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13

新しい使用人が勤め始めて、あっという間に時は過ぎた。

マツリが慣れるまではと屋敷に通っていたカノンが去ってからだけでも、数えてちょうど1ヶ月が経とうとしている。

しばらくは、長くそこにあった人の姿が消えたことを屋敷自体が憂うように、寂しい空気が満ちていた。

しかしそれも、徐々に去りつつある冬の寒さと共に消えかけている。

そして、僅かばかり残る愁いをかき消す勢いで、マツリは今日も元気に動いている。

お勤めに出るのは初めてだと言っていた彼女だが、実際のところよくやっていると言って良いだろう。

もちろん知らないことや分からないことは、山ほどある。カノンの穴を完全に埋めることは、簡単ではない。

しかし、本人が貧乏だと語った家でも、令嬢然として優雅に過ごしていた訳ではないのだろう。体を動かすことは苦にならないようだったし、家事自体にも疎くはないようだった。

もの覚えも悪くはなく、一度教えれば、次からはそれをきちんとこなしていた。

大人びた見た目と裏腹な幼い動作はバタバタと騒がしく、最低限に躾けられてはいるものの、優雅とは程遠い身のこなしはマアサのお小言の対象ではあったが、それでも彼女の存在はカノンの不在を補うのに一役二役は買っていた。

一方のジンといえば、新人らしからぬ落ち着きようで、黙々と仕事をこなしていた。

元来寡黙な男であるらしく、陽気な両親のように、気軽にサクラやホタルに話しかけてくることはない。

だが、一時は城の厨房に勤めていたというだけあって料理の腕は疑いようもなく確かで、こちらは古参の料理人の穴をほぼ完璧に埋めていた。

この新しい仲間二人がよく一緒にいる、と先に気がついたのはサクラだった。

「厨房の勝手口あたりとかにね、よく一緒にいるの」

そう言われて、特に意識した訳でもないが、ほどなくサクラの言うとおりであることにホタルも気がついた。

この二人の組み合わせは、遠目にはお似合いの恋人同士にも見えたが、よくよく考えてみれば、年齢差は親子にこそほど近い。

聞くともなしにホタルの耳に入ってくる二人の会話は、大抵がマツリが仕事の失敗やら疑問やらを、それこそ子供が父親に報告するかのようにジンに話すというものだ。

それは、一方的にマツリが懐いているように見えなくもなかった。

ジンの迷惑になるようならば、一言言わねばならないだろうかと考えもしたが、ほんの少しでも気をつけてみれば、時折返すジンの言葉や仕草には、こちらも弟妹を思いやるような優しさが含まれており、どうやらこのままにしておいても問題なさそうだった。

「ジンさんは男兄弟ばかりで妹みたいにマツリがかわいいし、マツリは長女なので甘えられるジンさんに懐いている…という感じでしょうか」

結論付けて、世間話のひとつとしてサクラに報告すれば、ジンの作ってくれたお菓子をフォークに差しながら、サクラは頷いた。

「…そんな感じなのかしら」

甘い香りの焼菓子を口に運ぼうとするサクラのその手が、ふと止まる。

「あの二人を見てると…なんだか懐かしいの」

何かを思い出そうとするように首を傾げて、視線は少し上向き。

「私は気がついちゃいました」

ホタルが最近発見した事実は、多分サクラの気になるそれと一致しているだろう。

「あの二人を見ていると…昔、お屋敷にあったクマとウサギのぬいぐるみを思い出しませんか?」

オードルの奥様のお手製のぬいぐるみのクマは、小さな子供が必死に抱えなければいけないほどに大きな茶色。侍女頭が作ってくれたのは、いつでも片手に抱いて歩けるほどのピンク色のウサギ。

幼いサクラのお気に入りだったそれらは、別々の者によって別々の時期に作られたものなのに、並べるととてもしっくりとお似合いだった。

大きなクマと小さなウサギ。

新しい使用人たちは、あの子達をどこか彷彿とさせるのだ。

ホタルの言葉は、見事にサクラの疑問に答えたようだ。

思い出すように動きを止めていたサクラは、やがて、ぷっと吹き出す。

「それだわ」

クスクスと声を上げて笑うサクラは、久しぶりだ。

この笑顔のきっかけをくれた二人の存在に、ホタルは感謝した。

最近、サクラは沈みがちだから。

理由ははっきりしている。

カイの外出の頻度が、ここひと月ばかり明らかに増えている。

破魔の剣を携えての遠出は、側近や狩人だけの力では、制することのできない魔獣の存在を示している。

それは、あの魔獣よりも大きく強いのだろうか。

アルクリシュで遭遇した無数の小さな魔と、巨大な魔獣。

思い出そうと言う意思など欠片もなくとも、その惨劇はサクラの頭を過ぎるだろう。

サクラを庇って傷を負った軍神の姿を、幻に見て表情を沈ませるに違いない。

あの時、血を流したのはカイだったけれど。

軍神以上に傷ついたのはサクラかもしれない。

ホタルはそう思い、サクラに寄り添う。

「…私、あの子達大好きだったわ」

サクラは懐かしむように囁いた。

『いつまでも幼い子のように、その子達を抱いていてはいけませんよ』

そう言って、厳しい顔の家庭教師が、サクラからあれらを取り上げたのは幾つの時だっただろう。

多分、10歳ぐらいだったと思う。

分かっていると頷きながら、それでも溢れる涙を止められない幼いサクラの姿は、ありありと思い出すことができる。

あんなに哀しそうなサクラを見たのは初めてだったから。

ホタルはとても動揺した。

それでも、あの幼い子は、今のサクラほどに辛そうではなかった。

大人になったサクラは、涙は流さないけれど。

穏やかに微笑んではいるけれど。

切り裂かれんばかりの胸の内は、隠しきれる筈もない。

そして、サクラの傍らにいるホタルも、もう幼い子供ではない。

ポロポロと涙を流すサクラの横で、おろおろとしながら必死に背中を撫でることしかできなかったホタルではないから。

「サクラ様、今日は暖かいですよ」

ホタルは窓から見える青い空にサクラを誘う。

この数日で、季節は驚くほど春めいてきた。

「ニキさんが、春の花が綻び始めたと」

慰めの言葉はない。

だけど、少しでもその心に陽が差すように、と。

ホタルの意図を汲んで微笑んだサクラは

「…行きましょうか」

お茶を終えて立ち上がった。

暖かさに重々しさをなくした春先のドレスの布地が軽やかに揺れる。

サクラの心も、少しでも軽くなれば良い。

どれほどの魔獣がこの世界にいるのか、なんてもちろん分からない。

人同士の争いが終焉しつつある現在において、軍神はそれでも役目を終えることはなく、戦いに明け暮れる。

サクラはどんなに辛くても、軍神を送り出し。

戻るのをただ待って。

戻れば、笑みと温もりで、男を癒すのだ。

ホタルは、そのサクラを支えたい。

望みはそれだけだ。

それだけの筈。

なのに。

どうして。

どうして、こんなに苦しいのだろうか。

痛みを共有しているのだとは言えない。

それを口にするのは躊躇われるほどに、サクラの想いは深い。

ならば、この痛みは何なのだろうか。

深くは考えまいと思う。

深く考えてはいけない気がした。



「…でね、この髪をこちらに持ってくるの」

ホタルはサクラの髪のひと房を三つ編みに編み込み、それでクルリと他の髪を巻く。

それを、神妙な顔つきで見つめながらマツリは頷いた。

「普通の長さだったら、これで大体纏まるわ」

湯浴みを終えたばかりのサクラの髪は、しっとりと湿っている。

常よりも纏めやすいそれを、ホタルから受け取ってマツリが教えられた通りに結い上げていく。

少し前に、マアサからマツリに髪の結い方を教えるように、と指示されていた。

昼間は何かとバタバタしていて、なかなかに機会がないので、思い切って就寝前の一時に教えることにして、許しを得てマツリをサクラの部屋に呼び寄せた。

たわいもない話をしながらの、余興にも似たこの作業は、春の静かな雨に、なお表情を曇らせるサクラの気を紛らわせるだろうか。

そんな思いもあった。

「…私…こんなに長い御髪を見るのは初めてです」

マツリは長い髪に四苦八苦しながらも、なんとか髪をまとめ上げた。

体を動かすことだけではなく、手先も器用な少女なのだ。

「ホタルが切ってくれないの」

サクラが笑いを含んだ声で、ホタルを非難する。

マツリは結い上げた髪から、ホタルへと視線を移してくる。

「否定はしませんけど」

ことのほかサクラの髪をお気に召している主は、決してそれを切ることを禁じてはいない。

とはいえ、あえて切るようにとは間違っても命じはしない。

いっそ切るようにと命じられればホタルも覚悟を決めるのだが。

主は楽しげに、愛しげに。

長い長い髪を指先で遊ぶ。

それが、いつしかホタルにとっては、捨てがたい光景になっている。

許される限り、ホタルが手をかけ、結うことができる限り、切ることを避けたいと思ってしまうのだ。

「…じゃあ、次の結い方を」

言って、ホタルはマツリが結い上げたそれを、あっさりと崩して戻す。

梳いて均したそこに、次の形を与えようと手を伸ばしかけた。

だが

「きれい」

素直な感嘆の言葉を零すマツリに、つい手が止まる。

マツリはボーっとサクラの髪を見つめている。

「結うのは大変だけど…この長さに慣れておけば大抵の髪は楽に結えるようになると思うわ」

ホタルは結局次の結い方を教えることをやめた。

まだまだ日はある。

何も今日慌ただしく、教え込む必要はないだろう。

「…三つ編みにして、これでまとめて差し上げて」

マツリは元気に返事をすると、再び真剣な顔つきで緩やかに三つ編みを作り上げて、受け取った柔らかなリボンでまとめた。

「…明日は晴れるかしら…」

雨音にサクラが耳を傾ける。

晴れれば良い。

願いつつ外に耳を向けたホタルの頭の中に、晴天よりもサクラを笑顔に導くであろう音が届く。

「サクラ様」

ホタルは、サクラに声をかけた。

そして、バルコニーに近付くと、扉を開け放つ。

風もなくまっすぐに落ちる静かな雨が、部屋に降り込むことはない。

空を見上げる。

隣でサクラとマツリも雨空を見上げた。

ホタルの耳に届く音が少しずつ近づき大きくなってくる。

それが音ではなく姿となって視界へと飛び込んでくるタイミングは、サクラもホタルも変わりない。

暗い雨空に、なお黒い衣装を身にまとった軍神が現れる。

「…カイ様!」

竜をバルコニー近くに寄せたカイは、浮かぶ背中からサクラの前に降り立った。

跪いてそれを迎え入れながら、ホタルは羽音の時点で気が付いていた違和感を、視覚という感覚でも確認した。

「おかえりなさいませ」

俯いていてホタルには見えないが、サクラは心底ほっとしたように笑みを浮かべていることだろう。

そして、その柔らかく穏やかな微笑みは、きっとどんな言葉よりも、戻った男を安らぎの入り口へと導くに違いない。

カイは、ずぶ濡れのマントをバルコニーに脱ぎ捨てた。

現れたのは、光に満ちた剣。

それを無造作に手放した。

ふわりとサクラの髪が舞い上がり、風が巻き上がる。

先ほどマツリがまとめた髪は、突風に乱されて。

だが、それは剣がサクラに戻った証だ。

例え、刹那であろうとも。

軍神が剣を手放し、身を休める瞬間の到来。

カイは自由になった両手でサクラを抱きあげた。

「しまった…濡れるな」

呟くカイの首に、サクラの腕が回る。

「おかえりなさいませ」

ホタルは立ち上がり、カイへとタオルを差し出した。

抱かれたままのサクラが受け取り、カイの濡れた髪をそっと包む。

「マツリ、マアサさんにカイ様がお戻りになったとお知らせして。それから湯浴みの準備を」

ホタルにならって膝まづいたものの、目の前の光景に呆然としているマツリに声をかける。

マツリは、はっとしたように裏返った声で返事をすると、立ち上がってそそくさと部屋を出ていった。

「…シキ様は?ご一緒ではないの?」

尋ねたのはサクラだった。

ホタルの心臓が一つ大きく跳ねる。そして、少々早めに鼓動を刻み続ける。

そう、常ならば主と共に戻ってしかるべき側近が、今はここにいない。

竜の羽音が一頭分しか聞こえなかったのは、間違いではなかったのだ。

「所用があるというから、許した」

言葉の少ない軍神は、そうとだけ告げた。

所用、というそれが何なのか。

サクラが尋ねることはなく、もちろんホタルが口を挟むことなどできよう筈がない。

ただ、知っただけだ。

あの騎士は帰らないのだ。

どうして?

ふと思い、それを押しやる。

だめ。

あの方が、どこで何をしようと関係ない。

考えることさえ間違っている。

だが、疑問は頭を巡る。

帰らず何をしているのか。

寂しさを紛らわせているのか。

「あの…カイ様?」

カイは濡れた足元を気にする風もなく、サクラを抱いたまま歩き始めた。

どうやら部屋を出るつもりらしい。

主の意図は分からないながらも、自身の思考にストップをかけて、ホタルは慌てて扉を開けた。

「湯浴みは、終えたのか?」

既に夜着に着替えたサクラの姿に気が付いているだろうに、カイはそう尋ねた。

「はい」

素直に頷くサクラは戸惑うようにカイを見つめる。

大人しく抱かれていた体が身じろぎ、首に回った腕がおずおずと外れる。

「…別に…もう一度浴びたところで問題はあるまい」

主の言わんとしていることに、気が付いたのはホタル。

付いて行きかけていた足を止めて、扉あたりで二人を見送る態勢に入る。

「…は?」

サクラは何を言われているのか分からないようだった。

ホタルをじっと見てくる。

こういう時に、私に答えを求めるのは、本当に、本当にやめて下さい!

引き攣る笑みを見せたホタルに、サクラはぱっとカイから身を離した。

「…っあの…私、カイ様の部屋で待ってますからっ!…」

抱き上げられていては逃げられる筈もないのに、もがき始める。

口にした言葉は、多分、サクラの最大級の誘い文句に違いないのに。

「…俺は待てんな」

カイは口元に悪戯めいた笑みを浮かべながら、もがく細い体を肩に担ぎあげた。

思いがけず、ホタルに向かい合ったサクラは首まで真っ赤だ。

「ホタル!」

名を呼ばれて、ホタルは更に引き攣った。

私に一体どうしろと?

まさか、私ごときにこの主が止められるとでも?

「…えーと…行ってらっしゃいませ?」

と、頭を下げる。

「ホタル!」

それは悲鳴に近かった。

申し訳ありません、サクラ様。

心で一つだけ詫びを入れて、ホタルは部屋に戻った。

サクラの部屋ではなく、カイの寝室の準備をし始める。

側近がいれば、さぞかし嬉しそうにからかったのだろうが。

いない今は、やけに静かに雨音が響くだけだ。

「…お手伝いします」

控えめなノックの後に、マツリが顔を覗かせた。

長く主の眠ることのなかったシーツを直していると、ため息の混じった声音でマツリが呟いた。

「本当に…ご寵愛を受けていらっしゃるんですね」

単純な感嘆だけが、そこには含まれているようだ。

ホタルは手を止めて、マツリを見た。

目は潤み、頬は赤い。

どことなく心ここにあらず、と言った感じだ。

13歳には刺激の強すぎる光景だったのだろう。

マツリは手だけはきちんと動かしながら、常ならば叱責を恐れて口にしないようなことを呟き続けた。

「サクラ様のお噂はいろいろと聞いていたのですが」

ホタルはそれを咎めず聞いていた。

「…あんなにきれいな方だとは思いませんでした」

つい、笑みが零れる。

素直な少女に、軍神の寵妃が美しく映えるという事実が、ホタルには嬉しい。

「それに…あんなにお優しい方だとも」

称賛の言葉が続く。

「でも…先ほどは、ちょっと…びっくりしちゃいましたけど…」

ちらりと見れば、マツリは何を思い出したのか、顔を真っ赤にしている。

湯浴みの準備をするように言ったのは、酷だったかもしれない。

カイのあの様子では、サクラが無事に解放してもらえたとは思えないし。

とはいえ、この少女がどんな場面に出くわしたのか、聞く勇気はない。

「仲睦まじいのはいつものことだけど…今回は…少し長くお出かけでいらっしゃったから」

宥めるように言いながら、再び浮かび上がる面影にどうしてか胸が痛んだ。

長いおでかけは、あの方も一緒だ。

もう、随分会っていない。

あの姫君の一件以来かもしれない。

あの方だって、きっと。

疲れた身体を癒し、宥めているのだろう。

どこかで。

誰かと。

いや。

何故、こんなことを考えるの?

関係ない。

あの人がどこで何をしようと。

何も。

「…今夜はもう休みましょう」

ホタルは言って、マツリと離れた。



ぼんやりと廊下を歩いて、自身の部屋へと向かう。

今夜は、もうサクラから呼ばれることはないだろう。

だから、耳を閉ざす。

早く、部屋に帰って寝てしまいたい。

そんな風に思いながら。

「ホタル?」

突然の呼び掛けに、ギクリと肩が竦んだのは、その声が今は一番聞きたくない声に酷似していたからだ。

「大丈夫ですか?」

だけど、まったく違う口調に、それがタキだと気が付いて、そっと力を抜く。

タキは屈むようにして、ホタルの顔を覗き込んできた。

「あの?」

問い掛けの意味が分からずに、ホタルは首を傾げた。

何も。

大丈夫かなどと、問われる理由はない。

ホタルはいつものとおりのつもりだ。

「…大丈夫ではないようですね」

言うなり、タキはホタルを抱き上げた。

「タキ様!?」

あまりに突然で、あっさりとホタルの体は宙に浮く。

「おとなしくしてなさい…真っ青ですよ」

険しい顔で見下ろされる。

この端正な顔は、こんな表情を作ることもあるのだ。

片割れが見せることのない小難しい表情に、それがホタルをかき乱す方ではないのだと思い知った。

タキは娘一人の重みを微塵も感じさせない歩調で、ホタルを厨房横の小部屋へと連れて行くと、一つの椅子に座らせた。

「若いお嬢さんを落ち着かせるなら、甘いお菓子と紅茶というのが、わが家の定番なのです」

そう言って、手のひらにお菓子を乗せてくれる。

そういえば、同じ顔をした方も、この場所で、こんな風にお菓子でホタルを宥めたことがあったと思いだす。

「アイリには太ると余計に怒られたりもしますが…」

この策士殿が愛妻にはまったく頭の上がらないことは、十分に知っているから。

ホタルは小さく笑いを零した。

「貴女はもう少しふくよかにおなりなさい…小さな子供を抱いているようでしたよ」

タキは柔らかな口調で言いながら、ほらとばかりに菓子の入った籠ごとをホタルに寄せた。

そして、暖かなお茶を差し出してくる。

恐縮してそれを受け取りながら、重なる過去の光景を振り払う。

暖かいカップを手にして、自分の指先がひどく冷えていたことにホタルは初めて気が付いた。

「貴女は遠耳なのだそうですね」

何の気負いもなく、さらっとタキが呟いた。

なのに、身が強張ってしまうのは、どんなに言われても、やはりこの力を誇る気になどなれないから。

「シキから聞き出しました…あいつは案外口が固いので、苦労しましたよ」

さりげない言葉にシキを庇うものがある。

「今、シキは妹に会いに行っています…貴女が教えてくれた情報を元に見つけ出した妹を」

ああ。

そうなのか。

そういえば、妹君が見つかったと言っていた。

忙しくて迎えにいけないと、そう零していた。

そうなのか。

あの人は、誰かではなく。

妹君の元にいる。

ほっとして。

それがまたホタルを傷つける。

どうして、安堵の息をつくのか。

「また、我が家へおいでなさい。母も会いたがってますよ」

ホタルは首を振った。

そういう身分ではない。

だって、ただの侍女なのだから。

あれは特別な状況だったのだから。

「ホタル」

タキが呼ぶ。

ホタルは顔を上げた。

目の前に、シキに良く似ている筈の、だが、まったく違う方の顔がある。

「貴女のような遠耳は、初めて見ます」

微笑むそこに、言葉の真意は見当たらない。

ただ…この男は、ホタルの力の使い道を、いくらでも知っているに違いない。

きっと、あの父親以上に。

いや、あの父親よりも、よほどこの力は有意義に使われるだろう。

「私でお役に立つならば、なんなりと…」

気がつけば、そう呟いていた。

「貴女をそのように利用するつもりはありませんよ」

タキは心外だというように、はっきりと告げた。

「貴女はサクラ様の大事な侍女ですから」

優しい言葉だ。

何よりもホタルが望むような言葉。

こんな風に、望む言葉をくれるところは、とてもよく似ている。

小さな声でお礼を言いながら、ホタルはお茶に口をつけた。

「…ところで」

目の前で同じようにお茶を飲みながら、タキが何でもないことのように尋ねてくる。

「シキをどう思いますか?」

その真意は分かりかねた。

だが、一瞬、カップの中のお茶が揺らいだ気がした。

「あれもいつまでもフラフラとして、公爵家跡取りの自覚がない」

ホタルの動きに気が付いたのは分からない。

タキは、同じように平坦な口調で続けた。

「というのは、父の言葉ですが…確かに少々自覚に欠けるようですね」

カチャリと小さな音を立てながら、タキのカップがテーブルに戻る。

「シキは貴女に興味があるようです」

興味?

それは?

タキの言う意味は、何なのか。

「貴女はシキが今まで相手にしてきた方々とあまりにタイプが違うので油断してたのですが」

タキが探るようにホタルを見つめてくる。

ホタルは、カップをテーブルに置いた。

茶色い波が揺れぬように、そっと。

「貴女はシキをどう思っているのでしょう?」

どう?

シキが興味持っている。

では、貴女はどうなのか。

目の前の方は、そう尋ねているのか。

「どう、と言われましても…考えたことがありません」

これは、嘘?

本当?

考えたくない。

考えないようにしてきた。

そして、答えはもちろん出していない。

どうか。

ホタルが出さないその答えを、この聡明な方が見つけませんように。

「では、お気をつけなさい」

タキは言った。

ホタルの言葉の奥を見ることを、敢えて避けたようなあっけなさで。

「はあ」

気を張っていた分、少々間抜けな答えを返してしまう。

だが、それがむしろホタルがこの話題に気がないように見えたようだ。

タキは諭す年長者のしたり顔をして見せた。

「はあ、ではありません…嫁入り前の大事なお嬢さんに何かあったら…しかも…」

タキは何か言いかけてやめた。

声にならないものは、ホタルには知れない。

だから、この時は、タキが何を言いたかったのかは分からなかった。

「気をつけます」

ただ、そういう答えでいいのだろうか、とそれを心配した。

いつかは、正しいと思った言葉が、シキを不機嫌にさせた。

今度の答えはこれであっているか。

「大丈夫です。私、立場を弁えております」

何も。

考えない。

答えはこれ以外にない。

あの方は、ただ同じ屋敷に勤めるだけの…そう目の前の方と何ら変わりない筈。

だから、この答え。

「いや、ホタル、そういう…」

ホタルの答えにタキは眉を寄せて、何やら言葉を続けようとした。

だが、それを久しぶりに聞く声が遮った。

「おや、ホタルじゃないか」

レンだった。

ホタルは救われた気分で、

「もう、お加減は良いのですか?」

尋ねて微笑んだ。

レンは頷きがら

「…もう、すっかりね。この休養で、ますます太ってしまったよ」

そう言って、ホタルの横に座った。

「ホタルがシキ様ではなく、タキ様とご一緒とは珍しい」

質問に他意はないだろう。

だが、ホタルは思わずタキを見た。

「…私だって、たまには若いお嬢さんと話がしたいと思うんだよ」

レンは笑いながら、タキがホタルにと差し出した茶菓子を口に一つ放り込んだ。

太ったと言いつつ、それをどうにかしようという気はないようだ。

「そういえば…シキ様はお戻りにならなかったようですねえ」

のんびりとした口調のそれに、タキは負けないのんびりさで答えた。

「ちょっとね」

レンは身を乗り出した。

「…いよいよご結婚なさるのではという噂を聞きましたよ」

トクン。

心臓が煽られた。

別に驚くことではない。

同年のタキもカイも妻がいる。シキにそんな話があっても、何ら不思議はない。

「そんな噂は昔から事欠かないよ」

タキは苦笑いを零して呟いた。

「私、そろそろ部屋に戻ります」

ホタルは立ちあがった。

「ホタル」

タキが声をかけてくる。

さっきは良く似ていると思ったのに。

その声は、まったく違って聞こえた。

「……おやすみ」

何か言うのか見つめる先、タキは、結局そう言っただけだった。

「おやすみなさいませ」

答えて、部屋を後にする。

泣きたい気分だった。

だけど、泣く理由なんてない筈だった。

だから、ホタルは唇を噛み締めて、シーツの中に潜り込んで。

ひたすらに眠りが訪れるのを待った。

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