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結局のところ、シキがしたことと言えば、ホタルと必要以上には関わりをもたないというネガティブな平和的解決だった。
これは思った以上に簡単だった。そもそもが、さほど接点がある訳ではない。
シキの視線の行方さえ、無視を決め込めば良いことだ。
もっともこればっかりは、無意識なだけになかなかうまくいかない。
思いつつ、それでも毎日はそれなりに穏便だったのに。
遭遇してしまった。
三度目の涙に。
実のところ、なんとなくそろそろかな、などと思っていたのかもしれない。
この地方特有の夏は、容赦なく人を追い詰めることがある。この時期は、とかく波風が起こりがちだから。
そして、彼女の主とシキの主は最近少し何かがおかしかったから。
だから、泣くホタルに妙に納得もしたりした。
ホタルは廊下を歩きながら、子供がするように乱暴に手の甲で目元を拭った。
それでは目が腫れる。
余計なお世話だろうと自ら突っ込みながら眺めていると、前方から歩いてくるホタルはシキに気が付き足を止めた。
さて、彼女はどうするのだろう。
いつもの通り、優雅な礼をくれて立ち去るのか。
シキの予想どおりホタルは頭を下げながら膝を折る。そして、踵を返して立ち去ろうとする。
だが、その礼はいつもよりよほど余裕がなく。
見せた背中は、あまりにか細い。
声をかけるには遠い距離。
あれだけはっきり苦手だと意思表示されたのだ。さすがに放っておこうかと思う。
思った筈なのに。
気がつけば、ホタルの腕を捕らえていた。
この娘が絡むと、どうしてか『気がつけば』ということが増える。大抵のことは面白いと思えるシキだが、これに関しては今のところ楽しめてはいない。
「最近は泣いてないと思ってたんだが」
ホタルは、俯いたまま。
シキに腕を捕われたまま、何一つ反応しない。
明らかに、今までとは様子が違う。
「何があった?」
三度目の涙に対する、三度目の問い。
ホタルは、動かない。
シキは、何故か腹立たしさを覚えて、少々意地の悪い言葉を投げた。
「そんなに奥方は辛い目にあっているか?」
確かに、主の妃は攫われてここに来たも同然だ。
シキの主であるカイは、皇子という身分と、『破魔の剣』の使い手という権威をもって、一人の娘を手中に納めた。そこに、娘の意思を慮るものは何一つない。
だが、皇子の正妃というのは身分的には申し分ないものに違いない。
むしろ、貴族の娘としては最高位を手に入れたと言っても過言ではない。
そして、傍若無人にも見えるカイは、実のところ十分に妃を丁重に扱っていると思う。
いたるところに気遣い、与えうるものは全て与え、何よりホタルを呼び寄せたのはカイではないか。
最近こそ何かにいらつき、素行にも少々問題はあるようだが、しかし、それも許容の範囲だろう。本来ならば、複数の妃を迎えてもいい身分なのだ。
「カイ様の立場的に、多少のことはしょうがないだろう?」
何も、歎き悲しむほどのことではない…筈だと思う。
「多少?」
小さな声が、ようやく返った。
ホタルは抑えきれないものがほとばしるように、微かに、でも感情露わに呟いた。
「カイ様はサクラ様を本当の奥様とはなさらないし、皇帝の使いだという姫君はサクラ様をいらないと言うのに?」
本当の妻ではない?
皇帝の使い?
ホタルは、シキの知らない出来事を並びたてた。
「何を言ってる?」
腕を掴む手に力を込めると、思い切り振り払われた。
上がった面にあるのは、いつかも見た非難めいた瞳。
「貴方だって、カイ様がお命じになれば、あっさりサクラ様をお断ちになるのでしょう」
シキは眉を寄せた。
それは?
それは…シキとカイが、二人きりの気安さで話したあれ?
いったい、この娘は。
この娘は、どこで何を聞いた?
「お前、何を知ってる?」
今度は易々と振り払えない力で、肩を掴む。
「貴方はそうおっしゃったもの!」
ホタルが身をよじる。
逃がすまいと抱き寄せた体は、渾身の力でシキを拒否し…しかし、その気配に硬直し動かなくなる。
そして「カイ様」
震える声が、その名を呼んだ。
シキはおとなしくなったホタルの体を離し、だが再び腕を掴む。
そんなことをしなくても、ホタルは逃げないだろうが。
「お前…遠耳か?」
どこから聞いていたのか分からないカイが尋ねた。
静かなのに、逆らいようのない威圧的な声。
ホタルはコクリと頷いた。
シキも、もしやとは思った。
遠耳…人の何倍もの聴覚を持つ者。
気配の聡さにも納得だ。
「来い」
カイが手近な扉を開けて命じる。
シキが腕を引いて導くと、ホタルは黙って従った。
「聞いたんだな?俺とアカネの会話を」
容赦ない単刀直入な問いに、青ざめながら、それでも、ホタルは頷いた。
「サクラも知ってるんだな?」
それにも頷く。
カイが部屋を出ようとする。
「お待ち下さい、カイ様。サクラ様は何も…全て私が…」
ホタルがカイを追おうとするのを、シキは掴んだ腕に力を入れて止めた。
「カイ様!」
どのような会話がなされたのか、もちろんシキには知るよしもない。
ただ、カイの様子から、ホタルの涙から、それが妃にとって楽しい話でないことは容易に知れる。
そして、今、カイから感じられるのは、怒りではないから。
「シキ、ホタルを見てろ」
その命令を受け入れる。
「カイ様!」
振り返ることなく部屋を去るカイを、追おうとする体を引き寄せ、胸元に閉じ込めたのと、扉が閉じられたのは、同時だった。
「離して!」
ポロポロと際限なく涙を零しながら、ホタルが叫ぶ。
無性に腹が立った。
分かっているのか。
甘い状況ではないにしても、自分の体が男の手中にあることを。
もがけばもがくだけ、拘束は強まるだけだということを。
それでも心を占めるのは、あの妃だけなのか?
シキは、ホタルの腰を抱く腕に力を入れて、己に強く引き付けた。
小さな顎を掴んで顔を上げさせて。
「…離し…っ…」
拒否を紡ぎ続ける唇を塞いだ。
シキ自身のそれで。
ホタルはシキの腕の中で、ビクリと大きくわなないた。
嫌がって顔を背けようとするのを、捕えた顎にこもる力で感じ取りながら、上回る力で押さえ口づけを深いものへと変化させる。
さながら情事のようなキスは、まるで返し方を知らないホタルから確実に力を奪い去った。
ホタルがおとなしくなる。
抱き留めた体が、力無くシキに預けられる。
目的は達した。
これ以上は必要ない。
思いながら、シキはホタルを更に抱き寄せた。
抗う気力を奪われた娘は、されるままにシキの腕の中に納まり、深くなる口づけを、ただ呆然と受け入れる。
気がつけば…また、気がつけば、だ。
シキの手は、顎を離し頬を包んでいる。拘束するための腕は緩み、武骨な手のひらで華奢な背から腰を撫でる。肉付きの薄い…だが、思ったよりも柔らかな感触が、温もりと共に伝わる。
これ以上はまずい。
このまま…どうするつもりだ?
シキは、口づけを解いた。
腕を外すと、ホタルはカクンとその場に座り込んだ。
「そのまま、おとなしくしてるんだ」
夢中になった。
それに動揺していることが、声に出ていないことを自ら褒める。
ホタルは、しばらく呆然と宙を見つめていた。
涙は渇いている。
やがて。
「お手を煩わせ、申し訳ございません」
いつもの、侍女の反応が返る。
もう一度、思い切り濃密な口づけを与えたい衝動をなんとか抑え、シキは黙ってホタルの傍らに立っていた。
泣けば良いのに、と思った。
苦手な男に、口付けされて。
悔しさと怒りで…シキを罵れば良いのに。
ホタルは、ただ無表情でそこに座っている。
本当に、妃のためにあるのだ。
この娘の涙も笑みも…すべて、あの妃のためにのみ。