16
ようやく空に光らしきものが浮かび上がる、夜と朝とが完全に入れ代わる少し前。
それが、ホタルの目覚める時間だ。
もっとも、今日に限って言えば目覚めたという清々しさはまったくない。
昨夜はほとんど眠れなかったから。
泣いて腫れてしまった瞼を濡れたタオルで冷やしながら、巡る思いと想いを押しやる…シーツの中で寝がえりを打つばかりの一夜。
空がうっすらと白くなってきたときは、やっと朝が来たとほっとした。
体を動かせば、意味のない物思いから解放されるだろう。
手始めに、いつもよりよほど乱れてクチャクチャのベッドを降り、ざっとシーツを整えた。
そして、寝間着を脱ぐ。着慣れた紺色の侍女の衣服を手にして、ふとそこにある鏡を見やった。
薄手の下着を身に付けた自分自身が、寝不足を隠せない顔でこちらを見ている。
指先で首筋と鎖骨を辿り、さらにそっと胸元に触れる。
鏡の中、豊満とは程遠いものの、ふっくらと丸みを帯びた膨らみが白い布地を押し上げている。
『ホタルは変わったもの』
サクラの言葉を思い出す。
確かにこの身体は、こんな丸みを帯びていただろうか。
サクラとはまったく違う…もっとギスギスと骨ばった、子供のような体ではなかったか。
いつからだろう。
ホタルとサクラの体つきに大きな違いが顕れたのは。
出会った頃、二人の間に、さほど体格の違いはなかった。
むしろ、幼い頃には、髪や肌の色、目鼻立ちもまったく似ていないのに、皆が口を揃えて『そっくり』というほど二人は似通っていた。
多分にそれは、ホタルがサクラに傾倒していたためだろうとは思う。
だって、ホタルはそう言われることが、とても嬉しかったから。
だから、体付きが似ていることは勿論だったが、所作や仕草までも無意識に似せていたように思う。
それから、ずっと、同じように成長してきた。
いろいろなところで二人の間に身分という違いがあることを知らされることは多かったけど、時の流れによる成長は平等に訪れていた。
だが、いつからか違ってしまった。
あれは…そうだ。
初潮が訪れた頃からだ。
それも、二人はほぼ同時期に始まった。
あれから、変わっていったのだ。
サクラの体が丸みを帯び、柔らかさと艶やかさを増して行くのに、ホタルは何も変わらなかった。
手足が長く、スラッとはしていても、そこには柔らかさやまろやかさはなく、いつまでも少女じみていた。
サクラが体と共に仕草や心も女性として愛される存在へと変化していくのを眺めながら、ホタルはそれを拒否したのだ。
そんな資格はないと。
だから、そんな体は必要ないと。
そんな頑な拒否を、体は受け入れたのか。
サクラとホタルの違いは広がっていって。
やがて誰も二人を似ているとは言わなくなった。
だけど、それで良かったのだ。
小さくため息をついて、服を身に付けて部屋を出た。
朝食までには、まだ時間がある。
少し頭を冷やそう。
昨夜一晩かかって冷やせなかったものが、どうしたら冷やせるかを考えて、ひとまず庭でも歩いてみようと思い立つ。
幸いなことに季節は春。
動き出す虫の足音、草木の茎が伸びようとして軋む音や、花が開こうとして揺らす空気の音を探ってみようか。
そんな始まりの音を聞けば、行き場を見失って立ち尽くすホタルの心も何か見つけられるかもしれない。
決めて、厨房に向かっていた足をとめ、方向を転換する。
中庭に向かうために廊下の角を曲がったところで、俯き加減のホタルは何かに出くわした。
「おはよう…随分と早起きなんだな」
頭上から落ちてくる声に、頭の中が真っ白になる。
この声は、もはや聞き間違える筈もない。
「ホタル!?」
どうして、こんな時に会ってしまうのだろう。
ずっと、まともに顔を合わせることなどないほどにお忙しかったではないか。
何故。
どうして。
こんなに時に。
「ホタル!」
腕が掴まれる。
ぐっと引かれて、トンと体が当たったのはその人の胸だった。
「いきなり逃げるのは…あんまりじゃないか?」
そう言われて、ようやく自分が何をしたのか気がついた。
どうやら、挨拶一つすることもできずに、走りだしてしまったらしい。
「おいで」
腕を捕えられたまま、背中を押されるようにして、近くの扉の内に引っ張り込まれる。
乱暴とまではいかないまでも、強い力に振られるようにして部屋に放られた。
倒れ込まずに済んだのは、壁に背中が当たったからだ。
頭の両脇に腕で囲いを作られて、あっさりと捕らわれの身になる。
ギクリと強張ったまま身動き一つできなくなった。
あまりに近すぎる場所にシキがいる。
「…で?」
こんな近くでサクラ以外の声を聞いたことなどない。
それほど近い声に、顔を上げられず俯いたままでいると、思いがけず強引な指が顎を掴んで上を向かせる。
これもまた冗談では済まされない距離に、シキの顔があった。
「何故いきなり逃げられるんだ?」
凄まれる。
こんな顔もするのだ。
いつもののんびりと構えた表情ではない。タキが時折見せる厳しい表情にも似ていない。
初めて見る姿は…正直、かなり怖い…かもしれない。
「…申し訳あ…」
シキの拳が、ホタルの顔の壁を叩く。
ダンッ!と激しい音がして、ホタルの肩はビクリと揺れた。
「ホタル…俺は結構怒っている」
それは、分かる。
自分でも驚く無作法だ。
「…だけど欲しいのは詫びじゃない。逃げた理由を聞いているんだよ」
そんなこと、ホタルにだって分からない。
体が勝手に動いたのだ。
逃げたことだって、シキに捕まって気が付いたぐらい。
何も考えなどない。
思う間もない。
何もかも…本当に、分からない。
「分かり…ません…」
そう答えて、ずるずると壁伝いにしゃがみ込む。
昨日、散々サクラに抱かれて泣いたのに。
また、涙が零れそうになる。
「…ホタル?」
シキの声が、幾分柔らかくなる。
ホタルの前に膝をついた。
顔を見たくなくて、そして見られたくなくて、握った拳で目元を覆う。
「分かり、ません…どうして?」
逃げた理由なんて知らない。
ただ、そんなの、シキのせいだ。
それ以外は何も分からない。
「…ホタル」
完全にその声から怒りが消える。
「…怖がらせたな?…すまん…」
そんな詫びまで口にするシキに、今度はホタルが腹が立ってくる。
無礼に逃げたホタルが悪いのだ。
それを叱責されるのは当然のことなのだ。
なのに、何故、シキが詫びるのだ。
そんな風に…優しくしないで欲しい。
甘やかしてなんて、くれなくて良い。
そして。
「何故、好きだなんておっしゃるんですか?」
そんなこと、言わないで。
そうしてくれれば普通にできるのに。
少しぐらい優しくされたって、甘やかされたって。
例え…ホタルがシキを好きだったとしても。
その想いは秘めて、身分も己自身も、きちんと弁えてお相手することができる筈なのに。
なのに、シキが『好き』だなんて言うから。
とてもとてもたくさんの声を聞いて生きていた。
声になるならば何でも聞くことのできるこの耳に届くのが、本意ばかりではないことは百も承知。
その中に潜む真実と嘘を見極めることには長けていると思っていた。
なのに、シキのその言葉は意味さえ分からない。
どれほどの真意があるのかなんて、分かる筈もない。
ただ、その短い言葉一つでこんなに心は揺れ動く。
「言わないで…下さい」
優しくしないで。
甘やかさないで。
好きだなんて言わないで。
「ホタル」
ひどく優しい声。
ダメだ。
そう思うと同時に、ポタリと雫が落ちた。
壊れてしまったように、昨日から涙が流れる。
これが、零れて溢れる想いだなんて認めたくない。
「…思うんだが…君は俺のことが好きだろう?」
耳元で声がする。
軽く言われたその意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「君を見ていると、どうやら、そうらしいという気がする」
自ら作っていた闇が更に暖かく深いそれに変化して…抱きしめられていると分かった。
「…っ離して…」
敬語が飛んでしまう。
もがいて、離れようとするのに、シキの力は緩まない。
ぎゅっと更に抱きしめられて、ホタルの周りがシキでいっぱいになる。
ホタルは、泣きわめきたいのを必死に抑えた。
この人、嫌い。
大嫌い。
必死に目を逸らしていたのに。
一生懸命封じ込めようとしたのに。
なんて、あっけなくそれを暴くのか。
「ホタル」
頬を大きな手の平が包む。
顔を無理矢理上げられた。
「悪い…からかってる訳じゃない」
その詫びにホタルは一瞬もがくのをやめた。
拘束する腕が少し緩む。
これも考えるより先に体が動いた。
「…貴方なんて…大嫌い!」
ホタルは、緩んだシキの腕から逃げ出す。
追う腕を避けて、扉に向かおうとすれば、しかし、あっけなく腰を腕に捕えられて引き寄せられる。
「ホタル…一つ言っておくけど」
ぐっと胸元に閉じ込められて。
「こういう時、逃げるのは煽るだけだよ」
耳元に囁かれたそれの意味もまた、ホタルの分からないものだった。
そして、いつもののんびりとした口調を取り戻しながら、そこに僅かな怒気と多分な熱気を含んでいることに気が付く余裕は、今のホタルにはまったくなかった。
気が付けば。
ホタルという存在が現れてから増えた『気が付けば』という己の行動。
対外的な場面での、双子のタキの様子があまりに冷静沈着な印象が大きいせいか、シキ自身はむしろ感情を表に出すタイプだと思われがちだ。
だが、そんなことはない。
むしろ、感情の起伏はタキの方が大きいと思う。
それをタキは抑え込んで冷静であることに長けているだけだ。
本当は、シキの方が感情の起伏には乏しい。多様に見える表情も計算したもの。
笑みも怒りも。
面に出すというよりは、演出しているに過ぎない。
それが、ホタルが絡むと変わってしまう。
ホタルという侍女とうまくやろうというだけならば、多分、それほど難儀なことではない筈だった。
なのに、できなかった。
頭で考えるより。
常に身体が、気持ちが動く。
そして。
そして、今、気が付けば腕の中に焦がれた娘がいる。
つい先ほどまで、魔獣を相手にしていたのは現実か?
少しばかり離れた森に頻繁に出没するというそれを葬った後、安宿で湯場を借り、ざっと身づくろいを済ませて、戻ってきたところにホタルに出くわした。
運が良い、と思ったのは一瞬。
どうしてか、娘は一言と発することなくいきなり走り去ろうとした。
最初に湧き上がったのは戸惑い。
つい先ごろまで、シキが手の打ちようがないほどに、侍女としての対応に徹していたのに。
それが、何故、いきなり逃げるのか。
シキの真意に気が付いた?
侍女然とした態度さえかな繰り捨てて、シキとの距離を置くことを選んだ?
そう思ったら、一気に怒りが湧いてきた。
だが、捕まえて問いただしてみれば、そうではないとすぐに知れた。
ホタルと違って、こちらは色恋沙汰に疎い日々を送っている身ではない。
だから、気が付いた。
この娘は…認めたのだ。
シキの『好き』という言葉を。
そして、この娘自身もシキを嫌いではない、ということを。
気が付いた途端に…手に入れたいという欲求が走り出した。
それでなくても、狩りから戻ったばかりで気持ちが高揚している。
そうは言っても、ホタルが大人しく抱きしめられていてくれれば、少しばかり濃密なキスを与えて解放してやれたかもしれない。
もう少し、ホタルの気持ちが整うのを待てただろう。
それぐらいは、シキも大人のつもりだ。
だが、娘は逃げようとした。
しかも、トドメに
『大嫌い』
正直、その言葉がこれほどに心臓を抉るとは思いも寄らなかった。
ドクン、と一つ鼓動が大きく跳ねたかと思うと、次にバクバクと煽り。
それに連動するように怒りが湧いた。
シキの想いを、素知らぬ風にをしてかわし。
今度は己の気持ちから目を逸らして、逃げるのか。
それに振り回されて、かき乱されて。
手に入れぬまま終わるのか。
そんな気は毛頭ない。
そうして気が付けば、シキの腕は逃げる娘の腰を掴んで引き寄せていた。
全く慣れないホタルを捕えることは、難しいことではなかった。
捕えた腰を強い力で引き寄せれば、娘の華奢な体は背中からシキの胸元へと落ちてくる。
すっぽりと包むように抱きしめた。
焦がれた娘だ。
欲しくて、欲しくて。
他の何者もいらないと。
ただ唯一欲しかった娘が手中にある。
ホタルは、訳が分からないのだろう。
もがいて逃げようとするでもなく、ただ、強張ってシキに抱きしめられている。
シキは手のひらを、腰から胸元に寄せた。
華奢なことは承知していた。
だが、思いがけず手のひらに、確かな質感。
もう片方の手のひらで、腰から脚を辿る。
この娘の身体は、こんなに円やかだっただろうか。
以前、抱きしめた時よりも幾分柔らかさを増したように思える身体を、更に抱き寄せれば、ようやくのようにホタルがもがいた。
シキに、放す気などもちろんない。
ようやく触れた娘だ。
「…ホタル…逃げるな」
命じて。
言い直す。
これは命令じゃない。
侍女に無体な欲求をぶつけたい訳ではない。
だから
「…逃げないでくれ…」
願い。
「ホタル」
名を呼びながら、首筋に唇を落とす。
小さく音を立てて口付けると、細い肩がビクンと揺れる。
胸に大人しく置いていた手を動かし、衣服のボタンを外す。
そして、もう片方の手は、長いスカートをそっとたくしあげ、直接膝から腿を撫でた。
愛しい存在が腕の中にいることに、頭は思考を停止させているのに。
行為を知り尽くした身体は勝手に動く。
「…っや…」
ようやくホタルから出た声は弱々しい拒否。
強張っていた身体は、細かに震え始める。
止めてやるべきかもしれない。
過ぎる冷静な考え。
だが、身体が止まらない。
薄い布地越し胸のふくらみを手のひらで包む。滑らかな脚に、直接触れる指先。
煽られれる。
ホタルがカタカタと震えてはいても…触れているシキに、嫌悪を感じていないことはどうしてか伝わる。
「いい子にしていれば…俺は優しいよ?」
無意識の掠れて甘い声に苦笑いが浮かぶ。
ボタンを外し終えて緩めた服が、肩を滑り落ち肌を露にする。
真っ白で艶やかなそこに口付け。
唇を滑らせて、項へと。
白い肌着を脱がせながら、とうとう何も隔てるもののない肌を手に入れる。
ホタルが、ビクンと大きく跳ねた。
「…ホタル」
宥めるように囁いて。
脚を撫でていた手のひらを、内へと上へと徐々に動かす。
そして、そっと、だが、確かな意図を持って、そこに触れる。
「…っいやあ」
ビクンと体が揺れ、今までにない強い拒否がホタルの口をつく。
だが、シキは止められなかった。
何故なら…指に僅かに触れたホタルが、シキの望むように反応していたから。
だから、ホタルの戸惑いを抑え込む。
心が身体についてきてくれれば良いと願いながら。
「ホタル…大丈夫…何も怖くない」
遠耳の鼓膜を撫でるように甘く。
そして、そっと指先を沈める。
「…っあ…」
ホタルの口からささやかな声が漏れた。
シキは束縛を緩めた。
ズルズルと俯せにうずくまるホタルは、既に逃げられる状態ではない。
その力のない身体を仰向けにし、上に重なる。
シキを遠ざけようとするように、突っ張る腕は何の妨げにもならなかった。
細い両手首は、シキの片手でまとめて拘束してしまえるほど。
「…ホタル…」
名を呼びながら、どこもかしこも華奢な首筋、肩、鎖骨に口づけ、手のひらで肌を探る。
だが。
「ホタル?」
ふとシキが捕えている両手首から力が抜ける。
解放すれば、それは投げ出されるように力無く床へと落ちた。
「…お好きになさればいい…貴方はそれが許されるのでしょう?…」
覚悟を決めたかのように、顔を背け瞳を伏せる。
侍女然とした対応は傷つける、と言ったことを覚えているのか。
一気に頭の中が醒めていく。
「…そうだな…許されるだろうな」
呟いて、ホタルの顔を自分へと向けた。
ホタルは、もう泣いてはいなかった。
シキに無理やり煽られて、幾らか熱を含んでいるように見える瞳は、しかし、諦めを浮かべて力ない。
「でも、それじゃあ意味がないんだよ…ホタル」
シキは体を起こした。
そして、ホタルの腕を掴んで起こす。
「悪かった」
はだけた衣服を合わせてやり、晒された脚をスカートで覆った。
ホタルは人形のように、力なくそこに座っている。
乱した衣服から覗く肌の白さが、一瞬醒めた筈のシキを煽るようだ。
ホタルから僅かに視線を逸らして
「…だが…君も悪い」
つい零れる本音。
ホタルがシキのタガを外したのだ。
「…あんな風に逃げられては…追わずにはいられない…追って捕まえてしまえば…手にいれたくなる…しかも」
シキはちらりとホタルを見やった。
ホタルは、ぼんやりとシキを見ている。
「マアサの息子との結婚話まで出てるらしいじゃないか?」
言えば、なんとも言えない…困ったような辛いような感情を面に走らせる。
そこに縁談を喜ぶ感情がないことに心底ほっとした。
「マアサが本気って言うだけでもマズイのに…タキが絡んでるんじゃ、うかうかとしてられない」
シキは、我慢しきれずにホタルに手を伸ばし、そっと指先を頬に触れた。
「俺が焦って君を俺のものにしようとしても仕方がないと思わないか?」
ホタルが僅か身を引いて指から逃げるのを、今度は追わずに逃がしてやる。
そして、ホタルの温もりが残る指先に口付ける。
「好きなのは俺の方だ」
ホタルは俯いた。
「信じられない?」
娘は、頷きはしなかった。
だが、否定もしない。
「誰にでも言うと思ってる?」
これにも応えはない。
「…自業自得か」
呟いて。
それでも、言わずにはいられない。
「ホタル、俺は君が好きだよ」
もう一度指を伸ばす。
顎を捕えて、そっと、だが拒否を許さない力で、顔を上げさせた。
「…いつでも…欲しいと思ってる」
ホタルが泣きそうに顔を歪めた。
抱き寄せたかったが、まだ燻る体は今度こそ止まらないかもしれないから、できない。
「…サクラ様のところに戻りたい…です」
ようやくホタルから出た言葉はそれだった。
戻したくない。
あの女主は、マアサやタキの比ではないほどに強敵だ。
だが、引きとめる術はない。
「…どうぞ」
言うとふらりと立ち上がる。
「一度部屋に帰って…顔を洗って、服と髪を整えて」
自分で乱しておいてなんだが。
「…そのままじゃ…奥方が心配する」
ホタルは振り返らないまま、だが、素直に小さく頷いた。
ホタルは、固い筈の廊下をフワフワと浮遊感の中、おぼつかない足取りで歩いた。
タキの言葉が思い出される。
『シキは貴女に興味があるようだ』
興味。
そう興味だ。
あの方には、たくさんの情人がいる。
『貴女はあまりに違うので』
だから、面白がっているだけだ。
『公爵家跡取りの自覚がない』
貴族の方のお遊びだ。
あの方にとっては、寂しさを紛らわす遊び。
小さな子供が、新しい玩具を手に入れたがるように。
ホタルに手を伸ばすのだ。
気にしないでおけばいい。
なのに。
今度はシキの言葉が浮かぶ。
『君が好きだよ』
どうしよう。
『いつでも欲しいと思っている』
どうして、あの声に真実を聞き取ってしまったのだろう。
これが戯れではないと、思えてしまったのだろう。
どうすることもできないのに。
ただの興味だと。
ただの戯れだと。
そう思えたら良かったのに。
苦しい。
胸が痛い。
逃げたい。
どこへ?
あの方のいないところへ?
でも、ここにはサクラ様がいる。
サクラ様のいない毎日なんて、考えられない。
ここ以外に行くところなんて。
あるはずがない。