20
何もかも聞きたくないと閉ざしていた筈の耳に、小さな音が届いた。
ピチャン。
そんな小さな音。
ピチャン。
もう一度。
これは……ああ、水音だ。
ホタルはしゃがみ込み、立てた膝に埋めていた顔を上げた。
知らない間に、窓の外は闇に満ちている。
今は何時なのだろう?
そんなことを考えるのも放棄して、どれぐらい経ったのか。
サクラから離れた途端に……否、サクラの側にいる時でさえ離れない願いを持て余して。
一人になれば、なおさらで。
眠ることさえ望めないから、諦めて、窓辺で外を眺めているうちに、多少なりはウトウトとしていたようだ。
ピチャン、とまた耳に届く。
一体どこからだろう。
見上げた月の位置は、遥かに遠い。
こんな夜更けに、何の水音だろうか。
まさか、と思った。
だけど、と思う。
動きかけた身体が止まる。
行ってどうするの?
行ってどうなるの?
だけど、そのまま眠りに就くことなんてできる筈がない。
ホタルは立ち上がり、すっかり慣れてしまったような夜の廊下を静かに歩き始めた。
水音の所在はすぐに知れた。
湯浴み場だ。
そして、その人は、そこにいた。
床に座り込んでいるようだ。
頭からすっぽりと布地を被り、姿は見えず白い小山があるようだったが、ホタルにはそれが誰だか知れた。
「シキ様?」
名を呼ぶ。
細く震えた声だった。
白い生地はピクリとも動かない。
「シキ様」
もう一度、名を呼ぶ。
白い山が揺れて、シキが顔を上げた。
布地の隙間から蒼い瞳が覗き、ホタルを捕える。
そこにいつもの明るい彩りはない。
怖い。
思わず後ずさる。
シキはしばらくの間、ホタルを無言で眺めて、やがて布地から顔を出した。
「やあ、ホタル」
その声は、いつも通りに聞こえた。
でも、なにか違う。
先ほどは、明らかに怖いと感じた瞳も、既にいつものように見える。
でも、本当に、そうだろうか。
「ちょうど良い……悪いけど、着替えを準備してくれないか」
何も違和感を感じる筈のない柔らかな口調。
だが、拭いきれない不穏さに、ホタルは、もう一歩後ずさる。
「着替え、ですか?」
ホタルの問いかけに、シキは微笑んだ。
その笑みも……いつものようで、いつもと違う。
「後先考えずに水浴びに興じてしまったんでね」
怖い。
目の前にいるのは、本当にシキなのだろうか。
穏やかな雰囲気も。
優しげな視線も。
何かが違う。
怖い。
ホタルは肩にかけていたショールを掻き合わせ、シキから目を逸らした。
その視線の先に、まがまがしい紅が映る。
何だろう?
よくよく見てみれば、それは、無造作に丸められた布だった。
脱ぎ捨てられたシキの上衣だ。
気づく。
だが、どうして、こんな色なのか。
昨夜、出掛けた時、身に着けていたのは濃紺だった筈。
そして、ぞっとする。
濃い藍を、なお紅に染め上げるのは。
「シキ様!」
ホタルは、シキに駆け寄った。
感じた違和感も恐怖も吹き飛んで、心配する思いだけが体を動かしていた。
座り込んだままのシキに前に膝を付き、礼儀など捨ててその身に触れる。
「あれ、血ですよね!?どこか……」
「私の血じゃない」
シキの静かな声が遮った。
「魔獣の血だ」
冷たい、まるで感情のない声だった。
間近で見つめた瞳は、やはりいつもと違う彩りを湛えている。
ここを去った方が良い。
ホタルの本能がそう告げた。
いつもよりよほど簡単にこの方から逃げられる。
シキの望む着替えを取り行けば良い。
早く、ここを立ち去るべきだ。
そう思うのに。
ちがう感情がホタルをここに留める。
「……お一人で行かれたのですか?」
シキが出立する前に聞こえてしまった、あの狩人との会話。
あの言葉の通りに、この方は一人で行かれたのか。
「相変わらずいい耳だね」
シキの声が、ほんの少し感情を取り戻した。
だが、そんなことではホタルの心は納まらない。
「いつもお一人なのですか!?」
自分でも驚くくらいに、激しい声が出た。
シキの笑みが少し変わり、宥める色を含む。
「……ホタル」
呼ぶ声がいつもの優しさを戻しつつある。
だが、ホタルはそれらを拒否するように首を振った。
「どうしてですか!? 何故、そんな危険な……」
身分のある方なのでしょう?
本来なら、多くの部下を従えて……違う、そんなことを言いたいのではない。
どうして。
どうして、敢えて命を危険に晒すのだ。
こんなに。
こんなに、心配しているのに。
こんなに、その身の無事を案じているのに。
「ホタル、怒ってる?」
シキの軽い口調が癪に障る。
「怒ってません!」
答えながら、それでも、なお感情が高ぶる。
これは怒りなのか。
哀しみなのか。
何がなんだか分からない。
ただ、痛い。
どこもかしこも痛くて、泣きたい。
「カイ様も以前はよくお一人で魔獣狩りに出て、タキに怒られてたなあ」
のんびりとそんな風に言われて。
「シキ様!」
責めるように、名を呼ぶ。
更に非難しようと口を開きかけ、だが、先ほどまでの刺々しさを完全に払拭した笑みにあたって言葉を失う。
「タキの説教はうるさいだけなのに、どうして君が怒るのは心地好いのかな」
シキはそう言って、どうしてか、ホタルから目を逸らした。
「シキ様?」
呼び掛ける。
シキは顔を伏せた。
「ホタル……俺から逃げた方がいいよ」
いつもに戻ったように思えた声に、また冷たさが……そして、新たに熱が混じる。
ホタルの身が竦んだ。
「今なら逃がしてやるから」
そう言うシキの身体は微動だにしない。
「今君に触れたら……この間のようには止めてやれない」
シキの望んでいること。
それが分かった。
逃げなくては。
そう思うのに。
ホタルもまた、シキの腕に手をかけたまま、動けない。
どうして。
こんな状態のこの方を置いていけるだろうか?
「シキ様」
戸惑いながらも名を呼ぶと、いきなり抱きしめられる。
逃げても良いと言われて動かなかった体は、途端に怯えて腕から逃れようと動いた。
だが。
「……ホタル!」
こんな風に名前を呼ぶのはずるいと思う。
そんな風に切羽詰まったように。
縋るように。
まるで、ホタルしかいないとでもいうように。
そんな風に呼ぶのはずるい。
いつも、いつもこの人はずるい。
「ホタル……君が好きだよ」
首を振る。
もちろん、横に。
無理だから。
「君が欲しいよ」
そんなこと、無理だ。
どんなに望まれても、それはできない。
「ホタル」
お願いだから、呼ばないで。
もう、離して。
思うのに。
「……暖かいな」
ホタルを抱いて呟くシキの体は、この夏の最中に、冷え切って凍えるようだ。
「君は暖かいよ」
いいえ、誰と抱き合ったって暖かい筈。
貴方はいくらだって、それを手に入れられる。
相手がホタルである必要なんてない。
貴方は、ただ暖かさを慈しむだけなのでしょう?
それを求めて、安易に手を伸ばすのでしょう?
それが許される人だ。
だけど、ホタルは違う。
許されないのだ。
手を伸ばしてはいけないのだ。
何も望んではいけない。
「……っ離して、下さい」
自分から離れられなくて、お願いしたのに。
なおさら、強く抱き寄せられた。
だめだ。
思うと同時に、涙が零れた。
泣きたくないのに、次々溢れてくる涙が止められない。
「それは、ずるいな」
シキがため息みたいに言う。
ずるいのはシキの方なのに。
「泣かれたら、離すしかない」
言いながら、でも、離してくれない。
だから、涙が止まらない。
暫く、シキはホタルを抱いたまま固まっていた。
やがて
「ホタル……泣いても離せないみたいだ」
何かを決めたように、腰を強く引き付けられた。
胸に隠していた顔を上げるように指に促される。
「あのキスはなかったことにしてもいいよ」
囁きながら近づいてくるきれいな顔を見つめる。
「何度なしにしても、全部俺がもらうから」
そして、キス。
あの時……もう、随分と昔の気がする、あのキスとは、まったく違うゆっくりとしたキス。
拒む術もなく、受け入れる。
私は、この人が好き。
もう、認めるしかない。
でも、認めたからってどうなるのか。
身分が違う。
立場が違う。
何よりも、ホタルにそれは許されない。
なんとか生きることだけを許された身なのだから。
こんなこと許される筈がないのに。
「ホタル」
長いキスの合間に名前を呼ばれた。
身体が勝手に動く。
ホタルの思いとは別に、抗うことをやめてしまう。
そして、裏腹に、目の前の男の首に腕を回す。
冷たい体を温めるように、身を寄せた。
だめなのに。
誰にも愛される資格のない身を顧みず、私は何をしているの?
「ホタル……本当に離せない」
シキがホタルを抱き上げる。
「もう、絶対に逃がしてやれない」
確信に満ちた囁きに、ホタルは絶望に似た想いを抱きながら。
それでも、既に逃げる意志もなく、シキに身を任せた。
運ばれたのは、屋敷の一角にあるシキの部屋だった。
何度か所用で訪れたことのある部屋。
こんな風に抱かれて、しかも、そのベッドに横たわることなど想像したこともなかった。
「……ホタル」
いつかのように。
声が変わる。
でも、それは知らない男の声ではなくて。
「シキ様」
呼ぶと、微笑みながら額にキスが落ちる。
ホタルは目を閉じて、全てをシキに任せた。
経験はもちろん、まともな知識もない。
だから、ただ、シキの邪魔をしないように、と。
シキの指先が寝間着の紐を解く。
この衣は、こんなに頼りないものなのだ。
そう思うほどに、あっけなくシキの前に肌を晒す。
重なってくるシキもまた、何も身に付けていなくて。
「……っん……」
初めて全身で感じる他人の肌。
知らない感触。
知らない暖かさ。
「ホタル」
名を呼ばれる。
先ほどキスを受け入れたように。
「シキ様」
腕を伸ばして、ぎゅっとしがみつく。
「どうしたらいいのか分かりません」
情けないくらいか細い声で、そっと告白する。
どうすれば、貴方を拒めますか。
どうすれば、私を止められますか。
「ホタル」
シキは困ったように微笑む。
「どうしていいか分からないのは俺の方だよ」
掠れた声で囁いた。
シキはぐっすりと眠っているようだった。
長い腕が、広い胸が、ホタルを包み込んでいる。
こんなこと、許される筈がない。
私は、なんてことをしてしまったのだろう。
なのに。
シキが好き。
そればかりが溢れてくる。
どうしようもない程に。
どうすることもできないのに。
「……シキ様」
囁くと、眠ったままの男の腕が、それでもぎゅっと力を込める。
ホタルは、しばしそこに留まった。
そして、やがて、その腕から、そっと滑り出た。
失った存在を探るように腕がシーツを彷徨ったが、隠しきれない疲労に塗れた心身が目覚めることはなさそうだ。
ホタルは急いで身支度を済ますと、部屋を出た。
自分の部屋へと走りながら。
涙が溢れて止まらない。
あんなに優しいなんて。
あんなに暖かいなんて。
知らなくて良かったのに。
知ってはいけなかったのに。
私は……なんて、大きな罪を犯したのだろう。