19
庭先の異変に、不幸にも最初に遭遇したのはマツリだった。
真夜中にマツリが庭を歩いていたのは、眠れなかったためということだったが、いくら庭とはいっても危ないと、後でマアサと、何故かジンにまで、こっぴどく叱られていた。
もう2度と夜中に庭は歩きません、と涙目で誓うマツリが怖かったのは、遭遇した災難なのか、並んで説教する母と息子か。
いったいどちらなのかと、サクラが笑いながら首を傾げていた、というそれは後日の余談になるのだが、とにかくそれに一番最初に出くわしたのはマツリだった。
その時、ホタルは既にベッドに入り、未だ訪れぬ眠りを待ち焦がれている状態だった。
意識して閉じていた訳でも、広げていた訳でもない耳に、女性の息を飲むようなか細い悲鳴が届いたのが、ホタルが遭遇した最初の異変。
ホタルはベッドの中で耳を澄ました。
聞こえてきたのは、小さな怯えた声。
意志を持って拾った声がマツリのものだと、その時に気が付いて飛び起きた。
どこから聞こえるのか。
マツリに何が起きたのか。
広げて探る音の世界に、マツリの乱れた呼吸と、それから……苦しげな呻き、だろうか?
それは、多分、男性のもの。
ホタルはベッドを降りて、ショールを羽織った。
声は、裏庭から聞こえていた。
先日、マツリが恋文に戸惑い、うずくまっていたあたりのもう少し奥。
「……貴方は」
声の元に辿り着いたホタルの目に、最初の飛び込んできたのは一人の男だった。
見覚えがある男だ。
左の面を走る大きな傷跡。浅黒い肌と銀の髪。
見覚えがある、で済ますには、あまりに印象深い姿の男は、あのアルクリシュの森で見た狩人に違いない。
「あんた、ここの者だったのか」
男の方もホタルを覚えていたらしい。
だが、今は改めての自己紹介をしている場合ではないことを、お互いに十分理解していた。
隻眼の狩人は、もう一人男を連れていた。
いや、正確に言うならば、彼は男を担いでいた。
苦しげな呻き声を上げているのは、こちらの男だ。
狩人の肩の向こうに上半身が折れていて、ホタルから顔は見えない。
だが、見える下半身は、血に塗れ、所々に深い傷が口を開いていた。
手当。
医者。
マツリ。
そう思うのに、足が動かない。
硬直して少しも動けないと思うのに、その一方で意志とはかけ離れたところでカクカクと震える。
なんて不甲斐ないのだろう。
こんな状況、何度も聞いた筈なのに。
なぜに、どんなに酷い言葉や声を聞き続けても、視界に納めた途端にそれは知らない世界になってしまうのか。
心は、残忍な場面に慣れずに、痛むのか。
狩人はホタルを責める風もなく、黙ってそこに立っている。
何かを待っているようだ。
彼が何を待っているのかを、ほどなく聞こえてきた音でホタルは知った。
背後にザワザワと、茂みの揺れる音が流れてくる。
体が動かない時でも、この耳だけはきちんと音を届ける。
草木の揺れる音に紛れて、足音が聞こえた。
小さな飛び跳ねるような微かなそれと、足早に向かって来る人のそれ。
誰のものなのか、声を聞く前に気が付いて、スッと肩の力が抜けた。
「ホタル? と、マツリ?」
聞き慣れた声が間近で響いた。
ほんの一瞬前は、ベッドの中で聞きたくないと耳を塞いだ声。
でも、今は何よりもほっとする声だ。
固まっていた体が解け、ホタルは振り返った。
シキが立っている。
足元には、昔サクラの可愛がっていた魔獣によく似た、白い毛玉が跳びはねていた。
深夜にも関わらず、外出着を身につけて、片手には剣を握っている。
その僅かにも寛ぎの感じない姿に、ほっとした筈の心がキリキリと軋んだ。
「イト」
シキが男に声をかける。
そうだ、あのアルクリシュの森で聞いた名はそれだ。
シキは、へたりこんでいるマツリ……ホタルは初めてマツリがそこにいたのだと気が付いたのだが……を避け、ホタルの横を通って狩人に近づいた。
「悪いな。ここが一番近かった」
狩人が詫びを口にした。
シキは、軽くそれを受けて、怪我人に目を向ける。
ホタルやマツリのように、血塗れのけが人に感じる恐怖はまるでないようだった。
「ホタル」
突然名を呼ばれ、ホタルはビクリと体を揺らした。
「医者を呼んでくれ」
言われたことは、もちろんすぐに理解できた。
「はい」
そして、先ほどは固まって立ち竦むしかなかった体は、不思議なほどに自然と動き出していた。
イトが運んできた男は、今夜が峠だろうと医者は言った。
ショックから立ち直ったらしいマツリが、甲斐甲斐しく額に浮かぶ汗を拭き続けている。
拭いても拭いても、汗は滴る。
苦しげな呼吸と呻き声が途切れることなく漏れ続ける。
まだ、命は繋がっている。
途切れそうな命が、なんとか生きようともがいている証だ。
シキは見知った狩人を見下ろし、朝日が差し込む頃には、彼の呼吸が穏やかなものになっているよう心底祈った。
だが、いつまでも、ここで生死を彷徨っている者を見守っている訳にはいかない。
「マツリ、明日には世話人を寄越すから、悪いが今晩は看てやってくれ」
じっとけが人を見つめるマツリに声をかける。
少女はシキを見上げて頷くと、すぐに視線をベッドの住人に戻した。
その視線は、シキの祈りと同じものを含んでいる。
祈ることを少女に任せ、シキは部屋を出ようとした。
ちょうどその時、控えめなノックがし、すぐに扉が開いてイトが覗く。
イトは声を出さず、一つしかない視線でシキを呼んだ。
「行くのか?」
部屋を出て、後ろ手に扉を閉じながら隻眼の狩人に尋ねる。
「ああ。ゆっくりしてる場合じゃないからな。あいつを襲った魔獣を追う」
イトは言いつつ、既に足を進めている。
横に並んで歩きながら、シキは己が知る最も優秀な狩人に尋ねる。
「どんな状況だ?」
イトは歩みを止めもせずに、マントを羽織った。
血の匂いが漂うそれに、新しいものを用意させようかと思ったが、どうせすぐに血に塗れるのだろうと留まる。
イトは、短く答えた。
「異常、だな」
この男がそう言うのならば。
「異常、か」
そうなのだろう。
繰り返すそれに、イトは頷いた。
「傷痕を見ただろう?」
シキは瀕死の狩人の傷痕を思い浮かべる。
牙の痕、爪の痕。無数に身体に散る過去のものの中にあった、生々しく血に濡れたそれ。
一匹の魔獣に負わされたものにしては……そう、違和感があった。
牙の形や爪の形が同一ではないと思わしきものが、幾つも刻まれていた。
「ああ。一頭じゃないな。しかも小物じゃない」
シキの意見に、イトは同意を示して頷いた。
「狭い領域に大物が2頭。以前なら考え難い状況だ」
そうなのだ。
小さな魔獣でさえ群れることのない連中なのだ。
それは、大きなものになれば尚更顕著となる。
恐ろしい程の縄張り意識は、人間の領土への執着以上で、そこから生じる諍いは熾烈を極める。
まことしやかに、人の羨望じみた教訓として教えられた「獣は命を賭けては争わない」などという常識を、奴らはあっさりと裏切るのだ。
「まして、奴らはつるんであいつを襲った感がある」
続いたイトの言葉に、シキは眉を寄せた。
そんなことがあり得るのか?
「まさか」
言いながら、それが事実なのであろうことをシキは、自らが既に確信していることに気が付いた。
魔獣に対峙するたびにシキ自身が、その変化を実は感じていたのだから。
そして、思い出す。
昨年の夏の惨劇を。
大きな魔獣と、それに群がる小さな魔獣。
あの時の異常さが、徐々に広がっているのだろうか。
「いや、まさかじゃないな」
シキは呟いた。
「何人かの狩人は異常な事態に気が付き始めてる……あいつも、その一人だ」
イトとシキは屋敷の外に出た。
まだ朝は遠く、辺りは闇に包まれている。
しかし、この土地特有の熱波は、日差しのない夜でさえ容赦ない。
「2頭の魔獣が共存しているという異常事態に気が付いて、俺を呼び寄せた」
魔獣が単独で行動するように。
狩人もまた単独で行動することが多い。
大きな獲り物に際して、自ずと組むこともあるが、それが軍隊のように組織として常に成り立つことはない。
それができない、それをしないからこそ、彼らは狩人であり、狩人でしかありえなのだ。
あの負傷した男もそうだ。
自らの剣のみを頼りに、独りで生きていく者。
そんな男が、イトを……狩人の中で最も腕が立つと、一目も二目も置かれている男を、呼び寄せたのか。
どれほどの事態が、あの男の信念を曲げて、イトに助けを請う状況を招いたのか。
「ひとまず両方に俺の魔獣を付けてある。2頭一緒にいれば手っ取り早いが……まあ、近い方から片付けるしかないな」
2頭に襲われて瀕死の怪我を負った仲間を目の前にして、この男は2頭一緒にいれば手っ取り早いと言う。
そこに、この男の絶対的な自信と……己への執着のなさを見る。
「片方は私が引き受ける」
フードをかぶろうとしていたイトの動きが一瞬止まった。
そして、フードをかぶることなく、シキを見やる。
「大丈夫なのか?」
その問いに、シキは首を傾げる。
「あんたの相手は魔獣だけじゃないだろう?」
この男は、無頼のようで、無法のようで。
その実、恐ろしく世情に聡く、人情に厚い。
かつて、この男が多くの兵を束ねる頭領であった片鱗を、そこに垣間見た。
「お前、いい奴だなあ。タキなんか遠慮なくこき使うぞ」
シキが笑いながら軽く答えると、イトも分かりずらい笑みを頬に浮かべる。
「……大丈夫みたいだな」
頷く。
大丈夫だ。
まだ、この身は戦いに赴くことに竦まない。
まだ、疲れて動けぬ程ではない。
「第一、そんな近くにいるなら、放っておけないだろう」
「正直助かる……俺は、どっちを追う?」
イトは今度は手を止めることなくフードを被った。
シキは迷わず答えた。
「近い方を。私は馬を使う」
イトに異存はないようだ。
「分かった」
答えて、歩き出し、だが、その足が再び止まる。
「俺達も単独で一頭ずつ片付けてる状況じゃなくなるかもな」
シキは肩を竦めた。
「そいつは、厄介だな……お前らみたいなの、誰が統率するんだ?」
「軍神やあんたになら、従うさ」
フードの奥に見えるイトの隻眼は真剣だ。
この男が言うならば、本当にそれが必要になるのかもしれない。
「もっとも……あんたは一人の方が性にあってるみたいだけどな」
イトの声には少しだけ笑いが含まれているようだ。
確かに、そうだ。
軍を率いる身ではあるが、正直、単独の狩りの方が性に合っていると思う。
馬上で兵を操るよりも。
自ら剣を振るう方を。
もっとも、それは
「お互い様だろう」
この狩人も同じだ。
率いることの、従えることの重さを知っているからこそ。
「従うのも、従えるのも面倒なだけだからな」
答えも重い。
イトは今度こそ留まることなく歩き出した。
「魔獣はグルが追ってる」
シキを狩り場へと導く、魔獣の名を告げて。
屋敷へと戻ると、カイが自室のある2階から降りてくるのが見えた。
寝着を身につけてはいるが、少しも寛いだ風でないのは、隣に妃がいないからか。
「大丈夫なのか?」
けが人がいる部屋の方を見やりながら尋ねてくる主に頷いた。
そして、確信を持って答える。
「イトが連れてきたってことは助かる見込みがあるってことですから」
カイもまた頷いた。
カイのイトに対する信頼は、シキへのそれと何ら違いはない。
「私も行きますよ」
カイはもう一度頷きながら、ポツリと零した。
「もどかしいな」
ここにも一人。
自らの地位や立場を顧みず、一人で戦うことを良しとする者がいる。
「貴方はおとなしくしてて下さい……今、貴方に何かあったら、キリングシークは傾きかねない」
シキは苦笑いを零しながら進言する。
今は、軍神が闇に紛れて剣を振るう時ではない。
それは、シキやイトが担うところだ。
カイが剣を振るうことは、もはや象徴なのだ。
破魔の剣を、軍神がかざす時。
それは、民衆を脅かす強大な存在を散らす時。
剣により魔が霧散し、民に安堵をもたらす時。
そうでなければならない。
カイとしては、不本意であろうとも、既に軍神とはそういう存在なのだ。
軍神が、闇で秘密裡に魔獣を狩っているなどということが知れれば、それはむしろ、世界に不用意な不安の種をまくことになるかもしれない。
平穏を迎え入れつつあるとはいえ、まだ、世界は不安定な場所で揺れている。
小さな綻びは、すぐにも再びの戦乱を招くだろう。
「タキのようなことを言う」
カイが小さく笑い、呟いた。
つられて、シキも笑いを零した。
まったくだ。
いつから、自分はこんな説教くさい人間になったのか。
カイの立場が変わったように、シキも少しずつ変わっているのだろうか。
「奥方を愛でていれば、もどかしさなんて感じる暇もないでしょう……ゆっくりしてて下さい。来るべき時に備えて」
シキは意識して、そんな軽口を叩いた。
それは、カイの気に召したようだ。
色の違う双眸が柔らかく和む。
「では、寝室に戻るか……ゆっくりさせてもらおう。来るべき時に備えて、な」
「そうして下さい。必要な時は最中だろうとなんだろうと、ご出陣いただきますから」
久しぶりの軽快なやりとりに、ここのところの余裕のなさを思い知る。
それはカイも同じなのだろう。
しかし、軍神には寵妃がある。
疲れた心身を、ただ純粋な想いで包み込み、癒してくれる存在が。
そして、己には……ふと浮かぶ面影を振り払うように。
「そろそろ行きますよ」
「気を付けてな」
笑いの消えた声でカイが言う。
シキはカイに一礼し、歩き出した。
厩舎は静かだった。
だが、シキの気配を感じた途端、何頭と並ぶ馬達がいななく。
少し離れた場所にいる翼竜が、羽をばたつかせたのだ聞こえた。
戦いに赴くことに血を騒がせる輩に、苦笑いが零れる。
もっとも、己も同類か。
居並ぶ駿馬の中から、相性の良い一頭を連れ出して庭の外に出る。
空を見上げる。
イトの遣い魔が、夜空を旋回しているのが見えた。
主が優秀ならば、奴らはこんなにも頼りになる存在なのだ。
「グル!」
呼べば、鳥に似たそれは、旋回を止めて南下し始めた。
南には、森がある。
シキは馬に跨がると、イトの魔獣が導く方角へと走り始めた。
空が明るくなってきた。
そっとカーテンの端をめくり、朝の訪れを確認したホタルは、背後で横たわる男を見遣った。
隻眼の狩人が連れてきた瀕死の男は、魔獣との戦いには敗れたが、死に神との戦いには勝利したようだ。
男に近付き、穏やかな呼吸を繰り返す様子にホッと息をつく。
よかった。
もう大丈夫だ。
浮かびかけた笑みは、だが、一瞬と頬を緩めることなく失われた。
目の前にある消えかけていた命。
無数の牙と爪の痕。
この男性がそれを負った場所に、あの方は赴いたのだ。
昨夜のうちに。
耳に、かの人が屋敷から出ていく音を聞き取りながら。
後を追って縋りつきたい想いを抑え込んで。
自らを抱きしめて、ホタルは部屋の隅にうずくまって。
手が届かない程に馬の蹄の音が遠ざかるのを待った。
無事に帰ってきて下さい。
どうか。
そう願いながら。
そうすることしか、この身は許されないのだから。
だから、ただ。
無事にお戻り下さい。
ただただ、祈るのだ。