26
以前……もうずっと昔の気がする……街で夫人とシキに出会い請われて、このスタートン家を訪れたあの時も、足取りは重かった。
でも、あの時とはあまりに状況も気持ちも違いすぎる。
覚悟を決めての来訪とは言え、シキに伴われて屋敷へと足を踏み入れた時は身体が震えた。
「ああ、ホタル」
最初にホタルを迎えたのは、想い人にそっくりな方。
心底安堵したような声と、優しげな笑みを浮かべて近づいてくるタキを目にした途端、心苦しさで胸がいっぱいになり、ホタルは深く、深く頭を下げた。
「どうしたのですか? 顔を上げて」
声もやはりシキによく似ている。
そして、この声に諭すように言われたことを思い出し、お詫びしなければという決意を再び奮い起こして、息を吸ったその時だ。
ボスッという鈍い音と、
「……っぐ!?……」
全くタキらしからぬ呻きが聞こえてきた。
何事かと慌てて顔を上げると、腹部を押さえてうずくまるタキと、傍らに立ってそれを見下ろすシキが視界に飛び込んできた。
この光景は何なのか。
訳が分からず、ホタルは呆然と立ち尽くすことしかできない。
「……っお、まえ!?……」
苦しげに眉を寄せながら、タキが必死に顔を上げてシキを見やった。
シキは、静かな様子でタキを見返すも。
「あ、悪い。つい」
どこか褪めた視線と、少しも悪びれない態度で詫びを入れた。
いったい、何が起こったのか。
唖然とするばかりで、タキに声をかけることもできずにいるホタルへと、シキの視線が向けられる。
どうしてか、どこか非難めいたものを含んだそれに、ホタルは身を強張らせた。
「ホタルが眠る前に、タキの名を呼んだ」
このシキの言葉は後になって考えてみれば、人前で軽く口にするには意味深だったのだが、状況の異常さにうろたえるホタルは、この時、ただその意味を考えることでいっぱいだった。
眠る前に、タキを呼んだというそれ。
身に覚えがあるような、ないような。
いったい、いつのことだろう、と考えて、多分、あの時だと思い至る。
「私!」
同時にどこかに飛んでいってしまっていたお詫びの言葉を思い出した。
ホタルは慌てて、立ち上がりつつも辛そうに身体を折るタキに駆け寄る。
「私、タキ様にお詫びしなければと」
腹部を押さえて背を丸くするタキを助けようと手を差し伸べると、横から飛び出してきたシキの腕に阻まれた。
「シキ様!?」
胸元に引き込まれるようにして抱きこまれて、タキから遠ざけらる。
もがいて逃れようとするも、力の差は歴然すぎてままならない。
「シキ様! 離して下さい!」
抱き締める、親密過ぎるシキの動作に焦り、訴えるのに。
しかし、シキは更にホタルの腰を腕に捕らえて引き付けた。
「詫びって何だ?」
ホタルの訴えをまったく無視して、問いかけるそれに重なるように
「詫び、ですか?」
タキも、また問う。
ホタルは慌てて、タキへと顔を向けた。
「はい! タキ様にご忠告頂いてましたのに、己を弁えずこのようなっ……」
シキの腕から離れようと努力しながらも、タキへ答える。
お詫びしなければ。
ずっとそう思っていた。
タキは言ったのに。
シキがホタルに興味を持っている。
お気をつけなさい、と。
あの時、ホタルは、シキに想いはないと答えた。
気をつけると。
己を弁えていると。
なのに。
「申し訳ありません」
心からの詫びを口にするのに、どうしてかタキの視線はホタルの背後に注がれている。
シキに殴られたか蹴られたかした腹が痛むのか身体は前のめりのまま、だが、その面は、どうやら痛みではないもので青ざめているようだ。
「タキ」
シキの低い声が、広々とした客室に重く響いた。
聞いたことない声音にホタルが振り返ろうとすると、今度は前にいる方が
「ホタル!」
これも聞いたことのないような焦燥に満ちた声で名を呼ぶ。
シキの表情を確認することなく、ホタルはタキへと向き直った。
体勢を整えてホタルに向き直るタキは、明らかに動揺している。
「何のことですか!? 申し訳ありませんが、心当たりがありません」
あまりに、彼らしくもない態度に、今度はホタルが焦ってしまう。
「あのっ、以前、厨房横で……シキ様に気をつけるようにとご忠告を……」
「タキ」
ホタルの言葉を遮る、地を這う低い声。
タキの視線が一瞬ホタルの背後へと上がり、ぎょっとしたように強張ったかと思うと、すぐさまホタルに戻ってくる。
「ホタル! 違いますよ!」
あまりに常とは違うタキの形相に、ホタルはつい身を引き、無意識に後の人に寄り添った。
「シキをどう思っているかと貴女に尋ねたときのことでしょう!?」
タキの心の荒波が伝わってくる。
ホタルは声も出せず、コクコクと頷いた。
「ああ! やっぱり誤解してますね。いや、あの時も私の言葉を曲解しているとは思ったんですが」
「タキ」
3度目の呼び掛けは、もはや、それだけで脅迫だった。
タキは引きつった表情ながらも、自らを落ち着けるように大きく深呼吸をした。
「あの時……私の尋ねに、貴女がシキを想っていると、一言言ってくれれば事はすんなり行ったんですよ!」
出てきたのは、まだまだいつもの落ち着きとはかけ離れた声だった。
「マアサからは貴女とジンとの縁談の相談を受けていましたし、シキが貴女に興味を持っているのは明らかでしたし……私としては貴女の心内を確認した上で動きたかったのですが……」
未だ本来の姿を取り戻せないタキの言葉は、結局終わりの方は心もとなく尻すぼんだ。
ホタルの心内?
そんなものを知ってどうするつもりだったのか。
ホタルはじっとタキを見つめた。
いつもの冷静さを取り戻せないまま、タキはたじろぐように天井を見上げる。
「貴女がシキを想ってくれているなら、マアサには断りを入れて、あとはシキに任せておくつもりだったのです」
そんな風に聞こえる言葉だっただろうか。
むしろ『ホタルに興味あるシキは、公爵家跡取りの自覚がない』と、そうも聞こえるものだったと思うのだが。
もっとも、そうでなくても、自分自身の想いを認めたくないホタルにとっては、否定するしかない状況ではあった。
ホタルとタキは、お互いに妙な気まずさを抱えつつ、黙り込む。
少しの間の後、ホタルの腰を抱く背後の気配が、ふと柔らかくなった。
背中でそれを感じ取ったホタルの緊張が少しばかり解け、それに連なるようにタキの焦燥も消えていく。
「それで、ホタル本人に聞くか? 年頃の娘相手に、それは浅はか過ぎるだろう」
当代きっての策士に投げつけられる言葉に、容赦はない。
タキは少々決まり悪げだ。
ぼそぼそと。
「まあ、私が悪かったのでしょう。それは認めます。ですが……私はシキと違って色恋事は苦手なのですよ」
そう言ったタキの足元を、ホタルの背後から伸びたシキの足が蹴る。
先ほどは、腹部に入ったのであろうそれを際どく避けて、タキはようやく一心地ついたように微笑を浮かべた。
「とにかく……私は貴女がシキを受け入れてくれるならば、それを歓迎します」
ホタルを抱いていたシキの腕が緩んだ。
背後を見上げれば、いつもの通りに微笑んだシキが、見下ろしていた。
「……これで、少しは君の不安も和らぐのかな?」
極めて軽妙な口調ながら、そこに本気の問い掛けを聞き取って、ホタルは強張るばかりだった頬を僅かながら緩めた。
「不安?」
タキが尋ねるのに、シキは困った表情を見せながらそれを明かす。
「このお嬢さんはね、身分差とやらが気になってしょうがないらしい」
タキが片方の眉を上げて、ホタルを見やった。
それは、とてもシキに似た表情で、今度はホタルが少しばかりたじろぐ。
「それは……いくらお前が奮闘したところで、どうしようもない不安だろうな」
シキは嫌そうに眉を潜めた。
「不本意だが、否定できない」
そっくりな二人に眺められて、ホタルはなんとも居心地の悪さを覚えた。
責められている風ではない。
なのに、とても、自分が悪い気がするのはどうしてだろう。
だいたい、身分差を気にするのは当たり前だと思うのだ。
揃いも揃って、それが何でもないような風をするこの方達が特別だろうに。
妙な静けさを保つ部屋の向こうで、サラサラと優雅にドレスを操りながらも、忙しなくこちらに向かう二人分の足音がホタルの耳に届く。
やがて、足元の忙しさをそのままに、早いリズムのノックが響いた。
「ホタルが来てるんですって?」
この方は、いつ、いかなる状況においてもこういう登場の仕方をなさるのだ。
部屋に充満していた珍妙な緊張感を見事なまでに打ち砕き、ホタルにこれまた一風変わった感想抱かせて現れたのは、タキの愛妻であるアイリだった。
その背後から、満面の笑みを浮かべて、スタートン夫人が顔を出す。
「ホタルさん、久しぶりね」
「……奥様、アイリ様には、ご機嫌麗しく……」
ほとんど反射的に、膝を折って挨拶をしようとするのを、アイリがあっけらかんと阻止する。
「ああ、もう、そんな堅苦しい挨拶はいらないわ。顔を上げて」
勢い良く言われてしまえば、中途半端な挨拶を置いてきぼりにして、ホタルは顔を上げるしかない。
アイリは相変わらず、華々しく美しい。
たった一度しか会ったことがないにも関わらず、旧知の友人であるかのように懐かしげに微笑みかけて
下さったのだが、どうしてかそれが強張った。
アイリは、思わず見惚れる程の鮮やかな金の瞳を見開いて、じっとホタルを見つめる。
何か、まずかっただろうか。
しかし、深く考える間もなく、スタートン夫人がホタルの手を取った。
「いくら貴女にお会いしたいと言っても、シキもタキもちっとも会わせてくれないのよ」
恐れ多い言葉と、ぎゅっと握られる手のひらの強さに、ホタルは返す言葉もなく恐縮するばかりだ。
こんな風に親しげにしては下さっていても、ホタルがシキに嫁ぐなどと聞けば、どのように驚かれることか。
つい先ごろまで、精神的に不安定だった方が受ける衝撃を思うと、ホタルの心は不安でいっぱいになる。
「もういくらでも好きな時に会えますよ……いえ、しばらくはこの屋敷に置き留めるつもりですし」
だが、シキは、世間話を話すようにサラリと、それを夫人に告げた。
それは初耳のホタルも驚いてシキを見やった。
「何を言っているのかしら、この息子は?」
夫人の柳眉が寄せられる。
ホタルは、夫人に握られた手をそっと引こうとした。
だが、思いの外、強く握られていて離すことはできない。
「ホタルを妻に迎えます」
耳に届いた短い単語に、身体が震える。
ホタルがシキの妻になる。
それは、この母君にどんな風に聞こえたのだろう。
公爵家の後を継ぐ息子が、一介の侍女を娶るというその言葉。
「……なんですって?」
夫人は、シキをじっと見て、問いを返した。
「ホタルと結婚します」
シキは、またもすんなりと答える。
何の気負いもないそれに反して、ホタルの身体は強張るばかりだ。
「結婚!? シキと!?」
シキの言葉に派手な反応を示したのは、タキの傍らにいたアイリだった。
ホタルに駆け寄ってくると、そのままの勢いでホタルの肩を掴む。
「シキで良いの!?」
考えてみれば、失礼な物言いだったのだが、その時のホタルにそれに気がつく余裕はない。
夫人に手を、アイリに肩を囚われて、頷くこともできずに俯くばかりだ。
「ホタルさん」
そんなホタルの手に、強い圧迫感。
夫人が捕えたホタルの手を、ぎゅっと握ったのだ。
「なにもこんな息子に嫁がなくても、貴女なら引く手数多でしょう?」
ホタルは顔を上げられないまま
「私のような者が申し訳ございません」
何度も心で唱えたお詫びの言葉を、必死に声にする。
覚悟を決めて、ここに来たのだ。
「でも、私、シキ様のお側に置いていただきたいのです」
心を奮い立たせて、顔を上げ夫人にそう告げる。
ホタルの耳は、今まで数えきれないほどの覚悟を決めた声を聞いて来た。
それは、どんな小さな覚悟でも、どんなに切羽詰まった覚悟でも、同じようにホタルの耳に響き渡った。
固く、熱く、迸る声。
今のホタルの声もまた、同じ。
覚悟を決めた者の声だ。
夫人はしばしホタルを見つめた。
双子と同じ彩りの瞳には、もちろん驚き。
やがて、その彩りが優しく和んだ。
「……本当に?」
そう尋ねてくる。
ホタルは頷いた。
「はい」
それだけの返事。
でも、とても勇気のいる言葉。
そして、やはり覚悟を秘めた固く熱い声。
「本当にシキに嫁いでくださるのね?」
ホタルの手を握る夫人の手に、なお力が籠る。
そして、優しく和んだ瞳が、きらりと光った……気がした。
「タキ」
夫人は、何も言わずに状況を静観していた息子の一人を呼んだ。
「ボタンにホタルさんのお部屋を準備するよう伝えてちょうだい」
ホタルは今後、このボタンという名の者に、とても世話になることとなる。
だが、今のホタルにとっては、知らない名前だ。
「分かりました」
タキが答えながら、扉へと向かう。
そのタキの背中に、夫人は追加で注文を出す。
「私の続きのお部屋を、ね」
タキは足を止め振り返り、夫人を見つめた。
そして、その視線がホタルを通り越し、この状況をやはり静観していたシキへの到達する。
タキの視線を辿るようにして、ホタルの視線が、夫人の視線が、シキを捕えた。
「母上」
シキは眉を寄せた。
そうすると、先ほど柳眉を寄せた夫人の面影が、そこに現れる。
「なあに?」
ホタルが返事をする夫人に目を向ければ、その方はにっこり、と微笑んでいる。
その笑みも、また双子を彷彿とさせた。
人を誑かすような、煙に巻くような……あまり、よろしくない時の笑みだ。
「ホタルさんはご不満?」
問われて、慌てて首を横に振る。
この家に入ることを受け入れてもらうだけでも恐れ多い。
何一つ、不満があろう筈もない。
「私は不満ですよ」
シキが更に眉を寄せた。
「そう?でもね、まだ、結婚した訳ではないのだもの。正式に結婚するまでは、ホタルさんは、ラジルからの大事なお客様よ。貴方から死守する義務が私には生じるの」
ここにきて、ホタルはようやく夫人が何を心配しているかに気が付いた。
途端に、なんだか気恥ずかしく、先ほどの違う意味で俯いた。
「……貴女の続き部屋はやり過ぎでしょう?」
シキ様、もう抗議しないで下さい。
そんな願いも言葉にできず、心で訴える。
夫人はホタルの手を離し、シキへと近付くと、びしっと指先を息子の鼻先に突き付けた。
「貴方の今までの素行を思えば、私と同室にしたいくらいです」
「母上!」
続く親子の攻防。
どうすることもできないホタルの横で、アイリが小さな笑いを零した。
ホタルが顔を上げれば、とても嬉しそうなアイリと視線が絡む。
「さっき、ホタルを見てびっくりしたわ」
アイリは笑みを深くした。
先ほどホタルを見つめたアイリの表情は驚きだったのか。
何に、驚いたというのだろうか。
「前に会った時の貴女は、かわいいばかりの女の子だったのに」
それは去年の夏のこと。
まだ、シキへの想いをはっきりと自覚していなかった頃の話。
「もう、違うのね」
そう、違う。
もう、ホタルはあの頃のホタルではない。
「シキもさっきは違ってみたのだけれど」
言いながらアイリの視線は、なおも母親に食い下がっている往生際の悪い男に向けられた。
「式はいつ頃にしましょう?」
「そんな制約があるなら明日にでも」
親子の攻防戦。
アイリは首を傾げた。
「気のせいだったのかしら」
ホタルもまた、シキを見た。
ホタルの視線に気が付いたのか、シキが母親からホタルへと顔を向けた。
そして、困ったというように。
でも、柔らかく静かに。
微笑んだ。
「ううん、やっぱり変わったわ」
アイリが呟く。
どんな風に?
あの方は。
私は。
どんな風に変わりましたか?
聞いてみたかったのだが。
「明日は無理ねえ。ウェディングドレスだってあつらえなくてはいけないし」
夫人の発言に、勢いよく手を上げたアイリには聞くことができなかった。
「はい! 私も一緒に選びます!」
どうやら、アイリの興味ある話題が飛び出しらしい。
「ドレスはぜーったいカルフです」
著名なドレス工房の名を口にしながら、アイリが夫人に近付いていく。
入れ替わるようにシキが夫人から離れる。
「そうねえ。やはりそこよね……調度品は……」
聞こえてくる会話に、ホタルへと近付きかけていたシキが、足を止め振り返って答える。
「家具類は、エリシカで。カノンに予約済みですから」
だが、シキが会話に加わったのはそこまでだった。
以降は、主役である筈の二人に見向きもせずに、二人の女性の話は盛り上がっていく。
シキがホタルの横に立ち、見下ろし微笑んだ。
ほら、大丈夫だろう?
そんな声が聞こえた気がした。
ホタルも笑みを返した。
この屋敷に一歩踏み込んでから、ずっと固まっていたものが溶けて流れていく。
「……ありがとうございます」
自然と、そう言っていた。
貴方が、闇から私を救ってくれた。
貴方が、立ち竦むだけだった私を先に導いてくれた。
だから、今、ここにいられる。
こんな幸せがこの身に訪れるなど、思いも寄らなかった。
「それは……こちらこそ、かな」
シキが言う。
「覚悟を決めてくれて、ありがとう」
ホタルは首を振り、もう一度口にした。
「ありがとうございます」
これは、大騒ぎの方々に。
当人達をほったらかして盛り上がるご婦人たちには、聞こえていないだろうけど。
でも。
ありがとうございます。
夫人に、アイリに、タキに。
本当にありがとうございます。
サクラに、祖父に。
今まで、ホタルを受け入れてくれた全ての人に。
ホタルは何度も繰り返した。
ありがとうございます、と。