25
隣にその人がいる。
これが現実だと知るたびに、涙が出そうな程の幸せに満たされる。
「好きだよ」
囁きに頷く。
抱き寄せる腕に身を委ねることばかりか、自ら縋ることさえ赦され、むしろそれを請われた。
「愛してる」
幾度と繰り返されるその言葉は、その人が言った通り、体の隅々までに蔓延っていた闇を払拭し、真新しく美しい光を注ぎ込むようだ。
いつまでも、こうしていられれば良い。
そう願わずにはいられない。
だけど、そんなことができる筈がない。
この人は帰らねばならない。
多くの使命を持つ人には、在るべき場所がある。
この人を待つ者は、たくさんいるのだろうから。
「シキ様」
シーツの中でまどろむ人の名を呼んだ。
寝返りで返事をし、起きようとしない様が、子供のようだと少し笑える。
しかし、すぐにその笑みを消して
「シキ様」
もう一度。
気だるげに腕があがり、寝乱れた金髪を手の平がかきあげる。
現れた鮮やかな碧眼に、己の姿があることが不思議であると同時に、手放しがたい喜びに溢れた。
それを抑え込んで、言うべき言葉を胸の内に用意する。
「早起きだね」
ホタルは既に身支度を終えていた。
シキはそれを目に止めて
「……そんな風に身なりまで整えて……何か急ぎですることがあるのか?」
不機嫌な様子で呟きながらシーツから伸びてくる腕が、再び白い波に引きずり込もうという意図を持っているのに気が付いて、ホタルはそっと、しかし、確固たる意思を持って身を引き、逃れる。
「ホタル?」
不審げな呼び掛けに、出来る限りにと平静を装いながら、用意したそれを告げた。
「シキ様、そろそろキリングシークにお戻りにならなくては」
シキはシーツに包まり、起き上がる意志のかけらもないような顔で
「戻るよ」
あっさり答えた。
ホタルは安堵と落胆の吐息を零しかけ。
「君が俺と戻ると言えば、すぐにも」
息を飲む。
この数日の間。
何度もシキはそれを口にした。
『結婚しよう』
『俺の元においで』
そのたびにホタルは首を横に振るう。
だって、できる筈がない。
シキの元になど行ける筈がない。
好きだと。
愛していると。
いくらそれらに頷いても。
「できません」
できない。
どんなに想いを認めても、どうにもならないことはあるだろう。
「なら、俺は戻れないな」
そして、堂々巡りになる言葉の応酬。
こんな風に争いたい訳ではないと、お互いに言葉を止め、口付けて、身体を重ねて。
そうして、答えを出さずに過ごしてきた数日間でもあった。
だが、いつまでもそうしている訳にはいかない。
「お願いです。どうか、お戻り下さい」
「俺は一人では戻らないよ」
ホタルは唇を噛んで、俯いた。
どうしてだろう。
何度とこの会話を繰り返しても、一向に交わらない平行線が続くように思える。
ホタルにあった闇を、シキが光を注ぎ込んで払拭したとしても。
ホタルとシキの間に、歴然とある身分差は失われる筈もない。
それを、どうして、なきもののように振舞えるのだろうか。
「ホタル」
シキが半身を起こす。
近づいてくる気配に後ずさるも、すぐに腕を捕われた。
胸に閉じ込められて、素直に何も遮るもののない温かな素肌に頬を寄せる。
「シキ様が好きです」
でも、貴方の妻になど、なれる筈がない。
「ここでシキ様をお待ちする、というお約束ではだめなのですか」
ホタルは囁くように尋ねた。
シキの腕に、ぐっと力がこもる。
痛みを感じるほどの抱擁の中
「……そして俺は、愛せない女性を妻に迎えるのか?」
その声は残酷に冷たく響いた。
一瞬、シキの言う意味が分からなかった。
だが
「君に想いを馳せながら、愛していない女性を抱いて、愛しあってもいない両親を持つ子を産ませるのか?」
その意味に身体が震えた。
愛し合ってもいない両親?
そこから産まれ出る命。
それは……ホタルのように、母となる女性に疎まれるような?
そんな存在を創り出すことになるのだろうか。
そんなこと。
「シキ様!」
顔を上げて、シキを見やる。
そんなつもりではない。
言いたいが、言えない。
「君が言っているのはそういうことだよ」
シキは穏やかな、しかし笑みのない表情で断言した。
そうだ。
確かにその通りだ。
シキの身分から言えば、いずれは妻を迎えない訳にはいかないだろう。
そして、その女性は、当然のようにシキの子を産むことを望まれるのだ。
「……私は」
何の言い訳ができるだろうか。
身分を口にして、シキの妻にはなれないと言う己だ。
シキの身分故に付いて回る世間のしきたりを否定し得る術はない。
「……シキ様……私は……」
やはり、間違っていたのだろうか。
シキから逃げ続けるべきだったのか。
受け入れてはいけなかったのか。
だが、すべては今更だ。
自ら望んで抱かれたこの腕から、もはや逃げ出すことなどできない。
シキを拒むことも。
この想いを封じることも。
できる筈がない。
「悪い……言いすぎた」
シキの腕が、再びホタルの頭を胸元に引き寄せた。
解放することのない、優しいばかりの抱擁だ。
ホタルはそこに顔を埋めて、涙を堪えた。
「君は何にこだわっているんだろうな」
ふとシキが呟く。
「俺を愛してると言うのに……俺が愛してるというのに……君の縛るのはその二つだけの筈だろう?」
共有する秘密を確認するような問い掛けに、ホタルは頷いた。
過去の暗く重いばかりの呪縛は解き放たれた。
そして、現在のホタルを縛る言霊は、その二つだけに違いない。
「何が君を頑なにさせるのか、俺には分からないな」
本当に分からない?
それとも、もしかして分かってないのはホタルなのだろうか?
「……俺が公爵であろうとなかろうと、戦場で討たれれば、ただの屍だよ」
ホタルを抱く腕は、変わらず力強さと温かさで溢れている。
なのに、口から迸る言葉は、ホタルの身を凍えさせた。
「いつ、剣で貫かれるかも知れない。明日にも、牙に引き裂かれるかもしれない。そうしたら、後は大地に還る時を待つだけの骸だ」
ホタルは思わずシキの背に手を回した。
今はここに在ることに安堵できずに、繋ぎとめるように強く縋る。
「嫌です……そんなこと、言わないでください」
言葉だけであっても、そんなことは口にしないで欲しい。
シキがいなくなる。
戦場で。
闇の中で。
動かぬ、冷たいばかりのモノになり果てて。
浮かぶ光景は地獄そのものだった。
「ホタル……本当のことだよ」
シキは優しく、だが、はっきりとそう告げた。
「発つ時はいつだって死を覚悟してる」
「シキ様!」
これ以上強く抱くことなんてできない。
それほどに腕に力が籠る。
分かっているから。
それが、真実であると。
「だから……君の元から向かいたい。君の手で送り出して欲しい」
その言葉は、不意にホタルの脳裏に、過去の光景を映し出した。
ユリジアが出征する時には、日頃決して自ら男に触れることのない母が、必ず支度に手を貸した。
あれは、何だったんだろう。
「私がシキ様を送り出すのですか?」
それは、なんて辛いことだろうか。
ホタルは顔を上げた。
目の前のシキは相変わらず緩やかな穏やかさばかりで。
だが、その瞳は自らの死の覚悟を語る者らしい鋭さと昏さを宿している。
「ああ……だけど、それは最期の別れのためじゃない」
シキの手が、ホタルの頬を包む。
「君の元に戻ると……約束するためだ」
戻る。
私の元へ。
この人が、愛しているという私のところ。
あの男は……ジオ・ユリジアは、必ずここへと戻った。
己を憎む女と、己が作り出した呪われた子供が待つこの屋敷に、どんなに戦場が遠く離れていようと、どれほどの傷を負っていようとも。
必ず、この屋敷に戻ってきた。
そして、どんなに母が拒もうと、その身を抱き寄せた。
そこにどんな想いがあったか。
ホタルは知らない。
きっと誰も知らない。
それは、あの人達自身でさえ、分からなかったのかもしれない。
だが、ホタルは分かっている。
シキはホタルを愛していると、故に戻るのだ。
そして。
「生きて戻れば君を愛せる。君に愛されることができる」
そして、私はこの方を愛している。
ホタルは腕を伸ばして、シキの首へ巻き付けた。
シキがホタルを受け止めて、なお抱き込む。
どちらが抱きしめているのか。
どちらが縋っているのか。
分からないくらいに。
「俺はそうありたいと……そうあるために、君の元に戻りたいと……そう願っているだけだ」
涙が零れる。
尽きることない。
涙も。
想いも。
枯れることなく、溢れ続ける。
「それだけのことなのにな」
そうだ。
ホタルだって、それだけだ。
「……君を妻に迎えるというのは、そういうことだ……それ以外なんて何もない」
ホタルの胸元に埋められたシキの表情は分からない。
だが、声に苦々しく、苦しげなものが混じる。
「君の言うことは分かるよ。俺の妻になることは、君には辛いことも多いだろう」
ああ、本当は分かっていらっしゃるのだ。
ホタルが頑なな理由を、きちんと分かっている。
分かっていて、それでも、ホタルを娶ることを望むのだ。
「それでも……俺は君を手に入れたい。俺の全てを君に与えたい」
ホタルは零れ落ちる涙をとどめようと、深呼吸を一つした。
「これが俺のわがままな願いか? ならば、君は何を願う?」
胸元のシキの頬に手のひらを添えて、いつもその人がホタルにするように顔を上げさせた。
珍しくもきつく寄せられて皺を刻む、シキの眉間に口づける。
願うことは。
「……貴方のご無事を」
唇を滑らせ、目元に。
「貴方が私の元に戻ってきて下さることだけを」
シキの唇が、キスを返す。
ホタルの首筋に。
浮かぶ鎖骨に。
「……私を愛して下さることを……私の想いを貴方が受け入れて下さることを」
「叶えるよ」
シキの手がまとめてあるホタルの髪を解く。
母親から受け継いだ鮮やかな紅。
嫌いだったそれも、シキが触れれば愛しく思えた。
「君が待っていてくれるなら、必ず戻る」
抱き合いながら、整える間もなく乱れたままのシーツに倒れ込む。
「君が待っていてくれるなら、俺は迷うことなく戻れるから」
シキが重なり、なお、隙間を埋め尽くすようにきつく、きつくホタルを抱きしめる。
「……ホタル、俺の願いを叶えてくれ」
ホタルは重なるシキの重みを全身で受け止めて。
更に、自分自身の持て得る力全てを以て、シキを抱く。
「はい」
ホタルははっきりと頷いた。
ホタルを抱きしめるシキの身が一瞬慄いた。
「貴方が私の願いを叶えて下さるように」
「君が俺の願いを叶えてくれるように」
それは、契りの誓いのように。
「君の」
「貴方の」
指先を絡めあう。
額を重ねて。
「願いを叶えます」