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一生着ることなどないと思っていた純白のドレス。
ほぼ完成しているそれを身につけて鏡の前に立つホタルに、もうすっかり顔なじみのお針子が会心の笑みを見せた。
「とてもお似合いですよ」
お世辞だとは分かっていても、恥じらいと喜びがホタルを満たす。
そして何よりも、丹精込めてこれを縫いあげてくれたのであろう彼女に感謝し、心からの礼を述べた。
何度か耳にしたことのある有名なドレス工房に、両脇を将来の義母と義姉に、背後を侍女頭に……世間的には『彼女達を従えて』というところなのだろうが、ホタルの気持ちとしては『彼女たちに包囲されて』……訪れたのは、婚約が決まってまもなくのことだった。
ドレスをあつらえる事自体は、初めてではない。
10歳の誕生日の時や、サクラのお披露目と共にささやかながらもホタルの成人も祝ってもらえた時など、要所要所でオードル家は、ホタルにもドレスをこしらえてくれた。
しかし、あんな風に店を占拠する勢いでありとあらゆる純白の布地を広げ、どんなドレスがいいのかなどと大騒ぎしたことはただの一度としてない。
大体が、サクラは好みははっきりしているもののどちらかと言えば与えられたものを無難に着こなすタイプだし、ホタルに至っては「あつらえて頂くだけで十分」という思いだったから、工房を訪れて生地から選ぶという行為自体が初めてだ。
3人の女性の楽しげながらも真剣な様子に圧倒されて、ただただ大人しくしているホタルの目の前に、最終的には3種類の生地が置かれて、どれにするかと問われた時も、金額を聞くのも怖いような一目で極上品と分かる生地に怖気づき、「お任せします」の一言を言うのがやっとだった。
本当なら、そんな高価な生地は恐れ多くてご辞退申し上げたいところだ。
しかし、シキから母の好きにさせてやって欲しい、と事前にしっかり念を押されていた。
その後は、選んだ生地とお針子数人がスタートン家をたびたび訪れて、ホタルの身体に合わせてこのドレスは作り上げていった。
一枚の大きな布地だったものが切り取られ、縫い合わされ、技巧が施されて美しいドレスへと変化していく様は、なかなかに面白いものだった。
ただ、これがホタルのものだという自覚を促されると、どうしても気後れしてしまうのが。
「いかがでしょう?」
お針子を取りまとめている工房の女店主が、傍らでドレスの出来栄えを確認しているスタートン夫人にお伺いを立てている。
もう、十分だと思うホタルだったが、夫人は幾つか細かい点を指摘し、店主は神妙な顔でそれに頷いた。
「結婚式には、完璧なものをご用意致します。ご安心くださいませ」
力を込めてそう宣言し、明日また訪れることを約束して工房へと帰って行った。
ドレスは間違いなく、結婚式の時には素晴らしい出来栄えを披露するだろう。
それには何の心配もない。
結婚式後、新居となるのは、庭にあるあの小さなお屋敷だ。
そこには、これもまたもったいなくも新たにあつらえられた調度品が、昨日運び込まれ、住む人を待ちかまえている。
以前一緒に働いていたカノンが納められる調度品と共にこの屋敷を訪れて、「落ちちゃったのね」と爆笑したことはまだ記憶に新しい。
涙を浮かべて笑い続けた家具職人の女将さんは、最後はホタルを抱きしめ
『幸せになって。幸せにしてあげなさい』
3人の子を持つ母らしい笑みで激励をくれた。
全てが順調に進んでいるように思える。
3日後には、何の問題もなく結婚式が執り行われ、新たな夫との新生活が始められるだろうと、そう思われた。
「あとはお式当日を待つばかりですわね」
ドレス合わせの後を片付け終えたボタンが、ようやく落ち着いてテーブルを囲んだホタル達にお茶を入れてくれる。
最初は申し訳なくも思えたが、最近はようやく慣れてお茶に手を伸ばすことができるようになった。
「いよいよ3日後ね」
アイリが焼き菓子を手に取りながら確認してくるのに、ホタルは頷いた。
アイリはこのお屋敷に住んでいる訳ではない。
ここからほど近い場所にお屋敷を構えてそこを住居としているのだが、シキとホタルの結婚が決まってからは毎日のように訪れて、結婚式や調度品についてかなり楽しげに助言してくれる。
元はアルクリシュの姫君だと思えば、これもまたもったいないことだと当初は遠慮がちなホタルだったが、そういう態度の方がアイリには失礼なのだと途中で気がついた。
義姉として、友人として。
心から親身に接し、歩み寄ってくれる女性に、いつまでも一歩引いて接することは、誰もが望むことではないのだ。
そう思って、アイリの好意を素直に受け入れて甘えてみれば、それは決して悪いことではないのだと、屋敷内に満ちる空気が語っていた。
「シキ様はお戻りになれましょうか」
ボタンがポツリとそれを口にする。
ホタルは答えずに、お茶に口を付ける。
アイリは軽く肩を竦めた。
ドレスはまもなく、完璧なものが出来上がるだろう。
新居は既に準備を終えて、新たな生活を始めるばかり。
それには、何も心配などない。
皆の心配はたった一つだ。
果たして新郎は結婚式に現れるのか。
「そうねえ」
夫人もこれには、能天気に答えることができないようだ。
シキは相変わらず忙しくて、不在がちだ。
ホタルがここに身を寄せ、婚約が整ってからは
『心配ごとがないなら働けとタキが容赦ない』
と、苦笑いを零していた。
『しかも……今の俺はかなり慎重派だからな。心配なく使えると、簡単に送り込んでくれる』
そう言って、送り出すホタルの不安をほんの少しでも軽くしようとしてくれて。
『結婚式には必ず戻るよ』
頬に口づけを落として出掛けて行ったのは、数日前だ。
その前は2週間程の長い不在で、この屋敷に戻れたのはほんの2日間。
もちろん、一つの結婚式が近づいて来たからといって、水面下で蠢く国間の思惑が消え失せる筈もないし、闇を闊歩する魔獣が大人しくなる筈もない。
だから、ホタルを始めとして誰一人、シキの不在に対し不平不満を言う者はいない。
式の段取り等は全て公爵や夫人が取り仕切ってくれているから、ここまでは何の支障もなく進められてきたが、さすがに当日に花婿がいないのは問題だろう。
ところが。
「構わんよ、シキが戻らなかったら、私が代理になるから」
何時の間にやら、同じテーブルについて……しかも、ちゃっかりホタルの隣に座ってお茶を飲んでいた公爵がにこりと笑う。
そして、恭しくホタルの手を取ってその甲に唇を落とす。
ホタルは引き攣った笑顔でそれに答えた。
公爵のこの手の戯れには慣れた。
双子の容姿は母親似。
しかし、やはりこの公爵ともシキは間違いなく親子だ。
誑かす微笑みと、そつない仕草に、ホタルは妙な確信をすることもはや数えきれないほど。
「あら、タキなら、きっと誰にも気づかれないんじゃないかしら」
アイリが、いいことを思いついたとばかりに言う。
それは、ちょっとご辞退申し上げたいです。
ホタルはただでさえ引き攣っていた笑顔を更にぴくぴくとさせたが、傍らの夫人は名案とばかりに明るい顔をした。
「そうね、我が家には同じ顔がもう一人いるんだったわ!」
いーやーでーす!
心で叫ぶ。
「おや、それは残念だな。美しい花嫁を代理とはいえ、受け取れるなんて栄誉早々ないだろうに」
「なんとかなるわよねえ」
「なんとかなりますって」
続く会話。
「戻られます!」
思わずホタルは割って入った。
いつもは臆してついつい受け入れてしまいがちな様々な提案だが、これは譲れない。
タキ様を身代わりにするのも。
公爵を代理にするのも。
いらない。必要ない。
だって、約束したのだから。
あの方は今まで、一度だって約束を破ったことはない。
だから。
「シキ様はちゃんと戻っていらっしゃいます!」
感情が抑えきれずに椅子から立ち上がっての力説は、思いがけず激しい口調になる。
3人の高貴な方々は一瞬ポカンとホタルを見上げて。
最初に笑みを浮かべたのはアイリ。
「……分かってるわ」
続いて未来の義父母が微笑んだ。
「もちろん。シキは戻ってくるわ」
「そう、残念ながら、私の出番はないだろうね」
この方達だって、シキ様を信じている。
だから、こんな戯言をホタルの前でやり取りするのだ。
ホタルはストンと椅子に腰を降ろした。
「……申し訳あり……」
自らの感情を抑えきれずにしでかした粗相を謝罪しようとするとアイリが横からそれを遮った。
「でも、いざという時のために、お義父様を代理にするか、タキを身代わりにするかは決めておかない?」
「決めておきません!」