15
「縁談?」
それは、ホタルにとってあまりにもいきなりな話だった。
「…そうなの」
答えるサクラの方も、その顔にはっきりと困惑を浮かべている。
「私に、ですか?」
尋ねてから、間抜けな問いだと思った。
サクラとホタルしかいない状況で
「縁談があるの」
とサクラが言えば、言う本人はすでに人の妻なのだから、普通はホタルの、ということになるだろう。
しかし、あまりにも唐突過ぎて、それが自分自身への話だとは思えないのがホタルの正直なところだ。
一方のサクラは、ホタルの抜けた反応に笑いもせず、戸惑いと神妙さの入り混じった複雑な顔つきで頷いた。
「マアサから話があったの…ホタルを…」
そう続けてから、ほんの少しの間をおいて。
「ジンのお嫁さんに…って」
サクラの迷いが、その微妙な間に含まれているように思えた。
ホタルはサクラの口から出てきた名前を、心で反芻する。
ジン。
一瞬、浮かんだのは祖父。
そんな訳がない。
となれば、マアサの息子のジンに違いない。
その相手もまた、あまりに予想外だ。
祖父と同じ名に懐かしい想いを抱くことはあっても、特別な感情があろう訳はない。
大体、サクラの食事の好みなど何度か聞かれはしたが、それ以外の会話などほとんどしたことがないのだ。
悪い人間ではないということは承知しているが、それ以上のことは何も知らない。
もっともホタルにとっては、相手が誰であろうと、それはさして問題ではない。
「結婚なんて…しません」
そう、しない。
できる筈がない。
この身はそれを許されない。
「私、一生サクラ様のお側にお仕えするんです」
過去に封じた苦しみと悲しみが、強固な扉を破って飛び出しそうになるのを押しとどめて、それだけを言葉にする。
サクラは、じっとホタルを見つめていた。
ホタルの真意を探ろうと言うよりは、サクラの言葉によってホタルが傷ついたり困ったりすることがないようにという気遣いの視線だと知っているから。
「そう決めてます…サクラ様もそう望んで下さいますよね?」
なるべく明るい口調を心がけてそう告げた。
だが、サクラは、また、迷うようにふと視線を下げる。
薄く紅を引いた唇が揺れて。
「そうしていいって」
ようやくそう言う。
「はい?」
サクラの言葉の意味が分かりかねた。
そうしていい。
許諾の意味のそれは、何をそうして良いと言っているのか。
「結婚してからも、今のままお勤めしていいって」
意を決したように顔を上げて、はっきりとサクラは言った。
「ここにお勤めしたまま、ジンと家庭を築けば良いって…そうマアサは言ってるの」
確かにマアサ自身が結婚し子供を抱えながらこの屋敷に勤めているのだから、その条件は不思議ではないのかもしれない。
しかし、言いながら、サクラの顔は決して明るくはない。
ホタルも、それを聞かされたからと言って、心は一つも晴れはしない。
明らかに、めでたい話をしている空気ではないものが二人の間に広がる。
「…タキ様からも…悪くないお話だと」
サクラはそう続けた。
サクラに他意はないだろう。
タキという信頼のおける人物が、この婚姻に賛成の意を示していると、そう言っているだけだ。
しかし、タキの名前が出たことに、ホタルはひどく動揺した。
先日の会話が、一瞬にして細部まで思い出される。
ホタルに興味を持つシキを、公爵家の跡取りの自覚がないとそう言った。
もちろん、ホタルはシキと…などと大それたことを考えたことは一度としてない。
あの時だって、己の身を弁えているとそう答えたではないか。
だが、タキはホタルを遠ざけたいと考えているのだろうか。
誰かに嫁がせてしまいたいと?
だから、この話を勧めるのだろうか。
シキが興味の対象に手を伸ばす前に。
ホタルがそれを受け入れる前に?
そんなことあり得ないのに。
そんな心配は不要なのに。
多くの大好きな人が、ホタルにはいる。
サクラのことは愛していると言って良い。
だが…一人の男性を愛して、家庭を築き、家族を成すなんてことはホタルにはあり得ない。
そういう意味ならば、ホタルは誰も愛さない。
そういう意味ならば、誰もホタルを愛さない。
誰も。
そう、誰も!
だって…だって、この身は呪われているのだから!
「結婚なんてしません!」
思いがけず、鋭い声が出た。
サクラが驚いたように目を見開く。
「…すいません…」
はっとして、詫びながら。
「でも…しません」
もう一度、そう言う。
だが、違う、と思う。
しない、等と意思を口にすることさえ憚れる。
「結婚なんて…できません」
そうだ。
これが相応しい。
できない。
できる筈がない。
この身が、誰かに愛されるなど。
この身が、何かを育むなど。
許される筈がない。
「ホタル?」
サクラが眉を寄せる。
止めなければ。
そう思うのに、一度飛び出してしまった言葉は止められない。
胸の奥にしまい込んでいたもの。
サクラによって、いくらも癒されて、奥深くにしまい込んでいられたものが扉を突き破る。
「私、そんな資格ありません!マアサさんやジンさんだって、私のことを知れば、そんなこと望む筈がありません!」
そうだ。
誰だって。
ホタルがこの世に生まれおちた理由を知れば。
この身に流れる呪われた血を知れば。
ホタルを忌み嫌い、触れたいなどと、思わないだろう。
あの方だって。
ホタルを好きだという、その意味をあえて考えないようにしてきた。
優しさも慰めも、そこに想いがあるとは思わないようにしてきた。
だって、受け入れることのできない想いだ。
身分だけではない。
何よりも、この身にその資格がないのだから!
「サクラ様だってご存知でしょう!?私が…」
「ホタル!」
今度はサクラが激しい声でホタルを止めた。
ホタルははっとした。
泣きそうな顔のサクラが目の前にいる。
ぎゅっと小さな拳がドレスを握った。
唇が震えながら言葉を綴る。
「…お断りするわ…」
小さな声で、だがはっきりと。
そして、強く
「でも、ホタルに資格がないからじゃない」
そう続ける。
「ホタルがジンを好きではないから…だから、だわ」
いいえ。
ジンは嫌いではない。
祖父と同じ名前の、多分とても優しく誠実な男だ。
私が嫁げる筈もない。
そうだ。
理由はそれだけ。
私には許されないことなのだ。
それ以外に、理由などない。
ない筈なのに。
どうして浮かぶのは…あの方なのだろう。
どうして、今この時に、あの人が言う『好き』という言葉がこんなに痛いのだろう。
「ホタル?」
サクラの声が優しさを含む。
そして、ホタルは泣いていることに気がついた。
急いで手の甲で拭きとろうとすると、それをサクラの手に止められる。
「泣かないで…って言わないから」
サクラの指がホタルの涙を掬う。
「これは私のための涙ではないから」
ポタポタと滴となって、涙が床に零れ落ち幾つものシミを作っていく。
「これは…ホタルの想いだもの…」
サクラのためではない涙。
誰のためでもない、ホタル自身の想いが溢れて零れる。
「…だから…いくら泣いても良いの」
どうして。
止まらない。止められない。
「…っサクラ様…」
腕を伸ばし抱きつけば、小さく柔らかな体が受け止めてくれる。
「…その涙は…誰を想って流れるの?」
問いかけには答えることはできない。
ただ、前の私はなんて楽だったのか、と。
毎日、サクラ様のことだけを考えていればよかった。
嬉しいこと、楽しいことがたくさんあった。
辛いことも寂しいことも。
だけど。
それでも。
こんなに苦しくはなかった。
痛くはなかった。
サクラ様のことだけで泣いていればよかった私は、なんて幸せだったのか。
こんな涙はいらない。
こんなのは…どうして。
「ホタル」
サクラは気がついているのか。
ホタルが何を、誰を思って泣いているのか。
「…ホタルは変わったもの」
サクラが言う。
「ねえ、気が付いてる?」
ホタルの体を抱きしめながら、サクラは柔らかく問いかける。
「ホタル…身体が丸くなった…」
ホタルは首を振った。
「前は子供みたいだったけど、とても…女性らしくなった」
また、首を振る。
いらない。
そんなの。
女性らしい身体なんて。
女性として愛されたいなんて。
望んでない。
望んで良い訳がない。
「仕種も表情も…変わったもの」
何度も、何度も。
首を振る。
「ホタル…どんなに否定しても、私、気が付いてしまったの」
それでも、認めるわけにはいかない。
認めてしまったら、サクラの側にさえいられない、きっと。
だから。
何も言わずにただ、涙を零すことしかできない。
「…ごめんね、ホタル」
何故、サクラが詫びるのか。
「気がつくのが遅くてごめんね」
ホタルは壊れたように、首を振り続ける。
「ごめんね…何もしてあげられなくて」
何も?
いいえ、そんなことはない。
こうして側にいてくれる。
こうして一緒に。
そして、気が付いた。
ホタルだって何もできなかった。
サクラの想いを分かっても、何もできなくて。
ただ一緒の思いを共有したいと願っただけだった。
サクラもそうなのか。
「ホタルも…こんなふうに苦しかった?切なかった?」
頷いていいのだろうか。
それはこの想いが、サクラのそれと同じだと認めることになるのか。
「…ホタル…私、ホタルが好き」
ホタルだって。
サクラが好き。
「…ホタルに幸せになって欲しいの」
ホタルもサクラの幸せを願ってる。
同じようにサクラも?
「何がホタルの幸せ?」
分からない。
何も求めてはいけない身。
なのに、この心は求めているのか。
何を?
誰を?
分からない。
分かりたくない。
だけど、多分、もう間に合わない。
それは明らかになりつつある。
どうすることもできないのに。
どうなる筈もないのに。
ただ、確実にはっきりと。
ホタルはただ涙を零す。
何も否定できないのに、首だけを振り続け。
サクラはただホタルを抱きしめていた。