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 スタートン家は、屋敷を中心にぐるりと庭が囲っている。

 中庭を持たない森の中に屋敷が佇むような様式は、隣国のものにより近く、この国にあっては珍しいものだ。

 小さな頃から何度も聞かされている話によれば、元は鬱蒼とした木々が生い茂るばかりだった庭とも言えぬ敷地だったのを、隣国からまだ幼いと言って良い少女を妻に迎える事になった当主が、少しでも慰めになればと大改築を敢行し、四季折々の花々が常に彩りを競うような庭を作り上げたのだという。

 戦乱の幕開けを予感させる不穏な空気の中での、隣国間の同盟を強めるために結ばれた有力貴族同士の婚姻だった。

 重い責務ばかりを言い渡されて嫁いできた少女にとって、この庭は心の慰めであり、何よりもこれを用意したという当主の心遣いが彼女の救いだったろう。

 そして、また、当主にとってはこの庭を喜び、夫となる者に心を開き、純粋に無事を祈る少女こそが戦で荒んだ心身の支えとなったに違いない。

 後になって、これが己の両親の話であり、ようするに語った父母による惚気だと知って気恥ずかしさを覚えたものだが、確かにその庭の美しさはキリングシーク内でも指折りと誉れ高く、戦乱の時にあっても母は自ら手を入れ、決して花を絶やすことはなかった。

 そして、この庭の隆盛さが象徴するかのように、いかなる時も隣国との同盟は決して揺らぐことはなく、今現在に至るまで最も親交の深い国として存在している。

 その庭の片隅に、こじんまりとした離れがある。

 こじんまり、とは言っても、きちんと調度品の整えられた部屋が2つと湯浴み場が設えており、人が暮らすのに十分耐え得る造りになっている。

 小さな子供の頃は、どこか秘密めいた隠れ家にも見えるこの場所が双子とその妹のかなりのお気に入り場所で、特に咎められることもなかったから、よく入り込んでは遊んだものだ。

 それなりに世の中のあれこれが理解できる年頃には、ここで、両親が愛を語り合ったのであろうことは容易に想像がついて、だからといって、それが理由でもあるまいが、なんとなく足が遠のいていった。

 だいたいが、その年頃には既にカイの側近として、この屋敷よりもラジル邸に滞在することの方が多かったし、何より、もう秘密の隠れ家を安全な我が家に持つ身ではなくなっていた。

 戦線に赴く。

 戻れば、どこかの情人の元に一時身を寄せて。

 そして、また、戦に戻る。

 そんな風な日々の中、正直、その存在さえ忘れていた。

 だが、今、シキはそこにいる。

 イトと別れて、地獄の始末を付けて。

 ふと、どこに行くかを迷った。

 明日、いや、もう既に今日だが……キリングシークに辿り着いたイトが、全てを自ら語るならば、今シキが語るべきことは何もない。

 ならば、カイやタキには会う必要もない。

 正直、会わずに済むならば、そうしたい。

 僅かでも、あの地獄に連なるものには、何一つ近付きたくない。

 何よりも、今、会いたいのは、たった一人。

 ホタル。

 少しでも声に出せば、それは、あの娘に届くかもしれない。

 いや、傍らにサクラがいるのであろう今は、聞こえないだろうか。

 ホタル。

 もう一度、心で。

 本来ならば行き場に迷うことなど、あろう筈がない。

 シキの戻るべき場所は、あの娘の元だけだ。

 だが、ホタルへと戻れないのならば、途端にシキは途方に暮れる。

 そのことに気が付かされて、それを手に入れたことの嬉しさと、一抹の恐怖にも似たものを感じながら、結局不意に思い出した、ここに落ち着いたのだった。

 久しぶりに訪れたそこは、家の者がきちんとこまめに手を入れているのだろうと思われた。

 長く人が訪れた気配はないものの、調度類はすぐにも使える状態だった。

 その一つであるベッドに、倒れ込むように横になり、目を閉じる。

 浮かぶのは先ほどまでいた場所。

 血。

 肉。

 骨。

 別に、そんなに衝撃な絵図でもないのに。

 未だ、そこに立っているように鮮明に脳裏に描く。

 まだ、あそこから戻れていないと実感する。

 できれば、眠りたかった。

 そうすれば、目覚めた時に、今在る現実に戻れるだろう。

 しかしながら、高揚した心身は、少しも休む気配がない。

 少し前なら、女を抱いて沈めた高ぶりが、身の内に燻り続けている。

「ホタル」

 今度は気がつかぬうちに声になった。

 すると。

「シキ様?」

 突然、耳に響く。

 幻聴かと。

 疑いつつ、身を起こせば、そっと扉が開かれて。

「驚いたな」

 幻覚かと思わせる娘が、覗き込んだ。

「……シキ様」

 シキの姿を目に止めて、ほっとしたような笑みを見せる。

 ああ、これで、戻ってこれるだろう。

 先ほどまで、シキを留めていた場所から。

「ホタル」

 今度は、そこのいる存在に呼び掛けた。

 ホタルは、スルリと部屋へと入ってきた。

 この時間だ。

 もちろん、眠っていたのだろう。

 着ているものはドレスではなく薄手の寝間着。肩にショールを羽織っている。

 いつもなら、自ら器用にまとめ上げる豊かな赤毛は、三つ編みとなって背中に垂れている。

 手に入れた娘のまだ見慣れていない姿はどこか現実感が乏しく、まだ、シキの中の一欠片はどこかに留め置かれているような違和感があった。

 ホタルはシキのいるベッドに近付き、その端にそっと腰かけた。

 僅かに揺らぐそれが、予想以上にシキの神経を波立たせる。

「ここに……戻ってたのか。サクラ様は?」

 何かを誤魔化すように問い掛ければ、ホタルはじっとシキを見つめたままで答えた。

「カイ様が昨日の夕方、お戻りになったので……私もこちらに戻りました」

 まっすぐなホタルの視線。

「そうか」

 受け止めきれずに、逸らして俯いた。

 高ぶる想いと身体は、愛しい存在を前に暴走するか、委縮するかのどちらかしかないようだ。

「……シキ様」

 ホタルの声が名を呼ぶのを、この上ない喜びと、底のない切なさで聞いた。

 まったく、本当に。

 今までの己の経験は何だったのかという程に、持て余すものばかりだ。

「シキ様……抱きしめて……下さらないのですか?」

 ホタルの言葉に身体が慄いて、思わず苦笑いが浮かんだ。

 一体、俺はどこの、純情少年だ?

 いや、純情少年ではないからこその、この状況だ。

 そんな風に、己自身を茶化して勇気に変えながら、なんとか顔を上げる。

 どれほども離れていないところから、ホタルがなおもじっとシキを見つめていた。

「そうしたいのは山々だけどね……抱きしめるだけでは済みそうにない」

 手を伸ばして、ほんの少し触れることさえ躊躇う。

 高揚した身体が欲するものはあまりにあからさまだ。

「母の御膝元でって……俺は平気だけど、君には酷だろう?」

 シキの言いたいことはもちろんホタルに伝わった。

 赤らめた顔を隠すようにして、今度はホタルが俯く。

 シキも俯き加減に。

 お互いに視線を合わせないまま。

 それでも、ここから立ち去って欲しいなどとは、僅かも思わなかった。

「……ここに」

 先に口を開いたのはホタルだ。

「うん?」

「シキ様が戻ったのに気が付いたのはお義母様です」

 意外な言葉に、シキは顔を上げた。

 てっきり、音を聞いたホタルが気が付いたものと思っていた。

「私、聞くのが怖くて、ずっと耳を塞いでいたので……気がつかなくて」

 シキの考えを読み取ったように言う。

 それよりも、聞くのが怖いというそれに、シキの胸が痛んだ。

 そんな風に思わせてしまったことに。

 これからも、きっと、シキがどこかに赴くたびに、ホタルは耳を塞ぎ、無事を祈るばかりの娘になる。

 だが、それでも己は赴くのだろう。

「それで、あの……今夜は」

 ホタルは更に俯いて。

 抱きしめたい思いを、堪え切れずにシキは手を伸ばしかけた。

「……お部屋に戻らなくて良いと」

 ホタルが小さな声で、そう告げた。

 ホタルにしてみればそれを口にすることは、かなりの勇気を必要としたに違いないのに。

 不覚にも、一瞬、その意味を把握し損ねた。

 動きの止まったシキをどう思ったのか、ホタルは立ち上がる気配を見せた。

 思わず笑いが零れた。

 さすが母親、だ。

 鞭と飴を見事に使い、いよいよシキをホタルへと溺れさせるつもりらしい。

「お許しが出ているなら……」

 この激情を、留める理由はない。

 離れかけた身体を引き寄せ、抱きしめ、そのままベッドに沈める。

「ホタル」

 ようやく、口付けることができる。

 焦がれた温もりを、心身の隅々にまで満たして欲しい。

「……シキ様」

 ホタルは一瞬身体を強張らせたが、すぐに柔らかくなるとシキへと腕を回した。

 ああ、戻ってきた。

 本当に、今、この瞬間に。

 シキは、ここに戻ってきたのだ。

「シキ様!」

 ホタルがギュッと抱きついてくる。

 このために生きている。

 性急に純白の肌を求めながら。

「俺達みたいなのは、いつ尽きる分からない」

 あの時、同胞に言い損ねた言葉が、口をついた。

 どうしてか、言わずにはいられない。

「シキ様?」

 ホタルには意味の分からない言葉だろう。

 だが、シキは続けた。

「……だから、手に入れなければ」

 言い聞かせる。

 聞こえる筈のないイトに。

 否、自らに。

「迷っている時間などない」

 そうだ。

 抱きしめることに迷っているなんて無駄だ。

 手に入れることを躊躇するなんて愚かだ。

「シキ様」

 こうして名を呼んでくれる存在。

 抱きしめてくれる存在。

 それが、生きる糧だろう。

 違うか?

「ホタル……君がいてくれて良かった」

 シーツに沈む婚約者は、シキの言葉に微笑んだ。

 それにつられるように微笑みながら、でも、泣きたい気分だった。

「……君が……俺の帰還を願ってくれている。ここでこうして俺を抱きしめてくれる」

 いつか誓った。

 必ず、ホタルの元に戻る、と。

「だから、俺はあそこから戻ることができる」

 それを叶えられる喜びが、胸を満たす。

「シキ様」

 ホタルの手がシキの頬を包む。

 温かなそれに少し力が込められ、シキは導くままに娘に顔を寄せる。

 自ら唇を触れてくれる娘を拒む理由が在る筈もない。

「お帰りなさいませ」

 ようやく。

 戻ってきた。

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