18
毎日のホタルのお勤めは、カイの部屋の扉をノックすることから始まる。
トントンと2回、木製の重厚な扉を叩く。
部屋の主も、その妻も寝起きは悪くないから、大抵は中からの返事を待って……そして、少々の覚悟を持って、扉を開けて中に入る、というのが日々日常。
だが、ここしばらくは、この場面だけで言うならば、随分とお気軽な気分で扉を開けることができていた。
この部屋の主は、現在不在。
故に。
「おはようございます」
声をかける相手はサクラ一人。
「おはよう」
ベッドの上で体を起こすサクラは、多少の寝乱れた様子はあっても、きちんと寝着を身につけている。
この部屋の主がベッドを共にしていれば、そうではない日が少なからずあって。
何があったのか、なんてこと、経験はなくても、知識で想像だけは安易にできてしまう。
お二人はご夫婦なのだから、それは当り前で。
私は侍女なのだから、そんな場面のお世話も当たり前。
思っていても、ついついぎくしゃくしてしまう。
ぎくしゃくするホタルを見て、サクラもまた恥ずかしさにぎこちなくなってしまう、ということが随分と続き、ようやくのように最近は何もない振りを、なんとかかんとかすることができるようになってきた。
でも、今日もここにはサクラが一人。
寂そうなサクラを思えば、早くここでお二人で過ごせれば良い、と思える余裕さえある。
「タオも、おはよう」
サクラの慰めとなるタオは、ベッドの脇に寝そべっていた。
ホタルが声をかけると、返事は尻尾がしてくれる。
「今日も、良い天気になりそうね」
カーテンを開けると、その光を感じてサクラが呟く。
「はい」
こうしていると。
サクラのお世話に、精を出していると。
時折、ふと零れるため息さえ気が付かないふりをすれば、何もなかったのではないかと思えてくる。
シキに好きだと言われたこと。
抱きしめられて、触れられて。
そんなの全部全部、夢だったのではないかと。
思えてくる、のか。
思いたい、のか。
「ドレスはどれにしますか? もう、随分暖かいですから、薄手のものにしましょうか」
あの日……シキに触れられた日、多分ひどい顔をしていただろうホタルにサクラは何も言わなかった。
ホタルも、何もサクラに話さなかった。話せなかった。
あれから、すぐにシキはカイと共に屋敷から姿を消して、以来、顔を合わすことはない。
いつも通りの日々が過ぎていく。
最初は上っ面だけだった日常も、徐々にホタルの心を鎮めていって。
もしかしたら。
シキに会っても、今までと同じように……ただの侍女のとしてご挨拶ができるのではないか。
ここ数日に至っては、そんな風に思えるまでに落ち着きを取り戻しつつあった。
「……あ……」
衣裳部屋で何着かのドレスを選んでいたホタルの耳に、サクラの呟きが耳に入ってくる。
「サクラ様?」
部屋に戻ると、タオがバルコニーに立っていた。
サクラを見れば、その長い髪がフワフワと揺れている。
兆し。
タオがバルコニーから、立ち去って行くのが目に入る。
戻ってくる、のだ。
そう思った途端に、サクラの髪がふわっと舞い上がった。
そして、一気に吹き荒れる。
サクラの周りのみ、訪れる突風。
想い人の帰還を先触れする小さな嵐。
バタバタと寝着がはためき、髪が渦を巻きながら上へ横へと広がり乱れる。
それは一瞬。
ピタリと風がやむ。
『破魔の剣』が、一足先にサクラの元へと戻ってきたのだ。
「カイ様……お戻りになられますね」
サクラは頷いた。
そして、バルコニーへと目を向ける。
既に、そこに白い魔獣はいない。
いたとしても、剣が戻ったサクラは、タオには近付けない。
サクラの表情にカイが戻る喜びと、タオが去ってしまった寂しさが浮かぶ。
「着替える前に戻ってきて良かったですね」
クチャクチャになったサクラの髪を手先で軽く整えながら、努めて明るく声をかければ。
「本当。もう少し、おとなしく戻って来てくれないしら」
サクラも微笑みながら、そう答えた。
戻ってくる。
多分、その側近も共に。
今まで通りの態度が取れる気がしていたのに。
その筈なのに。
もう既に、それが無理だろうと、ホタルは感じていた。
多分、無意識にも避けていたのだと思う。
その人がいるであろう場所。
その人がいるかもしれない場所。
それが解決にはならないとしても、とにかく可能な限り避けて、顔を合わせないように。
そうしていたのだろうと気が付いたのは、その人に出会ってしまった時だ。
「ホタル」
背後から名を呼ばれ、そのまま走り出してしまいたい衝動をなんとか抑えて、足を止める。
振り返り、だが、一瞬たりとその顔を見ることもできずに頭を下げた。
普通に。
礼をして、頭を上げて。
御用向きを尋ねなければ。
そう思うのに。
下げた頭は上げられなくて。
用向きを尋ねることなど到底できる筈もなく、身勝手にも早く立ち去って欲しいと願うばかりだ。
「ホタル、そろそろ、顔、上げないか?」
以前と何一つ変わらない声。
その声に微かなりにも乱れた感情を、聞き取ることはできない。
あの時のような。
知らない男の声ではない。
「ホタル」
もう一度呼ばれて、ホタルは仕方なく頭を上げた。
だが、シキの顔を見ることはできず、その足元あたりに視線は落ちる。
ジンの時には、できたのに。
気にしないようにと言われて。
それに頷いて。
あれから、以前と何も変わらないように接することができるのに。
「ホタル」
視界の中にあるシキの足が、一歩ホタルに近付く。
「……何かご用がおありでしょうか」
一歩、後ずさりながら。
なんとか侍女としての応対に徹しようと、呼ばれた声に応じる。
しかし、何の動揺も感じられないシキの声に対して、ホタルの声は震えて上ずっていた。
「そんなに警戒しなくても、何もしないよ」
言われてしまって、顔が熱くなる。
そんなこと言われても。
どうにもできない。
あんなことがあって、どうして、シキはそんな風に平然としていられるのか。
これが経験値の差だとでもいうならば、それはどうしてか腹立たしい。
「ホタル、そんなに怯えないでくれないか? 本当に、何もしないから」
真剣な声に促されて、ホタルはようやく顔を上げて、シキを見た。
端正な顔が、本当に以前とまったく変わらぬ優しげな笑みを浮かべて、ホタルを見ていた。
何もなかったことに。
今後も何もない。
シキがこんな風に何もなかったという態度を取ってくれるならば。
ホタルの方は自然な態度を取るのにもう少し時間がかかるかもしれないけれど。
いずれは、元に戻れるかもしれない。
そう考え至って、ホタルが体の力を僅かに抜いた、その時。
「しばらく、はね」
聞き逃しそうなほどに、サラリと付け加えられた言葉。
「………し、ばらく?」
心で呟いたつもりが、つい声に出ていた。
シキは、まるで意を得たと言わんばかりににっこりと。
「そう。しばらく、だ」
繰り返した。
「俺が君を好きで……君が欲しいと思ってることに変わりはないよ」
迷いなく。
僅かに揺れることもなく。
きっぱりと伝えられるそれに返す言葉。
拒否を口にしようとして、でも、それができなくて。
「御用がないようなら失礼してもよろしいですか」
必死に声にした言葉は、棒読みのようなそれだった。
「奥方のとこにはカイ様がいるよ?」
行くところがあるのか、と言いたいのだろうか。
でも、どんなに居場所がなくたって、シキの側にだけはいられない。
ホタルは一礼して、シキの横を通り過ぎようとした。
しかし、シキにそれを止められる。
以前ならば、腕を掴む程度。
なのに今は。
腰を抱かれ、近くの扉の内に引き込まれた。
「シキ様!」
扉が閉まる音が耳に届くより先に、胸元に抱き寄せられそうになるのを、腕を突っ張って拒む。
だが、こんな状況にも慣れているかのように、シキは拒む手をそつなくかわし、あっけなく目的を成し遂げた。
「何もしないって!」
シキの腕の中に閉じ込められて、力では叶う筈もなく。
無礼を承知で、非難を唇に乗せた。
シキは小さく笑いを零す。
そして。
「俺の中では、こんなのは何かに入らない」
悪びれもせずに、そう言ってのけた。
「……っな……最低です!」
緩まない腕にもがきながら。
思わず詰る。
もう身分がどうとか言っている場合ではない。
「この状態でそういうこと言うかな、この子は」
どんな状態かを知らしめる手が、細い腰を強く抱き寄せる。
密着が増して、周りがシキで囲まれる。
「……っいや」
もう何がなんだか。
また、泣きたくなる。
訳が分からなくて、だけど、ただ、おとなしく抱かれることなどできる筈もなく、必死に離れようともがいた。
そんなホタルの耳元で、シキが笑いを消した声で囁く。
「大人しくしてた方がいいよ」
そんなの。
「なるべく俺を刺激しない方がいい」
そんな勝手なこと。
聞けない。
聞ける筈がないのに。
「俺にこれ以上動かないで欲しいなら……おとなしくしておいで」
そう言って、シキはぎゅっとホタルを抱いた。
これ以上?
それは……この間のように?
かあっと体が熱くなって、固まる。
それは、ずるい。
そんな風に言われたら。
おとなしくするしかない。
「ホタル」
信じられないくらい間近で、シキの声が少し掠れて響く。
それに、ぶるっと体が震える。
逃げたい。
だけど、シキが動くなと言うから。
動いたら……と言うから。
おとなしくしているしかないではないか。
なんて、ずるいんだろう。
ホタルから逃げ場を奪って。
その腕に閉じ込めて。
「君が欲しいよ」
そんな言葉が聞こえてきても、ホタルは身動き一つできない。
シキも動かない。
シキの呼吸と鼓動が耳に響く。
ただただ逃げたいだけだった筈なのに。
気が付くと、その鼓動に耳を澄ましていた。
これは、この人が無事に戻ったことの証だ。
あまりに、緊迫感を感じさせないから忘れてしまいそうになる。
この人は、つい先ごろまでカイと共に出征していたのだ。
相手がどんなものかは知らない。
でも、カイは剣を呼んだ。
そういう相手。
そこに、多分、きっとこの人もいた。
熱く火照るような体の、背筋だけがゾクリ、と凍った。
思わず、全身を覆う温もりに縋りそうになって。
何もかも受け入れてしまいたくなって。
なんとか、必死にそれを抑えた。
いったいどれだけの時間が過ぎたのだろう。
ふと、シキの腕の力が緩んだ気がした。
そして。
「ホタル…どこ?」
何より大事な声が耳に届く。
ホタルははっとして、身を引いた。
「サクラ様」
主の名を呟き、僅かに力の緩んだ腕の中から逃れようと身を捩った。
思いがけず、あっさりとホタルは解放され、ホタルは思わずシキを見やる。
シキはほんの少し驚いたような表情で。
そして、どこか嬉しげにホタルを見つめていた。
「失礼します」
シキのその表情が何なのか分からないまま、頭を下げて扉に向かう。
「好きだよ、ホタル」
背中に声がかかった。
振り向かず。
「私は……好きじゃありません!」
自分に言い聞かせるように。
「でも、俺は、君が好きだよ」
もう一度繰り返されるそれを振り払うように、ホタルは、部屋を飛び出した。
シキの声が追いかけてくる気がして、不作法を承知でホタルは走った。
そんなに遠い筈のないサクラの部屋を、いつまでも辿りつけない遥か彼方に感じながら。
ようやくのように到着した時には、何のせいか心臓がバクバクと跳ねていた。
扉の前で、何度か深呼吸をしてから、ノックする。
「失礼します」
中には、カイがいた。
寛いだ様子でソファに座っている。
その横に、サクラがいる。
カイの傍らにいるとは思えない不安げな表情で。
「ホタル!」
ほっとした様子で名を呼ぶと、立ち上がってホタルへと駆け寄ってきた。
主の指先で遊ばれていた毛先が、スルリとそこから逃げ出すのを視界に納めながら、慌てたサクラの様子にホタルの方が驚いた。
「何度呼んでも来ないんだもの!」
華奢な指先が伸びてきて、ホタルのこれも細い指先を捕える。
「心配しちゃった」
きゅっと手を握られた。
「……申し訳ありません」
詫びを口にしながら、ホタルは血の気が引くのを実感していた。
サクラは何度もホタルを呼んだのだ。
聞き逃した?
サクラ様の声を?
こんな風に、不安にさせるほど?
そんなに幾度も名を呼ばれて、気がつかなかったのか。
その間、ホタルの耳には何が聞こえていたのか。
「ホタル?」
呼ばれて、ホタルはサクラを見つめた。
サクラも、やはりホタルを見つめていて。
「……あのね、髪を結わないといけないんですって」
結局、何かを咎めることなく、問うこともなく。
いつものように柔らかな笑みを取り戻して、ホタルを呼んだ理由だけを口にした。