表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/34

29

 カイがよく響くその声で淡々と語る話を、サクラは取り乱すことなく、そして途中で一言と尋ねることなく最後まで聞き終えた。

 これは、もちろん既にサクラは承知のことではあったが、アオイがイルドナスへの輿入れを前提として、かの王との謁見に出向いていることから始まり。

 そこから何者かに攫われたこと……攫った者は、既に死亡していること。

 そして、森で彷徨ってるところを、隻眼の狩人に救われ……現在、この屋敷に向かっていること。

 カイに許されて、サクラの傍らに座るホタルの耳には、僅かにその呼吸が息を飲んで止まったり、鼓動が速くなったりするのが、はっきりと聞こえ、決してその人が冷静ではないことを伝えてくる。

 だが、サクラは黙って、登城時の正装を寛がせることなく語る夫を見つめていた。

 やがて、全てを語り終えたカイが口を閉じる。

 サクラの前に立つカイから一歩下がった場所に、シキが控えている。

 サクラよりよほど動揺している己の居場所を探すように、ホタルはシキを見つめた。

 沈黙を守って主君の背後に立つ婚約者は、ホタルの視線に気がつくと固い表情を僅かに緩めながら、大丈夫だと言うように頷いて見せてくれる。

 それだけで、ホタルの中で惑っていた事実が落ち着くところに納まっていく気がした。

「アオイは無事なのですね」

 夫の静かな口調で語られた、それでも、身震いせずにはいられない恐ろしい出来事を再度頭の中でなぞったかのような間を開けて、サクラはそう呟いた。

 それは問い掛けではなかった。

 むしろ、無事を確信して、ほっとしているような響きを持っている。

「イトが側にいる。大丈夫だ」

 カイの声にも、また、確信以外のものはない。

 ホタルは、軍神の絶対的な信頼を得ている狩人の姿を思い出した。

 あの容貌は、間違える筈もない。グレンダだ。

 かつては父に命じられ、その動向を探ったこともある流浪の兵達。

 キリングシークにより滅びた一族の一人であるのだろうあの男が、どういう経緯で軍神に仕えているのかは知る由もない。

 が、カイはあのグレンダの狩人を全面的に信頼している。

 そして、それはシキも同じだった。

 ならば、シキが信じる男を、ホタルがどうして、信じないことがあるだろう。

 今、アオイ様はあの方の側にいるのだ。

 ホタルの脳裏に、アオイの姿が思い浮かぶ。

 ホタルが知る中で、最も美しい女性だと迷わず言える。

 どのような状況にあっても、褪せることない光彩を放つオードルの天使。

 どこか、人であらざる雰囲気をも纏った女性ではあるが、しかし、攫われ、森を彷徨うなど、どんなにか恐ろしい思いをされただろう。

 隻眼の狩人の庇護の元、無事にここまで戻ることを、心から願わずにはいられない。

「サクラ」

 サクラが落ち着いたのを見計らったように、カイが寵妃を呼ぶ。

 サクラは祈るように項垂れていた顔を上げた。

「このまま城に戻らねばならん」

 言いながら、ソファに座るサクラの前に跪き、手を取る。

 許されたとはいえ、主を立たせたままで、己がサクラの傍らにいるということに、今更ながら、ホタルはうろたえた。

 だが、立ち上がろうと身じろいだのを、カイが視線で制す。

「カイ様」

 サクラは、小さな手を包み込む大きな手のひらの上に、更に自身の手を乗せた。

「大丈夫です。イト様を信じて、待っていれば良いのしょう?」

 健気に微笑んでさえ見せるサクラだったが、その表情が泣き出す前兆を含んで歪む。

 それを隠すように、サクラは俯いた。

「ごめんなさい……本当に、分かってるの」

 カイの手を握る指先に力が入る。

「大丈夫だと分かっているのに……」

 当たり前だ。

 どんなに傍らにいる男が信頼できる者であったとしても。

 アオイの身に起こった不幸を思えば、冷静でいられる筈がない。

「サクラ」

 俯くサクラの頭に、吸い寄せられるようにカイの唇が触れる。

 抑えきれないようにサクラの腕が伸び、カイに縋った。

「ホタル」

 不意に、カイがホタルの名を呼んだ。

 傍らで、ただ二人を見守るばかりだったホタルは、慌てて返事をする。

「はい、なんでしょうか」

 カイはサクラを抱きしめたまま、ホタルを見遣った。

「……できれば、サクラの側にいて欲しい」

 そんな風に、カイに請われたことはかつてない。

 そして、ホタルは気がつく。

 ああ、そうだ。

 私はもう侍女ではないから。

 だから、この方は、こうして、私の意志をお尋ねになる。

 ホタルは頷いた。

 例え、侍女ではなくとも。

 ホタルにとって、サクラが大事な方であることに違いない。

 こんなに不安げなサクラを置いて、どこに行くことができるだろう。

 むしろ、ホタルから願い出たいくらいだ。

「はい。お側にいさせて下さい」

 答えて、こちらも黙ったまま主君とその妃を見ていた、シキに視線を向ける。

 シキは少しだけだが、微笑んだ。

 仕方がないな。

 そんな笑みだ。

「シキ」

 だが、その笑みもカイに呼ばれて、すぐに消え去る。

「……すぐに城に向かう」

 その言葉に、シキは静かに頷いた。

「承知しました」

 カイの腕の中にいるサクラが、顔を上げる。

 シキはそのサクラに一礼し、身を翻す。

「ホタル」

 呼ばれてそちらを見遣れば、かつての女主が友人を思いやる視線でホタルを促してた。

 ホタルは頷いて見せ、シキについて部屋を出た。

「……2、3日で戻れると思う。その間は、サクラ様の側にいて差し上げてくれ」

 シキの言葉。

 カイの言葉。

 サクラの視線。

 それら、全てがホタルが侍女ではないということを、思い知らせる。

 不快ではない。

 ただ、無条件でサクラの傍らにいることの許される立場ではないのだということが、一抹の寂しさを心にもたらしたことは否めない。

 だが、それも少し前を歩くシキの背を見て、消え失せる。

 これが婚約者としての立場で、初めて彼を送り出す状況であることに気が付いたから。

 過去、何度かこの人を送り出した。

 それは、一侍女として、一騎士を送り出すものだった。

 そこにある気持ちを押し殺して。

 礼を尽くして。

 無事を祈る。

 そんな見送りしかできなかった。

「シキ様」

 ホタルは先を行くシキの背に声をかけた。

 シキの足が止まり、振り返る。

 ホタルを見た途端、困ったように微笑んだ。

「そんな顔しないで」

 どんな顔をしているのだろうか。

 分からない。

 どんな顔をして送り出せば良いだろうか。

 前は、どんな顔をして送り出していただろうか。

「おいで」

 言葉も表情も、何もかもがどうすれば良いか分からないホタルの腕を捕えて、シキは手近な空き部屋へと滑り込んだ。

「さて、婚約者殿」

 腕はそのまま引き寄せられて、ホタルはシキの胸に納まった。

「ここは、できれば……笑顔でキスして欲しいところだな」

 望まれるまま、ホタルは手をシキの首へと回した。

 少し驚いたような表情のシキはそれでも身を屈め、ホタルは届いた頬へと軽く口付ける。

「……俺は子供じゃないから……こんなキスじゃ満足しないよ?」

 言うなり、ホタルの顎は捉えられ、唇が合わさる。

 拒む理由などない。

 ホタルは望まれるままに身を任せ、深くなる口付けを自らも求めた。

「……まだ、足りない感じだ」

 それはホタルも。

 でも、きっといくら続けたところで、満足はしないだろう。

 だから。

「無事にお戻りになったら……」

 いつかも、そんなことを言った。

 それを思い出す。

「なったら?」

 あの時は、お好みの方とどうぞ、と言った。

 でも、今はもちろん違う。

「お好きなだけ……して下さい」

 シキは満面の笑みを零した。

「……満点の返事だな」

 多分、シキも覚えている。

「戻るよ。君のところに、必ず」

 名残惜しげに額に口付けて、シキの腕がホタルを離した。

「お気をつけて」

 待ってます。

 だから、必ず戻って来て下さい。

 祈りの深さは以前にも増して。

 知らない痛みが胸を過ぎる。

 それでも、いつかのように逃げるように膝を抱えてうずくまることはない。

 持てる全ての想いを込めながら、まっすぐにシキの背を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ