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 女の人が窓辺に座っている。

 鮮やかな赤毛が印象的な、きれいな女の人。

 ホタルは、その人を『かあさま』と呼ぶ。

 だけど、女の人は、決して返事をしない。

 その瞳は、ホタルを、ホタル以外の何もかもを見ていない。

 ただ、窓の外を見ている。

 その唇は何も語らない。

 ただ、空虚な微笑を浮かべ続け、時折、思い出したように一人の男の名を呟く。

 そして、その耳は。

 かつては、世界のありとあらゆるものを聞いたであろうその耳は、何も聞かない。聞こえない。

 ただ、一つの声を探し続けている。


 憎み続ける男の姿を。

 恨み続ける男の名を。

 呪い続ける男の声を。


 その人の世界は、それだけなのだ。



 今、見ていたのは白昼夢だろうか。

 ホタルは、はっと我に帰り、辺りを見回した。

 もちろん、そこに女の姿などありはしない。

 そもそも、あの人は、もうこの世にはいないのだ。

 あれは、母の姿。

 父が亡くなった後の、母の姿だ。

 その死を受け入れることができず、窓辺で毎日男の帰還を待ち続けた女。

 戻ってくれば、怯え、憤り、詰ることしかなかったのに。

 憎んでいた男。

 どれほどに恨んでも恨みきれない男だったろうに。

 その男の死を、どうして女は受け入れられなかったのだろう。



 立ち上がって、真昼の幻を見た場所に近付く。

 サクラの元を辞して……いや、シキの腕の中から逃げ出して、辿り着いた場所がここだなんて。

 辛い想いばかり心で、辛い思い出しかないこの場所を訪れる。

 随分と自虐的な行為だ。

 だが、だからこそ、ホタルは泣くこともなく、淡々と日々を過ごせているのかもしれない。


 ここは、ホタルが産まれた家だ。

 両親が共に亡くなり、祖父と暮らすためにオードル家に行くことになるまでの、数年間を暮らした家ということになる。

 それは、キリングシークからいくつもの国を隔てた、田園と森林が国土のほとんどを占めるというのんびりとした小国にあった。

 その中でも、戦乱時にもさほど混乱に巻き込まれなかったような片田舎の、そのまた森の一角の一軒家という、戦で名を上げた男の棲家とも思えぬ平和な場所。

 ラジルやオードルのお屋敷ほどの建屋ではないが、一介の庭師の息子の家屋とはかけ離れた立派な住屋だった。

 元の主の名はジオ・ユリジア。

 平民から騎士の称号を手に入れた男として、今なお知る者の少なくない男。

 彼は人里から少々離れたこの場所に屋敷を建て、そこに妻と娘と住まわせていた。

 それから彼女たちを世話する中年夫婦が一組、近くに暮らしていた。

 もう何年も人が暮らしていない建屋なのに、ホタルがここを去った時から、ほとんど変わらぬように見えるのは、その夫婦が今もこの屋敷を手入れしてくれているからに他ならない。

 父が遺した数多くの財産の一つ。

 父は功績を上げ、名を広め、それなりの富と名誉を手に入れた。

 父の死により、名誉は語り草になり、富はホタルのものになった。

 父の遺したものなど何もいらなかった。

 その中でも、特にこの屋敷はホタルにとっては不要なものに違いなかった。

 だから、去ってから10年以上もの間、一度として訪れたことなどなかった。

 なのに、突然、現れたホタルを、かつて世話をしてくれた夫婦はうれし涙で迎え入れ、何も言わずに家のカギを渡してくれたのだ。

 いい思い出なんて、何もない家だ。

 ただ、ただ、辛い記憶しか蘇らないのに。

 それでも、ここ以外思いつかなかった。

 オードルに戻ることも一瞬考えたが、今はとにかく……そう、独りになりたかった。

 自分という存在がどんなものだったか。

 ここを去ってから、忘れがちだった。

 祖父からの愛情。

 サクラからの親愛。

 それらが、ホタルにここでの日々を忘れさせ、いつしか、自分自身が何者であったかも忘れさせた。



「『かあさま』なんて呼ばないで!」

 女はよくそう喚いた。

 暴力こそ振るわれることはなかったが、それは情愛故というよりはむしろ、例え憎しみをぶつける行為であってもホタルに触れたくないというのが、女の心内だったと思う。

「お前なんて産みたくなかったんだから!」

 そう言って、泣き崩れる。

 喚いているか、泣いているか……無表情で自己の世界に閉じこもるか。

 女の毎日はそれだけだ。

 幼いホタルにとって、母親というのはそういうものだった。

 だから、何の思いもなく、泣き喚く女をただ見つめているだけ。

「また騒いでいるのか?」

 男の声に、床に突っ伏すように泣いていた女が、ビクリと身体を震わせて顔を上げた。

 その顔は恐怖に青ざめている。

「……よくもまあ、そんなに泣いてばかりいられるものだな」

 呟きながら、身にまとっていたマントを脱ぐ。

 その下は軍衣。腰には剣。

 ホタルの見慣れた男の姿だ。

 父親という男は、『兵士』なのだという。

 その中でも何十という部下を従える『優秀な騎士』なのだと聞かされていた。

 大きな帝国の一部隊を率いて、この戦乱を治めるために奔走している偉い方なのだ、と。

 もちろん、母親に聞いたのではない。

 ホタルの世話をしてくれるササメという女性が教えてくれた。

 ホタルには、それがどういうことなのか、良く分からなかった。

 ただ、ホタルはこの男が嫌いだった。怖かった。

「ホタル、こっちにおいで」

 でも、呼ばれれば、ホタルは男に近付く。

 だって、この男は『とおさま』だから。

 『とおさま』の言うことを聞かない子は悪い子ですよ、とササメが言うから。

 だから、ホタルは『とおさま』の言うことを聞く。

 そして、かあさまと違い、『とおさま』はホタルが言うことを聞けば優しかった。

 聞かなければ、容赦なく折檻された。

 だから、ホタルは『とおさま』の言うことを聞くのだ。

 男はホタルの前に膝をつき、微笑む。

 そして、ホタルの髪を撫でた。

 ギクリと身体が強張る。

 『とおさま』に触れられるのも、大嫌いだ。

 だが、『とおさま』はよく、ホタルの髪に触れた。

 母から受け継いだ緩く波を打つ赤毛。

 それから、ササメは『大きくなったらホタル様は、お母様のようなきれいな女性になられますよ』と言う。

嬉しくはないけれど、ホタルは母に似ているようだ。

 だが、この父からは何も受け継いでいない。

 陽に良く焼けた浅黒い肌と、濃い茶色の髪と瞳。

 抜けるような白い肌のホタルとは、似ても似つかない容姿の男は、しかしホタルの『とおさま』。

「後でまた、とおさまにいろいろ教えてくれるね?」

 その問いに、ホタルは頷いた。

 とおさまは、ホタルにいろいろなことを聞いた。

 ホタルはとおさまの望むままに、聞こえるものを話した。

 とおさまがホタルに望むのはそれだけだった。

「良い子だ。ササメのところに行っておいで」

 そう言いながら立ち上がり、ホタルの背後で泣きつづける女の元へと向かう。

「……いや……」

 男に気が付いた女が、細い声で拒否するのが聞こえる。

 ササメの元に向かいながら、ホタルの耳は男女の声を否応なく聞き取った。

「いや! 近付かないで!」

 女が男から逃げようと後ずさる、ドレスを引きずる音。

 それを追う……しかし、決して急くことのない男の足音。

「戦場から戻ってきた夫に挨拶もなしか?」

 閉ざし方の分からない耳に、無情な声。

 部屋を出る寸前に見やった視界には、嫌がる女を抱き寄せる男の姿。

「どうして、こんなことをするの!?」

 女が悲痛に叫ぶ。

「こんなこと、必要ないのに!」

 男の答えは聞こえない。

 争うように、衣擦れの音がする。

「どうして、私を抱くの!?」

 再び、争う音。

 ホタルは走り出した。

 音は後を追いかけてくる。

 どさり、と倒れ込む音。

 布が引き裂かれる微かな音でさえ、ホタルの耳は聞き取った。

「いやあ!」

 女の悲鳴。

 ホタルは走った。

 走って走って、父の言いつけを守らず、ササメの元には行かない。

 そのまま走り続けて、一人で庭に出た。

 庭の中、一番大きな樹木に駆け寄って、その幹に耳を当てる。

 優しい音を探す。

 何でも良いのだ。

 風。

 水。

 鳥。

 母という女と、父という男の声以外ならば。

 なんでも良い。



 ここにいると、どうしても過去の思い出を辿ってしまう。

 それでも、あの方のことを考えるよりは良い。

 あの方のことを考えると。

 胸が痛い。

 息ができないほどに。

 だから、過去の幻影を追う。



 女はホタルが去った時と同じ部屋にいた。

 そして、やはり泣きながら、床にうずくまっている。

 ただ。

 ドレスは既に女の身にかろうじてまとわりついているだけ。

 結われていた髪は解けて、長い赤色が女の周りで波打っている。

 それらを整える気力もないように、ただただすすり泣く。

 しかし、ホタルの気配を感じ取ると、女はほんの少しだけ身を起こした。

 感情のない瞳でホタルを眺めて。

 やがて、その視線が嫌悪と憎悪で不気味に輝く。

「お前は誰も愛してはだめ」

 低い声で呟いた。

 呪詛。

 何度も何度も繰り返されるそれ。

「お前の血肉は私の憎しみと恨みでできているのだもの」

 ユラリと身体を起こし、四つん這いにホタルに近付く。

 ホタルは身動きせずに、女を見つめた。

「お前には、誰かを愛する資格も、誰かに愛される資格もないわ」

 じっとホタルは、女を見た。

 女もホタルを見た。

 やがて、女の瞳から止まっていた涙が、再び溢れて零れる。

 いつもは泣きわめくか、すすり泣くか。

 なのに、この時は、ただ静かに涙を流す。

「……あの男が待ってるわ……行って……」

 そう言って、女は床に伏せった。

「誰も愛さないで、誰にも愛されないで……このまま、ここで朽ち果てるの」

 背中に呟きが届く。

 ホタルは振り返った。

「私もお前も……憎しみと恨みでできた……あの男の傀儡だもの」

 そう言って、女は目を伏せた。



 『お前の血肉は私の憎しみの恨みでできているの』

 母の言葉を、どうして一瞬でも忘れてしまえたのだろう。

 この身は、誰にも愛される資格などない。誰も愛してはいけない。

 母の憎しみと恨みの結晶は、おぞましくて穢れたものなのだ。

 独りでひっそりと生きて、いずれ独りで朽ち果てるべきものなのに。

 どうして、忘れて。

 あの方に触れてしまったのだろう。

 許される筈ないのに。



 ある夜、女はふらりとホタルの寝室に現れた。

 薄い布で仕立てられている寝着。

 結われていない長い髪。

 それらがユラユラと揺れて。

 蒼い顔の女は、亡霊のようだった。

「……あの男、死んだわ」

 ベッドの上で身を強張らせて、現れた母を見つめるしかできないホタルに、女は一瞬微笑みかけ、だが、それは笑みにならないまま消える。

「どうしてよ」

 ホタルを見下ろす瞳には、狂気。

 少しばかりの知も理も感じられない。

「どうして生きているの?」

 ホタルの首に、女の手が伸びる。

 華奢な手のひらが、それよりもなお弱々しい幼子の首を掴んだ。

「あの男が産ませたのよ」

 ぐっとその手に力が籠り、ホタルはベッドに押し付けられた。

 女はホタルに圧し掛かるようにして、首を掴む手に力を入れる。

「あの男のためにだけ産んだのよ」

 喉が締めつけられる。

 呼吸ができない。

 苦しい。

 だが、もがきもせず、ホタルはされるままになっていた。

 目の前の母の、狂気に満ちた無表情をただ見つめていた。

「なのに、お前は生きているの?」

 気が遠くなる。

 女の顔がぼやけて。

 もう終わるだろうか。

 そんな風に思った瞬間、女はホタルを離し、がくりと座り込んだ。

 急激に空気が身体をめぐり、ホタルは激しく咳き込んだ。

「お前は……生きていける? ねえ、あの男がいなくて……お前は生きていけるの?」

 女の瞳から涙が溢れる。

 暗闇で見る女の涙は、何故か紅にも見える。

「……あの男がいない……だったら、私はどこにいるの?」

 そのまま、女は崩れた。

 女の問いに応える術もなく、ホタルはただ横たわる屍のような母を見つめていた。



 そして、母は壊れた。

 そこにいるのは、ただ、微笑むばかりの骸。

 喚くこともない。

 泣くこともない。

 ただ佇み、ホタルにさえ微笑んで見せた。

 そして、僅か一ヶ月ばかりで、父の後を追った。

 そう、追ったのだ。

 骸のない……剣のみが掲げられた墓標の前で、女はその剣で自らを貫いた。



 ホタルに残されたのは、莫大と言って良いだろう遺産。

 それから、母が消し損なった命。

 誰も愛してはいけない、誰にも愛されてはいけない、という呪詛。

 それらを背負ってオードルに引き取られたホタルだったが、思いもかけず幸せな日々が与えられた。

 祖父は、息子に僅かばかりも似ていない孫を、とても可愛がってくれた。

 サクラは、ホタルの何もかもを受け入れて、その上で側に置いてくれた。

 でも、分かっていた。

 この身は、誰も愛してはいけない。愛されてはいけない。

 母は多分……己の憎しみと恨みの結晶が、綿々とこの世に引き継がれていくことを厭うたのだ。

 だから、ホタルは愛してはいけなかったのだ。

 ただ、朽ちる時を待つべきだったのに。


 なのに、愛してしまったのだ。

 忌むべき身が……一時なりでも愛されることを許してしまったのだ。


 これは、どれほどの罪だろう。

 どれほどの罰が、この身に与えられるのだろう。


 ただ、どのような罰も受け入れようと。

 愛してしまったこと。

 それはもう消せようもないのだから。

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