21
シキは、慌てていた。
焦っていた。
怒りさえ覚えていた。
それより何より、これはちょっとした恐慌状態に陥っていると言っていいのかもしれない。
眉間に皺を寄せ、大股に、足早に、廊下を歩いていく。
常に飄々としているように見える男のただならぬ形相に、家人達はぎょっとし、だが誰として理由も聞けずにそそくさと道を譲る。
シキは、目的の部屋に到着すると、乱暴にノックし、中からの返事を待たずにそこを開けた。
「失礼しますよ」
とってつけたような挨拶に、部屋の主は驚くこともなければ、憤るでもなく、シキから傍らへと視線を向けた。
シキが訪ねたのもまた、この部屋の主ではなく、そちらの方だ。
シキの主君であるカイの寵妃。
そして、シキが愛してやまない娘の女主。
「ホタルはどこですか?」
今は柔らかな笑みもなく、見つめてくるその人に、シキは何の前置きもなく切り出す。
「暇が欲しいと言うので許しました」
サクラも、また端的に答えた。
だが、それはシキの欲しい答えではない。
「どこにいるんですか?」
繰り返す問いに、サクラは今度ははっきりとその意志を述べて寄越した。
「言いません」
「奥方様!」
思わず、声が荒立った。
しかし、サクラは怯むこともなく、もう一度シキに答えた。
「ホタルの居場所は、シキ様には教えられません」
それは、ホタルの意思なのか。
そうなのだろう。
だからこそ、この妃は、絶対に折れない決意でシキに向かい合うのだ。
しかし、何故なのか。
数日前、ようやくのように手に入れた……そう思った娘は、朝、目覚めると既に腕の中から消えていた。
それは、不覚としか言いようがない。
だが、長く彷徨い求めた果てに辿り着いたその場所は、想像や願望を遥かに超えて心地好く。
疲れていた心身の全てを洗い流し、ただただ深い眠りの淵に誘われたのだと思えば、甘い苦笑いが浮かぶばかりで。
初めて知る、一人で目覚めることの寂しさをも、切ない愛しさで噛み締めたのだ。
もっとも、それは、無情に遠征を命じるタキの声にさっさとかき消されたのが。
しかも、ちらりと顔を見ることも叶わず、追い立てられるように屋敷を出立する羽目になった。
それでも、極上の癒しで満たされた身体はいつになく奮い立ち、振るう剣に力は漲っていた。
どれほどの相手と対峙しようと、戻る場所があるというそのことだけで、命への執着が心を強くした。
なのに。
まさか。
こんな最悪の状況が待っているとは。
すべきことを成し遂げて、ようよう戻ってみれば、屋敷のどこにもホタルはいない。
マツリを捕まえ、問い質してみれば、数日も前に屋敷を出たというではないか。
理由は分からないと怯えたように答える少女に、それ以上を聞ける筈もなく、ここに直行した。
悔しいが、この正妃以外に、ホタルの行方を尋ねることができる人はいない。
「私、ホタルから、何も聞いてません」
苛立ちを隠しもしないシキに、静かな声が語りかける。
何も聞いていない?
だが、シキがこうして現れることを予期していたような落ち着きようではないか。
「でも……ホタルがここを離れたかったのは、シキ様のせいなのでしょう?」
シキはサクラを見つめた。
サクラは、優しげな顔立ちに似合わぬ、辛い表情を浮かべている。
それが、ホタルに重なる。
ホタルもこんな表情で、サクラに暇を願い出たのだろうか。
そして、それはシキのせいなのか。
何故だ?
あの時、ホタルは拒んだか?
己は、あの娘に無理を強いたか?
そんなことはなかった筈だ。
絡め合った指先。
お互いに何度も名を呼び合った。
あれらが全て、シキの一方的なものであろう筈がない。
だが、ホタルは、逃げたのだ。
戯れだと思われた?
何度も、好きだと告げたのに?
あの娘らしく、身分差を気にした?
終わりを見越した?
まだ、始まったばかりなのに?
どれも、違う気がする。
ただ、こんなことになると分かっていたら。
あの朝、おめおめと離しはしなかった。
どんな手段を使っても、ホタルをこの腕の中に留めおいたのに。
「ずっと側にいてくれるって約束したのに……それを、ホタルに破らせたのはシキ様なのでしょう?」
聞こえてくる言葉は変わらず静かだった。
なのに、茶色の瞳から涙が溢れる。
滅多に泣かないサクラの涙。
そして、その泣かない、泣けない主の代りに、いつも、ホタルがこうして泣いていた。
声を上げることなく。
肩を震わすことなく。
大事な人の想いを思って流す、静かな涙。
シキを捕えた、ホタルの涙だ。
サクラのためにだけ流れていたそれが、己のために流れた時、僅かばかりの嬉しさもなかった。
それを笑顔に変えることだけを、ただ願った。
今、ホタルはどこかで泣いているだろうか。
それは、サクラを想って?
それとも。
「サクラ様。ホタルを私に頂けませんか?」
ホタルの涙が、誰を想っての涙でも構わない。
ただ、それを笑顔にするのは、己でありたい。
だから、どうか。
あの娘を、この腕に。
「……いや、です」
小さな子供のように、サクラが小さな声で答える。
「でも……それは私が決めることではないのです」
続いた言葉は、分別のある大人のそれ。
そして、少女のように、手の甲で涙を拭いながら
「どうぞ、ホタルにお尋ね下さい」
成熟した女性の笑みを見せた。
「でも、どこにいるのかは教えて差し上げませんけど」
シキは肩を竦めた。
「貴女は、私の味方になってはくれないのですか?」
この妃は、こんなに強情だったのか。
しなやかな、健気な印象が強い女性のその夫をちらりと見やれば、シキの反応を苦笑いしつつ眺めている。
どうやら、夫である人は、案外に妃の頑なさをご存じらしい。
「本当は、貴方に差し上げたくないもの」
ぽつりと、今度は子供が拗ねたように呟いて、サクラは俯いた。
手入れしてくれる者のない筈の長い髪が、しかし優雅に揺れて、小さな顔を覆い隠す。
「シキ様は……ホタルを泣かすから」
何を言うのか。
ホタルを泣かすのは、いつだって。
「貴方の方がよほど泣かせるでしょう」
サクラは、ぱっと顔を上げた。
もう涙は、すっかり止まっていたが、少しばかり名残を残した瞳がじっとシキを見つめた。
「それで、シキ様はよく私を睨んでいるの?」
そんな自覚はない。
「睨んでませんよ」
だから、答える。
「睨んでましたよね?」
サクラは、傍らで黙って成り行きを見ていた第三者に判定を求めた。
「睨んでたな」
この判定者は、かなりサクラ寄りだと思うが、はっきり言われると違うと言い切る自信はない。
確かに、この妃こそが、最大の敵だと思っていたのだから。
ホタルを手に入れるには、この妃を打倒……とは言わないが、それこそ懐柔しなければならないと。
だが、違うのだ。
ホタルを手に入れるための、障害はこの方ではない。
今はそれに気が付いている。
「……ホタルは、何を背負っているのですか?」
あの頑なさ。
サクラしかいない。
サクラしかいらない。
そう告げる、そこに隠れているものはなんなのだ。
「それは……私からはお話できません」
予期していた答えだ。
「ただ……シキ様が全てを受け入れて下さるなら」
サクラは受け入れたのだろう。
そして、ホタルはサクラを唯一と縋る。
「……ホタルが全てを乗り越えて、シキ様のところに行くと言うならば」
サクラとシキは、ホタルに求めるものが違う。
だから、シキが受け入れたことで、すんなりホタルが手に入るとは思えない。
それでも。
受け入れてみせる。
乗り越えさせてみせる。
手に入れてみせる。
「私には止められません」
「言わせますよ」
シキはきっぱりと言い切った。
「必ず、俺の元に来ると言わせます」
そう。
必ず。
「手段は選びません」
抱きしめて。
キスをして。
何度でも、ホタルが頷くまで。
「手段、を聞いてもよろしいですか?」
シキの言葉に不穏を感じ取ったらしいサクラが眉を寄せて、尋ねてくる。
「シキ、やめておけ」
サクラよりもよほどシキを知るカイの制止を無視し、答える。
いつもの、本気か戯れか分からないような響きで。
しかし、本心だけを。
「ホタルを探し出したら……もう、貴女には返しません」
サクラの眉間の皺が、さらに深まる。
「シキ」
カイが遮ろうとする。
だが、シキは続けた。
ホタルの居場所を、決して言わないであろうサクラへの、ちょっとした意趣返しだ。
「そのままどこかに閉じ込めて、ベッドに引きずり込んで……俺のものになると頷くまで何度でも……」
シキの言う意味を理解したサクラが、ぱっと顔を赤らめる。
人妻になっても、変わらない少女のような反応に、してやったりという思いと、幾らかの罪悪感を感じていると
「シキ」
少しばかりの憤りを含んだ声が、咎めた。
シキは大人しく口を一度は閉じたが、再びサクラに告げた。
「ホタルを愛しています。貴女の大事な友人を決して不幸にしないと誓います」
シキにとって、寵妃の侍女ではない娘。
サクラにとっても、ただの侍女ではない娘。
お互いにとって、何にも代え難い大事な存在を。
不幸にしないと。
神に。
主君に。
そして、娘が誰よりも敬愛する貴女に誓うから。
「全ては私の大事な友人の望むままに」
サクラはそう言って、ホタルが愛してやまないような、シキを力付けるような、柔らかく深い微笑を浮かべた。