14
シキの言葉も、タキの言葉も考えないようにすることが、日々を変わることなく過ごしたいと望むホタルができるただ一つのことだった。
そして、その術を、ホタルは知っている筈だった。
簡単なことだ。
サクラのことを考えればいい。
今日のサクラ様のドレスはどれにしよう。
天気が良いようなら、庭にご一緒しよう。
そんなことを考えればいい。
そうすれば。
「ホタル?」
その筈なのに。
名前を呼ばれて、ホタルは自分がサクラを目の前にしながら、物思いに捕われていたことに気付かされる。
「何か心配事?」
心配事なんてない。
こんな風に気遣われることなど、何もない筈なのに。
サクラはじっとホタルを見つめている。
「…庭に行きましょうか」
やがてそう言って立ち上がった。
以前、出征中の軍神を思って沈むサクラを庭に誘って慰めた。
すると、やはり、サクラのこれも慰めだろうか。
慰めが必要な程に、私は目にみえて沈んでいるのだろうか。
春先の庭は華やかに色付いていた。
だが、しかし、それよりもなおホタルを引き付けたのは、遠目にもはっきりと見て取れるその存在。
庭の片隅に立っている騎士だった。
「シキ様…お帰りになったのね」
サクラが呟くと、それが聞こえたようにシキが振り返る。
久しぶりの姿に、意味も分からないまま鼓動が跳ね上がる。
また少し髪が伸びた?
いくらかお痩せになった?
それほどにお忙しいのか。
一旦跳ねあがった心臓が、今度はズキンと痛みを訴えた。
どうして。
いいや。
この痛みは納得できるかもしれない。
心配なだけだ。
誰だって、見知った者が疲れ、やつれた様子を見せれば心は痛む。
こんな風にだってなるだろう。
遠くのシキは傍らにいたタキに何かを告げた。
無意識にも閉ざすホタルの耳に、その言葉は聞こえない。
タキが頷くのだけが見て取れる。
シキが、こちらへと近付いてくる。
サクラに帰還の挨拶をするのだろう。
ホタルは、サクラから一歩下がった場所で膝を折って頭を下げた。
ざわつく心など素知らぬ風に、体は侍女としての所作を完璧にこなす。
「ただいま戻りました」
礼を終えて顔を上げたホタルの目に、サクラの前で膝をついて頭を下げるシキの姿が映る。
騎士としての、主君の寵妃へのごくごく当たり前の礼。
もっともサクラが恐縮してしまうので、この屋敷においては滅多にお目にかかることはない。
「お帰りなさいませ」
サクラは答え。
「…あの…立って下さいませんか?」
やはり困ったように、シキに願う。
シキは顔を上げた。
近くで見るシキの面は、やはり記憶にあるより少し頬が削ぎ落とされているようだ。
「お願いしたいことがあります」
「お願い?」
サクラの表情は、更に戸惑いを深めた。
「ホタルをお借りしたいのです」
サクラの背後、ホタルは身体を震わせた。
何を言うのだろう。
思わず、タキがいた方を見やる。
先ほど二人の男が立っていた場所には、もう誰もいない。
「ホタルをですか?」
「はい」
サクラが振り返ってホタルを見た。
自分がどんな表情をしているのか分からないまま、ホタルは小さく首を振って拒否を示す。
拒否してしまってから、己がそんな身分ではないこと、拒否する方がよほどサクラの不審を煽るだろうと気が付いた。
「よろしいでしょうか?」
尋ねて、サクラの返事を待つことなく、シキは立ち上がった。
返事を返す代りに、サクラは身をずらしてシキとホタルを対峙させる。
サクラという小さな盾を失って、ホタルの目の前はシキだけになる。
まっすぐに見つめてくる碧の鮮やかさに耐えきれず俯いた。
「…夕暮れまではお返しいただけますか?」
サクラが動き出す。
行きたくないと縋りたい思いを抑えて、ホタルはそこに留まった。
「間違いなくお返ししますよ」
パタパタという足音に、そっと視線を上げれば、マツリが駆け寄ってくるのが見えた。
相変わらず、手抜かりのない。
現れた幼い侍女が、サクラの傍らに辿り着いたのを見届けて、ホタルは逃げ道のないことを悟った。
行きたくないという気持ちに、足が動かずにいると、ぐっと腕を掴まれた。
「おいで」
口調は相変わらず穏やかで。
腕を引く力が、有無を言わさず強いのも変わらない。
半ば引きずられるようにして連れていかれたのは厩舎。
庭師が馬の轡を握って待っていた。
「…っシキ様!?」
いきなり、シキは屈み込みホタルを肩に担ぎ上げた。
一瞬の浮遊感の後、馬の背中にストンと乗せられる。
まるで何も入っていない麻袋を乗せるかのように、軽々と。
唖然とするホタルの背後にシキが軽やかに飛び乗ると、馬はすぐにも走り出した。
慣れない馬の動きに身体が揺れる。
トンと背中に当たるそこがシキの胸であることに、身体以上に心臓が揺れ動く。
できるだけ、シキから離れるように前に屈みこみ、馬のたてがみにしがみついた。
着いた先はスタートン邸だった。
乗せた時と同じように軽々と、シキの手によってホタルは馬から降ろされる。
腕を引かれて導かれたのは、屋敷の中ではなく庭。
そこに、知らない女性が一人。
質素な身なりと化粧気のない面。公爵家の庭先にはそぐわない姿ながら、そこに凛と立っている。
そして、金髪と碧眼のその色彩には、見覚えがあった。
それは、今ホタルの傍らに立つ男と、とてもよく似ていた。
「貴女がホタルさん?」
女性が奏でる声。
知っている。
この声は。
気が付いてホタルは膝を折った。
いつかは遥か彼方にあった声。
「初めまして、ケイカです」
間近に聞くそれには僅かな棘もない。
にこりと微笑むそこに一片の蔭りもない。
それは、この女性が不本意な形でここにいるのではないことを、ホタルに伝えている。
ケイカはゆっくりと歩き出した。
シキにそっと背中を押されて、ホタルはその後ろに続いた。
「…この庭、私がここにいた頃と変わってないの」
ケイカが庭を見渡して呟く。
「私の部屋だった場所も…何一つ変わってなくて驚いたわ」
それは、スタートン夫人の内では、5年前と何も変わってないからだ。
18歳の娘は、今もこの屋敷にいて。
ちょっとした諍いで、拗ねて部屋に閉じこもってしまっただけ。
だから、何も変わらない。
本当なら、5年の間に様々なものが変化するのは当たり前なのに。
だから、この目の前の女性は、18歳の娘ではないのも当たり前。
5年前のこの方が、どんな風だったのか。
ホタルはもちろん知らない。
だが、穏やかな口調で話す女性は、紛れもなく大人の強かさで満ちている。
それを5年前から変わることのできない夫人と屋敷はどう受け入れたのだろう。
「私、ここには戻るつもりはないの」
ケイカは足を止めて、ホタルに向き直った。
迷いのない碧眼は、ホタルとシキを交互に見つめた。
「私は…自分の生きる場所を見つけてしまったから」
視線が懐かしむように、庭を見渡す。
「ここは、もう、私の生きる場所ではないから。…でも」
ホタルに戻ってきた瞳が微笑んだ。
「…私を見つけてくれてありがとう」
労働に慣れた、貴族の令嬢のものではない指先が、ホタルの手を握る。
「もう一度ここへ来る機会を与えてくれてありがとう」
ホタルは何も言えない。
礼を言われても、結局、この方が戻らないのであれば、救われないのではないか。
娘を想う母も。
母を想う息子も。
「母様!」
離れたところで、小さな子供の声が響いた。
この声にも聞き覚えがある。
見やれば、3歳程の子供が、がっしりとした男性の肩にちょこんと座って、ケイカを笑いながら見ている。
「アキ」
ケイカは二人の方へと駆け寄る。
ホタルの横をすり抜けていく女性からは、潮の香りがした。
「ホタル」
シキが名を呼ぶ。
その顔を見ないまま、ホタルは呟いた。
「奥様は大丈夫なのでしょうか?」
「…ホタル…見てごらん」
促されて、ケイカが走っていた方を振り返る。
笑い合う親子の傍らに、老夫婦が歩み寄っているのが見えた。
微笑みながら。
老婦人が、男の肩にいる子供に手を伸ばす。
子供は無邪気に、その手に向かって身を滑らせた。
スタートン夫人は子供を抱いたまま、ホタルへと近付いてくる。
ホタルは、礼で彼女を迎えた。
「ホタルさん」
顔を上げれば、そこにある笑みはホタルが恐れたものではなかった。
現実感に満ち満ちた穏やかな微笑み。
「…ケイカはここには戻らないそうよ」
その言葉に絶望を感じさせるものはない。
「でも、今までとは違うわ」
夫人の隣に、初めてお目にかかる公爵と、若い夫婦が並んだ。
夫人の腕にいる幼子が、祖父の口髭に無邪気に手を伸ばす。
常は威厳に満ちてもいよう公爵は、目を細めてその手が髭に触れるのを許していた。
「私たち、ちゃんと分かり合って認め合っているの」
夫人は子供を、ケイカに渡した。
そして、自由になった両手で、ホタルの手を握る。
「ありがとう」
ケイカの声を聞いたときと同じ言葉。
「私たちを助けてくれて…ありがとう」
ホタルは泣きたくなった。
哀しいのではなく。
辛いのではなく。
嬉しくて、泣きたいなんて。
「…私こそ…ありがとうございます」
答えていた。
ただただ嫌いなこの力。
なくなってしまえば良いとしか思えない力。
私の力がこんな風に役に立つのだと教えてくれて。
「ありがとうございます」
心からの言葉を口にした。
夕食を一緒に、と勧める夫人に丁寧な断りを入れるホタルを、シキは次回を約束する形で母親からなんとか引き離して屋敷から連れ出した。
ここまでの道のりは少しでも早い方が良いと馬を使ったが、帰りは馬車を用意する。
今回は、きちんと御者が御者台に座っているのを見て、ホタルはほっとしたようだった。
扉を開けて手を差し伸べれば、ホタルは素直に従って車に乗り込む。
シキはホタルに続いて馬車に入ると、ちょこんと腰かけている娘の隣に座った。
「…一人で帰れます」
相変わらず頑なだ。
「きちんと奥方に返さないとね」
ホタルの逃げを、そんな言葉でサラリとかわし、シキは馬車を発進させた。
しばらくは車輪の回る音だけが、車の中にリズムを刻んでいた。
少しして、ポツリとホタルが呟いた。
「この力…嫌いです。でも、今日は少し好きになれました」
ホタルが己の力に嫌悪…いや、もしかしたら憎悪…に近い感情を抱いていることには気が付いていた。
力の話が出ると、この娘は限りなく無表情になる。その中に見え隠れするのは、哀しみと苦しみのみだ。
「それは良かった」
あの夜、庭の片隅で抱きしめた娘が語ったのは、独白に近かった。
サクラへの行き場のないホタルの想いを放つために語らせたことだったから、ところどころ事情の分からない部分があっても、敢えて口を挟むことはなく聞き役に徹した。
サクラという存在が、ホタルにとってどれだけ大きなものか。
思い知りながらも、ホタルがぽつぽつと話すのを聞いているうちに、ふと思い出したことがあった。
ホタル・ユリジア。
ユリジアというのは、あの騎士と同じ名だ。
ホタルは、あの男の娘なのだ、と気がついた。
そうは言っても、シキはホタルの父である男と面識はない。
ただ、平民から騎士号を手に入れるまでになった優秀な男だと、言ってみれば立身出世の代表者のような名として記憶している。
剣の腕前はもちろん素晴らしいものだったが、とにかく情報通な男だったと伝え聞いている。
ホタルから零れ落ちた告白からすれば…。
父親は娘の遠耳を利用したということになるのだろうか。
まだ、幼い娘に…特殊な能力を持つとはいえ、国間の事情など分かる筈もない幼子に…敵方の政情を聞くよう命じたのか。
それは、なんて残酷なことか。
戦乱にあった各国の王や宰相達は、どれほど残忍で汚れた会話を交わしたのだろう。
幼いホタルは、どんな想いでそれを聞き、父親に語ったのだろう。
己ならば、絶対にそんなことはさせない。
幼い少女に、まして愛しい者に、そんなこと聞かせたくはない。
力は力としてそこにある以上、それは変えようもない。
それを強い意志を以て、駆使するならばそれも良いだろう。
だが、この娘は違う筈だ。
「君は私たちの恩人だ」
そうだ。
こんなに優しい力なのに。
それを厭い、卑下することしかできないなんて。
「…本当に感謝している」
ホタルは、驚いたように目を見開き、やがて嬉しそうに微笑んだ。
零れ落ちるように。
花開くように。
いつか、未だ咲き誇らず…と思った娘は、確実にその時を迎えつつある。
それを手に入れたいという欲求は膨れ上がるばかりで。
「…シキ様」
ホタルがシキを見上げる。
狭い馬車の中。
あまりに近いホタルの存在。
馬にするべきだったと、シキは正直悔やんだ。
「お帰りなさいませ…ご無事のご帰還、心よりお喜び申し上げます」
シキの欲望に本当に僅かにも気が付かないのだろうか。
それとも…この打ち解けきらない態度は牽制なのか。
「もう少し…打ち解けてくれないものかな」
誘いをかけてみる。
ホタルは少しの間を開けて、首を振った。
「そういう訳には…もう十分過ぎるほどシキ様には、よくしていただいてますのに…これ以上甘えることはできません」
まっすぐな答えに、前者だと知る。
気が付かないのだ。
シキの想いに。
欲望の所在に。
だったら…教えてみる?
「ホタル」
シキはホタルの頬に手のひらを当てた。
柔らかな感触が、剣ばかりを握っていた指を、シキの想像以上に刺激する。
「そういう侍女然とした対応は…私を落ち込ませる」
ホタルは手を拒みはしなかった。
いや、心では拒否しているのかもしれない。
しかし、慣れてない侍女は、無礼なくこの手を退ける術を知らないのだ。
「君は…私にとって侍女以上だ」
この手をどうするか。
次は…どこを触れる?
「…私は…サクラ様の侍女です。それ以上はありません」
指先を頬から顎に滑らせるか?
手のひらを背中に回すか?
引き寄せて、キスをしたら…唇だけでなく、その肌の至る場所に口付けたら。
そこから、この娘に伝わるだろうか。
シキの想いが、どんなもので、どれほどのものか。
だが、結局、そうはしなかった。
そうでなくても、目の前のホタルは不安げにシキから離れていくことを願っている。
「…君は…頑固だなあ…」
結局そう言って、頭をポンポンとはたいた。
ホタルの表情が少し和らいで。
シキは微笑んで見せれば、小さな笑みさえ見せてくれた。
まだ。
今はまだ、ホタルの笑顔を優先させることができる。
もう少し。
そんな余裕がいつまであるのか分からないけど。
まだ、大丈夫だ。




