいね」
さらっと言った後、何事もなかったように、シキは歩き出した。
やっぱり、この方は苦手。
ホタルは、零れそうなため息を堪えながら、後について歩き出した。
スタートン夫人は、満面の笑みでホタルを迎えてくれた。
ホタルは多少の緊張をもって夫人の前で礼をし、導かれるままに椅子に腰掛ける。
シキは、二人から離れたソファに腰を下ろした。
どうやら、そこに落ち着くつもりらしい。
ありがたいような、ありがたくないような。
複雑な思いを抱く。
夫人は柔らかな口調で、いろいろな話をした。ホタルにも、様々なことを尋ねる。
ことに、公の場に出ることのない妃殿下…つまりはサクラのことは気になるようだった。
当然といえば当然だ。
突然現れた、軍神の妃は、ちょっとした時の人だ。
出生、生い立ち、容姿や性格。さしてサクラを知る訳でもない人達が、身勝手な憶測で語るのをホタルは聞いていた。
苛立ちや怒りを持って。
でも、まさか訂正して歩く訳にもいかないから、唇を噛み締めて聞き流していた。
サクラの耳に届かないことを祈りながら。
一方、夫人のそれはホタルを不快にはさせなかった。
噂好きな有閑婦人の好奇心ではなく、幼い頃から知り、息子の主君でもあるカイを思う故と感じ取ることができたから。
ホタルはなるだけ真摯に答えた。
そして、話をするうちにホタルは気がついた。
夫人は、一度もケイカという名を口にしない。
シキやタキの幼い頃の話。公爵である夫の話。それらが出た時でさえ。
まるで、そんな娘はいないというようにチラリと触れることさえない。
分かっているのだ。
本当は、娘がここにいないことを。
今、ここで、ケイカの部屋の扉をノックし、開けてしまったら、そこに誰もいないということを。
意識の奥底で分かっている。
だから、今は何も触れない。
こうして、自らの世界を護るのだ。
そんなにも…大事なのか。
その娘が。
いないことを認めてしまったら、自らの世界が崩壊する程に。
母親とはこういうものなのだろうか。
ホタルは、自らの母を思った。
一度もホタルを己の子と認めなかった女。夫だけが全てだった女。
だが、この目の前の夫人は、違うのだ。
ホタルが、ふと夫人に思いを向けた、その瞬間。
口には出さないその存在が、不意にホタルの耳に届く。
ホタル自身、一瞬、起きたことの意味を掴み損ねた。
「ホタルさん?」
強張ったホタルを気遣うように、夫人の手がホタルに触れる。
途端に流れ込むのは、ざわめく人々の声。
だが、それは背景のようにぼやけて、意味をなさない雑音。
そして、はっきり響くのは。
「…アキ、どこにいるの」
声。優しい優しい女性の声。
「ケイカ!?」
夫人が不意に叫んだ。
「ケイカの声がするわ!」
姿を探すように、椅子から立ち上がり首を巡らす夫人をホタルは驚きで見詰める。
まさか?
同調?
ホタルの聞くものが、この夫人に流れ込んでいる?
こんなにも、たやすく?
そんなことが、ありえる?
シキが動こうとする。
ホタルは一瞬迷ったが目でシキを制して、夫人の手をギュッと握った。
意識を夫人に。
夫人の中にあるケイカの声に向ける。
「ああ、そんなとこにいたの。探したわ。さあ、あちらで父様が待っているわ」
「父様、帰ってきたの?」
幼い…男女の区別さえ判じ得ない声。
ざわめき。物売りの声。ひと際大きな叫びが漁船が戻ってきたと告げている。
とても訛りが激しい。
でも聞いたことがある。
「父様、たくさんお魚獲って来たかな?」
アキと言う子の声の後ろで「マオマオが大漁だってよ!」という答え。
「ケイカ!アキ!」
男性の声が、名を呼ぶ。
やはり、声はケイカなのだ。
「父様!」
「おかえりなさい。アユ」
遠くにザーッという音。
これは、波?
「ケイカ!」
夫人の声。
いきなり、目の前が暗くなる。
そこで音が途絶えた。
「ホタル!」
ひどく近くに聞こえる声。
背中を抱かれるように起こされて、床に倒れ込んだと分かった。
どうやら、力を使い過ぎたようだ。
「大丈夫か?」
シキが心配そうに覗き込むのに、なんとか頷きを返しながら、夫人を探す。
大丈夫だろうか。
また、傷つけてしまったのではないか。
娘はここにいないと。
遠くで、夫と子供と暮らしているという現実は、心優しい母を打ち砕いてはいないか。
「奥様」
夫人は床に座り込み、呆然とホタルを見つめている。その瞳が、ホタルの母の最期とは全く違うことにいくらか安堵する。
「…あなたなの?」
夫人は呟いた。
膝を進めて、ホタルに近付く。
「今のは…あなたが?」
ホタルは目を逸らした。
気味が悪いと思われても仕方がない。遠耳は身近な存在ではないから。
だが。
「ありがとう」
思いがけない言葉が、ホタルに届いた。
ギュッと手を握られて、そこに祈りを捧げるように額が当てられる。
「生きているのね」
夫人はそれ以外は何も言わなかった。
涙が頬を伝う。
あとはただ、何度も何度も。
「ありがとう」
それを繰り返した。
シキは、侍女を呼んで、興奮気味の母を下がらせた。
母は名残惜しげではあったが、ホタルの疲れた様子と、息子のやんわりとした、だが断固と譲らない態度に、折れて部屋を出ていく。
ホタルをソファに座らせ、暖かいお茶の入ったカップを渡す。一瞬触れた指先が、ぞっとするほど冷たい。
「大丈夫か?」
もう一度尋ねる。
ホタルは頷き、手を温めるようにカップを包んだ。
その小さな両手を自身の手の平で温めてやりたいという思いが沸き上がる。
そんなことをすれば、思い切り逃げられるのだろう。
「波の音がしました」
独り言のような小さな声。
「波?」
じっとカップの中を見つめながら、ホタルは話していく。
聞いたことを。
たくさんの情報の中から必要なものを探し出すように、考え込む。
普段の子供っぽさとはほど遠い姿だ。
「それから、周りの話し声には南方の訛りが多く聞かれました」
続く言葉に、シキの頭は幾つかの地名が浮かぶ。
「マオマオが大漁だったと」
この時期にそれが獲れる地域。
それだけで、随分と絞られる。
「そこにケイカが?」
ホタルは頷いた。
「旦那様らしき方が、帰ってきたとおっしゃっていました。お子様の言葉から旦那様は漁師と思われます。少なくともその近辺にお住まいと思います。町の名前までは分かりませんでした…申し訳ありません」
「詫びる必要なんてないよ」
疲れきって座っているのも辛そうなホタルを労いながら、少なくない驚きを持って見つめる。
遠耳を持つ者は何人か知っている。中には、かなり遠くのことを聞くことができる者もいて、戦では助けられた。
だが。
「驚いたよ…こんな遠耳は初めて見た」
ケイカの声を探し当てたのだ。
広範囲を聞くだけではない。
ホタルは、声を探し当てることができるのだ。
「私…普通じゃないみたいです」
素直な感嘆だったが、その言葉はホタルには辛いものだったようだ。
疲れているせいか。
それとも、多少シキに打ち解けたのか。
心情がありありと表情にでる。
「例えば…こうしてシキ様の側にいると、シキ様がその時にお望みの方の声を聞くことができるんです」
ホタルはカップに口をつけた。
一口含み、息をつく。
「逆に…私が聞いていることを、人に聞かせることも可能です。ただ…これは、なんて言うか、波長?…が合わないと難しくて…奥様が同調なさるなんてびっくりしました」
シキは、ふと気がついた。
「奥方とは合う訳だ」
ホタルは嬉しそうに微笑む。
「そうなんです。小さな頃は、それがとても嬉しくて…意味なく、いろいろなことを聞いてみたりしました」
それから、シキを見る。
シキが視線を合わせると、一瞬たりとも迷わずに「本当に…最初は故意ではなかったのです。奥様にお聞かせするつもりもまったくなくて」
訴えてくる。
「私の力に巻き込んでしまい、奥様には申し訳なく思っています」
確か、18歳になると言っていた。意外に若いと思ったのは、こういうところに、細かな気遣いが見えるからだ。
「ホタル。巻き込まれたのは、君だろう」
シキは思うままのことを口にした。
ホタルがあえてケイカの居場所を探ろうとしたとは思えないから。
「母の思いに君が巻き込まれた。すまなかった」
娘の不在を認められない母。
自らを騙してしか正常を保てないほどに求めるその想いに、ホタルが引きずり込まれたと考える方が適っている。
ホタルは、目を見開いた。
そんな表情は、歳相応に見える。
そして、プルプルと首を振った。
その仕種は、幼い子供のよう。
「それから…」
シキはずっと言うべきだと思っていたことを、ようやく口にする機会を得た。
「この間も、悪かった」
ホタルは、じっとシキを見詰める。
誘われているような感覚を、錯覚だと言い聞かせながら。
「…奥方を軽んじるようなことを言った」
ホタルはまた、首を振った。
「もう一つ」
本当に詫びたいのはこちら。
「無理矢理…キスした」
ホタルの頬が赤く染まる。
今日のホタルは、いろいろな顔をシキに見せる。
見せてないのは、満面の笑みくらいか。
「いえ…あれは、元はといえば私が悪いんですし」
俯いて、ボソッと返る返事は、だが、そこで詰まる。
耳まで赤い様子に、思いついたことを口にする。
「もしかして、初めてだった、とか?」
コクリ、と頷いた。
それには正直驚く。いや、慣れてないのは、気が付いた。
だが、侍女などという立場にあれば、不埒な貴族の誘いなど、いくらでもあろうに。
初めて、とは。
「大丈夫です!」
いきなり、顔を上げて、ホタルが勢いよく話し出した。
「なかったことにしてますから」
ホタルにしてみれば、シキを気遣っての言葉だっただろう。
しかし。
「いや、それは無理だろう」
無理に決まっている。
いや、なしにされるのは不本意な気がする。
なぜなら、シキは無理なのだ。
あれから何人の女で、その感触を消そうとした?
いくら濃密な時間を上塗りしたところで、僅かな応えもなかった拙いキスが浮き立つ。
「シキ様が黙ってて下されば無理ではないです。次が初めてってことにしますから、シキ様も忘れて下さい」
しかも、そんな風に言われ、かなりムッときた。
「おい、待て」
立ち上がらんばかりのホタルの腕を掴み。
「次回の予定があるのか?」
尋ねていた。
ホタルは、また頬を染めて。
「それはシキ様には関係ありません」
もっともな答えだ。
ホタルが誰とキスを交わそうが、シキには関係ない。
関係ないが…面白くない。
面白くない?
「それはそうだが…とにかくなしにするのは無理だろう」
自身が至った思いを、今は深く追求するのは止めて、ひとまず、言うべきことを言う。
「何かあったら言ってくれ。詫びはする」
ホタルは「いえ、そんなことは…」と言いかけた。だが、それは途中で止まり、考えるようにソファに座り直した。
やがて。
「私、サクラ様のところに行きたいです」
願い出た。
そうきたか。
もし、意趣返しなら見事だ。
だが、もちろんそんな筈はない。ホタルは何も知らないだろう。
これは、純粋な願いなのだ。
「それは…」
カイがサクラを連れて行ったのは、とある小国。
アルクリシュというそこは、体調を崩した妃を連れて行くに相応しい国に違いない。
だが、シキには、あまり近付きたく場所なのだ。
どうする?
ホタルはシキを見ている。
じっと。
期待と不安を隠しもしないで。
この表情を払拭するのは簡単だ。
一言でいい。
「…分かった。連れて行こう」
そして、シキは折れた。
「本当ですか!?」
ホタルの表情が一転する。
「ありがとうございます。シキ様」
今日は本当に、様々な表情を見せる。しかし、まさか、この笑顔が自分に向けられるとは思わなかった。
見たことのない、いや、シキには見せたことのない笑顔。遠くでしか見たことのない表情が間近に溢れて、思いがけず、心臓が踊った。
「…どういたしまして」
意識してにっこりと笑みを返しながら、何となく、己の感情の行方に気が付いてしまった。