30
*場面に流血等の状況描写があります。
気分的に、そういうものは読みたくないという読者様がいらっしゃいましたら、読むのは避けられた方が良いと思います。(ストーリー的に、読まないと全く分からない、ということにはならない場面です)
目の前に倒れている3つの遺体。
明るく照らされた森の中には、あまりにも似つかわしくないように思えるその存在。
いっそ、誰に発見されることなく、この場で一夜を明かしていたならば、闇の住人達に喰い荒されて、大地に容易く戻れただろうに。
この者達にしてみたところで、それこそが本望だったかもしれない。
だが、残念ながら、滅多に人の通ることのないこの場に倒れながら、彼らはよりによってキリングシークの兵士に発見された。
それは運が悪かったのか。
それとも、必然か。
「グレンダですので、まずは貴方様にお知らせしました」
傍らにいた腹心の兵士の報告に、シキは頷いてそれを労う。
どんなに紅に塗れても、その姿は隠しようもない。
浅黒い肌。銀の髪。紫の瞳。
一目でそれと分かる者達の不審な動向は、まずはシキに知らされるのが、キリングシークの優秀な軍にある暗黙の規律だ。
かつて、グレンダの消滅に立ち在ったという因縁故の。
現在、グレンダの元頭領に最も近しい存在とされる故の。
「どれも一太刀です。グレンダの腕は重々承知しているつもりですが……正直身震いしました」
遺体の検分を終えた別の兵士の報告に、シキは並べられた遺体に目を向けた。
シキとさほど違わないと思われる年頃の男のものが2つ。
胸を貫かれた者。
首をはねられた者。
いずれも、見覚えのない顔だ。
そして、初老の男が1人。
首を斬り裂かれ、その面は真っ赤に染まってはいたが、その1つだけは見覚えがあった。
名までは記憶にないが、間違いなくグレンダの幹部だった男だ。
「首をはねた剣と、こちらの老人の首を斬った剣は同一と思われます」
兵士が剣を差し出す。
そして、もう一振り。
「男の胸に刺さっていた剣がこちらです。他の剣の痕はありません」
グレンダの者が持つ剣は、どれも似通っている。
誰が持つ剣にも多少は施されている装飾の類を一切排除した……振るい、断つためだけのもの。
だが、抜かりなく磨きあげられた刀身は、どんな宝石よりも鋭く光る。
「第3者がいたと判断するには、その痕跡がまったくありません……しかし、この者達の相討ちというのも……」
遺体を見ることに慣れた筈の兵士は、だが、これには判断が付きかねると正直なところを口にする。
シキはその報告を聞きながら、既に一つの確信を得ていた。
確かにグレンダは強い。
男のみに留まらず、女子供に至るまで。
剣を振るい、命を断つ術ならば、キリングシークの兵士を遥かに上回る手腕を誇るだろう。
だが、この男を一太刀で仕留める者など。
恐怖にひきつる若い骸と、同じように死を迎えたとは思えぬ程に。
一人だけ、穏やかとも言える死に顔を晒す老人。
これだけははっきりと覚えている。
この男は……あのイトに剣を教えた男だ。
グレンダに生まれ落ちた者達を剣士に育て上げることが使命であった男。
あのかつてグレンダを率いた隻眼の悪魔を作り上げた男を、かすり傷負わすことなく断つことができる者など。
「……他に不穏な動きは?」
シキは、兵士に尋ねた。
この者達が、どのような末路を辿ったかを、推測することは不要。
そういう意味での問い掛けを、聡い部下は間違えることなく受け止めた。
「何もありません」
シキは頷いた。
この鮮やか過ぎる残虐さを成し遂げられる者など、ただ一人を除いてはいよう筈もない。
これは、絶対だ。
ならば、理由は本人に聞けば良い。
「……弔いますか?」
シキは3つの遺体の耳元をちらりと見遣る。
「いや」
世間には知られていないグレンダの弔いは既に終わっている。
「どこかに埋めてやるだけでいい」
傍らの兵士は、何も問いはしなかった。
数人の者に運ばれていく骸に、心で送る言葉を口にしながら、シキは次の行動のために傍らの兵士に一つのことを尋ねた。
そして、今、目の前に広がるのは……昼間の光景を凌駕する地獄絵。
ほんの少し前まで、それは見慣れたものだった。
足元に折り重なるようにして転がる遺体の数々。
充満する血と死の匂い。
だが、今はこれが地獄だと感じていた。感じることができていた。
それが、どんなに幸せなことかを思い知りながら歩みを進め、そこに生ある存在を見つける。
イトだ。
この男には、今もこれが日常なのだろう。
幾つもあった筈の生き方から、この地獄に棲みつくことを選んだ希代の戦士は、これだけの死を作り上げたのだろうにも関わらず、肩で息する気配もなく、悠然と立っていた。
鍛え上げられた兵士でも易々とは振ることさえできない大きな剣は、大方の獲物を狩り終えて今は静かに降ろされている。
しかしながら、血を滴らせながらも不気味に輝く様は、未だ、飢えを満たしていないようにも見えた。
その主は、じっと動かない。
多分、まだ、神経を張り巡らせている状態だろう。
気配を探っている。
生き残りはいないか、と。
息遣いを探っている。
シキ自身もまた己の気配を消しながら、そして、周りに残党の気配を探りながら、イトへと近付く。
どうやら、既に刺客に動ける状態の者はいないようだ。
それでも緊張を解かぬままにイトに近付いていく。
声をかけることが憚れる張りつめた背中。
気配を消すことを止めて、敢えて、イトの間合いに入った瞬間。
男の剣が振り上げられ、シキに向かって落ちてくる。
想像していたそれを、シキは鞘に納めたままの剣で受け止めた。
「イト!」
ようやく、その名を呼ぶことができる。
血に塗れた男は、少しの高揚もない視線でシキを確認すると、あっさりと剣を降ろした。
「お前……相変わらず容赦がないなあ」
フードを外して、苦笑いを零しながら、思わずそう呟いていた。
それは、周りの惨状に対するものであり。
止めた腕がしびれるほどに、力強い剣に対する素直な感想だ。
「あんたが来たってことは……俺はお役御免か?」
シキの言葉に何ら反応はなく、イトは静かな口ぶりでそう問いかけてきた。
ここからなら、キリングシークまでは半日ばかりだ。
どんなに遅くとも、明日中にはラジルの館に到着することができるだろう。
それを前に、軍神の側近が天使を迎えに来たと。
今回のことは厄介事に巻き込まれたに過ぎない筈のイトにしてみれば、そう考えるのは極々当たり前なのかもしれない。
さっさと天使を引き渡し、元の狩人の日々に戻りたいところなのだろう。
「いや」
しかし、シキはそうではないと、首を振った。
「確認に来ただけなんだが」
改めて、ぐるりと周りを見渡す。
「見事だな」
折り重なるように倒れる男どもの遺体から流れ出た血で、床が紅に染まっている。
血の海、とはよく言ったものだ。
だが、どこまでも続き、床を覆い尽くすかと思われた血潮が、ある場所からぷっつり途切れる。
安宿に在りがちな木造りの質素なベッドの周り。
そこには一滴の点さえない。
そして、そのベッドの上に……アオイ・オードルを見つけた。
惨状を作り上げたのはイト。
だが、原因はこの天使。
男達は、この天使を葬るために、ここに現れたのだ。
しかし、近づくことさえできなかったのだ。
天使を護る、一つ目の魔物を前に、誰一人として。
一滴の血をも、天使に降らすことはなかった。
シキは、アオイを見つめた。
白いシーツに包まれて、ただただイトのみを視線で追いかける天使……いつものように貴婦人然とした身なりをしていないことは、その美しい容姿を少しも損なうものではない。
だが、違和感。
これは、本当にあの天使か?
イト以外の何も見ていない鮮やかな瞳。
あの緑は、もっと。
もっと、遠く遥を見つめるだけのものではなかったか?
シキは、イトに視線を戻した。
イトは、黙ってシキを見ている。
敢えて、アオイから意識を逸らしているようにも思える隻眼に、シキは行くべき先を指差した。
「とりあえず、行った方が良いんじゃないか?」
イトの視線がシキから離れ、アオイを捉える。
一瞬、ほんの少しだけだったが、男の表情に後悔が過ぎったように見えた。
イトは遺体を無造作に避けて、アオイに歩み寄る。
手が届く場所にイトが辿り着くやいなや、アオイの体は一瞬と迷うことなく、血に塗れた胸へと自ら崩れ落ちた。
その姿は天使ではなかった。
恐怖の中、信頼する男に縋る、一人の娘。
身を寄せるアオイを抱き寄せるでもなく、引き離すでもなく受け止めているイトに、シキは近付き、話しかけた。
「森に、グレンダの残党らしき遺体が3つ転がってた。あれ、お前だろう?」
嫌みなほどに、ことさらはっきりと尋ねた。
正直な返事を返す筈がないと分かっている男ではなく、その血塗れの腕の中で、それでも先ほどよりよほど安堵して見える天使を見やりながら。
こちらの方が、何らかの変化があるのではないかと思ってのことだ。
だが、アオイはイトの腕の中で、シキの言葉にまったく反応しなかった。
「知らねえよ」
イトの答えは予想通りだ。
己の痕跡を一切残さずに残党を討つことは、この男にとってさほど難しいことではないだろう。
だが、敢えてそうする意味はなんなのか。
「傷跡は、お互いの剣のものだった。お前のその馬鹿でかい剣の痕じゃない。一見、仲間割れの同志討ち」
あの場にいた兵士は、結局、そう結論付けた。
そう考えても不思議はない状況だ。
それを、シキもあえて否定しなかった。
だが、違うのだ。
「けど、お前だろ?」
シキは、既に、あれがイトの仕業であろうことに確信を得ている。
これは疑いようもない。
知りたいのは、イトがそうした理由だ。
イトはアオイを抱き上げ、シキを見つめてきた。
さほど背丈は変わらない。
お互いに、まっすぐに見据える。
シキは、イトの嘘を見抜くために。
イトは、多分、嘘をつき通すために。
「なぜ、そうなる?」
イトの問いに、シキはまたも苦笑いを零した。
何故?
愚問だ。
「俺は、お前の腕を知ってる」
それ以外の理由などいらないだろう。
イトは眉を寄せる。
貌に走る傷痕が引き攣れ、巧みに男の本心を隠した。
「何が起きてる? その天使絡み以外で何かもめてるのか?」
それとも……あれも、またアオイ・オードル故に築かれた地獄なのか。
ならば、イトがグレンダを斬ったことには納得できる。
イトはグレンダを生かすために、その身を、剣を、軍神に託した男だ。
魔獣の狩人として生きることを選んだ男は、時に剣を魔獣以外に振るうこともあろうが、それは軍神の命以外にはあり得ない。
故に、イトが今グレンダを斬るとしたら、それはアオイに関わる理由以外ではない。
だが、なぜ?
グレンダの残党が、イルドナスに雇われているということもあり得なくはない。
そうならば、イトがあれが己の仕業であることを隠す理由はない。
たくさんの『何故』に答えることのできる唯一の男は、だが、
「もし、ここでこの娘を引き取ってくれるなら、その方が良い」
結局、そう言っただけだ。
それに、初めてイトの腕の中のアオイが反応した。
ピクリと体が揺れて、イトの衣を握る手のひらに力がこもる。
そういうことか。
アオイが天使ではなくなった理由。
それをシキは知る。
天使は、その感情で、人になる。
そして、隻眼の狩人は?
「それじゃ返事になってないんだが」
アオイの指先の力強さはイトにも伝わっているだろうに。
イトは、ちらりとも胸元のアオイを見はしなかった。
まっすぐにシキを見つめる。
「グレンダの遺体のことは知らねえ……そいつらは、あんたの方が知ってるんだろ」
シキは足元に転がる遺体に目を向けた。
イルドナスの放った刺客だろう。
天使を護っているのが、一つ目のグレンダだと知っていたのだろうか。
いや、知っていたには違いない。
それでも、ここにやってきたのだ。
「お前みたいな裏道を知り尽くしたのが連れていても、数日でかぎつけらるほど目立つ天使を、いくら優秀とはいえ一騎士がどうやって10日も連れて歩けたんだろうな?」
シキは最後の切り札を口にした。
隻眼の狩人に、探り合う会話は通用しない。
「何が言いたい?」
イトの隻眼が眇められる。
「誰かが手引きした、とか。敵の先を先を読んで…どこかに天使を呼び寄せようとしていた、とか?」
シキは天井を見上げる。
薄汚れたそこに、今にも滴りそうな血飛沫が飛んでいるのを見つけ
「そんなことをできる人間に心当たりはあるんだが、理由がなあ……」
視線をイトに戻した。
「と、うちの片割れが」
ふと笑えた。
この状況で、普通に会話している己とイト。
正気なのだろうか、と。
一瞬浮かんだそれを打ち消して、タキの言葉を思い出す。
『イルドナスは、アオイ様を血眼になって探していた……これは間違いないようだ。騎士の容姿も十分に把握していた筈だし……何よりも、連れているのはあのアオイ様だ。足取りが掴めない筈はないと思わないか?』
タキの言わんとしていることは、理解できた。
そして、また、シキも実感した。
兵士に「隻眼の狩人と天使の二人連れは今どこにいるか?」と尋ねてみれば、半日と経たぬうちに答えは返ってきた。
それほどに、アオイという娘の美貌は際立つのだ。
『しかも、見つかったのはゲルンの森だ……あそこにはウスラヒがいる。彼女なら、騎士を手引きして自らの元に呼び寄せることも可能だろう。だが……理由が分からない』
シキを介して告げられたタキの言葉は、イトの隠そうとしている一端を見事に突いたようだ。
「あんたの片割れは……相変わらず穿ったものの見方が得意だな」
珍しくも感情を垣間見せて、イトが苦笑いを浮かべる。
「イト?」
先を促す。
だが、イトはそれ以上は語らない。
「何もねえよ」
そう言うだけだ。
「明日、キリングシークに到着する。それで終わりだ」
どうやら、この男は、今、語る気は毛頭ないらしい。
それが、アオイがここにいるからならば。
アオイを思う故ならば。
どんなに、問い質したところで答えはないだろう。
「まあ、いいか」
シキは引いた。
今、語る気はなくとも。
語る必要があるならば、アオイがキリングシークに到着した時に、それは自ずと語られるだろう。
「今日ここに来たのは俺の独断だし…森の遺体はタキには内緒にしてあるし」
そう言って、イトから目を逸らし、その胸元の娘に微笑みかける。
血の気のない、だが、それでもなお美しい娘。
この状況で微笑む己は、もしや狂人にさえ見えているかもしれない。
思いながらも、笑みを消さずに問いかける。
「私を覚えてますか?」
もう天使ではない娘が、コクリと頷いた。
「もう少し、この男とご一緒頂きますよ」
優しい口調で語る。
アオイは、もう一度頷いた。
イトはアオイを抱いたまま、シキに背を向けかけて。
「ここの後始末は頼んだ」
一言言い捨てる。
まるで、小さな紙くずを片付けろとばかりの口調だ。
シキはあたりを見回して、眉を寄せた。
「軽く、面倒を押し付けてくれるなあ…」
答えるシキ自身も、心は痛まない。
ちょっと大きな後片付けを頼まれた、というように。
「まあ、了解。気をつけてな」
行けとばかりに手を振ってみせた。
アオイは一瞬として、シキを見なかった。
この凄惨な光景の中、唯一正気である人のように怯え、イトの腕に縋るばかり。
ついこの間まで羽根を背に掲げた天使だった娘。
恋を知って天使が、人に堕ちるならば。
堕ちた天使に視線をやることはなくとも、言葉ではいかに語ろうとも。
一度として、その腕から手離そうとはしなかった隻眼の悪魔と呼ばれる者は。
何に変わるのだろうか。
それはシキの関与すべきことではない。
分かっている。
これはイトのアオイの問題だ。
だが。
イト、俺達は手に入れなければならない。
もう、そこにはいない同胞に呼び掛ける。
明日が来るという確証など、どこにもないのだ。
どこが正気で。
どこが狂気か。
そんなことさえ、いつ見失うかもしれない。
だから、見つけたならば、迷うな。
手に入れなければ。
見失ってはいけない。
そして。
ホタル。
その名を呼ぶ。
地獄の中、平然と立っていられる。
これを地獄だと感じられる。
正気と狂気の狭間。
これも俺達の居場所に違いない。
そして、手に入れた場所の意味を噛み締める。
ここから戻る場所があるという、その意味を。