28
シキの予感は残念ながら的中したようだ。
一見したところ屋敷の内は、常と何ら変わりがないように見える。
しかしながら、そこかしこにピンとした奇妙な緊張感が張り巡らされ、それは一歩一歩奥へと進むにつれて顕著に肌を刺し始める。
シキがありがたくもない確信を得るのと同じくして、腕に添えられていたホタルの手が、きゅっと握られた。
「……何か聞こえるのか?」
遠耳の娘は、シキより先に何かを聞き付けたのか。
内容ではなくその心中を慮って、尋ねてみたが、ホタルは首を振った。
ならば、シキと同じなのだろう。
気配。それだけで、この屋敷に、今、何かが起きてることに気がついている。
戦の渦中でシキが生きるために身に付けたそれを、この小さな娘に備わっていることに、ふと哀しさを感じ、なお愛しさが募る。
そのホタルの緊張が、ストンと落ち去る。
握る手のひらの力でそのことに気がついたシキの耳に、抑えきれない焦りを含ませた足音が聞こえてきた。
「ホタル!」
そして、声。
出所を探せば、階段を駆け下りてくるサクラの姿が目に入った。
「サクラ様!」
シキの腕からスルリと手が離れ、ホタルがサクラへと向かって走り出す。
一抹の寂しさはあるが、しかし、それを引きとめるほど狭量ではないつもりだ。
と、思う端から。
嫉妬せずにはいられない。
サクラの手と、ホタルの手が、感心するほどに同じタイミングで伸ばされて、お互いを抱き締めあう。
一瞬の戸惑いもない二人の動作に、シキはつい苦笑いを零した。
「サクラ様! ごめんなさい!」
ホタルの目からぽろぽろと涙が溢れる。
サクラの指先がそれを拭う。
サクラに涙はなく、ただただ安堵に満ちた笑みがあるだけだ。
「お帰りなさい」
涙を拭う指先は、それが止めどないことに諦めて、腕はホタルを強く抱きしめた。
そして、その視線がシキに向かう。
ほっとしたように。
祝福するように。
惑いのない微笑みを向けられる。
まだ何一つ語っていないにも関わらず、この妃が大凡を間違うことなく把握しているのだろう。
敵わないな。
シキは降参する。
そして、主君へのものと寸分変わらぬ、敬意を以て深く一礼をした。
それから、屋敷はちょっとした騒ぎになった。
「ホタルさん!?」
ホタルの姿を見つけたマツリが大きな声でその名を呼び、屋敷に来訪を告げる。
ホタル自身は知らぬこととはいえ、今回の失踪の折りには、血相を変えたシキにその所在を詰め寄られ、半べそで知らないことを告げた少女は、その後も随分と気を揉んだのだ。
ホタルがいなくなったことで、仕事は増えた。
よく分からないことがあっても、皆、忙しくて聞くに聞けない。
それより何より、あんなにシキ様が顔色を変えてお尋ねになるなんて、いったいホタルさんには何があったのだろう!?
多大な心配や不安はマツリから幼さを取り除き、元より大人びていた容貌は物憂げな風情に彩られ、美しさを際立たせている。
「マツリ!」
しかしながら、ホタルが名を呼べば、バタバタと騒がしく駆け寄って来る姿は、相変わらずの不作法ぶりで、しかも、勢いそのままで抱きついてくる様は幼子以外の何者でもない。
「どこに行ってたんですか!? 心配したんですよ!」
ぽろぽろと涙を流しながら訴えてくる己よりも背の高い娘の頬を、先ほどサクラがホタルにしたように撫でてやりながら、幾度と詫びを入れているとあちらこちらから使用人達が集まってくる。
あっと言う間に、ホタルの周りは見知った顔でいっぱいになる。
心配したことを口々に訴えながらも、帰還を喜ぶ声が屋敷の一角に満ち溢れ、それに、胸をいっぱいにしながら、ホタルはサクラを見遣った。
サクラは、笑みを深めて頷いた。
言葉にしなくても、もう、大丈夫だと分かってくれている。
幼い頃から、ホタルに対して何一つとして特別なことを求めなかったその人は、ホタルの変化も、また特別なことではないようにふんわりと受け入れて下さるのだ。
ホタルは視線をシキに向けた。
小さな人の群れから一歩離れて、ホタルを見ている。
ホタルの視線に気がつくと、やはり、こちらの方も全て承知の表情で頷いた。
しかし、その表情がふと強張る。
すぐにその理由は知れた。
奥の間から、タキが顔を出したのだ。
手招くでもない双子の元に、シキは静かな足取りで近付いて行き、その部屋へと入っていた。
嫌な予感。
周りを暖かな空気に包まれながら、ホタルの心には重いものがコロンと転がった。
「さあさ、皆仕事に戻りなさい」
一通りの挨拶やら恨み言やらが済んだところで、マアサがパンパンと手を打った。
そして、屋敷の中では、一見いつも通りの日々が始まった。
無言のタキに呼ばれて、シキが入った部屋は執務室だ。
この屋敷にいる時は、シキが最も長くいることになる部屋は、以前と何も変わってはないない。
調度品も。
独特の張りつめた空気も。
そして、この部屋の主も。
「随分と良いタイミングで帰ってくるものだな」
部屋の奥に立っているカイは少しばかり皮肉めいても見える笑みを浮かべながら、シキを迎え入れた。
「そうは思って頂けるなら、長く暇を頂いた心苦しさも幾分軽くなりますよ」
軽口で答えながら、しかし、やはり何かしらが起きているのを実感する。
「目的は無事に達してきました。何なりとお申し付け下さい」
短い言葉で経過を報告すれば、カイは頷きでそれに応える。
ひとまずはここまで。
カイが視線でタキを促した。
「アオイ様がイルドナスの王に請われて、内々にかの国を訪れているのは知ってるな?」
その問い掛けが、この嫌な予感のどこに繋がるのかまだ分からないながら、シキは頷いた。
アオイ・オードル。
サクラの妹だ。
元より天使とも呼ばれる極上の容貌で世間に名を馳せていた美女は、今やこの国一番の渦中の人物であると言って良いだろう。
誰もが目を奪われる美しい娘。
それだけでも妻にと望む男は後を絶たぬのに、軍神の寵妃の妹という付加価値の付いた彼女は、国の内外を問わず、少しなりとも地位や能力の自負ある者達にとって、この上なく魅力的な存在となった。
こぞって、ひれ伏し願う男達を前に、野心のある娘ならば、さぞかし世間を騒がせもしたのだろう。
だが、しかし、シキの知るアオイという娘にはそういった気配が微塵もない。
幾度か見たことのあるアオイは、まさに……そう、天使だ。
噂には聞いていたアオイの姿を実際に目にした時は、その呼び名になるほどと納得した。
確かにアオイの美しさは尋常ではない。
だが、天使というそれは、決して容姿だけのことではない。
辺りがどんなに喧騒に塗れていようとも。
取り巻く者達に、どんな思惑が溢れていようとも。
いつも穏やかな笑みを浮かべ、人の世のことは預かり知らぬ風に、泰然とそこに佇んでいる。
穢れを知らない、知ろうともしない。
皆がいる世界とは、何かを隔てた向こう側にいる。
アオイ・オードルはそんな娘だった。
そのある意味人間離れした風情が、アオイを天使にするのだ。
「そのアオイ様を、イトがゲルンの森で拾ったそうだ」
タキが続けた言葉の意味を、掴み損ねた。
オードルの天使……いや、今や、キリングシークの天使と呼ばれる娘。
呼び名が、一貴族名から国を掲げるまでに変化しように、アオイへの求婚もまた、国内の有力貴族に留まらず、近隣遠方の同盟国までが輿入れ先として名乗りを上げるようになった。
オードル家当主は己の一存では手に余る大事になってしまった娘の嫁ぎ先を、キリングシークに託した。
もはや、アオイの存在は、誰もがそれを望んでいなくとも、キリングシークの手駒の一つにせざるを得ないまでになっていたのだ。
アオイの身柄を国が引き受けたことにより、その争奪戦はなお激しくなったが、それも致し方ないことと宰相達は皇女の輿入れ先を選定するが如くの厳格さで求婚者たちを振るいにかけていったと聞いている。
そんな求婚者達の中でもひと際熱心に、アオイ・オードルを正妃として迎え入れたいと申し出てきたのが、同盟国であるイルドナスの若き王だ。
これには正直なところ、キリングシークの宰相達は一様に疑いと驚きを以て受け止めたようだ。
さもありなん。
イルドナスは、最も強大な同盟国の一つではあったが、先頃、即位したばかりの王は完全服従の先代とは態度を一変してきていた。
隙あらば、キリングシークに取って代わる。
そんな野心が見え隠れする王からの申し出は、友好を望むものか、人質を差し出せとの要求なのか。
優秀な密使からの念入りな報告と、熱心なイルドナスの使者の請願により、結果としてその申し出を受け入れる前提で、アオイは内々にイルドナス王に謁見しに出向いたのだ。
かの国には、馬車で1週間ばかり。
あちらには数日の滞在で、一度は国に戻る予定だった筈だ。
数えてみるに、予定通りならばそろそろ帰途に就こうかという頃ではないだろうか。
それが?
「……森? イルドナスの国ではなく?」
ゲルンの森は、イルドナスとキリングシークの中心部あたりに位置する。
2国が争っていた際には、幾度と剣を交えた場所だ。
「イルドナスは、未だ何も言ってきていないが……アオイ様が森で彷徨っているところをイトが保護したと……」
その森にイトがいること自体は不思議ではない。
あの森には魔獣が溢れている。
狩人であるイトが、そこにいることは十分にあり得る話だ。
しかも、あの森の近くにはイトが時折身を寄せる場所がある。
だが、なぜ、そこにアオイがいるのだ?
「イトが送ってきたものだ」
タキが、差し出してきたものを受け取る。
「見覚えは?」
手のひらにちょうど納まる大きさのずっしりとした質感のそれ。
「イルドナスの勲章だな……あまりいい思い出はない」
戦場で何度と奪ったものだ。
自らが討ち取った相手が誰であるかを確認するために。
動かぬ屍から、さらに奪い取ったもの。
血に塗れて、本来がどんな色だったのかも知らなかったそれが、本来は金と銀に縁どられ細かな細工の施された美しいものだと分かったのは、2国間で同盟が結ばれてからのことだ。
だが、今、タキの手から受け取ったそれは、戦場で拾い上げたものと同じ彩りに塗れていた。
シキは、それを裏返す。
「おい、この名」
見知った名が刻まれている。
イルドナスのかなり地位の高い貴族のものだ。
戦中でも、戦が終わってからも、幾度と顔を合わせた男。
「斬ったのはイト?……の訳ないな」
イトは滅多なことでは人は斬らない。
いや、正確に言えば、イトはカイが命じない限り、許さない限り、人は斬らない。
無頼に見える隻眼の男は、軍神に剣を捧げている。
何があっても……そうだ、自らの命が危険に晒されても、あの剣が理由もなく人の命を奪うことはない。
「これが、イトの書いて寄越した手紙だ」
手渡された紙切れには、書きなぐった文字で淡々と事実が語られている。
森で女を一人拾った……アオイ・オードルと名乗る、天使のような女。
連れらしい者は、既に魔獣に食い荒らされ、男女の区別もつかず。
転がっていた勲章と、女の耳飾りを一緒に送る。
指示を寄越せ。
「イルドナスの貴族が、アオイを連れて森を彷徨っていた?」
文面から読み取れることを、タキに尋ねる。
「そのようだな」
タキの答えから、シキの知らないことを多く知る策士も、これに関してはさほど情報がないのだと理解する。
「訳が分からないな」
呟くと、タキが肩を竦める。
「この件に関しては、ハク様が全て仕切っているからね。私としても口も手も出すことは差し控えている……いったい、何が起きているのか、想像はできても何も確証がない」
アオイの輿入れ先に関して、カイは一切の言及を避けている。
元より、政治的駆け引きは、己の担うべきところではないというのがカイの一貫した態度だ。
漆黒の軍神と呼ばれる己の存在が、ともすれば皇帝の地位を揺るがしかねないことを、カイは十分に理解し、そうなってはならないと肝に命じている。
故に、決して政治の表には立たない。
それは側近であるタキやシキも同じだ。
皇帝が動くことこそに支障があると判断すれば暗躍することはあっても、あくまで軍神の側近であり、軍神が望まぬことは成さない。
アオイの輿入れ先の選定にあたっても、それは例外ではない。
サクラの大事な妹の身の振り先ではあっても、それは既に甘い感情や、温い感傷に左右されるべきではないことは明らかなのだ。
だから、カイは沈黙を守る。
カイが沈黙を守るならば、その腹心のタキもまた静観するしかない。
シキにしても言わずもがなだ。
タキの言うハクが、この件を取り仕切っているのならば、尚更、カイを始めとしてこちら側が手を出す必要などない筈だ。
国の最長老の宰相は、年を経た者特有の老練した手腕と洞察力に長けた、信頼に値する人物だ。
何も心配すべきことはない筈だった。
何も手を回す必要はない筈だった。
何が起きたのかは知れないが、それは間違いなく不測の事態に違いない。
「拾ったのがイトというのは出来過ぎだな」
黙っていたカイが、そう口にした。
静かな口調だったが、シキはそこに憤りと安堵を感じ取った。
アオイの身に起きたことを隠すイルドナスへの怒り。
それに気がつかなかった己やキリングシークへの怒り。
それでも、イトの元にアオイがいるという安心感。
「カイ様」
タキの呼び掛けは、主君に指示を促すものだ。
カイは淡々と指示を出した。
この主は、どんな命令を下す時も、常に静かだ。
人を殺せとも。
人を救えとも。
いかなる声も、変わらない。
それが、命じられる者にとっては救いであることを、きっと分かっているのだろう。
「こちらに向かわせろ……ただし、詳細が分かるまで不要な接触は避ける」
「はい」
タキは頷いた。
何も問うことはない。
イトならば、全てを任せられる。
言外に含まれるイトへの全面的な信頼。
それは、ここにいる全ての者に共通している。
「……午後には密偵からの報告があるかと思われます」
タキの報告に頷きつつ、カイが歩き出す。
シキはその後に続いた。
城に向かうのだろう。
タキが密偵の報告を待つために残るならば、供はシキが請け負うところだ。
「シキ」
カイが振り向くことなく、名を呼ぶ。
「はい」
答えれば、やはりいつもと変わらぬ声が響いた。
「しばらく家には帰れんだろうな」
珍しい気遣いだ。
いや、今までのシキには不要な気遣いだっただけだ。
カイは何も変わっていない。
変わったのは、シキだ。
「構いませんよ。帰ったところで、母の妨害工作でキスの一つもまともにできないんです」
軽い口調に、本気のぼやきを含ませれば、小さな笑いが前から聞こえる。
「その妨害はいつまで続く?」
面白がる口調ではあっても、そこにはシキとホタルを公認する意思がある。
予想だにしない事件の勃発で後回しにした主君への報告の続きを口にする機会が与えられたのだ。
「来年の春まで、ですね」
まだ先の話だ。
その間、いったい何度シキはホタルの元から発つだろう。
そのたびに約束を交わし……それを果たせるだろうか。
「そこまで帰れんことはないな」
外に出たところでカイの足が止め、空を仰いだ。
少し後ろでシキも足を止め、カイが探したものを同じように探す。
旋回し続けるグルが、動きを変化させて降りていくのが見えた。
タキが指示を出すために呼んだのだろう。
「キスは無理でも、顔を見に帰るくらいの時間は欲しいですね」
これは、人使いの荒い双子の兄に言うべきかもしれない。
言ってからそう思う。
「それはお互いに、だな。タキに言っておけ」
カイも同じ意見のようだ。
シキは頷き、呟いた。
つい笑みが零れた。
そう、まったく。
こんな想いがあるなんて。
存在は知っていても、己の内にあるなんて。
「お互いに……ですね」